永遠の新川オート
新川オートというオートバイショップをご存じの方は、愛知県でも東三河地方にお住まいで尚且つ結構なご年配の方かもしれない。三十歳以下だと、まず知らないお店だ。
今から半世紀以上前に私の祖父が始めたお店で、その後は祖母の兄弟であるところの〝まっちゃん〟ことスミヤマサヨシさんに引き継がれた。
祖父は無類のオートバイ好きで、そのうえ車の運転も大好き。
私の母ミワコいわく「カミナリ族だったぞ、ありゃあ」というぐらいで、若い頃はハーレーを乗り回していたとか。エンジンとタイヤがついていればきっとなんでも乗ったのだろう。
家には古い自動車やオートバイの雑誌が山ほど保管してあった(白い表紙に「自動車」とだけ書いてある相当な年代物もあった)し、晩年になって運転しなくなっても道路地図だけは新しいのを買ってきてルーペで丹念に追っていた。私が運転するようになっても、聞けばどこの道でもよく知っていて新しいルートもアップデートされていたものだ。歩くカーナビである。
で、その上を行くオートバイ異常大好(キチガ〇イ)だったのが我らが〝まっちゃん〟である。何しろ子供の時分から親族で語り継がれる伝説多数、うちの豪傑婆様ことノリコさんと肩を並べる個性派であるまっちゃん。その自由奔放な生き方の文字通り原動力となったのがオートバイであった。
どのぐらいスキだったのかといえば、進学も就職も全部放り出して、当時まだ祖父が経営していたオートバイショップに入り浸って日がな一日バイクをいじっていたくらい。
まっちゃんは単なるオートバイ愛好家では無かった。ちゃんとやれば出来る人だったのだ。豊橋市でも屈指の進学校、時習館高校に入学するぐらいは。
でも、入学式当日から数えて一週間、一か月、とうとう一学期が終わっても……まっちゃんは登校してこなかった。
すでに身も心も血液の一滴に至るまでオートバイの虜だったのだ。
この何かにハマるとそれしか考えなくなるのは、間違いなく佐野家(旧姓・スミヤ家)の血である。元々手先が器用でもあり、凝り性であり、好きになったらトコトンのめりこむタイプであったことから一年遅れて工業高校に入り直して機械を学び、卒業後は市役所に就職が決まった。
でも、就業初日から数えて一週間、一か月、とうとう夏が来るまで……まっちゃんは出勤してこなかった。
すでに身も心も骨の髄までオートバイに魅せられていたのだ。
と、いうわけで祖父のお店で思う存分オートバイをいじくり回せるようになったまっちゃん。豊橋スポーツライダースクラブというツーリング軍団を結成し、いじるのも売るのも直すのも走るのも……オートバイ人生を謳歌していた。
そして祖父が工業高校の先生になるに至って新川オートを引き継いだのだった。
オートバイ好きが高じてオートバイ屋さんになり、まっちゃんの人生はオートバイと共にある……いや、まっちゃんとオートバイは遂に一心同体となったのだ。
私が物心ついたとき、まっちゃんは五十代に差し掛かっていた。
伸び放題の白髪のボサボサ頭を乱暴にくくって、年季の入ったYAMAHAのツナギを着て(新川オートはYAMAHAのお店だったのだ)くわえタバコでいつも作業場に居て、不機嫌そうに工具や溶接機を動かしたり、ペンキを塗ったりしていた。
あとで知ったことだがこれが彼の無上の喜びであり、内心は楽しくて仕方がなかったのだ。集中するあまり、親戚の太ったガキ(おっと私だ)になんか構っていられなかったというわけ。
新川オートはオートバイ屋さんであり、もともと結構広い敷地があったので庭も広く、30年ぐらい前までは犬を沢山飼っていたので楽しくてよく遊びに行っていた。
祖母の兄弟は結構仲が良くて、6人兄弟の長女であるところの我らが豪傑婆様を筆頭によく新川オートに集合していた。
新川オート、というと長いので、略してオートと呼んでいた。
オートのすぐ近くでは別の親戚Kさん(今回はイニシャルにしておいた。許可が取れたらこちらのお店の話もしたい)が喫茶店を経営していて、ご夫婦で顔を出すときは店からコーヒーを淹れてきてくれていた。マホービンからみんなのカップにコーヒーを注ぐと、事務所兼ショールームに石油ストーブとコーヒーの香りが交じり合い、コンクリートの冷たい匂いと相まってそれが私は実に好きだった。
今でも整備工場やガソリンスタンドの石油系の匂いを嗅ぐと懐かしいのは、これが原体験にあるからだと思う。
毎年12月30日になると親戚一同が新川オートに集まって餅つきをしていた。私も物心つく前から杵を握っていたし、小学校に上がるころには子供用の杵でもう一人前に餅をついていた。半世紀以上にわたる恒例行事だったのだが、高齢化でだんだんと餅をつける人間が減っていった。一番ひどい時は私と同級生のサカヤナギ君(元気か!?コレ見てたら電話くれ)と二人だけでその年の餅を全部ついたこともあった。
まっちゃんは早いうちに腰を悪くしてしまい、私が知る限りではもうお餅つきにはあまり参加していなかった。といっても自宅の庭や作業場でぺったんぽったんやっているのだから、まあ居なくても居るようなもの。
INOKIボンバイエでアントニオ猪木さんが出てくる時間は5分ぐらいだけど、その日はアントニオ猪木さんの日なのと同じだ。たぶん。
まっちゃんは餅つきの日も、多分いつもそうしているであろう居間のコタツでゴロっと横になってテレビを見てるか、孫が生まれてからは孫を可愛がったり捏ねくり回したり、たまに出てきてモチを食べてみんなと話したり。
まっちゃんのお店は昔ながらのバイク屋さんで、古いカタログや色褪せたパンフレットもそのまま残っていた。バイクはショールームにも、敷地の倉庫にも、芝生にもあちこちにあって売り物だったり修理中だったりガラクタだったりした。
でも、そのどれもが、まっちゃんの宝物だったのだ。
やがて区画整理が始まり、新川オートは跡形もなく消え去った。
真新しい住宅地は直線的で、白いコンクリートも暗い海のようなアスファルトも眩しく輝いている。
枯れた草いきれと斜面に伏せて水鉄砲を撃ちあったり、敷地の隅の草っぱらで相撲を取ったり、大勢いる犬たちと走り抜けた柿畑も、そしてあの昔懐かしいオートバイショップも。ぜんぶ、思い出の中にだけ残されて何処かへ解体されてしまった。
そしてお餅つきがなくなり、ウチの祖父母も居なくなり、Kさんの喫茶店も移転してしまった。私のルーツの一端である街がきれいさっぱり変わり果てた。
変わり果てた、というのは、区画整理で古く不便で危険な街並みを一新した良いイメージでは使わないよね。だってそうだもん。
あの町内は、もう他人事になってしまった。私には。
これから引っ越してくるなり、新しい家で暮らし続けるなりする人たちのための場所であって。
私の思い出が残る場所ではなくなった。
そして、まっちゃんも旅立ってしまった。
だから、新川オートの思い出を書き残しておきたかった。
今更まっちゃんのことも、お店のことも、知ってもらおうと思っていたわけじゃないけれど。楽しくて、健やかだった時代があった。それを思い出せるだけ思い出して遊びたい。
おっ?天国旅行?
他の記事で書いたけど私は子供の頃、家庭内暴力に苛まれ続けていた。
でもあの実父は、母方の親戚の前には絶対出てこなかった。
分が悪いからだ。
生まれも育ちも悪いんで、平和で明るい雰囲気に勝手に気後れして憎んだり妬んだりしていたんだろう。
だから、新川オートに居る時の私は殴られたり怒鳴られる心配が一切なかった。母方の親類は、みな穏やかで気の優しい人たちばかりだった。
まっちゃんにしたって個性派おじさんだけど、厄介とか乱暴では絶対なかった。
寡黙で頑固なバイク屋さんが、時々ひょうきんな素顔をのぞかせていた。
そんなまっちゃんの元に、みんなが集まり楽しく過ごした。
それは辛い子供の頃に残った、数少ない楽しかった記憶。
だからまっちゃん、新川オートは私にとっても宝物みたいな思い出だったよ。
新川オートを始めたのはうちの爺様だったけど、守って続けてくれたまっちゃんに。
感謝を込めて。
今頃は爺様と天の川までツーリングにでも行っているかもしれない。
天国ならカーブで曲がり切れずにスッ転んでも痛くないかもしれない。
初盆にはキュウリどころかハーレーで戻ってくるかもしれない。
待ってるよ。




