十四
筑紫が、涼の捜索願いを警察へ要請してから一週間ほどが経った。筑紫はずっと青ざめた顔をしていて、極端に口数が減った。村の人たちも、農作業を後回しにして、昼間は涼の捜索活動に加わった。夜は、二次被害が起こる可能性もあるため、捜索はできなかった。暑さも長時間の捜索を妨げる要因だった。
春子は学校へ行く道すがら、毎日、あの紫蘇の茂る橋へ足を向けた。
橋の上から覗く川は、轟々と唸り、波打ち、全てのものを巻き込みながら流れ続ける。岩に当たっても柔軟に形を変え、美しい泡を立てて、何事もなかったかのように流れ続ける。
姉が、あの川だとしたら、自分はこの橋かもしれないと春子は思った。朽ちて色あせた、薄汚い小さな橋。今にも壊れかけている。悠然と流れる姉の姿を上から眺めながら、決して姉にはなれない。橋は、川がなければなんの役割も果たさない。ああ、馬鹿らしいと思う。自分をものに喩えるなんて小説家でもあるまいし、馬鹿らしい。理科の授業で、蝙蝠が哺乳類であることを教えられた時に教師が話したことも馬鹿らしかった。「蝙蝠は、空を飛ぶくせに哺乳類だから、鳥類にも哺乳類にも嫌われている」とかそんな話だった。蝙蝠が、鳥類や哺乳類に分類されていることを知っているとでも言うのだろうか。人間の都合で蝙蝠は分類されているだけだ。
ギイギイと軋む橋を渡り、青い小屋へたどり着く。小屋の周りに背の高い雑草が生えていた。日光を浴びて地面は白っぽく見える。蟻の行列が、蟷螂のばらばらになった体を運んでいた。自分の体の五、六倍はあるかという巨大な塊でも、蟻は簡単に運んでいた。
春子は小屋へ入る前に、橋の側から川へ下りた。急な傾斜で足を滑らさないように、慎重に下りていく。足下には、桃色の花と藻が生えて、瑞々しい彩りをしていた。草の狭間に見える地面は、暗い茶色だった。
川のふちの大きな岩に載って、水に手を浸ける。春子は鞄から小花柄の水筒を取り出し、蓋を開けると中に入っていたお茶を川へ流した。母親が入れてくれたものだ。緑色の水はあっという間により多くの水に混じって消えてなくなった。空になった水筒を川へ突っ込み、水を入れる。手が冷たくなった。
水筒を持って小屋へ戻ると、ポケットから鍵を取り出した。一本だけの錆びた鍵。もち手が丸く、古めかしい色をしている。灰色の扉の、ちょうど真ん中の鍵穴に差し込み、右に捻る。カチャリと快活な音がすると、扉が開いた。
春子は小屋の中へ入ると、それぞれの檻を観察した。先程、水筒に入れてきた川の水を器に入れ、兎の前に差し出す。兎は、警戒しながら近づいてきた。猫や犬や栗鼠にも同様に水をやった。小屋の中に用意されている餌をやり、食べる様子を座って見つめる。カンカンカチャカチャ、小屋の中に音が溢れる。動物たちは至って静かだ。
「涼くん」
春子は、小屋の一番暗がりへ声をかけた。そこには、一際大きな檻がある。
小屋の天井にまで届きそうな、背の高い檻だ。
他の動物に比べると一際大きな影が、そこに、じっと座っていた。
「調子はどうですか?」
春子が声をかけると、影が顔を上げた。白く、肌のきめ細かい美しい少年。目のふちに隈があり、丸みのあった頬は今はもうこけている。髪も伸びて、鼻の下までかかるほど。夏の制服は土色に汚れて、袖から見える手は荒れていた。檻を引っかいて爪が割れたとき、春子は屋敷から持ってきたバンドエイドを張ってやった。食事は朝と昼に渡している。朝は、給食が足らないと嘘をついて母に作らせた弁当を。帰りは、空になった弁当箱に給食を詰めて渡している。
「お水を汲んできましたよ」
春子は水筒の蓋に水を入れて、檻の中へ差し入れる。涼はそれを受け取ると、一気に飲み干した。震える喉には、まだ大人のような張りは見当たらない。
最近、涼はほとんどしゃべらなくなってきた。
膝を抱えて、檻の隅で震えている。
春子が顔を出しても、暗い目で睨むばかりだ。
初めて小屋へ案内された日の、照れくさそうな顔はもう見られない。
檻へ入ったばかりの日は、五月蝿かった。
それが、少し寂しい。




