『重力と潮流の境界線』
大村湾から入り込む湿った風が、水面を鈍い銀色に染めていた。
ナイター照明が本点灯する前の、微かな夕暮れの光。光は緊迫した空気が漂うピットに立ち、玄武のプロペラにそっと触れた。
昨夜すでに宿舎のベランダで、己の足の裏を通じて知っていた大村固有の重さが、今朝はより深く、より明確に骨髄へと届いていた。
「……沈み込むには最高の条件だ」
ぽつりと呟いた光の視線の先で、一号艇・三宅迅の周囲から放たれる放電が、パチパチと空間を青白く切り裂いている。二号艇・白河玲於奈の周囲では、大気中の水滴がことごとくダイヤモンドダストへと姿を変え、インコースの空気を冷酷に凝固させていた。
展示航走。地元の四号艇・海堂颯真が、執拗に波の壁を構築して玄武の進路へ向けてぶつけてくる。だが、光の芯は寸分も揺るがない。進化した水圧を『根』の苗床とし、下へ、下へと自らの質量を沈めながら、漆黒の艇体を滑らせていく。
「三号艇・速水光、直線展示――五秒七八!」
場内のスピーカーから流れたアナウンスに、スタンドが完全に静まり返った。
昨日叩き出した五秒八三を、さらに上回る異次元の数値。計時係の職員が、壊れた機械を見るような目で数字を凝視し、隣の係員と何度も顔を見合わせている。
ピットへ戻る光の前に、一号艇の勝負服を纏った迅が立ちはだかった。
「本番のイン戦、コンマ〇一まで踏み込んで完璧に逃げる。お前のその自慢の質量で、俺の放つ電撃の引き波をこじ開けられるかな」
「試せばいい」
光は前を見据えたまま、地鳴りのようなトーンで言い放った。
「お前の構築するインの壁ごと、そのすべてを俺の根を張るための土台にさせてもらう」
迅が不敵な口元を固く閉じた。今度は鼻で笑うことすらしなかった。この男の言葉が、決して虚勢などではないことを魂で理解したからだ。
レース直前。
光が三号艇の赤い勝負服に袖を通した瞬間、衣服の繊維を通じて右手に微かな温度が届いた。それは杏奈の放つ爆発的な炎の熱ではない。優奈の纏う鋭い風の流れでもない。ただ――お前がそこにいる、という、確かに背中を支えてくれる戦友の目方だった。水面のどこかで、二人が自分を見つめている。それだけで、今の光には十分すぎるほど足りた。
舟券締め切りの電子ブザーが激しく鳴り響いた。
発走シグナルが点滅し始めたその瞬間――あの絶対王者・速水誠も、この大村の深く重い水面で、こんなふうに孤独に号砲を待ったことがあるのだろうか、という問いが光の内側に静かに灯る。
答えなど出ない。光は何も言わず、ただスロットルレバーを強く握り直した。
ピットアウト。
その瞬間、四号艇・海堂颯真が獰猛に動いた。地元の利を活かし、不気味な潮流を艇体に纏いながら、光のいる三コースへピット離れから強硬に進入しようとしてくる。前付け――大村の海の癖を知り尽くした地元レーサーの、本能的な先手だ。
だが、定番通り、奴らの筋書き通りにはいかせない。
光の右腕のマブイ・サーキットから、水面下へ向けて鋭い重力波が一閃した。
前付けを狙う颯真の進路上の海水が、超高圧によって一瞬だけ『岩盤の密度』へと変質する。突如として液体から固体に近い質量へと変わった水面に阻まれ、颯真の艇がガクンと不自然に大減速した。
「なっ……何が起きたッ!?」
だが、大村の若き天才はそこでは止まらなかった。岩盤化した水面のさらに外側を、満ちていく潮の自然な流れを利用して滑らかに回り込んでくる。大村の海と対話し、その性質を知り尽くした男だからこそできる、本能的な迂回ルートの構築。
光は海堂の奇策に動じることなく、自らの領分である三コースを完璧に確保しながら、彼の動きを視界の端に静かに捉えていた。
外から来る。潮流を使って大外から鋭くインを刺しにくる。それでいい――沈んだ場所が深ければ深いほど、大地の底から伸びる俺の根は、どこまでも届くのだから。
白く輝くスタートラインが、目前へと迫った。
スロットルを固く握りしめる。足の裏には、大村の持つ異常な高密度水圧がドクドクと伝わってくる。
スタート一秒前――光はスロットルを、一瞬だけ思い切り戻した。
沈む。もっと深く、大村の底の底、誰も到達したことのない深淵まで。
(――親父、見ているか)
ここだァァァ!!!
「ドッバゴォン――ッ!!」
大村湾の水面が、地響きと共に真っ二つに割れた。
限界まで沈みきっていた漆黒の玄武が、大村の重い水圧を最強のバネに変えて、弾丸のごとき衝撃度で前方へと躍り出た。
後方へと数十トンの海水が爆散し、颯真が狙っていた迂回ルートの潮目に凄まじい負圧の渦が走る。その強烈な重力場の余波を受け、隣の迅のプロペラが一瞬だけ空転して激しい火花を散らす――だが、福井の雷使いはコンマ〇一の電撃タイミングで完全に踏み込んでいた。インコースへ鋭く機首を飛び込ませる。逃げ切る気だ。
タイム、コンマ〇〇。
全艇が激しいスリットを抜けた。
一号艇・三宅迅の電撃がわずかに前にいる。二号艇・白河玲於奈の氷の結界がすぐ内にいる。
そして四号艇・海堂颯真が、負圧を堪えて外側から凄まじい潮の勢いを伴って迫ってきている。
眼前に、白く獰猛な第一ターンマークが見えた。
足の裏には、大村の地底が放つドクドクとした生命の鼓動が確かにあった。こここそが、地脈の洞を経て進化した俺が、真の根を張るべき絶対の戦場だ。
光はヘルメットの奥で、昏く輝く黒曜石の瞳をまっすぐに前へと向けた。
ここから、すべての理をねじ伏せる重力の旋回が始まる。




