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Second Moon Ⅰ  作者: 愛祈蝶
Happy Birthday
20/20

雪の魔法(後編)

鍵が開く音を聞いた司は、素早くドアを手前に引き、隙間を縫うように身体を傾けながら中に入る。司と視線が合わさった瞬間、香澄の胸は大きく跳ねた。



「つかさ、お帰りなさい!」



香澄は、キラキラした満面の笑みを浮かべ、司の瞳を見詰める。司は、その笑顔に釘付けになり、瞳を逸らせぬまま暫く立ち尽くした。 香澄の反応は、司の胸を温めたのだろう。司は目尻を下げ、後ろ手に施錠すると、



「ただいまぁ~……かすみちゃん」



甘えた声で呼び掛けながら、香澄に近付いた。そして、すぐさま香澄を抱き寄せようと、玄関マットの上に立っている香澄の首筋に手をかけた。が、司の手が香澄に触れた途端、



「キャッ……冷たいっ……ゃん……もぅ……」



香澄は身震いし、氷のように冷たい司の手から逃げるように身を捩った。逃がすまいと、司はもう一度手を伸ばすが、冷たいと言われた手で触れることに一瞬躊躇(ためら)う。と、その隙に、香澄は司に背を向け、部屋の中へと入って行く。司は、伸ばしかけた手を引っ込めると、靴を脱ぎ飛ばし、香澄の背中を追うようにしてリビングに向かった。



「……クククッ……チュウがねぇぞ?チュウ……」



…………っ……




司の言葉に、香澄はハッとした。どうやら司の顔を見た瞬間、先ほどまで頭にあった“おかえりなさいのキス”は綺麗に何処かへ飛んでしまったようだ。脳内でシュミレーションまでしたにも拘らず、すっかり忘れていたらしい。




…………しようと思ってたんだけどなぁ…………




「…………」




…………どうしよう…………



鍵を開ける前までは頭にあった“おかえりなさいのキス”。香澄は、それを忘れていただけでなく、首筋に触れた手が冷たいからと言って、司から逃げたのだ。香澄は、黙ったまま顔を上げることも出来ずにいた。





「触らせてくれねーし……チュウもなしか?……冷てーな……」



司は、下を向いたまま考え込む香澄を見ながら、ふてくされたように口を尖らせる。




…………だから、…………しようと思ってたんだって!…………




…………それに……手……冷たかったから、びっくりしたんだもん!…………




…………どうしよう…………




…………タイミング逃しちゃった…………




香澄は、脳内でぶつぶつ言い訳をする。が、それが司に届くはずもない。司は、雪で水分を含んだコートを脱ぎ、ソファーにドカッと座ると、大きく息を吐いた。香澄は、それをため息だと感じ、焦り始める。




…………ほら早く……奈津美みたいに全身で喜びを伝えるのよ!…………




奈津美は、嬉しい時は晃に抱きつきながら“大好き”と素直に言える。香澄も何度か目にしている。晃の首に腕を回し、背伸びをしながら引き寄せるようにキスをする奈津美は、見ている香澄が赤面するほど可愛いのだ。




…………早く帰ってきてくれて、嬉しい!とか……大好き!……とか…………




……言わなきゃ……




香澄は、自分で自分を励ましながら大きく息を吸い、ゆっくり吐き出すと、司の背後に回った。そして、そっと近付き、広い背中にもたれ掛かるように抱き付いた。






…………?!…………




驚いたのは司だ。一瞬身を硬くしたが、心地よい重みに思わず“ふっ”と笑みをこぼす。そして、肩に乗せられた香澄の腕を掴んだ。



「なんだ?甘えたくなったか?」



背中に感じる香澄の体温に、司の胸の鼓動は加速し始める。



「ん……司、目瞑ってて?」



香澄の言葉に、司の心臓が波打った。期待で胸が膨らみ、“バクン”と波打つ鼓動は今にも踊り出しそうだ。




弾む胸を抑えられないまま、司は言われるまま目を瞑った――――――






“ドクン……ドクン…”と香澄の胸を打つ鼓動は、次第に速度を増していく。司は、香澄の気配だけを追いかけながら、心臓が“バクン”と波打つ度に期待に胸を震わせる。“バクン”“ドクン” と、二人の鼓動がリズムを奏でる中、香澄は司の手からそっと自分の腕を抜くと、司の前に移動した。そして、目を閉じたまま無防備な姿を晒している司に顔を近付けていく。ゆっくり、ゆっくりと。



時が止まるような空間の中、二人の鼓動は時折重なりながら熱を発しているようだ。極度の緊張の中、香澄の唇は司のそれに触れた。ほんの一瞬だけ、“ちゅっ”と音を立ててキスを落とすと、香澄は司に捕まる前にと、急いでキッチンに逃げ込んだ。



…………ふっ…………



司は一瞬顔をほころばせ、空気を掴んだ自分に苦笑いする。




……行動よんでやがるな……ックククッ……




…………可愛いよな…………




俊敏な司が香澄を捕まえ損ねたのは、余韻を味わっていたからだろうか。司は暫くソファーに座ったまま、香澄の行動を思い起こしては目尻を下げていた。





キッチンに逃げ込んだ香澄の鼓動は、治まるどころか速まっているようだ。“ドクンドクン”と暴れる心臓を鎮めるため、香澄は意識を夕飯の支度に集中させた。手を洗い、包丁を握る。“ザクッ……ザクッ……ザクッ”一定のスピードで白菜を切っていると、上昇していた体温が平熱に戻るように落ち着き始めた。“ザクッ……ザクッ”と包丁を下ろし、切った白菜をザルに移していると、後ろに視線を感じた。ふと振り返ると、穏やかな笑みを浮かべた司が立っている。




…………なに?…………




香澄が窺うような眼差しを向けると、司は、



「なんか、やることないか?」



香澄と距離を保ったまま問いかける。



「ん、コンロ出してくれると助かる」



「分かった」




…………包丁持ってっ時に、抱きついたら怒られるからな…………




……だけどなぁ……後ろ姿って欲情するんだよな……あぁぁ――――!!触りてぇー!!……




司は、香澄の後ろ姿を見ながら、カセットコンロをテーブルの上に置く。そして、その上に、出汁の入った鍋をのせた。





香澄は鍋に入れる食材を次々に切り、テーブルの上に置いている。司は香澄を見ていると触れたくなるため、ソファーに置いたままのコートを掴むと部屋に向かった。




……仕事、持って帰ってっけど、後にするか……




司が集中すれば、数時間で済ませられる仕事だ。仕事は香澄が寝入った後にしようと思った司は、預かってきたディスクを上着のポケットに入れたままスーツを脱ぎ、ラフな普段着に着替えた。



…………腹減ったしな…………



朝はしっかり食べて出た司だが、昼はパンと栄養ドリンクだ。早く終わらせて帰るために、パンをかじりながら作業をしていた自分を思い出す。どうりで腹が空くはずだと思いながら、吸い寄せられるようにキッチンに向かった。




白菜にネギ、春菊、豆腐。香澄は、次々に食材を洗っては切っていく。まな板と包丁が合わさる度に“トントン”と軽快な音を響かせて。司がキッチンに入って来た事に気付きながらも、手元に集中しているようだ。司の視線は、香澄の背中を捉えていた。触れられる距離にいながら自分以外の事に熱中している香澄の姿を見れば、司に悪戯心が芽生えるのも不思議ではないだろう。




…………両手……塞がってんだしな…………




…………触りたい放題のはずなんだぜ?…………




…………あぁぁ――――!!触りてぇー!!…………




香澄の柔らかい感触を思い出し、司は、心の中で雄叫(おたけ)びを上げた。司が欲情する自身を抑えようとしているのは、『あっち行って』と追いやられる自分の姿が目に見えているからだろうか。そう、調理中の香澄は自分の相手をしてくれない。




…………暇だ…………




司は、香澄から意識を逸らすために周囲を見回した。すると、テーブルに置かれた鍋と食材が目に入る。暇を持て余す司は、閉じられていた鍋の蓋を開け、コンロに火をつけた。ぐつぐつ煮立ち始めた鍋からは、食欲をそそる匂いが漂い、司は、しばらく鍋の中を見ていた。



香澄は、食材を切ってはテーブルに置く作業を黙々と繰り返していた。野菜を切り終えると、冷蔵庫から袋に入った“うどん”と生椎茸、鶏肉を取り出す。




……うどんは後で湯通ししよう……




既に茹でてある“うどん”は、野菜の入ったザルが空いたら湯通しをするつもりでテーブルに置き、生椎茸を洗って切り、最後に鶏肉を切り始めた。




……まな板や包丁をいちいち洗いたくないんだよね……




肉や魚を切ってしまうと、途中で包丁もまな板も洗剤で洗うことになるため、香澄は野菜を先に切っていた。鶏肉を切り終わり、香澄は、肉をまな板にのせたまま、それを抱えて振り返った。






…………っ…………




「つかさ?もしかして……」



香澄は、目の前の光景に身体を硬直させた。言いかけた言葉も止まる。作業に集中していた香澄は、背後で起こっている事に気づかなかったのだろう。目も口もポカンと開けたまま、立ち尽くしている。



「何だ?」




……どうかしたか?……



司は、間の抜けた香澄の顔を不思議そうに見ていた。全く状況が掴めていない模様。香澄の視線はテーブルの上に移り、“何か”に気付いた香澄は、慌ててコンロの火力を弱火にする。




…………もしかして…………




…………急がなきゃ…………




香澄は、予想した事態が未遂で終わってくれる事を切に願った。想像した鍋の中身を頭から追いやろうとしながら、慌てて鍋の蓋を開けた香澄。恐る恐る蓋をテーブルの上に置き、鍋の中をのぞき込むと、そこは――――




…………わ…………





想像以上の惨劇を目にし、香澄は血の気が引く思いがした。そこは、見るも無残な食材達のダンスパーティ。ずいぶんと軟らかく煮込まれたのであろう、華麗に踊っているのは溶けかけた白菜に春菊。葉野菜に交ざり、浮かんでは沈むを繰り返すは、形の崩れた穴だらけの豆腐。そして、濁った出汁の中、何故か入っている“うどん”……。



「つかさ、この豆腐……うどんも…」



香澄は、まな板を鳩尾に当て、片手で支えたまま、顔を歪ませ肩を落とした。思い当たる節はあるのだが、食材を切ることに集中していた香澄は、さほど気に留めていなかった。まさかこんなことになろうとは、思いもしなかったのだ。




……そう言えば、振り返る度に、お皿にあるはずの食材が減ってた…………




「ん?」




香澄の絶望したような様子を見た司は、香澄の視線を辿り、鍋の中を覗き込む。そして、首を傾げた。司には、香澄が肩を落とす理由が分からないのだろう。




…………香澄、怒ってんのか?…………




「“す”が入っちゃった」




香澄は、ぼそっと呟く。そのがっかりした香澄の声に、分からない言葉に、司は戸惑う。




…………す?…………




…………豆腐は入れたけど、酢なんか入れてねぇぞ?…………




「酢?そんなもん入れてねぇぞ?」




司の返事を聞いた香澄は、更に肩を落とした。




…………つかさは、料理の事は分からないんだった……“す”なんて、知らないよね…………




……あ……もしかして“酢”だと思った?…………“酢”じゃなくて“す”だし…………




…………はぁ…………どうしよう…………







…………いいのかな……今さら…鶏肉、入れて……



まず出汁の出る鶏肉を入れ、固くて火が通りにくい物から順に入れていくはずだった。豆腐は、煮込み用の物ではなかったので、“す”が入らないように、後から入れるつもりでいたのだ。司が食材を鍋に入れ始めていた事に、全く気付かなかったと言う訳でもないのだが、流石(さすが)に強火のまま煮込み続け、挙句の果てに“うどん”まで入れているとは思いもしなかったのだ。




……先に鶏肉切れば良かったの?……




香澄が、先に鶏肉を切り、テーブルの上に置いておけば、きっと今頃鶏肉は鍋の中にあるだろう。




…………どうしよう…………




だが、もう手の施しようはないのだ。大失敗をしたと自覚した香澄の脳裏によみがえるのは、母の金切り声。




『豆腐は後からだって、何で分からないの!!』




確か、“豆腐が後から”と知ったのは、母が怒り出したこの時が初めてだったと香澄は記憶している。何事においても、知っているのが当たり前、出来るのが当たり前、出来なければ(けな)すばかりの母。その時、鶏肉が先で豆腐が後からだと、肝に銘じた香澄だった。




…………どうしよう…………




入れる順番が滅茶苦茶になってしまった事を知られると、責められる。母親は、ここにはいないのだが、香澄は、鍋の中に視線を向けたまま焦り始めた。




…………灰汁(あく)も……とってない…………




…………怒られる…………




香澄は、しばらく青ざめた顔をしていた。恐怖に怯えるかのように。だが、香澄の中で、何かが逆流するように胸から上に向かい始める。頭に血が昇るとはこの事だろうか。香澄は目を閉じた。




…………っ…………




…………わたしが間違えたんじゃないもん…………




…………あ”ぁっ!……もうっ!!……






「この豆腐に穴が開いたのを“す”って言うんだよ。…………もうっ!!……うどんも、入れちゃったの?!」



香澄の口から勢いよく飛び出した言葉達。昇ってきた熱いモノが一気に飛び出したようだ。



…………っ…………



香澄は、自分の声を自分で聞き、ハッとした。つい、感情的な強い口調になってしまったのだ。我に返ったところで、時既に遅し。一度口から出た言葉は返っては来ない。




……やだ……これじゃ……やつ当たりだよ……




『どうしてくれるの!あんたのせいで!全く役に立たないわね!』




自分を責め立てる母親の姿が、再び香澄の脳裏をかすめた。香澄の中で、今の自分と母親の醜い姿が重なった。香澄は、自分で自分が嫌になり、消えてしまいたい衝動に駆られる。




……やだ……母さんみたいな言い方になってる…………




…………同じ血が流れてるんだ…………




…………嫌だ!こんなんじゃ嫌われちゃうよ…………




香澄は、泣きそうになりながら、司の顔を見た。





司は、憤る香澄を珍しいものでも見るように凝視していたが、香澄の視線が自分に戻って来たところで口を開いた。



「食いてぇもんを入れたぞ?……そんなバッファローみてーに鼻膨らませる事か?!」




……目が逆三角だぞ?……




……食いてぇもん、入れて悪いか?……




司は、悪びれもなく当たり前のように言い放つ。香澄の歪んだ顔を見ながら小言を聴いてはいたが、どうしてそこまで怒っているのか見当も付かないのだ。司のその言葉に、香澄は驚き、目を丸くした。




…………え?…………




醜い顔で醜い言葉を吐いた香澄に対し、幻滅する様子もなく笑って言い放つ司を、香澄はしばらく呆然と見ていた。司は、不思議そうに首を傾げながら香澄を見上げる。




「……ふふっ……」




そんな司を見て、香澄は何故か笑い出していた。肩の力が抜け、強張っていた頬の筋肉が緩む。




…………なんだか……気が抜けちゃった…………




…………ふふっ…………




……バッファローって……やだ……




…………鼻膨らませてって…ハズカシスギダシ……




香澄は自分がどんな顔をしていたのかを想像すると、羞恥心に顔を上げられなくなり、俯いた。





「腹減った!肉貸せ!それも食いてー」



司は、香澄の様子に気付いているのかいないのか、まな板に手を伸ばす。香澄は、力なく笑った。



「…………はははっ……」




…………司といると、楽しい……肩の力が抜けるっていうか……




…………不思議…………




…………気にしない人もいるんだね…………




司は、香澄からまな板を奪うと、弱火のまま鶏肉を全部入れた。鍋の中は、急に温度が下がり大人しくなる。ダンスパーティも曲の変わり目なのだろうか。香澄は、早く火が通るように、こっそり中火に直した。再び沸騰し始めた時、手早く灰汁を取ったが、既に手遅れのようだ。出し汁の濁りは諦め、弱火に調節して味付けをする。取り皿を棚から出し、テーブルに置く。蓋をした鍋を眺めている司に背を向け、まな板や調理器具を洗い始めると、背中越しに時々司の独り言が聴こえてきた。それを聞くたび、時々笑みを浮かべていた。



「こいつは…ホウレンソウか?!…………」



……ぶっ……春菊だよ……陰も形もなくなっちゃったけどね…………



どうやら、菜箸で掻き回しているようだ。香澄が閉じた筈の蓋は、司によって開けられたらしい。



「つーか……肉が、くっついってっぞ?!」



…………それは、司が、くっついたまま肉を入れたからだよ……切り離してくれてるかな?……



「腹減った」



…………ふふっ……お腹が空いてたんだね…………



日本酒を燗にし、おちょこを二つ用意する。香澄が椅子に座ると、司は、それを待っていたかのように鍋の中身を小皿に取り分け始めた。そうして二人は、微妙な歯ごたえのする料理を食べ始めた。




「さびぃ時は鍋だな……」



司は何を口にしても、笑顔だ。全く鍋の出来映えを気にしない司に、香澄はホッとしながら、笑いを堪える。生椎茸と鶏肉以外は形状をなくし、とろみのあるスープのようなこの料理を、鍋と言って良いのだろうかと。日本酒は、身体を中から温めてくれる。香澄は、用意した食材が司の胃袋に入っていく様子を見ながら、ほんのりと頬を染めていた。



「つーか、うどんがいねーな……もっとたくさんいたはず……」



司は、鍋の中をかき回しながら、うどんを探している。そんな子供みたいな司を見ながら、



「……ふははっはははっ……溶けたんだよ…………」



香澄は無邪気に笑う。



「うどんって溶けるのか?……」




……このドロドロは、うどんか?…………初めて見たぞ?……




真顔で質問する小学生のような司に、



「あんまり煮込むと溶けてドロドロになっちゃうよ?」



先生になった気分で答える香澄。



「あーだから店で最後に出てくるんだな、後から持って来んのはそう言う事か……」



独り納得しながら、すぐにプツンと切れる“うどん”を箸で摘もうと格闘している司。司は、居酒屋で鍋料理を食べた時、最後に店員が持って来るうどんの意味を初めて知った。



「……ふっははは…………」



「笑うな!知らねーんだ、教えてくれ!」




…………うどんって手強いな……ック……バカにしやがって…………




「ごめん……」



しゅんとした香澄を見て、司は、今自分がどんな顔をしているかを想像した。



「いや、香澄に怒ってるわけじゃねーからな!この“うどん”だ!……」



「うん」




…………司が旦那で良かった…………




香澄は、“うどん”を追い回す司を見ながら、安堵していた。怒られないように完璧を求め、失敗する事が恐怖に等しい自分。司といると、神経を尖らせないで過ごせる気がした。変われそうな気がしていた。





久しぶりに一緒に食べる食事は、とても美味しく感じられたようだ。二人の笑顔は絶えない。



「もったいねーな」



うどんは諦めたのか、司は、鍋の中に残った最後の固形物である椎茸を口に運んだ。そして、香澄の空いた杯に気付き、酒をつぎ足す。



「香澄も呑め!」



「うん」



日本酒が回り、ポカポカ温かくなり、ほろ酔い気分を味わう。二人とも、酒には強い。酔っ払ってはいないのだが、香澄はテンションが上がり、司もいつもより酒がすすんでいる。



「これ明日、ご飯入れて卵雑炊にするから、もったいなくないよ……わかめも入れるね」



変わり果てた“うどん”を気にする司を見て、香澄は鍋をガスコンロに移動させた。出汁は追加しないと足りないが、明日の朝食は、わかめと卵の雑炊になるだろう。



「雪まだ降ってんなぁ……」



司は、突然立ち上がり、カーテンを開けると、曇った窓ガラスを手でなぞった。香澄は、“雪”と聞き、昼間の事を思い出した。




…………雪……あ……聞いとかなきゃ…………




……良かった、思い出して…………





香澄は、忘れないうちにと思い、慌てて口を開く。



「あ、奈津美がね、美容院の半額チケットがあるから一緒に行かないかって誘ってくれたんだけど……」



勢いよく話し始めたのだが、声はだんだん小さくなっていく。



「どこの美容院だ?遠いのか?」



司は、テーブルに戻り、やんわり問いかけたが、その瞳は俯く香澄の顔を窺うように凝視している。



「カフェの近くだよ。パーマかけてみていい?」



香澄は、顔を上げ、窺うように司を見つめた。




…………パーマ?!…………




司は、香澄の口から出て来た“パーマ”という言葉に反応し、一瞬眉を歪め、固まった。無意識に香澄から視線を逸らし、どこか遠くを見ているようだ。




……は?……香澄が……パーマとか……




…………っ…………




しばらく固まっていた司だが、不機嫌そうに眉間にシワを寄せ、口を開いた。





「“焼きそば”みてーな髪にすんのか?」



司の口からぼそりと落ちた言葉に、香澄は思わず吹き出した。



「ぶっ……っ……焼きそばは酷いよ!!ウェーブって言うんだよ?」



眉間にしわを寄せている司の口から何が飛び出すのか、と身構えていただけに、香澄は拍子抜けしたようだ。



「ウェーブ?あ、波か……つーか、」




…………それ以上、色気振り撒いてどうする気だ?…………



司は、途中で言葉に詰まった。



「なに?」



香澄は、(すが)るような眼差しを向けている。



「いや、かけたいんだろ?」




…………かけるなとか……言えねーし…………




「うん。やってみたい。裾だけウェーブ。似合わないかな……」



香澄の上目遣いに、ドキリとしながら、司は、言葉に詰まったままだ。




…………似合わねー訳ねーだろ?…………




目鼻立ちのはっきりした香澄がウエーブパーマをかければ、近寄りがたい硬い雰囲気が緩和されるのかもしれない。きっと似合うだろう。見てみたい気持ちもあるのだ。だが、司は、自分に言い寄って来る見慣れた女達の華やかな髪形を思い浮かべていた。




……ウェーブっつーのか、あのライオンみてーなクルクルは……




どうやら司は、裾だけウェーブヘアとは別の髪形をイメージしているようだ。



「……似合わなかったら戻せばいい」




…………つーか、戻せ……自然のままでいいんじゃねーか?…………




…………っ…………




言った後で、司は後悔する。




……似合わねーわけ…ねーだろ……




……変な男が寄って来たりしそうだな……っ…………




…………あ”ぁぁぁ――!!!!…………





司の表情をじっと見ていた香澄は、その言葉を聞き、頬を緩ませる。




……司が母さんみたいに怒ったらどうしようかと思った……良かったぁ……




「うん。パーマ代かかっちゃうけど、いい?」



「それは気にすんな。バイト代は好きに使え」




……ふっ……この顔に弱いんだよな…………俺……




……それにしても、コイツ金使わねーように、節約するよな……




…………独り暮らしの時より、支出が減ったぜ?…………




…………外食と飲み代が減ったからか?…………




……香澄、服も買わねーし、なんつーか、不思議なヤツだよな……




…………姉貴が二十歳の頃っつったら…………化粧に衣装に、カバンに靴に、光りモノに、全身どんだけ金かけるんだっつー感じだったぜ?…………




…………旅行だ何だって……あちこち遊び回ってたしな…………




「うん。じゃあ、卒業したらカラーも入れてみよっかな……ふふっ…」




香澄は、キラキラした笑みを浮かべながら呟いた。その呟きを耳にした司は、再び固まった。




…………カラー?!…………




…………はぁ?!…………





……髪の色変えるのか?……




……おいおい……勘弁してくれよ……




司の脳裏には、見慣れたオンナ達の髪の色。金髪にも見えるくらいの明るい色。夜の暗さに映える華やかなオンナ達を思い浮かべ、香澄の顔と重ね合わせる。




……卒業したら、つったか……




……まだ先か……でもな……




…………ますます変な男が寄ってきそうだよな…………




眉間にしわを寄せて考え込む司に、香澄は気付いていない様子だ。司は、そんな香澄の笑顔を見ていると、“ダメだ”と言えなくなる。




…………やってみたい年頃に、出来なかったんだしな…………




……だけどな……髪の色が明るいと、……軽そうに見られるっつーか……




……俺みてーな男が寄ってきそうだしな……




…………っ…………



香澄の髪は、もともと真っ黒ではない。だが、学祭の打ち上げで見る限り、学生の中にいると黒く見えた。当然、自分の隣にいても黒く見えるはずだ。司は、“卒業するまでに気が変わるかもしれない”という期待を抱きつつ、あれこれ考えながらもしぶしぶ重い口を開いた。




「金髪はダメだ!俺より明るくしねーんなら、いいぞ」



香澄は、少し明るくしてみたいだけだ。司の“金髪”発言に、いったいどんな色を想像しているのかと、香澄は吹き出しそうになる。



「ふふっ……金髪にはしないよ!……ありがとう!一回やってみたいだけだから。毎月は大変だし……」



香澄の脳内には、既に就活が終え、髪をオリーブブラウンに染めた自分が映し出されていた。奈津美より少し暗めで、司の栗色に合わせたオリーブブラウン。晴れて内定を貰えた場合の事なのだが、今日の香澄は、前向きに考えられるようだ。




…………嬉しそうにしやがって…………




香澄のはしゃぐ姿に、司の目尻は下がる。



「まあな、二色になっちまうからな……ふっ……エッチな香澄ちゃんは髪が伸びるのはや…」


「もう!」



「…ククッ…」



司は、頬を膨らませながら顔を逸らす香澄を見ながら、その予想通りの反応に満足したのか、目尻にしわを寄せ、微笑んだ。香澄は、今までで一番幸せな誕生日を過ごしていた。ほろ酔いの司に、からかわれながら。




「ククッ……お前、もともとエロかったもんな…」


「違うし!」



司の言葉を遮りながら、香澄はテーブルの上にある食器をシンクに運び始めた。



「いや…最初っから感じて」


「ぁあぁあもー!」



香澄は、顔を真っ赤に染めながら、必死に司の言葉を遮ろうとした。“最初から感じてなかったか?”と言いかけた司の言葉は、途中から香澄の大声に掻き消される。



「…ククッ……」



「あれは…」




……自分でもよく分からないんだよね……




香澄は、皿を流しに沈め、司に背を向けたまま考え込んだ。初めてこの部屋に来た日、司に触れられ、甘い感覚に乱れそうになったのは事実だ。初めての行為に戸惑いながらも、司の手と舌によって香澄は夢心地へと誘い込まれた。知識も経験もない香澄は、司に言われると“自分はエッチなのかもしれない”、と思ってしまうのだ。




「違うのか?」



司は、立ち上がり、香澄に近づいた。シンクに手を付き、香澄の頭上に顎を乗せた司。



「は…初めてだったから…分からない」



香澄は、近づいてきた司にドキドキしながら慌てて言葉を落とした。その声はか細く、消え入るような声音だ。




……司だから…好きな人だったから…なのかな?……




……比べる対象がないんだから…分からないよ……




「初めて…か」



司はぽつりと呟いた。そして、首だけくるりと回すと窓辺に視線をやった。




……コイツ…雪見ただけで、珍しそうにはしゃいでたよな……




司が香澄の“初めて”発言に気を取られている間、香澄は、“初めての経験”を思い出していた。




……そう…初めてだったんだもん……




用心深く警戒心の強い香澄が、あの時司について行ったのは、出会った瞬間に惹かれるものがあったからだ。司ほど強引な男に出会った事も初めてだった。いきなり襲われるとは思ってもみなかった。何もかも初めての連続。戸惑いながらも、ただ触れられた感覚が心地よく、必死に理性と戦っていた。



「うん…他の人がどうなのか、知らないから」



ほんの数センチ後ろには司が立っている。香澄は、皿を洗うことに集中しようとスポンジを手にとった。司は、香澄を囲うようにシンクに手をついたまま口を開いた。




「友達とそんな話はしねーのか?」



司は、自分の中学時代を思い浮かべた。周囲の会話に加わることのなかった司も、“誰がどこまでいった”など、耳にしたことはある。中には自慢する者もいた。



「しないよ!…あ…でも、私が(うと)いから、みんな気を遣ってたのかも…」



「だろうな…ククッ」



どうやら、香澄は、全くと言っていいほど、その手の話を耳にして来なかったようだ。司は香澄の話を聞きながら、頬を緩める。




……筋金入りの“箱入り娘”だったわけだな……




「漫画も買っちゃいけないって言われてて…テレビも九時以降は見ちゃダメで…高校生なのに九時までってひどいでしょ?」



「小学生みてーだな…ククッ」



実家での生活を思い出し、不満を漏らす香澄を見ながら、司は腹を震わせた。




……うまく情報遮断されてんな……




「小学生の頃は…テレビは七時までだったよ?学校が終わったら真っ直ぐ帰って、宿題しないと出ちゃダメで、宿題が終わったら予習復習させられて、終わった頃には『もう暗いから出ちゃダメ』って」




……たいていは、学校から帰って、ランドセル置いたら遊びに行くんじゃねーのか?……




……つーか…帰りに寄り道して遊んで帰ったりとかな……




司は、香澄の話を聞きながら、自分の子供の頃を思い起こしてみた。




……俺、宿題は…してたのか?……覚えてねーなぁ……




……ま、遊んで帰った後にやってたんじゃねーか?……




放課後は、ランドセルをグランドに投げ置き、野球のようなサッカーのような自分たちだけが分かるような遊びをしていた。雪が降れば、外で雪遊びをし、雪と泥に(まみ)れて帰った。




……香澄、雪見てはしゃいでたよな……ククッ……




……ちっちぇえ頃、俺たちが当たり前にしてきた事も…出来なかったのか?……




「クククッ…じゃあ香澄、雪だるま作ったことあるか?」



司は、窓辺に移動し、外を見やる。




「雪だるま…は…ないかな…外で遊ばせてもらえなかったから…」



香澄も司を追って窓辺に近づいた。吹雪はおさまったようだが、まだ雪はちらついている。すっかり日は落ちているが、どこか明るく感じる。きっと雪のせいなのだろう。司は、隣で窓から外を見ている香澄に視線を移した。




……やっぱりな……雪だるまも作ったことねーのか……




「作るか」



司の問いかけに、香澄は驚いた。



「え?」



小学生だった頃の香澄なら、喜んで外に飛び出しただろう。だが、歳を考えると恥ずかしい気もしたのだろうか。香澄は、司の顔を窺うように見上げた。




…………司、酔ってる?…………




「片付けたら、外に出るぞ?」



司は、決定事項のように言い放つ。



「本気?」



香澄の声音は、戸惑いと躊躇いを含んでいる。それに気付いているのかいないのか、司は口角を上げ、笑顔を作る。



「あぁ、雪だるま作ろうぜ!」




…………香澄の“初めて”は俺がもらうって相場は決まってんだ…………




司は、香澄が今まで出来なかった事をさせてやろうと思ったようだ。


そして―――






“バシャッ”と何かが潰れるような音が響いた。



「キャーッ……司、ひどい!……」



「…………ックククッ…………ックハハハハッ…お前、避けろよ……」



「足が雪にはまって、動きにくいんだから……」



二人は、マンション近くの公園で、雪だるまを作るつもりだったのだが……。



「そんなに積もってねーぞ?……何で、はまるんだ?…」




……コイツ…運動神経ねーな……




香澄の膝上あたりで再び“バシャッ”という音をたてて雪が潰れた。



「……わ…………もぅ、知らない!…………」



「……ックハハハハッ………反撃しねーのか?!」



司の高笑いが響き渡る中、雪は(まば)らながらも降り続いていた。足元には、さほど積もっていない。誰も踏み入れていない真っ白な絨毯の上で、二人は低木や遊具の上に積もった雪を集め、緩く握っては、投げ合っていた。二人の距離はさほど離れていないのだが、香澄が投げた雪は、司には当たらない。とその時、



「…………わ…………」



走ろうとした香澄が、バランスを崩した――





…………転ける…………




…………っ……




雪に足をとられた香澄は、顔面から地面に倒れる覚悟で目を閉じた。運を天に任せて。だが、しばらくしてやってきたのは痛みではなかった。“ドンッ”という鈍い音が、静まり返った夜の公園に響いた――――




……………っ………




お腹辺りに衝撃を受け、目を開けた香澄。目の前は雪景色。遠くには、ぼんやりと人影が見える。




…………私…立ってる?………




自分が立っている事に気付いた香澄は、不思議に思いながら、ゆっくり視線を下ろす。



「お前、危ねーな!」




…………膝でスライディングしちまったぜ?…………




…………雪じゃなかったら、間に合わなかったな……アウトだ……




香澄の視界には、自分の前で(ひざまず)く司。司は、顔を(しか)めながら責めるような言葉を香澄に浴びせた。香澄は、司に抱き止められ、転倒を免れていたようだ。



「ごめん」



香澄は、ぼそりと呟き、司の前に自分も(ひざまず)いた。そして、司と目線を合わせるように向き合う。




司の身体は、極度に緊張した時のように体温が上がり、まだふわふわとしている。思考回路も一時停止しているかのようだ。少しずつ頭が回り始めるが、“あのまま香澄が転倒していたら”と想像し身震いする。険しい顔をしたまま、目の前の香澄を見ていた。二人は、しばらく時間が止まったように動けなかった。




……危なかったぜ……




「ギリギリセーフ。焦ったぜ…………」




………間一髪だな………




少しずつ深い呼吸が出来るようになった司は、肩の力を抜き、ホッと胸をなで下ろした。




…………心臓に悪いぜ………




……コイツの運動神経は皆無か?……




司は、膝立ちの姿勢から腰を下ろし、両手を背後についた。



「ありがとう…」



香澄は、ぼそりと呟き、司に釣られて腰を落とした。緊張の糸が切れたのだろう。司は、だらりと四肢を投げだし、目を伏せている。



「ねぇ……誰かいるよ」




………さっきから……ずっと………いったい誰?………




香澄は、司の向こう側に人影を見ていた。先ほどから気になっていたのだ。司は、香澄の視線を追いながら振り返り、その人影を確認する。




……………ふっ……………




そして司は、ふっと笑うと立ち上がった。



「香澄、立てるか?」



司は、そう言いながら香澄の脇に腕をかけ、立ち上がらせる。先ほどの質問に対する返事を聞いていない香澄は、不安そうに問いかける。



「ねぇ……誰?」



人影は、歩みを止めることなく真っ直ぐこちらに向かって来る。眉を寄せながら見上げる香澄に、司は優しく微笑んだ。 “心配ない”そう言っているかのように。首を傾げる香澄から視線を逸らし、司は大声を上げた。





「海堂!テメーいつからいるんだ?」




…………海堂さん?!…………




香澄は、司の大声を聴きながら、目を凝らした。ぼやけた人影を凝視していると、顔のつくりがだんだん大きくはっきり見えてくる。香澄は、無言で近づいてくる海堂をじっと見ていた。



小学生のように香澄をからかう司、ムキになって怒る香澄。雪の降る中、海堂は、呆れ顔で二人をじっと見ていた。海堂は、あの後、雪の中渋滞に巻き込まれながらデータを届けに行った。会社に戻り、机の引き出しを開けると、司に渡したはずのディスクと、まさかの御対面。違うディスクを渡してしまった事に気付いた海堂は、慌てて司のマンションに向かったのだ。海堂にしては、珍しいミスだ。見た目はよく似ているが、データは一昨年のもの。“寝不足で頭が回らなくなるとは、歳のせいか”と思いながら車を走らせていると、“二人がマンションから出た”と連絡があり、海堂は雪の中にもかかわらず、急いで駆けつけた。駆け付けたらこの光景。海堂には、理解しかねる二人の行動だ。



「そろそろ戻りませんか」



二人と向き合う海堂は、“(だい)の大人が何をしているのか”と、言わんばかりの顔をしながら言葉を放った。徹夜明けで、流石(さすが)に疲労が溜まっているようだ。



(まつ)毛にも積もって、白髪の爺さんみてーだな、クックッ………テメーも手伝え!雪だるま」



司は、海堂の様子を気にすることなく、笑いながら言い放つ。雪を振り払うことなく歩いたせいだろう。海堂の頭や肩には薄っすらと雪が積もり、睫毛にも雪が付いている。司の口から出てきた言葉に、海堂は一瞬目を見開きそうになる。



「雪だるま?ですか?」



「そうだ!雪集めて来い!」



海堂は、ちらりと香澄の様子をうかがったが、酔いのせいもあるのか、香澄も司を止める様子はないようだ。テンションの高い二人は満面の笑みを浮かべている。海堂は、童心に返ったような二人を珍しそうに見ていたが、結局、巻き沿いを食らい、雪だるまを作る羽目になる。途中、司は相変わらず雪を香澄に投げつけては、からかっていたが。






「ふっははははは」



「お前、不意打ちとか反則だろ?!」



香澄の投げた雪が、司の腹に当たったようだ。



「……キャッ……ふっはははははっ……」



司は、すかさず香澄に近付き、至近距離で雪を投げつけた。とその時――――



「危ない」



静まり返った公園に、海堂の叫び声が響き渡った。同時に“パサッ”と言う音と共に、上から何かが落ちてくる。香澄が手をかけた木が揺れ、上に積もった雪が落ちたのだ。



「……っ……クソッ…………雪が目に入ったぜ」



落ちてきた雪の下にいたのは司だったようだ。目を瞑ったまま、顔をしかめ、雪を落とそうと、頭をぶるぶると振るっている。



「……はははっ……つかさ、真っ白だよ…頭…………キャーッ……はははっ……」



「…………」



司は、ばつが悪そうに顔をしかめる。そして、頭を香澄の方に垂らし、雪を香澄に向けて振り払う。



「……ふっはははははっ…つかさ!…耳…ここ!ほら…ははははっ……」



「あ”ぁぁ――――!!つめてー!」



耳にかかった雪を払いのけながら司が叫ぶ姿を、香澄は腹に手を当て、笑いながら見ている。そんな中、海堂は呆れ顔で、せっせと雪だるまを大きくしていた。香澄の力は弱く、木に積もった雪が落ちてきたと言っても、大した量ではなかったのだ。海堂は、ボール状に固めた雪を見ながら溜め息を吐く。“早く帰って眠らせてくれ”それが本音だろうか。






「大丈夫?!」



お腹を抱えて笑っていた香澄だが、動きの止まった司が気になり、司の顔を覗き込んだ。




…………笑い過ぎたかな…………



「お前、わざとか?」



司は、ふてぶてしく口をとがらせ言い放つ。



「違うよ」




……わざとじゃないし……



香澄は、頬を膨らませながら否定する。司は、香澄のムキなる姿を見ながら、心の中で“ふっと”と笑った。



「なぁ香澄…ちょっと耳の雪、とってくれ…」



司は甘えたような声を出し、香澄の腕を引き寄せる。腰から身体を屈め、香澄の胸の位置に頭を突き出し、じっと待っている。香澄は、言われた通りに司の耳に触れた。耳の上で既に溶けてしまった雪を丁寧に取り除いているようだ。



「とれたよ」



その声を聞いた司はニヤリと笑い、顔を上げないまま木の幹に近付いた。




…………え……まさか…………





香澄が司の動きに気付いた頃には、時、既に遅し。付近で“ガンッ”と大きな音がしたと思えば、“トサッ”という音が間近で聴こえた。



「……ヒャーッ……」



司が幹を軽く蹴った拍子に、枝葉に積もっていた雪は、香澄の頭に降り落ちる。香澄は、驚きと軽い衝撃と冷たさに悲鳴を上げる。目を瞑ったまま、慌てて雪を払おうとしている香澄は、手や頭を忙しく動かし、まるで踊っているかのように見える。



「……ックククッ…………白髪の婆さんみてーだぞ……クククッ……」



司は、そんな香澄を見ながら胸を躍らせた。




…………なんだかワクワクしてきたぜ?…………




「もぅ!口の中に入っちゃったし……」



目を瞑ったまま、ムスッと頬を膨らませる香澄。



「……クククッハハハッ……道連れだ……クククッ……」



香澄の顔を見ながら眉尻を下げ、腹を抱えて笑う司。




…………こんなに腹抱えて笑ったのは久しぶりだな…………




…………ガキの頃に戻ったみてーだぜ…………




「……ぅ……つめた~い……」



香澄は、眉をひそめながら、髪や肩に付いた雪を払いのけている。司は、思い切り笑って満足したのか、大きく深呼吸した。そして、まだ“冷たい”“ヒドイ”とぶつぶつ言いながら雪を払おうとしている香澄に手を伸ばそうとしたが、溶けた雪で香澄の顔が濡れている事に気付く。



「……ふっ……風邪ひかねーうちに帰るか?」




…………耳が凍りそうだしな…………




「うん」




香澄は、司の“帰るか”に、“待ってました”とばかりの笑みを浮かべる。香澄は、運動が苦手だ。司がいなければ、外で雪遊びをする事もなかっただろう。だが、身体に疲れを感じながらも、どこかすっきりした気分を味わっていた。雪をぶつけられ、悪戯を仕掛けてくる司に文句を言いながらも、香澄は子供のようにはしゃぎ回った。あまり羽目を外した事がない香澄は、そんな自分に驚いたとも言えるだろう。走り回って遊ぶ楽しさを、この歳になって初めて味わったのかもしれない。歳も忘れて一緒になってはしゃぐ司が、子供のように見え、それが愛おしくもあった。





香澄の即答に、司は、“運動神経だけでなく体力もないのか”と自分の知らない香澄の一面に触れ、“ふっ”と笑みをこぼした。




…………寒いし、疲れたか?……ふっ…………




司は、香澄の背中や髪についた雪を払い落としてやり、雪で濡れた香澄の顔を見つめる。二人は、濡れた顔を見合わせながら、ふっと笑い合う。そして、しばらく二人の世界に浸っていた。司の耳に“ザフッ…キュ…ザフッ…キュ…”と言う規則的な音が届くまでは。



“ザフッ…キュ…ザフッ…キュ…”と近づく足音を耳にした司は、先ほどから感じていた異様な気配を無視出来なくなり、しぶしぶ振り返る。




…………コイツがいたんだよな…………




………忘れるところだったぜ………




「テメーも帰るか?」



明るく言い放つ司に、海堂は溜め息を一つ落とした。



「出来ましたよ。ずいぶん大きくなりましたが」



海堂は、身長三十センチ、いや、五十センチくらいの雪だるまを抱えていた。木の葉を二枚、頭に突き刺し、どこから持って来たのか丸い小石を目に見立てていた。




…………かわいい……ウサギみたい?…………




香澄は、その雪だるまと目を合わせながら頬を緩めていたが、司はぶっきらぼうに言葉だけを投げつけた。



「なんだ?その化けもんの耳みてーなのは…テメーら親子か?」




…………似すぎだろ?…………




すっかり真っ白になった海堂の頭にも葉っぱが乗っている。香澄は、俯きながら笑いを堪えていた。確かに“似ている”のだ。





「お帰りなら、私もそこまで」



相変わらず無表情な海堂は、瞼をピクピク引きつらせながら雪だるまを司に引き渡す。



「あぁ、テメーも風邪ひかねーようにな!……ふっ……」



司は雪だるまを引き取り、その顔に海堂の顔を重ねる。海堂を先頭に、三人は歩き出した。マンションの入り口に着くと、司は大事そうに雪だるまを置き、何度も海堂と雪だるまを見比べた。




…………似てるよな…………頭がでけーし……




…………ふっ……作ったヤツに似るって本当かもな…………




……?……“犬が飼い主に似る”だったか?…………




「では、風邪をひかれないように」



海堂は、そう言うなり二人に背を向けた。雪だるまを見て首を傾げている司には、見向きもせず。司の隣に立っていた香澄は、そそくさと背を向け歩き出した海堂の背中に向かい、大声を上げた。



「海堂さん!ありがとう!」



まだテンションは下がっていないようだ。香澄の声にも振り返ることなく、雪の固まりと化しているであろう車に向かう海堂の背中は、何を言っていただろうか。胸ポケットにディスクを入れたまま、海堂は車へと急ぐ。その背中に、独特のオーラがにじみ出ていた。





「香澄、さびーし、さっさと帰って、風呂だな」



「うん。楽しかったぁ!子供の頃ね、放課後、みんな雪合戦してたのに、私は帰らなきゃいけなくて……雪合戦初めてかも……ふふっ……」



まだ高揚しているのか、香澄は珍しくペラペラと喋り出す。



「雪だるまも初めてなんだろ?……ま、海堂が作ったんだがな……」



司は、香澄の“初めて”発言に目尻が下がりっぱなしだ。二人は、寄り添いながらエントランス内を歩く。



「うん……初めてだよ」




…………初めてって…………なんかいいよな…………




…………俺が…………




……コイツの“初めて”……っつーのが、……たまんねぇぜ?……




司の頭上には、ピンク色の蝶が飛び回っているようだ。ニヤける顔を必死に隠しているようだが、監視カメラにはバッチリ映っているだろう。



「他に、やったことねーとか、行ったことねーとかあんのか?」



“チン”と鳴り響く音と共にエレベーターが到着し、二人はその箱の中に入る。司がボタンを押し、振り返ると、香澄はニコニコ笑っている。



「……ふふっ……多分、司に会ってから、初めての連続だよ?……」



「キスもか?」



司の言葉に、香澄は一瞬固まった。




…………っ…………




…………“初めて”って言った方がいいのかな?…………




…………でも……嘘つきになっちゃうよ?……



「………………」



黙ったまま、瞳を左右に揺らす香澄を見た司は、答えを悟った。胸に一つ痛みを覚え、一歩踏み出す。そして、香澄の腰に片腕を回し“ギュッ”ときつく抱き寄せる。




…………?!…………




香澄は突然の抱擁に、ビクリと身体を震わせた。腰を引き寄せられ、うなじに回った手で頭を固定され、吸いつくようなキスが降り続く――――



香澄の身体から力が抜けた――――




唇が持って行かれるようなキスを止めたのは、“チン”と言う間の抜けた音。エレベーターが止まり、ドアが開くと同時に、



「ふっ……さあて、風呂だ風呂!」



司はあっさり香澄を離し、ダンスのステップでも踏んでいるようにリズミカルな足取りで部屋に向かって歩き出す。




…………初めてなわけないよな…………




…………あのノートのヤローだろ?…………




…………今日は…………




…………ムリって言っても……やめてやんねーぜ?…………




軽快な足取りとは裏腹に、司の脳裏にはどす黒い何かが渦を巻いていた。



「つかさ、待って!」



しばらくぼーっとしていた香澄は、既に到着したエレベーターの中に立ち尽くしていた。キスの余韻にひたっていたようだ。閉じかかったドアに気付いた香澄は、慌てて“開く”のボタンを押し、廊下に飛び出した。大声を上げ、司の背中を探す。司は、香澄の声で立ち止まり、一人で歩いてきたことに気付いたようだ。



「かすみちゃん?今日は楽しい夜になりそうだな」




…………え…………




司は、上半身だけ捻って振り返り、妖しい笑みを浮かべている。一瞬香澄の心臓が跳ねた。



「ん?」



“何の話?”と言うように、とぼけた顔をした香澄を見て、司は目を細めた。



「…………クククッ……朝までキスするか……」



「は?」



香澄は目を丸くしながら、大声で聞き返す。




…………朝までキス?!…………




司は、そんな香澄の肩を抱き、笑いながらドア前に誘導する。香澄は、何を想像しているのか、瞳を左右にうろうろさせながら落ち着かない様子だ。頬が染まっているのは、寒さのせいだけではないだろう。



「…………クククッ……」



司は、部屋の鍵を開けながら、香澄の顔を窺う。クラブで初めて席に着かせた時のように戸惑う香澄を目にし、司の胸は躍り出す。




…………一時間くらいはやってみるか?……ふっ…………




…………タラコになっちまったら……怒りそうだな……ふっ…………




深夜には雪は止み、翌朝、地面の雪もほとんど溶けてなくなり、一面の白い世界は一日だけの魔法のようだった。香澄にとって、初めての雪遊びは、空からのプレゼントだったのかもしれない。




…………海堂のヤツ……一昨年のデータが入ったディスク渡しやがって…………




…………仕事できねーし…………




…………俺たちに、プレゼントか?…………




あの後、海堂が会社に戻り、独り栄養ドリンクを飲みながら仕事をする羽目になった事は、言うまでもない。




一時間のキスの行方は、いずれまた……






雪の魔法








お越し下さり、読んで下さり、ありがとうございます。心より御礼申し上げます。更新が遅くなり、本当にすみません。


“雪の魔法”ようやく完結致しました。ここまでお付き合い下さり、本当にありがとうございます。感謝の気持ちでいっぱいです。

気になる部分をたくさん残しておりますが、今後のお話で関わって参ります。今後もお付き合い戴けると幸いです。



今日はお知らせが御座います。


まず、活動拠点となるホームページ公開のお知らせです。前々から手作りで作業しておりまして、時間がかかり、なかなかお知らせ出来なかった次第です。愛祈蝶の庭ですので、よろしければお立ち寄り下さいませ。


“Second Moon Ⅱ”の公開について


ホームページにて先行公開し、少しずつでも更新していければと思っております。

いずれこちらにも投稿する予定です。

今後も宜しくお願い申し上げます。



“Second Moon”を読んで下さった方、お気に入り登録をして下さった方、評価を下さった方、メッセージを下さった方、本当にありがとうございます。改めて感謝申し上げます。


今後もお付き合い下さいますよう、お願い申し上げます。



朝晩は少し秋の訪れを感じられる季節になりましたね。

天候が荒れております。

無理をなさらぬよう、お身体を労って下さいね。


貴方様が健やかに過ごせますように……



9月17日



愛祈蝶

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