2章(1) ―― クイラの清水
ガレスは、書架に身を隠して懸命に呼吸を落ち着けていた。
慎重に、吐息の音すら立てぬようゆっくりと、書架の端から顔を覗かせる。
視線の先、書架が立ち並ぶ通路。火を纏った巨大な鼠が、きょろきょろと視線を巡らせている。書架と比べて測る大きさは、まだ成長途上にあるガレスの身長と同程度。白い毛並みの上に紅い火を揺らめかせ、忙しない身動きのたびに火の粉が散っている。
火山に住むという、火鼠の【物語】だ。
「火をまき散らされないようにしないと……」
問題は、火だった。
火は書物の、ひいては図書館の大敵である。
図書館の灯りは全て魔術式のランプだし、火の魔術を許されるのは数名の特別な許可を受けた司書だけ。当然、火元になり得る【物語】は、何より優先して文字に還さねばならない。
素早く仕留められなければ、暴れ回って火が飛び散る。大きいとはいえ鼠だから、逃げ去ってしまう可能性も十分にあり得る。
ガレスは慎重に、武器を選ぶ。表情は恐怖と緊張の色を帯びていたが、書架から覗く視線は火鼠を捕らえて逸れない。
得物を決め、飛び出そうとした瞬間だった。
がたん。
どこか、歩いて数歩という近さで、物音が立った。
更に身を乗り出して見れば、別の書架の陰に、司書が一人転んでいた。尻を付いて、表情を凍り付かせている様子は、【物語】を狩ろうとする姿勢ではない。逃げ出そうとして、足をもつれさせたのだろう。
ガレスが気付いたくらいであるから、当然火鼠も気が付いている。巨大なくせに敏感に耳を動かし、倒れた司書へと突撃していく。
倒れた司書は、ガレスと同じ年頃の少年だ。十日ほど前に二級司書になったばかりの後輩、と、ガレスの記憶に引っかかる。無論、黙って隠れている訳にもいかない。ダイスを握り、隠れていた書架から火鼠を追って飛び出す。
「来るなっ、来るな!」
倒れた若い司書が混乱に陥り切った声を上げる。その悲鳴自体が、火鼠を刺激した。
「ヂッ!」
火鼠が鋭く鳴く。纏っていた火が膨れ上がり、弾けるように司書を襲う。空気が焦げる音。
「ひっ、ああああ!」
悲鳴。
火鼠が放った火は、蛇のように司書に絡みつく。あっという間に司書の制服を燃やして全身を包んだ。火に包まれ、司書が床を転がる。
燃え上がる火炎がガレスの目を灼く。白い髪がオレンジに染まる。手をかざして光を遮り、なおも襲い掛かろうとする火鼠へ向けてダイスを投げ放った。
「あ、っぐ、熱い、あついッ」
「水……!」
二つのダイスが、燃やされた司書と火鼠の頭上で輝く。『六』、『四』。ダイスを包んだ光の中から、タライになみなみと張った水をぶちまけたような勢いで、清らかな水が降り注いだ。
「ヂュッ!?」
火鼠の火が尋常のそれではないように、水もまた、ただの水ではない。
クイラの清水。
街ひとつ呑み込む大火を、名も知れぬ山の女神が、手ずから掬ったクイラの川の水で消したという御伽噺。その絵本に由来する水は、司書となった者が一番最初に覚える投射だ。司書は全員、絵本『クイラの清水』を暗唱できるほど叩き込まれている。
今回も、クイラの清水はかつてと同じように、燃え盛る火を消してみせた。大部分焦げた制服も痛々しく、司書が倒れ伏せる。火鼠が纏う火の方は消し切れず、蒸発した水が蒸気となって揺らめき立ち昇った。
「こっちだ、ネズミ!」
「ヂッ」
火鼠は髭を揺らしただけで、振り返らない。先に動かない獲物を仕留めてしまうつもりらしい。ガレスが叫び気を引こうとするが、通じなかった。
火鼠が、小さく頭を持ち上げ、そして振り下ろす。
現実の鼠でも、前歯で家を倒すという。【物語】の火鼠の、刃のように大きく鋭い歯は、火傷の熱と痛みで動けない司書に深く突き刺さり、制服を裂き、肉を貫いた。
「あっ、ぐっ」
「待て、っ、――剣!」
ガレスがダイスを投げ、投射された剣が、振り払う軌跡で閃く。素早く火鼠が身を翻して避けた。
前歯が抜けた司書の傷から、血が噴き出す。
その血が、燃えた。
「っぎゃああああ!?」
傷口を中心に、火が吹きあがる。悲鳴を上げてのたうち回る司書は、すぐに動かなくなった。身体の内側を焼かれて、生きていられるはずもなかった。
唐突で、残酷な、死。
ガレスの歯が、ぎりと鳴る。涙が浮かびかける。
――もっと早く動いていれば。
心に浮かびかけた後悔を、言葉にならぬうちに、必死に沈める。
余計な思考を弄ぶ贅沢を、味わう時間はなかった。哀悼も、後悔も、全ては【物語】を文字に還してからだ。
素早く向き直った火鼠の髭が揺れ、火の軌跡が一瞬空中に残る。先ほどの司書の断末魔は図書館に響き渡った。同じ階で仕事をしている司書が気付いて、様子を見に来るかもしれない。そんな、甘い期待も、戒める。
【物語】を相手に回し、守勢に回るのは悪手でしかない。
(僕のような臆病者でなければ、助けられたのに)
封じようとした後悔と罪悪感と劣等感が思考を焦がす。追い出し切れないまま、ダイスを放った。
二つのダイスが、火鼠へと飛ぶ。
「ククリ!」
ガレスが叫んだのは、剣の名だ。
細かな分類は、イメージをより明確にする。ただ『剣』と表現するよりも、確かな顕現が可能だ。
『三』と『一』の面が輝き、湾曲した短剣が二振り、回転しながら火鼠へと襲い掛かる。短剣と言っても、刃は鉈ほどもある大きさだ。『く』の字に曲がった刀身の内側に刃が煌めき、火鼠を左右から挟む斜めの軌跡で鋭く飛ぶ。
火鼠は、毛並みを彩る炎を置き去りにするような速さで前へ、つまりガレスの方へ駆けてくる。左右から迫る剣を避ける本能的な動き。ガレスの期待通りに――あるいは恐れた通りに。
迎え撃つためのダイスが放たれる。心は恐怖に痺れていながらも的確に動く腕、指。刻み込まれた訓練の成果は、意識する余裕がない時にこそ働いた。
「槍……!」
「ヂュッ!」
ガレスの叫びと、火鼠の鳴き声が交差する。遅れて、鋼鉄の槍と、鋭い前歯が正面からぶつかり合った。火花が散る。鋼鉄の槍でも砕けず、貫けず、ただ火鼠の突進は止まり、少し押し戻した。一瞬の停滞。
火鼠の全身に力が籠り、炎が波打つ。
ガレスの手がダイスを握る。
戦闘の流れは想定に沿っていた。投射すべき武器の知識もある。
最後のピースである、覚悟は、今、決まった。