悪夢の妄想
午後1時30分。昼休みに食べた弁当を消化すべく、腸に血液が集中した僕は数学の授業を子守唄代わりに至福の時間を過ごしていた。僕は今、特技である視覚情報の遮断と筋肉の自律反応を使い、真面目に授業を受けている。傍から見ると微動だにせず黒板を凝視する僕が見えるはずだ。もっともこんな生徒の授業料まで無料化しなきゃならない政府は大変だ。だから選挙権が手に入ったら投票してやろう。
さて、実際の僕は今夢の中である。夢の中で僕は女の子たちから憧れの眼差しを向けられている。なんたってあのニサンカを倒したジャスティスの生みの親だからね。我も我もと女の子たちが僕にお礼を言ってくる。中にはチラリと胸元をはだけて誘ってくる子もいたりする。だけど悲しいかな、僕にはそれ以降の知識がない。だから自分の夢なのに自分の欲望を発散することが出来なかった。うんっ、夢の中でも僕は奥手だったのだ。
因みにこれは夢だから妄想ではない。だから多分実現はしない・・。くそっ、実現しないのかよっ!しかし、どんなに楽しい夢もいつかは覚める。しかも今回は強制的に起こされた。
それはまるで30センチほどの高さから落とされるような衝撃だった。落ちるのが判っていれば身構えるのでそれ程ではないが、不意を突かれた場合は深刻だ。歩きスマホをしていて電柱に衝突するより激しい衝撃を受ける。まぁ、僕は寝ていたから余計にきつく感じたのかもしれないけどね。
「縦揺れだとっ!」
目が覚めた僕は、咄嗟に状況の異様さに気付く。通常、地震の揺れは横揺れだ。縦揺れなど、相当震源地に近くなければ起こらない。つまり、今回の地震は直下型だ。縦揺れの怖いところは自重の増加だ。一旦、地面ごと持ち上げられた質量は、その後重力に引かれて落下する。この時、自分の質量が重力加速度とともに体、特に足へ集中する。先程も言ったが不意を衝かれる衝撃はダメージが大きい。いわんや、何百トンもあるコンクリート製の建物など、床が抜けてもおかしくないほどだ。
だが、この国の対震建築物は本物だった。この衝撃に耐えたのだ。勿論、無傷とはいかない。一階部分の柱は表面のコンクリートが剥離し中の鉄筋がむき出しになっている。こうなったら上階の荷重を支えられない。柱が崩れるのも時間の問題だ。しかし、僕らが何とか避難できるだけの時間は稼いでくれた。
僕と彼女は揺れる建物の中を階段目掛けて走る。何人か途中でうずくまっているやつらを蹴飛ばし走らせながらだったが何とか外に出ることが出来た。そして校庭の中央まで走った。そこで様子を確認しようと校舎を振り返ると耐えていた柱が崩壊したのだろう、地響きを立てて一階部分が潰れた。
「そんな・・、私たちの学校が・・。」
彼女は僕の腕にしがみつきこの光景に見入る。他の生徒たちもそれは同じだ。
「みんな、いるかっ!取り残されたやつはいないかっ!」
先生たちが生徒にそれぞれの回りにいた者たちの確認をさせる。
「よっちゃん!よっちゃんはどこっ!」
「新太郎がいないぞ!なんでだ、あいつ俺の後ろを走っていたはずだぞ!」
「先生っ!あそこに誰か倒れてるっ!」
「駄目だ!まだ校舎に近づいちゃいかんっ!」
「きゃーっ!」
その時、また大きな揺れが僕らを襲う。今度は横揺れだった。一階部分が崩れて重心がずれている校舎はこの振動に耐えられなかった。ガキガキっとコンクリートが圧壊する音とともに校舎がスローモーションで倒れてくる。いや、これは比喩ではなくて本当にゆっくりと倒れた。おかげで先生の注意を無視して校舎の近くに倒れている生徒を助けに行ったやつらも間一髪で下敷きになる事を免れた。ただそんな蛮勇も結果は伴わなかった。
「慶介っ!おいっ、慶介、目を覚ませっ!」
校舎の近くに倒れていた生徒は後頭部に落下してきた破片の直撃を受けたのだろう。遠目から見てもべこりとへこんでいるのが判る。だが彼の仲間なのか男子生徒は現実から目を背けひたすら彼の名を呼び続けた。
校庭は崩れた校舎が巻き上げた土ぼこりと叫び戸惑う生徒たちで大変な喧騒だが、近くの住宅街は不気味なほど静かだ。こんな時、映画などでは効果音として緊急車両のサイレンや逃げ惑う人々の悲鳴が流されるんだが聞こえない。いつもならトラックの走行音が煩い近くの国道も静まり返っている。
「何だ?鼓膜をやられたのか?」
僕は耳の近くで手を打ち鳴らし音が聞こえる事を確認する。大丈夫、音は聞こえる。となると音がしないのはそこに音源がないからだ。だが風が土ぼこりを流しさるとその原因が判った。
僕はこの光景を見たことがある。そう、そこはまるでニサンカに蹂躙された町のような有様だった。全ての二階建て住宅が一階部分を押し潰して平屋になっていた。一階部分を駐車場にしていたマンションはダルマ落しでもしたかのように背が低くなっている。見える限り全ての電柱は傾くか根元が折れている。車に至っては面白いくらいにみんな腹を上にして転がっていた。僕は今回の衝撃を30センチくらいと表現したが、実際はもっと大きかったのだろう。真っ直ぐ平らだった道路が5メートル以上波打ってぼこぼこになっていた。
生徒の中には、その光景に呆然としながらもスマホで撮影しているやつもいる。なんとも現代人らしい所業だ。でもその動画は果たしてwebにアップできるのか?被害の範囲がどれくらいか判らんが政府の事前予想では30万なんて数字もあがっていたんだぜ?
この災害をお茶の間で見れるやつらは幸せだ。でもこの災害が僕の妄想を現実化したものなら彼らの幸せも今日までだ。明日には更なる悲劇がこの島国を襲う。だが僕はまだ、その事を確実に起こると言い切れなかった。事が大き過ぎて頭が思考する事を拒否しているのだ。
「タケル君、見て・・。」
彼女が指差した方向は港だった。ここからでもそこを襲った惨劇の跡が見える。そんな港の方で大きな煙が上がっているのが見えた。あそこは確かニサンカたちに蹂躙されていない石油コンビナートがあったはずだ。あれが爆発したのか?いや、爆発ではないな。ただ燃える規模が大き過ぎて煙がきのこ雲状になっているのだろう。
爆発ならその一時を凌げばなんとかなるが、火災は消すまで脅威が続く。ましてや膨大な可燃物を貯蔵するコンビナートは火災の燃料をいつまでも供給してしまう。自然鎮火は期待できない。だが人力で消火出来るものでもないだろう。僕は一瞬、津波でも来れば消えるかなと考えたが、浅はかな考えだと頭を振る。油火災は水では消せない。そんな事をしたら逆に水の上を油が広がって範囲を広げるだけだと聞いた事があったのを思い出したのだ。
「大丈夫かしら・・、あの火ってここまでくるかな。」
彼女の不安はもっともだ。だが、危機はもっと身近なところから始まっている。とうとう、倒壊した住宅から煙が立ち昇り始めたのだ。
「まずいな。火災風が発生するとこうゆう広場は炎の通り道になり易いって読んだことがある。だけど他に逃げようもないし・・。」
津波ならひたすら高台を目指す所だが、火災はどこで発生するか予測がつかない。逃げた先の方がもっと燃えているなんて事だってあり得るのだ。というか、この学校が津波や大規模火災の時の避難場所だったな。なら動かない方がいいだろう。でも避難場所に指定される程の強度を持っていたはずの校舎は既にない。今回に関しては、行政が想定外という言葉を使っても誰も責められないよな。
結局先生方は校庭を拠点にここに留まる事を決定した。そして動ける生徒たちを連れ、近くの建物や自動車に閉じ込められている人たちの救出に向かった。だが、これもすぐに頓挫する。押し潰された人たちを見て、生徒たちの足が止まってしまったのだ。何人かの生徒は胴体が押し潰され首だけが転がっていた光景を見てしまった。凄惨な状況だが、今、ここではそれは普通の風景となっていた。
「先生、一旦戻りましょう。このままでは僕らが狂ってしまう。」
ひとりの男子生徒が先生に進言する。確かにこの先に今救えば助かる人たちがいるのだろうが、その人たちの元へ行くまでが地獄であった。
この前のニサンカの件で死を身近なものとして考えるようになった若者たちだったが、現実を目の当たりにしては頭で考えていた覚悟など吹っ飛んでしまう。この事がトラウマになり生徒たちの今後に暗い影を落としたりしたら本末転倒だ。
先生がまず守るべきは生徒たちである。後日、何故、救援行動を行わなかったのだと先生方を糾弾する輩がいたら僕は神に願う。
-彼らに神の仕置きを。もし、それが成されないのなら、神などいらぬ。-
そんな事をいうなら自分でやれと言われそうだが、残念ながら僕にはそれが出来てしまう。ただピンポイントでは出来ないんだ。悪いやつらだけでなく、全うないい人たちまで巻き込んでしまう。でも、神さまなら出来るよね?だって神さまだぜ?もしも出来ないなら神さま失格だな。
さて、この災害が僕の妄想かどうか判断する方法がひとつある。それは津波だ。これ程の地震で、しかも本震に続いた横揺れの震源は海底だ。この規模の揺れを起こした地震が津波を伴わない訳がない。だが僕の妄想では津波は来なかった。多分、僕の心が津波を拒否したのだろう。だから今回、津波が起こらなければ確定だ。そして地震発生から2時間後、今回の地震で津波の心配はないとの気象庁の解析結果が放送された。みんなは一様に安堵の表情だが、僕だけは真っ青である。
くそっ!まずいぞ、あの妄想は最悪なんだ。やめてくれ!お願いだから誰か冗談だと言ってくれ。あれが現実化したら日本に未来は無い!