06
「あれは……公爵家の紋章じゃないかい?」
お父様の言う通り、よく見れば馬車に刻まれているのはこの国でも王族の次に国民が知る家紋だった。
法の番人で知られるローライナ公爵家。
そんな家の馬車がなぜ我が家の前に?
頭の中は疑問だらけだが、ひとまず公爵家の馬車が来た以上は出迎えなければならない。
お父様と一緒に早足で玄関に向かうと、既にお母様と着替えを済ませた兄が揃っていた。
紺色のジャケットが銀髪と合わさってまるで夜空のようだ。
「あら、あなた。今ね、セレスティンと公爵様の馬車についてお話してたの。あんなに豪華で、素敵よねぇ。」
「ふふっ。お義母様がお望みでしたら、我が家の馬車の装飾を変えましょうか?」
「いやねぇ、そんな意味で言ったのではないわよ?……でも、そうね。レースでも付けちゃう?」
まるでお茶会の一幕のように、お母様は少し悪戯っぽく笑う。そんな場合ではないと思うのだけれど。
「ふ……二人とも!早くお出迎えしないと……!」
お父様が慌てたように扉を開こうとノブに手をかけるが、その上にお母様がそっと自分の手を乗せた。
「落ち着いて、あなた。門は開けに行ってもらってるから、ゆっくりで大丈夫なの。私をエスコートしてくれるのでしょう?」
お母様の落ち着いた声と、手を差し出す姿にお父様も落ち着いたのか深呼吸をしてお母様の手をとった。
……私も結婚するなら同じような夫婦になれる相手がいいな。
外では馬車の音が段々と近づいてきていた。お父様がゆっくり玄関を開けると、ちょうど馬車が停まったところだった。両親が外で出迎える間、私と兄は家の中で待機する。
馬車から降りて来たのは、精巧な人形ではないかと思えるほどの整った顔の綺麗な人だった。
……男性?女性?いや、服装的には男性?
中性的な顔立ちに、質の良い紫のジャケット。
長い白金の髪を背中辺りでリボンで結んでいて、底知れないエメラルドの瞳と口元の笑みが穏やかながら感情が読み取れない。
体の線は細いけれど、背はお父様と同じくらい。
本当にどっちだ。そしてとても若い。私よりも下ではないだろうか。まだ成人していないようにも見える。
「グレイ子爵家の皆さま、初めまして。ローライナ公爵家より、父の代わりに参りましたフィリップと申します。」
声まで中性的とは。低すぎず高すぎず。名前からして男性なのだろう。
フィリップ様が胸元に手を当てて紳士の礼をとる。そしてチラリと私を見てにっこりと微笑んだ。
その笑顔に、一瞬動けなくなった。フィリップ様の瞳から目が離せない。
あ、嫌な予感。
思わず息を呑んだ瞬間、視界が兄の大きな背中だけになる。
見上げれば、兄が私をフィリップ様から隠すように立ち塞がっていた。
「公爵家の方は他家の令嬢を不躾に見つめるのが礼儀なのですか?」
兄の声がどこか冷たく低く響いた。後ろからでは兄の表情までは分からないが、多分あの怖い笑顔なのだろう。
「ああ、これは失礼しました。可憐な方がいらしたので、つい目が離せなくなってしまいました。ご令嬢、お許しください。あなたの麗しい姿に目を奪われてしまっただけなのです。」
「公爵家は法を扱うと聞き及んでいましたが……随分と軽薄な『法の番人』もおられるのですね。このような方がいらっしゃるとは。どうやら私の見込み違いだったのかもしれません。」
「それはどうでしょうか。魅力的な女性に巡り会えたのなら、お近づきになりたいと思うのは自然なことではありませんか?とはいえ今は父の代理の身。職務を全うしましょう。グレイ子爵殿。貴方とご令嬢に話を聞きたいと父が申しております。城の法務局長室までお越しください。」
兄から視線をお父様に戻し、フィリップ様は軽く頭を下げた。
「え……私が……ですか?娘もというのは一体……」
「詳しくは父がお話することですが、エインズ伯爵絡みと言えば分かるかと。」
「……は…はい!すぐに登城致します!」
「あら大変。あなたのお洋服を準備しないと。フィリップ様、私と夫はこれで失礼致しますわ。あなた!行くわよ!」
お母様がフィリップ様に淀みない速度で完璧な淑女の礼をこなすと、早歩きでお父様を引きずって屋敷奥に戻って行った。その後を数人のメイドが追いかけていく。
あのメイドたちはどこから現れたのだろう。柱の影から出てきたけれども。
「レイラ子爵令嬢殿。」
「はい?」
柱に気を取られていると、フィリップ様に名前を呼ばれて振り返る。
玄関方向の視界は相変わらず兄の背中しか見えていない。
その横からひょこっと顔を覗かせると、即座に目元を兄の手で塞がれた。
「気安く名を呼ぶことをレイラは許していませんよ。いくら公爵家とはいえ、無礼ではありませんか。ご用件が終わったのでしたら、お戻りになられてはいかがですか?公爵家の方ならさぞお忙しいでしょう。」
「これは怖い。僕はご令嬢にお話をしているのです。そしてこれは僕の職務の話です。邪魔をしないでいただきたい。ご令嬢、先程子爵殿にも伝えましたが、あなたも父の元へ来てください。父はあなたから詳しく話を聞きたいと言っていました。子爵殿の準備は少し時間がかかるでしょう。一足先に向かうのはいかがですか?是非僕の馬車にお乗りください。」
「なぜレイラが公爵家の馬車に乗るのですか。移動が必要なら私が送り届けます。お気遣いでしたら不要ですよ。」
「あなたはご令嬢の兄君なのでしょう?なぜ『ただ』の兄が断るのですか?そんな権利はないでしょう。それにいつまでも兄と一緒では、新しい出会いも得られないとは思わないのですか?」
……なんだか兄さんの周りが寒い。
笑顔のまま繰り広げられる言葉の応酬に、私は先程の直感が間違いではなかったと確信する。
フィリップ様は兄と同類なのだろう。
あの笑顔に嫌な予感がしたのは、そのことを感じ取ったからだったのだ。
このまま笑顔で口論させていてはいけない気がする。
「それとこれとは関係ありません。登城するのに公爵家の馬車は必要ないと言っているのです。」
「僕は少しでも早く問題が解決できるように提案しているだけです。見ればご令嬢は既に支度ができている様子。なぜそこまで頑なに拒否なさるのですか?何かやましい事でもあるのならば話は別ですが。」
「浅慮な物言いですね。すぐに裏を探るのは自分の考えでしか物事が見えていない証拠ですよ。」
パンッ!
私は手を叩いてわざと少し大きめに踵をコンッと鳴らしながら、兄とフィリップ様の間に移動する。
「そこまでにしましょう。フィリップ様、兄と話をしますので少しだけお時間をください。すぐに馬車に参りますので、中でお待ちいただけますか?」
「なっ?!レイラ!なぜ――」
「兄さん。落ち着いて。今は私の言うことを聞いて。」
「ははっ。素晴らしい。ではレイラ子爵令嬢殿。中でお待ちしていますよ。早めにいらしてくださいね。」
綺麗な笑顔で礼をすると、フィリップ様は馬車の中へと消えていった。
ひとまず玄関を閉めて、ため息をつく。
やっとピリついた空気が無くなったものの、振り返れば兄がやりどころのない感情を抑えるように私をじっと見ていた。
少し視線を落とすと、兄が握りしめた拳を震わせている。
あんなに力強く握っていては、爪がくい込んで痛いだろうに。
そんな兄に私は思わず苦笑いしてしまう。
兄に近づき、片方の握られている拳を両手でそっと包む。
触れた瞬間、緩められた手のひらを優しく開いた。
「兄さん。手が傷ついちゃうよ。ほら、赤くなってる。」
赤くなってしまった場所を撫でると、そのまま強く抱きしめられた。
「レイラ!なぜ!なぜあの馬車に乗るなんて言ったのですか!私が送ると言ったでしょう!あんな個室で若い男と二人きりなど、私の心配が分からないのですか?!」
「もう、兄さん。何も起きないよ。フィリップ様は公爵様の代理なだけで、お仕事のために私を連れていくだけでしょう?公爵様が待っているなら早く行かないと。それにお父様もすぐに追いつくだろうし、大丈夫だよ。そんなに心配しないで。」
兄の背中に両手を回して、安心できるようにさする。
いつもは私が甘やかされているけれど、今は立場が逆なことがなんだかくすぐったい。
「私の読みが甘かったのです。公爵家とはいえあのような人物が来るのでしたら、もっと違う方法を考えれば良かった。」
更に兄の腕に力が込められて、さすがに息苦しい。
しかし、今回は無理やり引き剥がすのは気が引けた。
「ちょっと公爵様とお話してくるだけだから。迎えには兄さんが来てくれるんでしょう?ロールケーキを食べに行く約束、忘れてないからね。」
「……もちろんです。今日のレイラは私のために愛らしく装ってくれたのですから。私が隣にいなくては意味がありません。必ず迎えに行きます。」
一度ぎゅっと強くなったかと思えば、兄の腕から力が抜けてゆっくり解放された。それでも名残惜しいのか、両手を繋がれて見つめられる。
「うん。お父様に先に行ってるって伝えてくれる?」
にっこり笑って兄を見上げたとき、額に兄の柔らかい唇が触れた。リップ音がやけに大きく耳に響く。
「気をつけて行ってきてください。フィリップに気を許してはいけませんよ。お義父様には伝えておきます。私もすぐに追いかけますから。」
「行ってきます。また後でね。」
繋いでいた手が離れる。
兄に手を振ると、玄関の扉を開けて外に出た。
通り過ぎる風が気持ちいい。
やけに顔が熱いのは気のせいということにしておこう。
気を取り直して顔を上げれば、屈強な護衛騎士が馬車を囲むように立っていた。
馬車の扉まで近づけば、騎士が扉をノックする。
「ご令嬢がいらっしゃいました。扉を開けてもよろしいでしょうか。」
「どうぞ。」
開かれた扉から見えるのは、こちらに片手を差し出して迎え入れる体勢のフィリップ様。
公爵家らしい豪華な馬車に、貴公子のようなフィリップ様。
一見すればどこかのお姫様の気分が味わえるシチュエーションだが、私の胸中は化け狐の巣へ足を踏み入れようとしている心境だった。
淑女の仮面を貼り付けて、騎士の手を借りながら馬車へ乗り込みフィリップ様の正面に座る。柔らかく深く身体が沈むクッションが、拘束具のように思えてしまう。
「ようこそ。気にせず楽にしてください。レイラ嬢とお呼びしても?」
感情の読めないフィリップ様のエメラルドの瞳と、優雅に持ち上がった口角。
私には笑っていないように見える笑顔を冷や汗で受け止めながら、ガタガタと動き出した馬車の窓から外を見た。
屋敷の玄関がだんだんと小さくなっていく。
……兄さん。お願いだから暴走だけはしないでね。




