1.妹の反抗期が長い
反抗期が、長い。
この地球上全ての人類に共通して発現するとされるコモンセンス、『反抗期』は、例に漏れず俺の妹を襲った。
口から繰り出される罵詈雑言。少し目を合わせればキモいだの近づかないでだの、散々な罵声を浴びせられ……ることは実はなく。
普通に目が合えば逸らされるという、一周回って心に刺さるクリティカル行為が彼女のお家芸であるようだった。
今時ツンデレなど絶滅危惧種。むしろツンツンしてくれるだけありがたいと思った方がいいわけで、無理やり一言で俺の妹を定義づけるならば『クーデレ』だった(違う)。
家族の内的問題など大抵は時間が解決するものだし、俺だって多少反抗期じみた行為に厨二病らしく憧れたこともある。
理解のある彼くん、もとい理解のある兄くんとして妹を見守るのが俺の責任なのであれば、ゆっくりと改善の時を待とう……。
————と、あの時までは思っていたのだが。
夜に大事な話があると言って、母さんが俺たちを呼び止めたあの日。
もたらされた異分子に俺たちの何かがどうしようもなく突き動かされて、そしてゆっくりと気持ちも変化していったのだ。
変わりたくないもの。
変わらなければならないもの。
兄妹として生きてきた二人の間に、確かにあった停滞という一時の安寧を、その天使は見逃してはくれなかった。
*
学校から帰宅して、俺、渡井洸はいつも通りの風呂と夕食を済ます。
今朝、家を出る前に母さんは俺を呼び止め、夜に話があると言って俺を送り出した。断続的に気になり続けた今晩の話とやらも、そろそろ聞くことができるだろう。
夕食後、その話の内容をなんとなく考えながら、俺は自室で本を読みゴロゴロと怠け者に。
「んー……」
本当に内容が入ってこない。
手に持った紙の束。脳のリソースを半分以上持っていかれた中での読書体験は、俺の識字率を著しく低下させていた。
この字、何て読むんだっけ。
いよいよもって漢字の読みまで曖昧になってきた俺の脳内は、早くこのムズムズを収めてくれと危険信号を発している。
「うぅー……早く頼むよ」
深呼吸を一つ。ベッドに仰向けになって、天井で煌めく電球を文庫本で覆い隠した。
逆光で活字をうやむやにぼかしながらの体勢で数分間。
意味のないストレッチが功を奏したのか、満を持して母さんのいる一階から声がかかる。
「洸! 夕月! 一階来てもらえるー?」
「はーい! 今行くよー」
ついに来た。高揚感と緊張に揺られながら、俺は一階に声が届くよう返事をする。「よっと」
ベッドから床に足をつけた勢いでごつん、と殴打した踵を痛がりながらも、俺は主人公が妹に起こしてもらっている日常シーンに栞を挟んで、本を閉じる。
「俺も妹に起こされたりしないんかな」
小説の作品内で、甲斐甲斐しく兄の世話をする妹。そのほのぼのした光景に羨ましさを感じてみる。
リアルに妹がいるからと言って作品内の妹キャラに拒否感はなし。親友がいるからと言って作品の親友キャラが嫌じゃないのと同じ。違うか。
すぐに立ち上がって部屋のドアをがちゃり。そのまま廊下を抜けて、急ぎ階段を降りようとする。
と、同時に隣の部屋の扉が開いて、俺はそのドアの音に目線を持っていかれた。
「……」
「……」
頭を出した物体、つまり部屋の主とほんの一瞬目があって、すぐにそれる。
「えっと……話って、なんだろうな」
言い訳できないほどガッツリ視線が交差。
小さく声をかけてみて何か話のきっかけを作ろうとしたけれど、あまりに下手な会話の切り出し方に妙な沈黙が発生してしまった。
「……」
お相手方は、少しだけ茶色がかった肩くらいの長さの髪を隙間から覗かせて、そのまま体の動きを止めたまま一言も発さない。
カチ、コチ。
静寂。
パキ、ポキ。
少し体を動かすたびに関節の音が体内に響いて、要はそれくらい無言だった。
うーん、実に平常運転。今日も変わらない毎日が訪れることに、感謝。
このまま時計の音を二人で聞き続けていても返事の期待値は限りなく低かったので、俺は普通に会話するのを諦めて、呼ばれた一階に行くべく階段を降りる。
背中に若干視線を感じながら降りていると、
「……さあ」
と後ろで一言。それがさきほどの俺の言葉に対する返答だと気づくのに、若干の時間を要す。
……ブラジルからの中継かな?
そいつはもこもこのスリッパを履いて、ぺたぺたと音を鳴らしながら俺の後ろをついてきていた。
一年中履いているのでこの時期は明らかに暑いと思うのだけど、あんまり汗をかかないタイプらしいし、彼女的には問題ないのかもしれない。
そうして仲睦まじい(笑)会話を繰り広げながら大舞台のリビングに着き、中央に置かれたテーブル脇の椅子に座っている母さんを見つけた。
「二人とも、ここ座ってくれる?」
それなりに真剣な眼差しでそうお願いする母さんに頷き、俺たちは言われた通り向かいに座る。
椅子を引く時に少しだけ地面と擦れて、キーっと変な音がした。
「今日は話があるの」
腰を下ろしてすぐ、母さんはそう切り出した。俺は姿勢を正し、さらに次の言葉を待つ。
「……もう二人には今更かもしれないけれど」
ごくり。喉が唾を通過。間違えた、唾が喉を通過。
「お母さん、再婚したいと思ってる」
……やっぱり。
ここ最近なんとなく匂わされていたし、まあなんだかんだ言いながらこの話がされるだろうと察していた。
俺たちの父親は、六年前に死んだ。そこから女手一つで世話のかかる俺たちを育ててくれた感謝がある。
「母さんがそう決めたのなら俺は応援するよ」
「うん……私も」
急転直下の再婚話にも、今の俺は動揺しない。
まさに準備万端。少しは大人の余裕を滲ませてみたくもなる複雑な年齢の俺は、目の前の存在しないブラックコーヒーを口に含んで息を吐いた。
相手はおそらく彼だろう。そこまで詳しく相手のプロフィールを知っているわけではないが、今この歳になって父親が増えたとて別段気になることもない。
「ありがとう。今日はこれだけなんだけどね、ちゃんと二人の前で直接話したかったから。今度の日曜日に慎也さんがうちに来ることになってるの。洸は何回か会ってると思うけど」
「わかった」
父親、か……。
長らく同性の家族と住んでいないせいか、若干の高揚感。
男子一人のマイハウスは、どちらかといえばアクティブさに欠けていた。男女比を平等に均すということは、男性としての俺の発言力も高まるということだ。
地位の向上を控えめに喜び、再婚相手について思いを巡らす。
彼の名前は源川慎也。三年前、近所のカフェか何かで知り合ったと聞いている。
今まで俺も何回か会う機会があって、彼の人間性諸々、一定程度見定めは済ませた。
お前のような奴にうちの母さんはやらん、と亭主関白を演じてみたくもあったが、母さんの好きそうな優しい人だと第一印象を持ったので、大人しくガキに引き下がることとしたのだった。
俺は来たる再会の日を考えながら、四人で過ごす家族団欒の光景を頭に浮かべる。
「それと……」
楽しみだ。父子水入らずの会話とかしちゃおうかね、ハハ。
と、すでに話から意識を逸らし、ひとりで明るい未来予想図を描いていると、次に発せられた母さんの台詞が青天の霹靂として俺に急降下してきた。
「慎也さん、一人娘がいるの」
あ、へーそうなんだ。
空返事の俺。
慎也さん、一人娘がいるの……いるの……の……。
……ん、ヒトリムスメ? あ、娘?
「え? そんなこと言ってたっけ」
「ごめんなさい、伝えるのが遅れたわ」
「いや、それはいいけど……」
改めて言語の意味を咀嚼し、驚愕する俺の脳。
冷静だったとはいえ、新たな父親の就任は人生における一大イベントになると、先ほど期待感を滲ませていたばかりなのに。
そこに我が物顔で割って入る新事実。
思い描いていた未来地図に、もう一人顔の見えない女の子が追加された。確かに、賑やかだけども。
一人娘……。そうするとさらにきょうだいが増えるということになる。
いやあ、そういう重要なことはもっと早くに言ってくれないと、と全人類頷くもっともな意見を述べようとしたら、母さんはそれなりに笑顔を貼り付けていたので引っ込める。
多分サプライズのつもりだな、これ。顔に浮かぶ若干の苦笑い。
母さんは多少こういうきらいがあるのだ。エンターテイナーっていうの? 俺にはないファンシーな特性です。
まあここは素直に驚いておくことにした。ナンダッテー。
家族は運命共同体。相手の善意を素直に受け取って生活していくことこそ、関係構築の秘訣なのであった。
そうして隣を見る。
俺と同様、彼女も詳しい事情を知らなかっただろう。期待通りきちんと驚いているのが見てとれた。
「夕月も大丈夫かしら」
「う、うん。大丈夫だよ。ママが決めたなら、私はそれで」
「ありがとう」
俺にしか見えない椅子の横で、少女の小さな手が履いているズボンをギュッと握っているのに気づく。
一瞬見えた顔の陰りは気のせいか、とりあえずゆっくり話を整理しよう、と俺は立ち上がって息を吐いた。
「じゃあ上戻るわ」
こうして予想通りの展開と、予想していなかった衝撃的内容を含む、一連の話が終わった。
「うーん、きょうだいねぇ……」
確かにこの家は割と大きい。大豪邸というほどのものではないとはいえ、少なくとも家族三人で住むには十分過ぎるほどの大きさだ。
そこに慎也さんが一人加わる、つもりだったのだが、なんと。
俺は突然降ってきた義理の家族イベントに選択を迫られる。セーブもやり直しもないこの厳しい世の中で、俺が取るべき正しい行動はなんだろう。
「……うん、まあなんとかなるわ」
じっくり考えている風の腕組みを披露しながら、結局俺は速攻で結論を出した。
俺は受け入れる側、いうなればホストファミリー。
義理の家族イベントに混乱しているのは、むしろ新登場した向こうの娘の方な可能性が高い。
「勝ったな」
こうして俺の雑な勝利で終幕した本イベントは、残念ながら家族の一人にとって決着がついていないものらしい。
先ほどまで隣に座っていた彼女は、娘、娘……と独り言を繰り返しながら、ゆっくりと階段を上がっていく。
俺はそれを怪訝に見つめながら冷蔵庫からお茶を取り出して一杯口にし、後を追って二階に登った。
スローペースで歩いていたその人は、ちょうど部屋のドアを開けて中に入ろうとしていたところで、俺はその姿を見て細々と声をかける。
「えっと……おやすみ、夕月」
「…………おやすみ」
長い長い沈黙の後、俺の妹、渡井夕月はそうして眠りの挨拶を返した。




