第15話:大地の獣 ―― 地脈の試練
――落下。
上下も左右も、時間の概念さえも消失した底のない暗闇を、速水光はただ一人、永遠に続くかと思われるほど沈み続けていた。
だが、唐突にその足裏が、惑星の核を思わせる「硬質な感触」を捉える。着地の衝撃はない。ただ、一歩踏み出すごとに全身の骨が軋み、肺胞が圧し潰されるような、数十倍の重力が支配する漆黒と赤茶の世界がそこには広がっていた。
光は、ひび割れた赤茶色の台地に深く膝を突き、逃げ場のない質量に耐えながら、ゆっくりと顔を上げた。
そこに、いた。
大地の獣。
幾千層もの堆積岩を鎧として纏い、眼窩には煮え立つ溶岩の瞳を宿した、山そのものが意志を持ったかのような巨躯。その獣が寝息を吐くたび、精神世界の地平線は津波のように激しく波打ち、鼓膜を突き破らんばかりの重厚な地鳴りが響き渡る。
「……これが……。俺の地脈の、剥き出しの本能……。俺がずっと恐れ続けていた、力の正体か」
獣の視線が、光の魂を直接射抜く。その圧力だけで、光の霊子回路は発火寸前の熱を帯びた。
『沈ンダ者ヨ。……ナゼ、コノ深淵ニ来タ』
地の底から響き渡るような、岩盤が擦れ合う重厚な声。
「俺は、大村で走らなあかんのや。自分の中にあるこの呪いのような力を、暴走させるためやなく……勝利を掴み、仲間を守るための『武器』にする。そのために、あんたに引導を渡しに来たんや」
獣の瞳に、不気味な紅蓮の光が灯る。
『制御……? 地ヲ、道具トシテ使ウト言ウノカ……? 愚カ也。地ハ、意志ヲ持タヌ。地ハ、沈ム者ヲ無慈悲ニ喰ライ、静止サセル「墓」ナリ』
「喰われてたまるか!!」
光は一歩、強引に足を踏み出した。その足跡から地脈の火花が激しく散り、大地に物理的な陥没を作る。
「俺はどこまでも沈む。せやけど、それは敗北やない! 地は、深く沈んだ分だけ強く、遠くへ、空の果てまで飛び出すための最強のバネになるんや! 俺が地に意志を持たせる。俺の走りは――誰にも、大地にさえも決めさせへん!!」
獣が天を仰いで咆哮した。空間が物理的に歪む。
『……試ス。沈ム者ヨ、オマエノ「重さ」ノ覚悟ヲ、ソノ質量ヲ見セヨ』
獣の巨腕が山を砕く勢いで振り下ろされ、大地が爆ぜる。
光は、逃げなかった。避けることなど、この不動の世界では無意味だと悟っていた。ここには風のような軽やかさも、炎のような流動性もない。あるのは、ただ純粋で残酷な「質量」のぶつかり合いだけだ。
「……せやったら、俺も『重さ』で戦ったる!!」
光は重心を極限まで深く落とし、〇〇(ダブルオー)号機の漆黒の装甲を自らの皮膚としてイメージした。大地の不規則な震動を、自身の鼓動と完全に同期させる。
獣の拳が地面を砕き、その衝撃波が光の全身を焼く。だが、光はその衝撃さえも「地の蓄積」として足裏から逃がさず、逆に自らのエネルギーへと強引に変換していった。
――ドン。ドン。ドォォォォン……。
呼応する惑星の鼓動。光の身体は、大地と同化するように重く、そして金剛石よりも強固な剛性を得て変質していく。
『沈ム者……地ト一体トナル者……試練ニ耐エル者ヨ。……ナゼ、沈ンデモ「個」トイウ形を失ワヌ……!?』
「俺には、水面で待っとる奴らがいるからや!!」
光は突進する獣の懐へ、一万五千のマブイを一点に集中させ、黒い弾丸のように滑り込んだ。
父が教えた「黄金の瞬光」ではない。母が教えた「氷結の静寂」でもない。
これまで出会ったライバルたちの風、炎、そして溶岩――そのすべてを飲み込み、自らの大地の血肉とした、圧倒的な「地」の重み。
光は右拳を握りしめ、全身の質量を、地球の重力すべてをその一撃に凝縮させた。
「沈めぇぇぇぇぇぇ!!」
ドォォォォォォォォン!!
光の拳が、獣の胸の核に真っ直ぐ突き刺さる。
それは単なる殴撃ではない。一つの山、一つの大陸がぶつかり合ったような「重圧の爆発」だった。
『……我ガ……沈ム……? 人ノ意思ニ……呑マレル……ト言ウノカ……』
大地の獣の巨体が、スローモーションのように膝から崩れ落ちる。砕け散る岩石の破片と赤茶色の光が、今度は光を王として祝福するように、優しく包み込んだ。
『認メル。オマエハ……“地ヲ支配スル者”。……行ケ、新シキ時代ノ礎、不動ノ大地ヨ』
現実世界。下関の洞窟、最深部。
光を包んでいた暴力的で不吉な赤茶色のマブイが、霧散し、静かな白銀の光へと変わる。
「光くん!!」
丸山優奈が、冷え切っていた光の手を、今度は温かな確信を持って握りしめた。
「光!! 戻ってきたんじゃな……! 信じとったわ!」
南野杏奈が、その瞳に溜めていた大粒の涙を乱暴に拭いながら、誰よりも大きな声で笑った。
光はゆっくりと目を開けた。
立ち上がったその背中には、以前のような危うさは微塵もない。そこにあるだけで周囲の重力バランスを安定させ、荒ぶる空間を鎮めてしまうような、絶対的な不動の風格。
「……おかえり、光。あなたは地脈の底を越え、自分という質量を再定義したわ。もう、力に呑まれることはない。……あなたは、あなた自身の王になったのよ」
勝元麻帆が、満足げに、そしてわずかな敬意を込めて頷いた。
光は、自身の右拳をじっと見つめた。
胸の奥で、地脈が規則正しく、かつてないほど力強く拍動している。
――ドン。ドン。
それはもはや、彼を苛む「呪い」の音ではなかった。自分をどこまでも遠くへ、誰も到達できない高みへと押し上げるための、世界で一番力強く、誇らしいエンジンの音だ。
「……みんな、ありがとう。俺、ようやく分かった気がするわ。地の走りっていうのが、どういうもんか。沈んで、溜めて、世界を支える礎になるんや」
光は洞窟の出口、その先に広がる光を見据えた。
その先には、海がある。そして、次なる決戦の地、大村競艇場が待っている。
「大村で、俺の走りを見せる。父さんでも、誰でもない……速水光だけの地脈を」
足元で、銀色の影――ネが、主人の覚醒を祝うように誇らしく咆哮した。
地脈修行、ここに完遂。
速水光。〇〇(ダブルオー)号機とともに、伝説のさらに「深淵」へ向けて。




