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第1章 第2話 元魔王、まずはクラス征服から始める

 翌朝、黒崎湊人は教室の扉を開ける前から、自分の評価が一段変わっていることを察していた。

 廊下で会った男子が「おはよう、黒崎」といつもより妙に親しげに言い、教室の中では昨日の話題がまだ薄く残っている。笑い声の中に自分の名が二、三度混じる。 悪くない。支配とは、まず存在を場へ浸透させることから始まる。恐れでも敬意でもよい。とにかく全員の意識の端に、自分を置くこと。それが第一歩だ。


 湊人は満足げに顎を引き、扉を開けた。

 その瞬間、教室前方で「あっ」と短い声が上がった。日直の女子が出席簿と提出箱を同時に運ぼうとして、箱の端を机へ引っかけたのだ。プリントが崩れれば、床へ散り、朝から回収騒ぎになる。

 視界に入る。距離も近い。重いものではない。湊人は足を止める。五秒前。干渉対象は提出箱ではなく、その下に敷かれた一枚の連絡プリント。角度だけを変える。箱は滑らず、机の縁でわずかに止まった。

「助かったぁ……」

 女子は胸を撫で下ろした。周囲からも「危なかった」「また朝からやるとこだったね」と声が飛ぶ。湊人は何事もなかったように席へ向かった。

「今の、見えてた?」前の席に鞄を置きながら、小宮ひかりが振り返る。

「当然だ。支配者は教室全体を見ている」「それ、便利な返しだよね」「真実はたいてい便利だ」「言い切ることで押し切ってるだけな気もするけど」

 ひかりは笑ったが、その目はやはり軽くない。この女は結果で納得しても、原因を曖昧なままにしておけない。厄介だが、見ている者がいるのは悪くないとも思う。支配は観測されてこそ効果を持つ

「黒崎、おはよう」

 神谷修司が、今日もきっちり整った顔でやってくる。手にはすでにクラスの名簿と文化祭の配布資料がある。朝から仕事の気配しかしない男だ。

「昨日の件、先生も助かったって言ってた。今日のホームルームで、展示案の叩き台を作りたいらしい」「早いな。愚民どもに熟慮という概念はないのか」「締切があるからな」「締切とは統治の粗さを隠すための道具だ」「朝から難しいこと言うのやめてくれ」

 修司は苦笑したが、逃がさない声音で続けた。

「で、黒崎。昨日ああ言った以上、今日は前に立ってもらうから」「当然だ。玉座は譲らん」「ただの話し合いだからな?」


 その会話の途中、今度は廊下側の席で筆箱が机から転がった。蓋が半開きで、中のシャープペンが散りかける。拾おうとした男子の足元には、誰かの鞄の肩紐。踏めばもつれて、二人まとめて転ぶ。

 小さい。軽い。十分だ。 湊人は五秒を掴み、筆箱の蓋、その閉じ方だけを変えた。次の瞬間、筆箱は床へ落ちても中身をほとんど散らさず、男子は肩すかしを食った顔でそれを拾い上げる。

「お、珍しく被害少な」「今日、朝から事故起きないな」「いや、黒崎いるし」

 何気ない一言だった。だが、その場の数人が普通にうなずいた。湊人は眉を動かさなかった。動かさなかったが、胸の奥では小さく満足していた。よろしい。民衆が効果を認識し始めている。

「黒崎がいると事故起きない、ってどういう理屈?」 ひかりが呟く。

 その問いへ、近くにいた女子が先に口を挟んだ。「理屈は知らないけど、なんか黒崎がいると“そのまま最悪にはならない”感じするんだよね」「分かる」別の男子も軽く頷く。「昨日もそうだったし。今日も二回目だし」「回数で信じ始めるの、人間って単純だな」湊人が言うと、ひかりが小さく肩をすくめた。「黒崎くんが言うと、褒めてるのか呆れてるのか分からないね」

「支配の加護だ」「その説明で納得する人、クラスに何人いるんだろ」「十分にいる」「……たぶん、言い切るところで押し切ってるだけだよ」


 ホームルームが始まると、担任は昨日より露骨に湊人の方を見た。

「じゃあ文化祭の展示案だけど、昨日まとまりかけた流れを踏まえて、今日は方向性を決めたい。黒崎、神谷、頼めるか」「承知した」「返事だけは立派だな」「返事だけではない。全部立派だ」「言うと思った」

 軽い笑いが広がる。笑いながらも、全員が前を向く。教室の空気が湊人の声で一度揃うのを、本人は当然のこととして受け止めた。

 議題はすぐ散らかった。お化け屋敷、謎解き、模擬店、演劇。やりたいことは多い。だが人手も準備期間も限られている。しかも各自、自分の「やりたい」には熱心でも、運営の面倒には触れたがらない。 民衆は熱狂を求めるくせに、熱狂を成立させる労力を嫌う。浅い。


「とりあえず、現実的なところから絞ろう」 修司が板書しながら言う。「人手が少なくても回せて、このクラスらしさが出るもの」「それなら謎解きじゃない?ひかりが手を挙げた。「工作も文章も使えるし、来た人に“参加した感”が出る」「悪くない」 後方から九条礼司が口を挟む。「外から見ても入りやすいし、宣伝もしやすい」

 礼司。顔がよく、声も通り、しかも前へ出る時に押しつけがましさがない。場に入り込み、気づかれないまま重心を持っていく男だ。

「黒崎は?」 礼司が笑う。「支配者のご意見、聞かせてよ」「謎解きでいい。正解へ到る動線を作るのは支配者の仕事と相性がいい」「黒崎くん、それ謎解きじゃなくて統治じゃない?」ひかりが言う。「似たようなものだ」「違うと思うけど」

 また笑いが起きる。その笑いに乗って、意見が少し前へ進む。修司が板書した案の横へ、礼司が来場者目線の利点を書き足し、ひかりが「雰囲気は怖すぎない方がいい」「説明文は最初に読み切れる長さで」と細部を整える。誰か一人の案ではない。だが、気づけば湊人の言葉が議論の骨組みになっていた。前に出たわけではないのに、中心に置かれている。その感覚が、わずかに心地よい。だが、悪くない程度では足りない。


 案の細部へ入ったところで、廊下側の男子二人が声を荒げた。大道具担当と宣伝担当が、残り少ない段ボールの取り分でもめているらしい。

「だから、先に予約したのはこっちだって」「そっちが勝手に言ってるだけだろ」

 声が一段上がる。修司が立ちかけたが、湊人は手で制した。

「待て」「黒崎?」「これは支配の実演に向いている」「言い方だけはずっと危ないね」 ひかりが小声で言う。

 湊人は二人の位置、机の脚、足元に落ちたカッター、黒板脇のマグネット、窓から入る風までを一息に視界へ収めた。口論自体は些末だ。だがこのまま片方が机を蹴れば、足元のカッターが跳ねる。

 対象は軽いほうがいい。五秒前。黒板脇の丸いマグネット、その転がる向きだけを変える。


 次の瞬間、ころり、と小さな音がした。転がったマグネットが二人の間へ入り、一歩出かけた男子の足元で止まる。反射で視線が下がり、その一瞬で近くにいた女子がカッターを拾い上げた。

「ちょっと、足元」「……あ」「危なかったな」

 熱が切れた。修司がすぐに二人の間へ入り、時間で分ける案をまとめる。礼司はその横で「今日はこっち優先で、明日そっちに回すのでよくない?」と笑って着地させた。 整った。 実に見事な制圧だ。

「黒崎、今の」 修司が振り返る。「お前、わざとマグネット落とした?」「支配者の采配だ」「いや、なんでそんな自然に……」「結果として怪我が防げた。十分だろう」

 礼司が肩をすくめる。「ほんと、不思議だよな。黒崎がいると、でかい揉め事になる前に一回空気が切れる」「礼司、お前はもっと警戒すべきだ。俺はいずれ貴様も従える」「その台詞で怖さが薄れるの、才能だと思う」

 周囲に笑いが広がる。 だが、ひかりだけは笑わなかった。

 放課後、廊下で二人きりになった時、ひかりは静かに言った。

「助かったのは分かる」「当然だ」「でも、原因だけが見えない」「見えなくても結果がある」「そうだけど」

 ひかりは窓の外を見たまま続ける。

「黒崎くんのまわりだけ、失敗しそうなことが失敗の直前で少しだけ形を変える。そう見える」「支配者の周囲ではよくあることだ」「またそれ」

 呆れた声なのに、完全には笑っていない。この女は、答えを暴くより先に、違和感を抱えたまま横に立とうとしているように見えた。それが妙に落ち着かない。


 教室へ戻ると、担任が資料を抱えて待っていた。

「黒崎、神谷。悪いが、文化祭の実行委員をやってくれないか。さっきのまとめ方、よかったし」「ほらな」 修司が小さく笑う。「黒崎、お前なら場を見られる」「当然だ」「受けるよな?」「……玉座へ至る階段と思えば悪くない」

 担任は意味を理解しないまま「じゃあ決まりで」と言った。周囲からは「黒崎なら向いてる」「また頼むわ」と気軽な声が飛ぶ。気軽だが、期待でもあった。

 湊人は満足しながらも、胸の奥の別の感触を無視できなかった。恐れられているわけでも、ひれ伏されているわけでもない。それなのに、自分の周囲へ人が寄ってくる。理解しがたい。だが、悪くもない。

 窓の外は、もう夕方の色に傾いていた。 その帰り際、廊下で別クラスの女子二人が話しているのが耳に入る。

「一年三組の黒崎って子、なんかすごくない?」「分かる。今日も廊下で名前出てた。場を回すのうまいって」

 クラスの外へ評価が漏れ始めている。 想定より早い。だが悪くない。支配圏が教室の外縁へ滲み始めた証拠だ。

 その横で、ひかりが立ち止まる。「今、嬉しそうだった」「当然だ」「否定しないんだ」「評価は支配の前段階だからな」「じゃあ、“黒崎がいると助かる”って言われるのも?」「悪くない」そこまで言ってから、湊人はわずかに眉を寄せた。助かる、という言葉を、自分が思ったより素直に受け取っていることへ気づいたからだ。ひかりはその一拍の遅れを見て、何も言わずに笑う。

 湊人は夕焼けの廊下を歩きながら、小さく口角を上げる。まずはクラス。次に学年。やがて学校全体。 世界征服の足場は、思ったより順調に組み上がっている。

 しかもその評価は、黒崎本人の望む形で広がっているわけではない。恐れられて従わせるのではなく、「いると助かる」「なぜか揉める前に収まる」という善意寄りの言葉で外へ漏れていく。支配としては歪だ。だが、教室の外まで自然に評判が滲むほど、ここ数日の五秒が効いているのも事実だった。そう理屈をつけても、胸の奥に残るものが満足だけではないことを、湊人は少しずつ無視できなくなっていた。

 ……そのはずなのに、ひかりの「原因だけが見えない」という声だけが、妙に長く耳に残った。


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