03
これ以上兄を止めることは私の身の安全にも関係してくることなので、解き放つのが吉だろう。お父様の胃など知ったことか。死ななきゃ安い。
私を守るためなら監禁すら厭わないこの兄を抑えるなど、最初から無理な話なのだ。
後のことはお父様に丸投げしよう。そうしよう。
「ふふふっ。ありがとうございます。これは早急にお義父様に話を通さねばなりませんね。お義父様もそろそろ立ち直った頃でしょう。貴女は部屋に戻っていてください。私が行くまで誰も中に通してはいけませんよ?」
「かしこまりましたお兄様。」
メイドに連れられてテラスを出るまで、兄は完璧な笑顔を崩さなかった。だからそれが怖いんだってば。
自分の部屋に戻ってきたはいいものの、やることがない。
ここは一つ、淑女の嗜みとして刺繍でもしてみることにする。
ハンカチを用意してもらい、窓際でチクチクと丁寧に針を刺す。
一時間位で小さな柄が完成した。四つ葉のクローバーを咥えている幸福の青い鳥。
流石は私。相変わらずそれなりの出来栄えだ。
失敗はしていないがなんとなく素人感が出ている。
普通に使う分には問題無いが、お店で売るには心もとないといったところ。
「うん。兄さんの方が上手いね。」
兄が作る芸術品のような刺繍には程遠い。
このハンカチは本日二回目の、兄に詰め寄られて涙目になっているだろう可哀想なお父様にあげよう。
小さな幸せが訪れますように。多分今後もっと大変になるだろうから。
うんうんと一人頷いていると、扉のノック音が聞こえる。
「レイラ。失礼しますよ。お義父様との協議の結果、今後の方針が決まりました。明日出かけることになると思いますから、貴女も準備をお願いしますね。」
協議じゃなくて決定事項を伝えただけだろうに。
「あまりお父様を泣かせないでね兄さん。お母様の腰にしがみつくお父様を何回も見たくないの。それで?私もお出かけ?兄さんといると目立つから出来れば行きたくないんだけど。」
私の言葉を無視して目の前で歩みを止めた兄が、なんとも嬉しそうに私の頬に手を添える。
「全てが片付いたら、私とデートしましょう。」
なにがどうしてそうなったのだろうか。お父様との協議とはなんだったんだ。
「レイラの行きたい場所はありますか?無粋な輩はついでに排除しますので気にしなくて大丈夫ですよ。」
そっちはついでなんだ。片手間にできちゃうことなんだ。
「新作のロールケーキを食べにでも行きましょうか。絶品と噂ですよ。」
「どこへでもついて行きます兄さん!」
私の頬に添えられていた兄の手を握りしめて、食い気味に返事をすると兄に一歩近づいた。
私の行動を見透かすかのように兄の空いた手が私の腰に回って強く引き寄せられる。
「ふふっ。そう言ってくれると思っていました。私の妹は本当に可愛らしい。このまま食べてしまいたいくらいです。」
「何言ってるの兄さん。今食べられちゃったら明日新作ロールケーキを食すという私の使命が成し遂げられないでしょ。それとも兄さんは私の使命を邪魔する気なの?」
「そうですね。私としたことが、大事な妹の障害になってはいけませんね。今はやめておきましょう。」
密着していた身体が離されるが、私としてはもうそんなことはどうでもいい。
新作のロールケーキが私を待っているのだ。
どんなフルーツが使われているのだろう。
苺かベリーか、りんごも有りだ。まさかのバナナ?それともメロン?マンゴーも捨てがたい。前は桃だったから、大穴で梨?!それから……
「レイラ。そろそろ戻ってきてください。私とのお話が途中ですよ。果物に嫉妬はしたくありません。私を見てください。」
「……はっ!ごめんなさい。つい。そうだよね。果物だけじゃないよね。抹茶という最高の逸材が……」
「そういうことではありません。」
「違うの?……まさか……キャロット……?!大変兄さん!野菜にまで手を出してしまったら、どうやって広げた風呂敷を畳んだらいいの?!」
「落ち着いてください。明日になればその答えは貴女の胃の中にあります。ロールケーキの話題は今は失策でしたか。とにかく明日は早めの支度をしましょうね。」
「はーい、兄さん。ロールケーキ楽しみにしてる。」
「私の最大の敵が甘味になるとは思っていませんでした。私もまだまだですね。では私は明日の準備があるので失礼しますよ。また夕食で。」
「うん。無理しないでね、また後で。」
名残惜しそうに兄は私から離れると、何度も振り返りながら部屋を出ていった。
兄が準備をすると言ったのだから、伯爵家はもう逃げられない。
どんな手を使うのかは知らないけれど、最小のリスクで最大の利益を上げるのが兄だ。
自分の手を汚すこともなく見ているだけで終わる気がする。
あー怖い怖い。
物騒な思考は明日のロールケーキに思いを馳せることで上書きして、早めのお風呂にでも入ってしまおうとメイドを呼んだ。
キャロットじゃなかったらほうれん草かもしれない。かぼちゃなんて出てきたらどうしよう。
お土産に買って帰ろうかな。お父様とお母様が喜ぶ。
屋敷の皆に買うとなると一本じゃ足りないから……えー……兄さんに相談しよう。
心ここに在らずな私を、呼ばれたメイドがお風呂場まで連れていってくれる。
我が家のメイドは本当に優秀だ。
気付けば綺麗に洗われて、お風呂上がりの髪も完璧に乾かされていた。
いつの間に。
日も落ちて夕食時に食堂に集まるが、やけに憔悴したお父様とその頭をにっこり笑って撫でているお母様が既に席についていた。
お父様は急に老けたのかな?
記憶にある姿よりも疲れきった姿がやけに年齢を感じさせる。
「お父様………なんだか凄く久しぶりにお会いする気がする。大丈夫?帰宅の報告ができなくてすみませんでした。お母様は……なんだかイキイキしてる?」
「うふふ。そう見える?セレスティンに怒られて涙目のお父様が可愛くて可愛くて。聞いてレイラ。さっきまでお父様ったらずっと私の膝で落ち込んでいたのよ?もう私キュンキュンしちゃったの。」
社交界の白百合と言われたお母様が、特に美形でもないお父様に夢中なのは多分この特殊な感性のせいだと思う。
数多の求婚を無視してお父様に猛アタックしたというのだから、世の中分からないものだ。
求婚者の中には侯爵家もいたというのだから、それすら蹴ったお母様は我が家で一番の強者なのかもしれない。
どんな手を使ったのだろう。
「………レイラ。今回のことはすまなかったね。私が上手く断れなかったばかりに……お前に苦労を強いてしまった。」
「お父様………」
「あら、あなたったら。まだ萎れることができるの?たまらないわぁ。とっても素敵。」
お母様が頬を染めてお父様を胸に抱きしめる。
相変わらずラブラブなのは良いことだけれど、お父様は更に落ち込んでお母様の胸元に顔を埋めていた。
自分の両親だが、変な夫婦だ。
「あれ?兄さんは?まだ来てないの?」
「私ならここにいますよレイラ。」
背後から腕が出てきて抱きしめられる。
見上げれば兄が上から満面の笑みで見下ろしていた。
いつの間に。音も気配もなかったのに。
「あら、セレスティン。遅かったのね。ねぇ見て。このお父様、とっても可愛いと思わない?今日はあなたのおかげでお父様の素敵な姿をいっぱい見ることができて、私とっても幸せだわ。」
お母様は胸元に顔を埋めるお父様を抱きしめながらよしよししてる。
お父様はそれでいいのだろうか。子供達にこんなにもガッツリ見られているというのに。
「それは良かったです。お義母様のお役に立てたのでしたら、心苦しくもお義父様と話し合った甲斐があるというものです。」
どの口が心苦しいというのだろうか。
そう思うのならもう少し手加減というものをしてあげたらいいのに。
お父様が泣くまで論破するのは話し合いとは言わない。多分。
「さあ、私達も座りましょうか。レイラ、こちらへどうぞ。」
兄に優雅にエスコートされて、食卓の席についた。
……はずだった。
「……兄さん。私、普通に食事したいんだけど。これじゃ右手が使えないよ。」
「問題ありません。私がちゃんと食べさせてあげます。」
私が座ったのはちゃんと自分の椅子。しかし利き手の右側に兄の椅子がピッタリとくっつけられて、腰を抱かれた状態になっている。
このまま右手を使えば兄に肘打ちをしてしまう体勢だ。
何が悲しくて必要な事でもないのに、兄に給仕してもらわなければいけないのか。
本当に肘打ちをしてあげるか。
「あら。いいわね。あなた、私を膝に乗せてくれる?私が食べさせてあげるわ。」
お母様もこのノリに乗っからないで。
いや、膝に乗るとかけてないから。
お父様も顔真っ赤にしないで拒否してよ。腕広げてなに受け入れ態勢になってるの。
料理が運ばれてくる前にとっとと席を離すためにも、兄の拘束を解かねば。
こうなっては仕方ない。恥ずかしいけれど奥の手を使おう。
兄の頬に片手を添えて自分の方へ近づけると、そっと耳元へ囁いた。
「……お願い…お兄ちゃん……離して?」
そのまま固まる兄の腕からするりと抜け出して、やっと自分の椅子を兄の椅子から離す。
淑女らしくできるだけ音を立てないように。
あ、無理だこれ。
ガタガタ音を立ててしまった。やはり奥の手は諸刃の剣だ。
落ち着け落ち着け。
隣ではまだ兄は固まっているが、みるみる顔が赤くなっていく。
向かいの両親は面白そうに成り行きを見守っていた。
お母様。お父様の膝から降りてください。
いくらなんでもその体勢で食事しようとしないで。
「……レイラ。貴女は今、してはいけないことをしました。どこでそんな男を惑わすような振る舞いを覚えたのですか。まさか私以外の誰かにしたなんて言わないでしょうね。返答次第では……」
ようやく自分を取り戻したね兄さん。目が怖いよ。
「何言ってるの。兄さん以外にする訳ないでしょ。他人の顔を引き寄せるなんて死んでも御免だよ。一応これでもちゃんと淑女やってるんだから。」
「淑女なら椅子の音を立てては駄目よ?」
「はい。ごめんなさいお母様。」
お父様の膝に乗りながら言われても困るけど、そこは見なかったことにしておく。
社交界の白百合はいつ、どんな時でも『淑女の空気を纏うことだけ』は欠かさない人だから。
お父様の膝の上ということを除けば、柔らかな表情から優雅な指先の振る舞いまで完璧な淑女である。
今もお母様の白百合具合は健在だ。
「お食事をお持ちしました。」
この空気感でも顔色一つ変えずにお仕事してくれる我が家のメイドはやっぱり優秀だ。
メイドの声でちゃっかりお母様も自分の席に戻ったし、やっと夕食が始まる。
思えば長い一日だった。
伯爵家での出来事が遠い日のように思えるほど、今日は色々と疲れた。心も身体も。
兄がいるだけで家の中の空気が色んな意味で変わるのだから、やっぱりこの人の存在感はすごい。
お父様が後継者に選んだのは間違いじゃなかったと思える。
そんな風に考えながら隣の兄を見ると、私の食事する姿を見ていたのか目が合った。
優しい目で微笑まれて、思わず笑い返す。
伯爵家のことはほんの少し気がかりではあるけれど、明日のロールケーキのためにも今日は早く寝よう。
「それで?レイラの婚約話は破棄になったの?」
「ごふっ!」
お母様の言葉に、私は飲み込みかけたコーンスープが逆流しそうになってむせた。考えないようにしてたのに。
「婚約の打診についてでしたら、丁重にお断りの方向ですよ。伯爵家が問題を抱えているようですので。」
兄がしれっと答えるが、丁重と言っていいのだろうか。
お父様が青ざめているけど。
「あら、そうなの?良かったわねぇ、レイラ。心の底から嫌そうな顔してたもの。やっぱり好みの人と一緒になりたいわよね。」
「うぐっ!」
今度は食べかけの人参グラッセが喉に詰まった。急いで水で流し込んで事なきを得る。
……お母様、その話は今はしないで……
忘れていたかった伯爵家でのアレコレと、今後の行く末を頭の中から消すようにメインディッシュの魚を頬張る。
身がホロホロして美味しい。ムニエルだ。バターの香りとソースの酸味が絶品……
「それよりも今、領地で新しい試みをですね――」
兄が違う話題にしてくれたことにほっとする。
その後は伯爵家の話が出ることはなく、和やかに食事は進んでいった。
これが嵐の前の静けさというものなんだろう。




