ジャックの日(ネタばれ有り、ご注意を)
2026年7月19日
水上ビルの「みずのうえ文化センター」で行われたドラマシアター第9回公演
ジャック
を観劇してきました。
今日の時点でまだ公演が残っているので内容には出来る限り触れずに書いたつもりだけれど、これからご覧になる方は注意してください。
お芝居だけど、凄く演者と客席が近い…いや入り混じっているというか、通路や座席の目前まで使って芝居をする、まさに没入型。お相撲とか後楽園ホールの格闘技って花道がお客さんの真横だったり、勢い余った力士やプランチャをしたプロレスラーが転がって来たりしますネ。あんな感じで…。
開演前から演者さんたちが衣装を身に着けて往来で観客を出迎えている。
僕の家は、そのすぐ近くの信号を曲がって数件先だ。たぶん演者さんもお客さんも、下手したら前を通り過ぎたり、目の前にクルマを停めて来てる可能性すらある。
そんな場所に突然、分厚い金ぴかスーツの男が現れたり大勢のお客さんで賑わったりしている光景が素晴らしく非日常的で、文化というものはこうした一瞬の積み重なりが連綿と続いていくことで醸成されていくのだなと思った。その発信源のすぐそばに住んでて、ぽいっと歩いて通えるということのなんという豊かさよ。有難い限りのイベントで、いつもなら通りかかって(おっ、今日も何かやってるんだな)くらいにしか思わないことが、今日は我がことであることもうれしかった。
やがて開場し演者さんによる前説が始まり、そのまま胡散臭い人心掌握術のレクチャーに移ったかと思えば実にシームレスな導入を経て物語が始まった。
この導入で描かれた現場検証と尋問の場面が劇中何度も配役と立ち位置を入れ替えた形で再現され、また物語に戻って進行する。だが物語の中の時間そのものは、ココから少しも動いていなかった。
実際は、たった一人の男の回想と現在の様子が階層を跨いで挟まっているのを行ったり来たりする物語で…ちょうど水上ビルのような構造だなと思った。
死も、失恋も、アクシデントも、凋落や変質も、挫折をも飲み込んで狂気が育ってゆく。誰の中にも蠢く狂気が長い手を伸ばしてくる。
ああ、そういうことってあるよな。
ああ、こいつの言ってること分かる気がする。
そういった大小さまざまな共通点が心に反応する作用として働く。風邪薬のコマーシャルみたいに、抗体が刺激に反応してくっ付いて融合する。
それは大袈裟で滑稽に演じられているけれど実際シリアスで、シリアスだからこそ狂気というのは大真面目になるほど滑稽に見える。
傍から見て「狂ってる」と思われているとき、こっちにそんなつもりは少しも無い。
僕の好きな人にラリーに出てコ・ドラをやっている人が居るけれど、この人は自動車にもレースにも全然無縁の人だった。でも一本の映画を見てラリーに魅せられ、そこからレーサーとしての人生をスタートさせた。
傍から見たら狂ってると思われても、彼女は大真面目だし実際レースに出場して実績も出した。
今も出ている。
藤佳あやらさんって方です。
事程左様に健全かつ前向きな行動であっても狂気を伴う場合というのは大いにあり得る。人間は前を向くより俯いたり、後ろを振り返っているほうが遥かに楽で安全に感じる。ネガティブな狂気は悪意になり敵意になり殺意になる。
図らずも殺人というもっとも単純明快な修羅場を潜り抜けたことで、他者の死というハードルがガクンと下がる。
ジャックという作品の中で行われた堕落も凋落も生きるための術だったはずなのに、それがやがて殺人という衝動と動機に乗っ取られてゆく。
お前なんか100年も前から特別でも何でもない
お前なんか狂ってるわけでもなんでもない
そう言われてもなお、狂い続け自らを特別視し続ける男。
そうでもなければ役者も小説家もプロレスラーもレーサーもやってられない。
心の奥底じゃ自分がいちばんだと思っているし、そういう奴の作品じゃないとお金を払って手に入れる甲斐もない。
やがて
「現実と物語は別、芸のコヤシなんかない!」
という断末魔の叫びを残し物語は幕を閉じる。
のべ10000人以上と寝た男なんて物語の中の世界にも存在しなかったし、芸のコヤシという無敵ワードの帳の中に逃げ込む過去の栄光にとらわれた男は遂にそのまま悲劇を迎える。
2時間以上の上演が文字通りあっという間で、終わって正直ホッとした。
そのぐらい熱量のある作品でした。
芝居そのものも題材にしつつ、芝居の中に存在する人生を描いているようで、そもそもすごく面白かった。そのうえ演者さんたちが大声を張り上げたり、血まみれでのたうち回ったり、悲鳴や泣き声をあげたりエネルギーの発散が凄まじく。会場の温度と湿度がどんどん上がっていくのがわかった。
蒸し暑く、汗ばんで来るのに、手に持ったもので顔や首元を扇ぎつつも目が離せない。とても幸せな観劇体験でした。
さて私事。
私の高校2年からの古文の先生であり、豊川市にある行きつけのブックカフェのマスターでもある加藤先生にお招きいただいて、幕間のトークショーにお邪魔して来ました。
もうおひと方、豊橋市内でコーヒー店「COMMONS,Marginal Roastery
(通称コモンズ)」を営む井野さんと3人での鼎談。
裏方として関わる加藤先生や、コーヒーコーナーで出店もされている井野さんはともかく私は全くの門外漢。小説家であって演劇も殺人も未経験であるからして、さーどんな話をしようかと内心ヒヤヒヤしていました。
物凄く場違いな言動をして、シーーンとしたらどうしよう…!
なので最初の自己紹介の時、ちょっと喉が渇いてて声が出ておりませんでした。そのあとはお客様もフムフム聞いてくださる方がいらしたり、笑ってくれたりで安心して調子に乗って時間いっぱいになってしまった…もっとちゃんと着陸して終わりたかったです。
加藤先生、井野さん、お客様方、そして主宰の小菅かおりさんはじめ皆々様、ありがとうございました。
夏山 果恋さんはあんな可愛らしいのに、喋るとガラッパチなのが田舎っぽくていいなと思ってました。それが最後あんな風に化けて出るとは。
時間の流れを感じさせる作品のなかで、もっとも残酷な時間を過ごしてきた役回り。
ずっと可愛くて気の毒だったのが、そうなるのか!と。そのギャップを生み出す底力に脱帽でした。
シブくて好きだったのが田村 康太郎さん。
こういう名脇役が居ないと物語は進まない。大きなギアとシャフトを回すためには質の良い潤滑油が必要なのだ。田村さんの淡々としつつものめり込んでいるような、自然な感じが好きでした。
あんなおっかない内容の舞台なのに見てて安心できる。そういう人が居るからこそ、見ている方は没入できるのだと思います。
宮崎 甲さんは物語の最初の取っ掛かりを任されるだけあって、このジャックという作品がどういう内容であるか実は最初にきちんと明かしてくれていたのですね。なので、見ていて後から合点がいく。前情報なしにパッと見て楽しめるためには、いちばん大事な部分だったのだと見終わった今になって感じています。
演芸場の漫談家のように一人で満座の前に立ちしゃべり続け、そのまま作品へと移ってゆく。この演出には、宮崎さんでなければならなかったのでしょう。
熊野役の加崎 克弥さんとミノル役の山口 創大さんは名コンビで、凸凹の先輩後輩という間柄も相まってとても劇場的でした。視覚からして面白い。
固い絆があるようで、狂気の中でそれが変質し、月日を経てまた結びつく。
文字通り血にまみれた青春が終わって、結局はノリコの絶叫によって二人は生も死も否定される。そのもの悲しさ、寂しさ。でも男ふたりのバカな青春ってそんなものだよな。
それがスポーツでもバンドでも同じで、たまさか演劇と殺人だっただけで…。
私は加崎さんバージョンの熊野を拝見したけれど、マイルド版はいかなる熊野だったのか。それも気になるところ…。
特に私が圧巻だなと思ったのは日々樹 有眞さん。
一人三役で、しかも早着替えがあったり血まみれで引き摺り回されての大立ち回り、さらには階段落ちまでこなしていた。開演前に金ぴか衣装で佇んでいたのも日々樹さんで、でもお声かけさせていただくと爽やかな演劇セーネンでした。早着替えの工夫もちらっとお聞き出来ました。ありがとうございます!
そして、もうひとり。
桃矢 やちさん。この方も二役演じて、そのどちらでも死んでいるという人。人生の終わりを二度迎えることが出来るなんてお芝居ならでは。生きるために演じ続けることを選び、演じながら生きることを強いられた役柄でした。誰の前に居ても平静を装い〝服を着ている〟ことがそもそも演技になってしまうというパラドックス。裸で生きる仕事の人が身近に居るけれど、みんながみんなそうじゃないにしても、この人はそう思っているのだろうな。とキチンと感じさせてくれたのがとてもよかったと思います。
なにより死に際の悲鳴、断末魔、そこへ突き進む様が見事で、最後の筆舌に尽くしがたい声が素晴らしかったです。
私自身も子供の頃プロレスラーになりたくて、18の春にメキシコに渡ったものの、結局なれなくて。
37歳でデビューして40歳を迎えた今も小説家をやっている。
狂気といえば、今日この公演で見た光景や得た刺激を文字通り
「芸のコヤシ」
に出来るのは、もしかして私だけなんじゃないか。
そんなことをつい考えて、いつか私も書籍化以外にも活動を拡げたいなと大いに発奮いたしまして。興奮冷めやらぬまま書き上げました。
私の心の狂気、なくさず走り続けたい。ただ肥っているから息が続かない。
単なるコヤシなら間に合っています。
うーんこのクソッタレ!




