お日様と風に乗って:後編
空がほんのり明るくなってきて、わたしはゴソゴソとダンボールから這い出した。
お家でもダンボール大好きだから知っていたけど、囲まれているとあたたかくて楽しい。今いるところには潰したものが山積みになっていて、その隙間に入っていたから風も入ってこなかったし。思いのほか快適でたっぷり寝ちゃった。
おなかすいたなあ。周りをクンクンするとゴミ置き場があったけれど。お兄さんに拾い食いはダメって言われてるしなあ。食べたいけれど、ゴミ袋を破いて漁るまではする気にならなかった。
それよりも、お兄さん。お兄さんに会いたい。
お兄さん、せっかく最近夜にゆっくり寝て元気になってきたのに。わたしがいなかったら、またご飯も食べずにへろへろになっちゃうかもしれない。ちゃんとわたしが見張っていないといけないのに、由々しき事態だ。
朝になると人が道にどんどん出てくる。お仕事だったりお出かけだったり、みんな忙しそうだなあ。誰か駅に向かう人はいないかなあときょろきょろしてから、わたしを追い抜いていったサラリーマン風のおじさんの後ろを歩いていく。
着いた先は、バス停。
あら、電車じゃなかった。うーん、そういう場合もあるのか。うっかり。
列に並んだおじさんに驚いた顔をされたけど、わたしは先頭の人の足元にお座りして時刻表を見上げる。路線図みたいなものもあって、どうやら終点の駅はこのままの方向らしい。5個先かあ。わりと近いのでは! とりあえず行ってみよう。
おじさんありがとうございます! 舌を出してわふわふ言ってから、わたしは晴れてきた空の下を駆け出した。
バス停を辿っていくと無事に駅に着いたので、うれしくなって足取りがまた軽くなる。なんとなく方向はこっちかな? てなんの確信もないけど、へんな感覚があって匂いと目で見た情報を合わせているつもりだ。たぶん。
ここまで来ると人はとても多くなっていて、いっぱいある足を避けながら改札前の路線図を見上げた。どうやら、公園のあった駅の隣らしい。お兄さんのお家の駅まで、乗り換えが1回必要だからこのまま電車に乗りたいなあ。ダメかなあ。
電車に乗れたとしても、犬が乗ってる! て騒ぎになって電車が停められちゃったりするんだろうか。
そして電車が遅れちゃうとお兄さんがものすごいお金を払わなくちゃいけなくなるのかな。それは嫌だな。駅員さんに見つからない……のは無理そうねえ。今すでに目が合ってる。
一歩踏み出すと駅員さんもこちらへ近づいてきて、わたしが二歩目を踏み出すより早くわたしの前に屈んでしまった。おっと、これはよくない。
手がこちらへの伸びそうな気配がして、パッとわたしは身をかわした。駅から出て歩くことにする。
線路の横の道を辿れば、きっと大丈夫だ。
方向さえわかっていればなんとかなると思ってまた歩き出すわたしは、ふんわりいい匂いがしてきたのに顔を上げた。
すぐそばに開店準備をしている花屋があった。お花の匂いだ! 駅の近くに花屋さんってよくあるもんねえ、と入口にあるきれいな花の束をクンクンする。
花びらから葉っぱ、バケツ、と鼻が下りていって濡れている地面にたどり着くと、水の跡を辿ってお店の裏手に。ここにもダンボールがある~!
うれしくなってダンボールに駆け寄ると、一輪、落ちている花に気付いた。クンクン。花びらがしっかり開いて咲いているそれは、お店の前と比べると少ししか匂いがしなかったけれど、それでもまだきれいに見えた。ダンボールから出したときに落ちちゃったのかな。もったいないなあ。
クンクンしてから、わたしはハムッと口に咥えた。落ちているなら、もらってもいいよね。ここにあるってことは捨てるつもりだろうし。怒られるまえにわたしはそそくさと花屋をあとにする。
心配してくれてるお兄さんに、これをプレゼントして元気になってもらおう。さすが! わたし、頭いい。
***
電話が鳴ったのは、一夜明けてから昼を迎える時刻。
公園をぐるりと見て回った崇仁は、やはり茶色いコッペパンの姿がなくてため息をついたが、頭を振ってから家々の間へと目的地を変えたところだ。
ぶるぶる震える端末を出すと、凌の名前が出ている。
『崇仁、今どこにいる!?』
切羽詰まった声に目を見開く。なにかあったのだろうか。
心臓がドクリと鳴って血の気が引くのを感じた。意識して口を動かす。
「公園の周りの住――」
『すぐに家に戻れ』
「は?」
見つけたが怪我をしてそのまま……なんて報せだろうか、と身構えた崇仁は相手の勢いに目が丸くなった。
凌は気にせずに先を続ける。
『SNSでコーギーが一人旅してるって話題になってる』
「は??」
『これムギちゃんだろ』
話しながら凌からメッセージがポコポコ届いてスマホが賑やかに音を立てるので、崇仁は慌てて耳から液晶を離した。
URLをクリックすると、公園にいなかった茶色いコッペパンがそこにいた。
【線路沿いを、お花持って歩いてる犬がいる…】
写真の犬は、線路沿いの道を花を咥えたまま歩いている。
コーギーで、まだ成犬になりきれていない大きさ、遠目にオレンジっぽい首輪。
【迷子?そのわりに自信満々な感じなんだけど】
【花とかメルヘン~】
別の投稿で、どこかの駅の一角を映した写真もある。
こちらのほうが撮影時間は早そうだ。
【改札の前に犬がお座りしてた】
【駅員さんが犬に話しかけてる和やかな朝】
【改札通ろうとして駅員に捕獲さてそうになってる犬いた】
【捕まえようとしたのを華麗にかわしてましたよ】
【駅出てお尻フリフリして行っちゃった。家から脱走したのかな】
そこからまた、時間が経ってからの投稿もいくつか連なる。
【花くわえて電車見上げてるコーギーいるんだけど】
【コーギー私も見た。まだ子犬?】
【昨日コーギー探してるアカウントあったけど、これ違うのかな】
【さすがに迷子な子が花持ってないか~】
【お使いかなにかかな?】
【でも花は一輪…謎…】
あふれてくる、思いがけない姿の数々。
崇仁は驚きで動けなかった。
これは、どう見てもコムギである。線路沿いを歩いている? 花を咥えて?? なんで??
電話の向こうで凌がおかしそうに笑った。
『崇仁、ムギちゃん帰ろうとしてるぞ』
想像とかけ離れた元気な姿は、心なしか楽しそうにも見える。
怪我で動けないのではないか、車は大丈夫だろうか、夜の寒さに震えているのでは。こちらはそんなことばかり考えていたというのに。
どっと肩から力が抜けた。
「迎えに行ってくる」
はっきりと返した言葉に受話器の向こうから明るく見送られ、崇仁は急いで駅へと走る。
まったく、本当にあの小さな生き物は、崇仁のいろんなものをひっくり返していく。さっきまでの悲壮な空気なんてなかったみたいに、足取りが軽くなる自分が現金で思わず笑みがこぼれた。
***
お家の近くの駅まで、もう少し。
なんならもう駅は見えていてわたしの足取りはるんるん弾んでいた。また迷ったら大変だからひとまず駅まで行って、そこからお家までの道のりを辿ることにする予定だ。
お花もちゃんと持っているし、これなら持って帰れそうだなあ。やった~。お兄さんよろこんでくれるといいな~。
お日様がポカポカして、とっても気持ちよく歩けているから更にご機嫌である。
駅の手前の横断歩道から、お兄さんのお家の道に向きを変えたとき。ふわりと鼻をくすぐったのは、大好きな大好きな匂い。
「コムギ!」
あ、お兄さんだ! お兄さんお兄さん! コムギです!
わん! と鳴いて急いで向きを変え、そのまままっすぐ一直線。
後押しするみたいにびゅうと風が吹いた。
地面を蹴って飛び込むと、いい匂いのお兄さんにしっかり抱き留められて、わたしは尻尾が取れちゃうかもしれないくらいうれしくなった。
鼻をぎゅうぎゅう押し付けても、お兄さんは払うこともせずにされるがまま。
ぐずっと湿った音が鳴る。
あれ、もしかしてお兄さん泣いてます?? 大丈夫?? ペロペロしてあげるね。
「……泣いていない」
本当に? わたしはさみしかったですよ? かすれた声に首を傾げる。
お兄さんはわたしのもふもふな首元に顔を埋めてため息をついた。
お日様をたくさん浴びてここまで来たから、もしかしたらわたしもお布団みたいにいい匂いかもしれない。
「おかえり、コムギ」
わん!
ぎゅってしてくれたお兄さんに、わたしは元気にお返事。
そこで久しぶりに口が自由なことにハッとして、ずっと咥えていたお花をどこかに落としたことにようやく気付いた。さっきまで持っていたのにー!
わふわふ言っているわたしを撫でたお兄さんは丁寧な手つきでリュックにわたしを入れると、足元をきょろきょろしてから少し離れたところに落ちていたお花を拾ってくれた。
あ、そこにあったのかあ。お兄さんわかってる~。
きゅうきゅうお礼を言うと、歩き出したお兄さんがちょっと笑った気がした。
お兄さんは家まで戻るとすぐにリュックからわたしを出して、なにやら慎重に体をペタペタ触ったりタオルで拭いたりするので、よくわからないけど気が済むまでやらせておいた。
しばらくして満足したらしくお兄さんはわたしの頭をポンポンする。そして、しおしおになっているお花をじっと見つめてからコップにさして飾ってくれた。
お花、よろこんでくれたかな~。ちょっと元気になったかな。お兄さんとお花はなんだか似合わないけど、たまには癒しも必要ですからね。
足元をうろちょろしているわたしに、お兄さんは手際良く準備したお水とご飯をくれた。ガツガツ食べている間に、わたしが帰ってきたことをいろんなところにお知らせしていて、ずいぶんと話が大きくなってしまっていたことを今更ながらに知ったのである。
「ムギちゃん、おかえり!」
夕方、お友達さんが駆けつけてくれた。
ご飯を食べて満腹なわたしは大歓迎の舞でお迎えする。とってもよろこんでくれた。
そして、俺との約束そんなに真面目に守らないでねと真剣な顔で耳打ちもされた。
むむむ、どうやらしんどくさせすぎたみたいです。ちらりとお兄さんを見上げると、やっぱりどことなくくったりしている。昨日の夕方、お散歩行けなかったから体力落ちちゃったのかなあ。やっぱりわたしがいないとダメですね。
「いや~、どこまで行っちゃったかと思ったけどよかったなあ。動物が帰ってこれるってマジなんだな」
「それだとペットの迷子などいなくなるが」
「……お前ね、こういうときは素直に頷いとけよ」
お友達さんが嫌そうにお兄さんを睨んだ。
でもすぐに肩を竦めてみせる。わたしの耳をこしょこしょしながら苦笑を浮かべた。
「まあ、たしかにムギちゃんの場合は帰巣本能って感じじゃなくて、なんかちょっとズレてるもんなあ。花持ってたから俺らも場所わかったしな」
お花? 癒し以外になにか役だったのかな。
お友達さんの手をペロペロしているわたしを、もみもみしながらお兄さんが頷いた。
「行き違いにならなくてよかった。コムギが帰れたとしても、途中での事故や拐かしもある」
「こんなふうに、ムギちゃんでもなんかの拍子に逃げちゃうことがあるってことだな」
えー。でも、今回のはわたしじゃなくてあの変な犬が悪いんだよ、へんな人もいたしさあ、とわふわふ言うとたくさん揉みくちゃにされた。わーい。きゅうん、くんくん。
そんなわたしに、お兄さんもお友達さんもため息をついた。
「まあいいか。ムギちゃんが無事なら」
えらいぞえらいぞ、て褒められるのは気持ちのいいことだけど。お家に帰ってきただけだから二人とも大袈裟だなあと、わたしはふすんと鼻を鳴らす。
わたし、ちゃんとお家を知っていますよ。
まだ子犬かもしれないけど、お兄さんたちが思っているより大人でしっかりしているのだと伝わったらいいのに。
二人の前に座り直してじっと見上げる。
お兄さん、お友達さん。心配しなくて大丈夫です。だって、他でもないお兄さんが、わたしを拾ったんですもの。わたしの居場所は決まっていますよ。
「コムギ」
わふわふ、きゅうん。尻尾を振るわたしを、微笑んだお兄さんが呼ぶ。
大好きな匂いと、大好きな声。
今まででいっとう優しい手つきで、くしゃりと頭を撫でてくれた。