「大地の王」
第三部:大村激戦編
第16話「大地の王」
最終周回、バックストレッチ。
二周目二マークの激闘を経て、漆黒の玄武は確かに一号艇の前に出ていた。だが、その差はわずかコンマ数ミリ。肉眼の限界に迫る、針の穴ほどのリードに過ぎない。
福井の怪物、三宅迅はまだ死んでいなかった。牙を剥いたまま、狂暴な速度を維持して背後にぴったりと張り付いている。
ホームストレッチへ向かう最終旋回の手前、限界速度域に達した二艇が、大村湾の深く重い水面を文字通り切り裂いていく。迅の纏う金色の雷撃が、玄武の引き起こした極大の負圧の轍を執念深く走り抜け、漆黒の装甲を激しく叩き壊しにかかっていた。
純粋な雷の速度そのもので捲り返そうとする迅の執念。この男の泥臭い覚悟こそが、全国の頂点たる本物の証明だった。
真横から、網膜を灼くほどの電撃の閃光がコクピットへと容赦なく雪崩れ込んでくる。
だが、光の黒曜石の瞳は微塵も揺るがなかった。
(地の真髄は、敵に対抗することじゃない)
光はまっすぐに前を向いたまま、自身の骨の最深部へと冷徹に言い聞かせた。
(すべてを抱いて、丸ごと受け止めることだ)
迅の狂暴な雷撃が、玄武の左舷装甲を完全に舐め回し、融解させようとしたその瞬間――光は避けることも、弾くこともしなかった。自らの放つ超重力のサーキットをあえて全開にし、その電撃を真っ向から受け止めたのだ。そのまま下関の地底で掴んだ地脈へと、極めて高い伝導率で一気に接地させる。
水底の岩盤全体が、地鳴りのような重低音を上げて鳴動した。
迅の高電圧のマブイが玄武の船底を通り抜け、大村の水底、そのさらに底に眠る強固な岩盤地帯へと一気に流れ込んでいく。雷が、光の魂の「根」そのものへと強制変換されていく。
皮肉なことに、迅が速度を上げて雷の出力を高めれば高めるほど、それを苗床とする光の重力の地盤はより深く、より強固に焼き固められていくのだ。下関の最終戦で勝元麻帆の溶岩を冷やして滑走路へと変えたように――光は今、三宅迅の放つ絶対の雷を、自らの大地を支える楔の根へと変質させていた。
迅はコクピットの中で、自らの最大の武器である雷撃が全く通じない理由を、どうしても理解できなかった。弾き飛ばされたという感触では決してない。己の放ったはずの雷が、いつの間にかこの男が走るための絶対的な「地面」へと変貌しているような、恐るべき肉体感覚だった。
「な……貴様、一体何をしやがった――ッ!?」
迅の驚愕に引き裂かれた声が、エンジンの轟音を突き抜けて届いた。
光は答えなかった。俺は地だ。世界を、ライバルたちの熱を支える、物言わぬ礎になるだけだ。
運命の最終ターンマーク。
大地を踏みしめる足の裏には、大村のドクドクとした生命の鼓動が確かに響いていた。光の脳内にはすでに一本の勝利への最短ルートが、確固たる地形として浮かび上がっている。
旋回へと突入した。迅が最後の力を振り絞り、サイド・バイ・サイドで並びかけてくる。持てるすべての雷のマブイを、この一瞬の極点へと叩き込む気だ。
だが光は、その凄絶な旋回軸を最初から内側からの質量で完璧に押さえ込んでいた。
迅の雷が玄武の左舷を激しく焼き焦がし、至近距離の衝撃波で光のヘルメットのバイザーに無数のひびが入る。網膜が火花で真っ白に染まる。それでも、地球の核と繋がった足の裏の根だけは、絶対に千切れることはなかった。
迅の放っていた金色の雷撃が、圧倒的な質量に圧し潰され、不気味なほど静かに鎮火していった。
最終ターンマークを鮮烈にクリアした。
栄光へと続くホームストレッチが、ナイター照明に照らされて目の前に堂々と開けた。
光は進化したスロットルレバーを、自らの骨が軋むほどの力で最後まで引き絞った。かつて、偉大なる父親が背負いきれずに空へと逃げ出した、あの呪いのような大地の重さ――そのすべてを推進力に変えて、光は水面を爆走する。
父が黄金の翼を造って空へ向かったとき、この泥臭い重さを水面に置いていった。その置き去りにされた質量を、光は拾い上げ、地脈と繋ぎ、己の絶対の根とした。逃げなかった。最深部まで沈みきってみせた。だからこそ今、俺は誰よりも速く、この水面の上に立っている。
号砲が一度だけ響き、ゴールブイが右舷を静かに掠め去った。
『一着、ゴールイン! 三号艇・速水光!!』
一拍の静寂をおいて、スタンドから巨大な地鳴りのような歓声が押し寄せてきた。津波のような音の質量が、スタジアムを激しく揺らす。
光はゆっくりとスロットルから手を離し、手甲で顔の血と煤を無造作に拭い去ると、前を向いたままで静かに佇んでいた。
父が逃げ出した大地の重さを背負ったままで、全国の天才たちをねじ伏せ、完全に走り抜けた。だが、これほどの大勝利を挙げても、未だに求める答えにはなっていない。父・速水誠はまだ脳裏の霧の向こう側にいて、光は未だにその本当の顔を知らない。
骨の底でドクドクと燃え続けるあの命懸けの問いは、消えるどころか、さらに黒く巨大に膨れ上がっている。ただ――今日の走りを経て、光の中で問いの形が、静かにその姿を変えていた。「なぜ俺を見なかったのか」という安っぽい飢えから、「あんたは一体、どこにいるのか」という、絶対王者のその先を見据える反逆の眼差しへ。
パシャパシャと水を弾く音がして、迅の魔戦艇が玄武のすぐ隣へと艇を寄せてきた。重力によって無残に歪んだプロペラからは、役目を終えた最後の電気が弱々しく散っている。金色の瞳が、ヘルメットを脱いだ光の顔をまっすぐに見つめていた。
「……クソが。お前の張ったその根の深さ、俺の自慢の雷じゃ、底まで全く測りきれなかった」
迅は静かに口を開いた。そこには観客の罵声も、安っぽい怒りや悔しさもない。ただの一人の敗者としての、清々しいレーサーの声だった。
「だが、これで終わったと思うなよ。次は、もっと強固な雷をその大地の底まで直接叩き込んで、必ず引き摺り下ろしてやる」
「来い」
光は黒曜石の瞳を向け、変わらないトーンで言い放った。
「お前の放つ雷が深く、鋭いほど――それを引き受ける俺の根は、より遠くまで届く」
足元には、大村の深く冷たい水が静かに触れていた。遥か遠く、下関の地にいるネの気配が、地脈を通じて確かに届いた気がした。
その瞬間、電磁干渉から回復したあかりの通信機が、クリアな音を立てて復帰した。
『光くん! 勝つのは当然っすけど……その手、また酷いことになってるんじゃないっすか!?』
「……大丈夫だ」
『すぐピットに戻るっすよ!!』
ピットに戻るなり、あかりが強引にコクピットへと乗り込んできた。
光の防護グローブは高熱の漏電によって黒く焦げ付き、中で皮膚が裂けて血が滲んでいた。あかりはその傷口を見た瞬間、唇を固く噛み締めながら、慣れた手つきで静かに、しかし誰よりも優しく応急処置を始めるのだった。
親父への、そして世界への命懸けの問いは、未だに光の骨の最深部で不気味に燃え続けている。決して消えない。
だからこそ――速水光という男は、次なる過酷な水面へと向けて、また何度でも走り出せるのだ。




