十三
空は日増しに熱を帯び、照らされた庭には大輪の向日葵が咲いていた。
夏休みはあと二十日あまり。
桃の木には青々とした葉が茂り、小川の流れは白く清廉だった。水が岩に当たって泡立つ様子を、春子は通学路を歩きながら眺めていた。
夏休みも中盤に入った。休みの残り日数を数えると気怠くなる。春子は拾った小石を川へ投げ入れ、水面に当たる音を聞こうとしたが、轟々と流れゆく水音にかき消されて音は聞こえなかった。
くの字に曲がった道の先に屋敷の塀が見える。桃の木の枝降りも少し見えた。しばらく歩き続けたので疲れた。ふ、と足下に視線を落とすと、紫蘇の葉があった。誰かが植えたのか、または、種が運ばれて自生したのかは分からない。鼻を近づけると特有の香りがした。
春子は、強い好奇心に導かれ、紫蘇と木々の茂みへ足を踏み入れた。角の尖った葉が膝に当たると痒くなる。彼女は短いスカートを穿いていた。枝を踏み、草木をかき分け、川の音に惹かれるように、より奥へ向かっていく。
五メートルほど歩くと、開けた場所に出た。
それは、小さな橋だった。
個人で制作したような手すりも何もない橋だった。ただ、作りは古く、板の端がささくれ立って腐っている。足下を覗き込むと、遠いところで川の流れが見えた。春子は、慎重に橋の上を渡っていく。すると、手すりも何もない橋を渡った先に、木で組まれた小屋があった。青色に塗装してあり、二つの窓はどちらも端が割れて、黒く汚れていた。橋と同じように作られたのはかなり前だろう。剥がれた屋根が、長年雨風に晒されていることを示している。
青い小屋は、森の中にひっそりと建っていた。
「こんなところに小屋がある」
春子は独り言を言う。こんな場所があるとは全く知らなかった。あの橋は、紫蘇と雑草に覆われて、まるで誰かに隠されていたようだ。
春子は小屋の入り口を探す。橋から真正面にあるのは壁なので、建物を回り込んでみた。ちょうど壁の反対側に、入り口はあった。しかし、扉が朽ちて灰色になっていた。扉の横に小窓がある。覗いてみると、磨り硝子で中の様子は分からなかった。桜子は奇妙な好奇心に後押しされていた。どうしても、中が見てみたい。
「なにしとん?」
春子は、扉に伸ばしていた右手を引っ込めた。声に聞き覚えがあった。
「涼くん」
彼女は少年の白い顔を見つめる。彼は半袖のシャツを着て、短パンを穿いていた。頭には、鍔の広い帽子を目深に被っている。そのため、目に影が落ちていた。右手に、長いスコップを持っている。何か農作業をしていたのだろうか。軍手も填めていた。
「春子さんか。びっくりしたわ、こんなとこに何しにきたんです」
少年は不審の目でこちらを見ていた。
「ええ、涼くんの姿を見かけて……、追いかけてきたの」
春子は嘘を吐いた。こういう時に、翳りもなく嘘を吐ける自分の性質が嫌になる。少年は、ますます不審がるような目でこちらを睨んでいる。
「まあええわ。なんや、そこに入りたいんですか。鍵かかっとりますよ」
「この小屋は、誰のものなの?」
「誰のものかは知らんけど……、今は、僕が使ってます」
「使ってるって、何のために?」
少年は何も答えなかった。スコップを小屋の隅に投げ捨てると、ポケットに手を突っ込み、ジャラジャラと鍵の束を出した。彼はその中から一本取りあげると、春子を押しのけて、扉の鍵穴に差し入れた。軽い音がして、扉が開いた。木の軋む音が響いた。
「汚いとこやけど、どうぞ」
少年は小屋へ入りながら言う。
まず、臭いがした。納屋でするのと同じ強烈な臭いだった。動物の糞と、穀物の臭い。室内は薄暗く、家具などは全くなかった。ただ、いくつか鉄製の檻が並んでいた。その中には、毛の塊が動いている。座ってよく見ると、兎だった。
「涼くん、ここで動物を飼っているの?」
春子は後ろに立つ少年に尋ねた。他の檻もよく見てみると、猫や犬もいた。栗鼠は三匹いる。それぞれ、檻の中でぐったりしていた。小屋の中は、湿った地面の冷たさと、日陰ということで多少ひんやりとはしているものの、やはり空気が籠もって暑かった。檻の隅に餌の入った袋が山積みになっていた。水を入れる器も転がっていた。
「そうですよ」
少年は、水桶から器に水を入れると、兎のいる檻へ差し入れる。兎は、警戒しながら水の方へ近づいていった。毛並みは悪く、土色に汚れていた。
「まあ、そのうち誰かに見つかるやろとは思っていたのでいいんですけれど、まさか、春子さんとは思いませんでした」
「御免なさい……」
「まいったなあ」
少年は春子の横に座って、頭をかいた。小動物のような動きだった。
「誰にも言わんといて下さいよ」
「内緒で飼っているの?」
筑紫は知っているのだろうか。
「そうです、春子さん以外は誰も知りません」
その言葉は、何故か春子を安心させた。春子以外は誰も知らない。桜子は、知らないのだ。
「誰にも言わないわ」
「約束ですよ」
春子はにっこりと微笑むと、顔の前で小指を立てた。
少年はじっとその小指を見つめ、やがて自分の小指も立てた。




