8.平和の代償
カザフスタンの地平線を支配していた朝の朱色は、いつしか冷ややかな青白い光へと移ろっていた。広大な荒野の真ん中で、数キロメートルに及ぶ制動距離を経て沈黙した装甲列車は、もはや「動く要塞」の面影はなく、打ち捨てられた巨大な鋼鉄の死骸のように横たわっていた。
「――各班、突入。生存者は拘束。抵抗する者は排除しろ」
ハインド攻撃ヘリからラペリング降下した東側諸国の特殊部隊「ヴィチャージ」の精鋭たちが、煙を上げる列車へと雪崩れ込んだ。彼らの任務は、国家の恥部であるヴォルコフの裏切りを抹消し、核弾頭を「最初から存在しなかったこと」として回収することだ。
だが、彼らが目にした光景は、事前に想定されていた激しい抵抗とは程遠いものだった。
「……何だ、これは」
隊員の一人が、防弾シールドを構えたまま立ち尽くす。車内には、数百人の重武装傭兵たちが転がっていたが、その誰一人として血を流してはいなかった。彼らは一様に、強力な麻酔弾や非致死性の制圧兵器によって、深い昏睡状態に陥っていた。抵抗の形跡すら残さぬ、圧倒的な技量の差による無力化。
隊長が先頭車両の重厚な防爆扉を蹴り開けると、そこには無惨な姿のイヴァン元将軍がいた。かつて東側の英雄と謳われ、その後は地下世界の帝王として君臨した巨漢は、椅子に縛り付けられ、猿轡を噛まされた状態で、屈辱に顔を歪めていた。
そして、その膝の上には、場違いなほど整然とまとめられた一束のファイルが置かれていた。
「隊長、第5車両を確認しました!……しかし、状況が異常です」
無線からの悲鳴に近い報告に、指揮官が現場へ急行する。そこは、核弾頭「RA-45」が安置されていたはずの聖域だった。
天井はまるで巨大な怪物の手で引き剥がされたかのように、外側に向かってねじ曲がり、空を仰いでいた。床に固定されていたはずの防護ケースは、ボルトごと引き抜かれ、塵一つ残っていない。
「核弾頭が……消失している。跡形もなく」
東側の精鋭たちは、凍りついたように動けなかった。最新のセンサーを駆使しても、放射線反応すら検出されない。数トンの質量を持つ核兵器が、疾走する列車から、物理法則を無視して消え去ったのだ。
隊長は震える手で、イヴァンの横にあったファイルを開いた。そこには、ボリス・ヴォルコフとマフィアの癒着を示す銀行の送金記録、通信ログ、さらには東側高官たちの汚職リストが、逃げ場のないほど精密に記されていた。
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数時間後、ロシア、サンクトペテルブルク。ネヴァ川を見下ろす瀟洒な隠れ家に、ロシア対外情報庁の捜査官たちが踏み込んだ。
「動くな、ヴォルコフ!国家反逆罪で逮捕する!」
シルクのガウンを羽織り、最高級のブランデーを楽しんでいたボリス・ヴォルコフは、突きつけられた銃口を前にして、驚愕に目を見開いた。
「何のことだ!私は身に覚えがない!誰の差し金だ!」
ヴォルコフは必死に身の潔白を訴え、権力を笠に着て捜査官たちを威圧しようとした。しかし、捜査官が差し出したタブレット端末の画面を見て、彼は絶句した。
そこには、彼が数層の暗号階層の奥に隠匿していたはずの海外口座のパスワードや、この隠れ家の購入資金の出所、さらにはイヴァンへ送った核弾頭の管理番号までが、完全に白日の下に晒されていた。それは、イヴァンの横に置かれていた「あのファイル」の中身だった。
「……これは、あり得ん。こんなデータにアクセスできる人間など、この世に……」
ヴォルコフの膝が崩れた。彼は、自分たちが相手にしていたのが、単なる西側のスパイや軍隊ではなく、神の如き演算能力と、物理的限界を超えた実行力を持つ「何か」であったことに、ようやく気づいたのだ。
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同じ頃、ニューヨークの国連本部では、嵐のような混乱が続いていた。
西側諸国は「東側の核管理体制の崩壊」を声高に非難し、東側は「西側の不当な領空侵犯と挑発行為」を盾に猛反発していた。各国諜報機関のトップたちは、アクタウ港での不可解なジャミングと、装甲列車からの核消失について、エヴァンス事務次長を問い詰めるべく、秘密会議に集まっていた。
円卓の長座に座るハリー・エヴァンスは、並み居る大国の重鎮たちを前に、一切の動揺を見せなかった。彼は手元の端末を操作し、出席者一人一人の目の前にあるモニターに、個別の「機密データ」を表示させた。
「諸君。現状を整理しよう。カザフスタンで起きたのは、国際的なテロ組織による核強奪未遂、およびそれに対するわが国連の迅速な仲裁、そして東側諸国による自浄作用としての殲滅作戦だ」
「何を言っている!核はどこへ消えたんだ!」
アメリカの代表が激昂する。エヴァンスは冷ややかな笑みを浮かべ、彼のモニターを指差した。
「それを追及する前に、貴国の偵察機がカザフ領空で行っていた『公表されていない新型兵器のテスト』について、国際社会に説明する用意はあるかね?……あるいは、そちらの閣下。貴方の愛人が、このマフィアの資金洗浄に関わっていたという記録を、明日の朝刊に載せても構わないのであれば、私は核の行方について、より深く調査を命じるが」
会議室に、凍りつくような沈黙が流れた。エヴァンスはクラウディアが収集した、各国の「致命的な弱点」を静かに、かつ確実に突きつけていた。
「核は、安全に無力化された。それで十分ではないか。世界が平和を維持するためには、時に『何も起きなかった』という嘘が必要だ。カザフスタンの事件は、老朽化した列車の脱線事故、あるいは地方武装勢力の暴走として処理される。異論のある者は?」
誰も、声を上げる者はなかった。大国同士のパワーバランス、その歪んだ隙間を縫うようにして、チームQが手に入れた「平和」は、エヴァンスの冷徹な政治手腕によって、隠蔽という名の揺りかごに収められた。
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深海3000メートル。完全な静寂に包まれたアヴァロンの船尾ハッチが、音もなく開いた。
特殊な中和剤を注入され、起爆機能を完全に喪失した「RA-45」の弾頭が、暗い海中へと滑り落ちていく。それは、永遠に誰の手にも届かない海底の泥の中に沈み、数千年の時をかけて無害な金属へと還るだろう。
「……投棄、完了。お疲れ様、みんな」
アヴァロンのラウンジで、アイリスが大きく伸びをした。ボディスーツを脱ぎ捨て、薄手のキャミソールに着替えた彼女は、安堵の表情を浮かべている。
「ヒハー!終わった終わった!砂埃まみれの荒野より、やっぱりこの船の中が一番だぜ」
ガウスが冷蔵庫からビールを取り出し、景気良く栓を抜く。マヤは隅のソファで、愛銃のメンテナンスを終え、ようやくわずかな眠りについていた。
レンは一人、メインモニターに映る深海の景色を見つめていた。彼の表情には、相変わらず感情の揺らぎは見られない。だが、その肩からは、張り詰めていた緊張がわずかに抜けているのがわかった。
「レン」
背後から、アイリスが忍び寄る。彼女はレンの背中に胸を押し当てるように抱きつくと、彼の首筋に顔を埋めた。
「ねえ、今回の作戦、あたし不満なの。せっかくカザフまで行ったのに、レンと夫婦役もカップル役もさせてもらえなかったんだもの。ただの戦闘員なんて、あたしの美貌がもったいないじゃない」
「……任務は成功した。不満を言うな、アイリス」
レンが身をかわそうとするが、アイリスは逃さない。彼女はレンの正面に回り込み、そのネクタイを強引に引き寄せた。
「報酬、もらうわよ」
アイリスがレンの唇を、情熱的に塞いだ。不意を突かれたレンの瞳がわずかに見開かれる。
『レン様、アイリス様。現在、船内の酸素濃度は最適ですが、お二人の呼気交換により、周辺の二酸化炭素濃度が局所的に上昇しています。健康維持のため、より深い呼吸と、持続的な接触を推奨します。……さらに、レン様の心拍数が140を超えました。これは非常に健全な反応です』
「クラウディア!通信を切れと言ったはずだ!」
レンがアイリスの腕の中で抗議するが、AIの「援護」は止まらない。
『いいえ、レン様。アイリス様より事前に『レンが照れたら、逃げ場を塞ぐようなログを流せ』との優先命令を受領しております。わたくしは、チームの親睦を深める義務がございます』
「アハハ!いいぞクラウディア!もっとやってやれ!」
ガウスがビールを片手に、腹を抱えて笑い転げる。マヤも、薄く目を開けてその光景を眺め、口元に微かな、本当に微かな微笑を浮かべていた。
「……もう、君たちは」
レンは諦めたように溜息をつき、自分を抱きしめるアイリスの腰に、ゆっくりと手を回した。
窓の外では、アヴァロンが静かに海流を切り裂き、次の目的地へと進んでいた。
世界は、自分たちが救われたことすら知らない。
三大勢力が互いに核を突きつけ合い、機能不全に陥った国連が空論を戦わせる表の世界。その裏側で、記録に残らない戦いを繰り広げる若者たち。
彼らの名が歴史に刻まれることはない。
彼らの正体が光の下に晒されることもない。
だが、この深海を往く「動く城」の中には、確かな命の熱と、誰も知らない平和の代償を背負う誇りが、確かに息づいていた。
『次の任務まで、あと168時間です。皆様、ゆっくりとお休みください。……アイリス様、レン様のバイタルがさらに上昇しました。これ以上の援護は必要ですか?』
「ええ、クラウディア。最高にサポートしてくれてるわ」
アイリスは満足げに微笑み、再びレンの胸へと顔を寄せた。
アヴァロンのエンジン音が、子守唄のように静かに響き続けていた。




