5-2
午後、エミルがエメの部屋に来た。その手には分厚い本が三冊ある。思っていたより勉強は大変なのかもしれない。
どうぞ、と促されて机についた。
「なんにしても、まずは読み書きですね。新しい魔法を覚えるにしても、文字が読めないのでは覚えられません」
分厚い本を前に思わず固くなるエメに、エミルは彼の肩に手を置いて優しく言った。
「読み書きができないのは、珍しいことではありません」
エメは首を傾げ、エミルを見上げる。
「街で暮らす者の中には、学校に通う余裕のない者もいますからね。仕事をするだけなら、読み書きができなくてもこなせます。自分の名前を書ける程度という者も多いです」
「でも、この教材じゃ難しくないっスか?」
横から顔を出したニコライが机に置かれた本を見て言うと、エミルは思いきり顔をしかめた。
「口出ししないでいただけますか」
「いや、だって、坊ちゃんは初等教育から始めるんスよね?この教材はどう見ても中等教育っスよ」
「読み書きの勉強に初等も中等もありません」
「あるって! まずは簡単なやつから始めないと!」
「うるさいですよ。貴重な時間をあなたに使っている暇はないんです。邪魔なのであっちに行ってください」
エメの教育の話になると、ふたりは喧嘩をしがちだ。エメはどちらの話を聞けばいいのか、止めたほうがいいのかがわからず、おろおろとすることしかできない。
「だってこれ、どう見たって魔法書じゃないっスか」
「魔法使いとして勉強するんですから、当然では?」
そうしてふたりはしばらく言い争いを続けたが、エミルがニコライを無視することを決め込んだことで終着した。最後までニコライは不満げだったが、口を出しても無駄だと悟ったらしい。いまは窓のそばで本を読んでいる。
「まずは文字を書けるようになりましょう」
エミルの書くお手本を見ながら、ノートに文字を書き起こしていく。見覚えがあるものばかりだが、自分の手で書いたのは記憶している中では今日が初めてだ。
時間をかけてエメが書いた文字を見て、エミルは彼の頭を撫でながら言う。
「とても丁寧で良いですよ。練習すれば綺麗に早く書けるようになると思います。素晴らしいです」
褒められたことが嬉しくてエメが思わず微笑むと、エミルの表情が一瞬だけ固まったような気がした。エミルはすぐ無表情に戻り、それでは、と続きを始めた。
* * *
勉強が終わり、ユリアーネが淹れてくれたお茶を飲んで三人がのんびりしていると、ラースが部屋に入って来た。
「おかえりなさいっス、先輩」
ニコライがのん気な笑みで出迎えると、ラースは厳しい表情でエメのもとへ来る。
「勝手に部屋を抜け出したらしいな」
低い声でラースが言うので、エメは今朝のことを思い出す。ラースが怒るのは当然だ。そばに誰もいなかったからこそ、勝手に部屋を抜け出してはいけなかったのだ。その結果としてユリアーネにも心配をかけさせてしまった。
そうか、とエメは心の中で呟く。自分は貴重な【癒し手】である。きっとそのために王宮で保護されていて、いつかこの力を何かに使われる時がくるのだろう。だから、勝手なことをしたからラースは怒っているのだろう。
エメが立ち上がって頭を下げると、ラースは彼と視線を合わせるように腰を屈めた。
「みなが心配するのは、お前が大事だからだ。最上位スキルを持っていようがいなかろうが、エメというただひとりの人間が、みなにとって大事なもののひとつになったんだ」
厳しさを消し優しく肩に触れながら言うラースに、エメは目を丸くした。ラースは静かに息をつく。
「俺の言っていることがわかるか?」
エメは小さく頷いた。
最上位スキルを持っていようがいなかろうが。つまりエメが【癒し手】でなかったとしても、彼らにとってエメが大事な人になっていたということである。
しかし【癒し手】でなければ彼らと出会うことはなかったのだと、ふとそんなことを思った。
それが顔に出ていたのか、ラースが眉をひそめた。
「何か変なことを考えていないか?」
エメはかぶりを振った。いまは自分の考えをラースに伝える術がない。口が利けたとしても、こんなことを考えていれば怒られたかもしれないが。
「いいか、エメ」ラースは続ける。「もし万が一、お前に何かあったとしたら、ユリアーネが発狂する」
急に話の的にされ、それまで静観していたユリアーネが、ぐっと息を詰まらせてむせる。
「ラ、ラース様……私はそのようなことは……」
「確かにあるっスね」と、ニコライ。「坊ちゃんがいなくなっただけで大慌てだったっスもんね」
「ニコライ様! それは言わないでください!」
「ユリアーネさんはいつも冷静な方だと思っていました」
表情を変えず、しかし意外そうにエミルが言うので、ユリアーネは茹でだこのように顔を真っ赤にした。
「いいか、エメ。もう勝手にいなくなるなよ」
優しく諭すように言うラースに、エメは頷いた。
出会わなかったかどうかなどということは、考えても意味のないことだと思った。こうして出会い、大事だとまで言ってもらえる。その事実だけで充分だ。
* * *
「先輩。坊ちゃん、寝ちゃったっス」
ニコライがそう言うので振り向くと、ニコライの肩に寄り掛かりエメが寝息を立てている。先ほどまで、ニコライが本の読み聞かせをしてやっていたのだ。
「また力尽きたか」
「今日は勉強いっぱいやったっスからね」
流し見していた本を棚にしまい、ラースはエメを抱き上げる。完全に力の抜けきった体は少し重い。
共同図書室を出ると、エメの部屋に向かいながら、ニコライが思い出したようにふと言った。
「俺、思ったんスけど、エメ坊ちゃんって自分が【癒し手】だから保護されてるだけって思ってたんじゃないスかね」
「そうだろうな」
それはラースもなんとなく思っていたことだった。エメは【癒し手】として盗賊団に捕らわれていた。それは最上位スキル保有者として利用されていただけのこと。エメが自分自身の価値を「最上位スキル【癒し手】を持つ者だから」と思っている可能性は高い。そうでないことを少しずつ伝えていけたらいいのだが、とラースは心の中で呟いた。
「でも、坊ちゃんがひとりで部屋を抜け出すのは、城の者を信用してきてるってことっスよね」
「なにのん気なこと言ってんだ」
「だあーってそうじゃないスかあ。もしこれが敵だらけだって思ってたら、部屋から一歩も出ないっスよ」
「良いように考えたら、だな」
「まあまあ。良いように考えましょうよ。は~、それにしても、坊ちゃんの寝顔はやっぱり天使だな~」
エメの顔を覗き込んでニコライがだらしなく笑うので、ラースは溜め息を落とした。この部下がいると、溜め息をつかない日がない。
「まーた溜め息ついて。幸せが逃げるっスよ?」
「お前のせいでついてるんだがな」
「ハハ」
「なにがハハだ」
「でも、いつか坊ちゃんが、ここに来てよかったって思う日がくるといいっスね。そんなこと言われたら俺、たぶん天に昇ってしまうと思うんスよね」
「さっさと昇ってしまえ」




