予期せぬ因縁
お昼前の部活帰り、卓人は初音と歩幅を合わせて歩いていた。
「その髪型、似合ってるよ」
不意の一言に、初音の心が跳ねた。
今朝の練習で、先輩たちのプレーに触発されたテンション高めの余韻が残っていたこともある。
そこへ新田から「もっと距離を縮めたいし、名前で呼び合おうよ」とストレートに呼びかけられた記憶が、鮮烈に脳裏をよぎった。
「ありがと……。ねえ、よかったら日下部くんのこと『卓人くん』って呼んでもいい? もちろん、私のことも初音って呼んでくれていいから!」
嬉しい重奏にすっかり舞い上がってしまった初音は、勢いそのままに新田の言葉をなぞるように口にしていた。
「呼び捨てはちょっとハードル高いから……初音さん、でいい?」
「もちろん! じゃあ、私は卓人くんって呼ぶね」
弾む心拍数を悟られないよう努めて穏やかに微笑むと、想像していたよりもずっと容易く二人の距離が縮まったことに、初音は胸の奥でそっと安堵の息を漏らした。
「初音さんって、凄い人だったんだね」
「えっ?……急にどうしたの?」
「いや、バドミントンのことだよ。先輩たちを相手にあれだけ渡り合えるなんて、本当に凄いなと思って」
おどけることもあるが、少なくともお世辞を言うようなタイプではない。そんな卓人から真顔で「別の世界の人かと思った」なんて言われると、初音はむず痒くて仕方がない。
「さっきの模擬戦は、負けちゃったけどね。それに私、小学校の頃からやってるから、これくらいできて当然だよ」
「そうなの? 先輩たちは一様に驚いていたみたいだけど。もしかして中学時代は、誰もが知る有名な選手だったりした?」
純粋な疑問を向けてくる卓人の問いに、初音は少し肩をすくめ、小さく苦笑いを浮かべた。
「それがね、恥ずかしいくらい無名だったの。しかも……二年の途中からは、ほとんど幽霊部員だったし」
「幽霊部員……!?」
父親の救急処置の時すら冷静だった卓人が、驚いて足を止める。
その姿を見つめるうちに、初音の心を包んでいた淡い気持ちはどんよりとした苦い色へと静かに塗り替えられていった。
「私が中一の一学期までは、活気があってすごく盛んな部活だったんだけどね。でも、三年生が引退して代替わりしてから、徐々に部活全体の空気が緩んでいっちゃったの。そこに追い打ちをかけるみたいに、一年の終わりに顧問の先生が転任しちゃって……」
「新しい顧問が、来たんでしょ?」
「うん、それがバドミントンをやったことがない、そもそも部活に関心がない先生だったんだ。それをいいことに、新キャプテンになった貴美子があからさまに手を抜き始めたの」
「えっ!?ちょっと待って。貴美子って、伊澄貴美子のこと?」
「そう、彼女とは同じ中学だったんだ。中二の一学期まではすごく仲が良かったんだけどね。……今はもう、目も合わせないかな」
伊澄貴美子は初音たちと同じ高校の、しかもまさに同じ部活で汗を流している。初音とそんな浅からぬ因縁があるとは露知らず、ついさっきまで一緒に練習していた同級生の名前に、卓人は思わず声を漏らしていた。
初音は視線を落とし、苦い過去の記憶をひとつずつ手繰り寄せるように明かしていく。
貴美子が手を抜いたせいで、部活の機能が失われていったこと。部活を回そうとして、初音が彼女の穴を埋めて補っていたこと。初音の沈黙を利用し、「自分がすべてやっています」と言わんばかりに顧問に要領よく立ち回っていたこと――。
一通り聞き終えた卓人は、淡々とした、けれど確信に満ちた声で言った。
「その顧問は、伊澄さんの小細工を『見抜けない』んじゃなくて、あえて『見ない振り』をしていたんだね。……そして、自分が楽をするために最後まで何も言わなかった」
卓人が核心を突くと、初音は小さく肯いた。
「うん。それどころか二学期に入った途端、活動日自体が週二回にまで減らされてしまって……。それまでは、毎日あったんだよ!」
初音は当時のやり場のない怒りを思い出すように拳を握りしめ、一気に言葉を吐き出した。
「想像以上に根が深い話だな……」
神妙な面持ちで聞いていた卓人が、ため息交じりに呟く。
初音がどれほどの理不尽を一人で背負い込んできたのか、その痛みが今の言葉から痛いほど伝わってきた。
「それで、部活全体の空気が緩むっていうのは、具体的にどんな感じだったの?」
そんな卓人に、初音は淡々と、しかし確かな口調で答え始めた。
「私が一番嫌だったのは、練習中のおしゃべり。へらへら喋りながら、だらだらとメニューをこなすの。当然、先輩と後輩の緊張感や規律も崩れて、下級生たちが妙に馴れ馴れしくなってきて……」
小学生時代に実力主義の厳しいクラブに身を置いていた初音にとって、その生ぬるい環境は、違和感以外の何物でもなかったという。
「初音さんと同じように、現状を問題視していた部員は他にいなかったの?」
「いたよ。でも、真面目に取り組んでいた子ほど、早々に見切りをつけて去って行っちゃった。週二日しか活動できないんだから、やる気をなくすのも無理はないよね」
練習中に大きな怪我をする部員が出たのをきっかけに、無断欠席や退部者が相次ぎ、部活動は完全にコントロールを失っていったらしい。
この異常事態に、すでに引退していた三年生の先輩たちまでもが危機感を募らせ、顧問へ直談判に及んだという。
だが、これまで放任していた顧問に、いまさら部員を引き留める術などあるはずもなかった。退部者の連鎖は、まるでドミノが倒れるように止まらなくなっていったようだった。
「結局、その顧問はただの『お飾り』だったんだね」
卓人が呆れたように息を漏らすと、初音も力なく笑って、どこか諦めたように肯いた。
「うん。さっき卓人くんが言った通り、顧問は部活を熱心にやられるより、貴美子に丸投げして合わせた方が都合が良かったんだと思う」
「それで、初音さんはどうしたの?」
「私、そんな状態に耐えられなくなって、貴美子と顧問に『週二日の練習を元に戻してほしい』って直接訴えたんだ。でも……関係がこじれただけで、結局、何も変えられなかった」
――狂い始めた歯車、キャプテンの狡猾な怠惰、すべてを見て見ぬ振りする顧問、届かなかった訴え。
壊れゆく部活を繋ぎ止めようと声を上げるも、初音に待っていたのは残酷な孤立だった。
波風を嫌う周囲との溝は修復不可能なほどに深まり、勇気の代償としてはあまりにも理不尽で、救いのない幕切れだった。
初音はせめてもの抗議の意を表すため、退部届を出さずに籍だけ残す道を選んだ。
それが、彼女が「幽霊部員」となった真相だった。
結局、四人にまで人数を減らしたバドミントン部は、団体戦への出場どころか、個人戦のエントリーすら見送る始末。
残った貴美子たち自身もまた、やがて事実上の幽霊部員へと甘んじていくことになったようだった。
「指導力を放棄したキャプテンに、楽な環境に流される部員。おまけに事なかれ主義の顧問か。緩い世界に浸りきった末路が、廃部寸前の荒廃した部活だったわけだ」
卓人が、これまでの経緯を反芻するように、苦々しく重い息を吐き出した。
ふと視線を向けると、初音の顔は見たこともないほど強張っている。
過去の不条理に対する、隠しきれない悲痛な想いが滲んでいた。
「……ごめん。こんな暗い話、するつもりじゃなかったのに……」
負の連鎖の顛末に、険しい表情を浮かべる卓人を見て、初音はハッとしたように視線を落とした。
卓人に嫌われてしまったかもしれない――。そんな取り返しのつかない不安が、彼女の細い声を小刻みに震わせた。
もうとっくに駅に到着していることすら、全く意識にないようだった。
「過去のことだとしても、伊澄貴美子は今も同じ部活にいるんだから、むしろこの話を聞けて本当に良かったよ。話しづらいことを打ち明けてくれて、ありがとう」
卓人のまっすぐな言葉に背中を押され、初音は内に秘めていたやるせない思いと、同時に抱える高校生活への不安を、堰を切ったように溢れ出させた。
「私ね、心機一転してやり直したかったの。だから、中学の知り合いが誰も来ないような遠い高校を選んだんだ……。部活に行かなくなって時間を持て余していたから、必死に勉強してこの学校に入ったのに。……よりによって、なぜ貴美子がいるんだろ。それに……ここは私にとって少し背伸びして入った学校だから、これから勉強についていけるかも、すごく不安で……」
駅の喧騒のなか、ただ立ったまま、初音は震える声で言葉を重ねた。




