エピローグ 後悔から始まるもの
秋が深まった11月の日曜日。
時刻は10時半。
私は今日の式で着るフォーマルドレスと小物類の最終確認をしていた。
「母さん、白いネクタイある?」
和室に顔をのぞかせる謙一。
32歳になった息子は今や立派な大人になった。
「忘れて来たの?」
「礼服と一緒に持って来たけど、間違ったみたいで」
謙一は1本のネクタイを見せた。
「シルバーグレー?
それ締めて妹の式に出るのにはちょっと」
一般の参加者なら、そのネクタイで正解だけど、親族は白いネクタイの方がふさわしい。
「分かってるよ。
前回に友達の結婚式で使ったのを一緒にクリーニングに出して、そのまま持ってきちゃたんだ」
そう言って謙一は頭を掻きながら笑った。
「やっぱり途中で買おうかな」
「待ちなさい、確かお父さんのが…」
政志さんの洋服ダンスを開け、吊るしてあったネクタイの中から数本の白いネクタイを取り出す。
全部あの日のまま。
9年前、夫が出て行ったその時から全く変わらず…
「母さん?」
「何でもない、この中から選びなさい」
謙一に恥ずかしいところは見せられない。
思考を戻し、ネクタイの束を差し出した。
「これにするよ」
謙一は中から選んだネクタイを首元に押し当てる。
洋服ダンスの裏側にある鏡で確認する息子の姿が夫の姿と被り、懐かしさが私の胸を締め付けた。
「ちょっと待ちなさい」
「何?」
「いいから」
謙一の首にネクタイを掛け、結び目を作る。
夫にしてあげていたのを思い出した。
「うん、良いわ似合ってる」
ネクタイを締めた謙一。
どちらかというと息子と娘は私に似てるけど、こうして見ると謙一はしっかり夫の面影もある。
親子だから当然か。
「丸首トレーナーにネクタイは似合わないよ」
「確認よ確認」
苦笑いの謙一がネクタイを解いた。
「他に忘れ物は?」
「ネクタイだけだよ、後は全部あったから」
「そっか」
少し残念、カッターシャツとか夫の物が沢山あったのに。
でも少し大柄だった夫の物は息子のサイズと合わないに違いない。
「少し早いけど式場に行く?」
「そうねタクシーを呼ぶわ」
家から式場のあるホテルまで車で1時間。
式は午後1時からで、髪のセット時間を考えたら早すぎる事はない。
「家の車で行こう」
息子は意外な事を口にした。
家のガレージには夫が使っていた自動車が今もある。
車検と保険は継続しており、私もたまにハンドルを握っているけど。
「謙一、披露宴でお酒飲むでしょ?
飲酒運転はダメよ」
「車は代行でここに戻すよ、僕はホテルで一泊して明日の朝に電車で直接帰るから」
「そう…」
息子は家に戻らないのか。
残念だけど、そう決めたのなら仕方ない、でも久しぶりに自宅の車の助手席に座れるのは嬉しい。
「それじゃ行くね」
「お願い」
鍵を謙一に渡し、後部座席に荷物を置く。
エンジンは快調に回り出し、車は静かにガレージから滑り出した。
「相変わらず車の調子いいね」
「そうね、整備はずっと続けてるから」
『夫が運転する日が来たら』その言葉は出せなかった。
「家族でよく出かけたよね」
「…そうだったわね」
そうだ。
夫は私の休みに合わせ、家族と外に連れ出してくれた。
小さな日帰り旅行から泊まりの海外旅行、家族としての時間をなにより大切にしてくれてたのに…
「母さん泣かないで、そんなつもりじゃ」
「分かってる…」
涙が止めどなく溢れる。
これほど大切な家族をどうして二度も裏切ってしまったの?
答えは出ている。
私は何の反省もする事が出来ない人間だっただけの事。
夫に許されたと勝手に思い込み、手紙のやり取りをした。
バレなければ、誰も傷つかないと安易に考えたのだ。
「お父さんから連絡は?」
「30分前には着くって」
夫との連絡は子供を通じてでしか取る事は出来ない。
それが離婚を回避する際に夫が出した約束、最大の譲歩条件だった。
「それでも母さんと一緒に美愛の結婚式に出席してくれるんだ。
だんだん父さんも変わって来たんだよ」
「無理よ」
そんな期待をしてはならない。
息子は頑張って、私達の為に奔走してくれた。
頑なに離婚を迫る夫に、謙一はなんとか譲歩するよう言葉を選び、自分達子供の為と説得してくれた。
「もう9年か…」
「お父さんからすれば、たった9年よ」
夫からすれば二回も裏切った妻からやっと離れる事が出来た9年。
重みが違う。
「また一人…か」
高校を卒業した美愛は、大学を家の近くに決め自宅から通学してくれた。
3年振りの同居生活、時に厳しい言葉をぶつけられてしまう事もあったが、それでも嬉しかった。
卒業後も地元で就職し、変わらず私の側に居てくれた。
「これからも出来るだけ顔を出すからさ」
「無理しないで、私は大丈夫だから」
本当なら一人寂しく残りの人生を過ごしていただろう。
子供達は私と夫の間を取り持ってくれたから籍はそのまま、それだけで十分なのよ。
「ねえ謙一」
「何?」
「お母さん、あの家を売ろうかと思うの」
「いいの?」
運転する息子の目に驚きが浮かぶ。
「私も今年で59歳よ、広いお家を維持するのが大変で」
「そう…確かにそうだね」
「65歳の定年にまだ時間があるけど、老後の事も考えたらね」
息子は私の言い訳じみた言葉に黙って頷いた。
本当は少し疲れてしまった。
「父さんみたいに一人暮らしするの?」
「もちろんよ、あなたが結婚しても同居なんかしないから」
「結婚って、そんな予定もないよ」
「あんまり待たせたら悪いわよ」
息子は交際して五年になる恋人がいる。
結婚も見据えてるらしいが、踏み出せないのは私の存在があるからに違いない。
不倫して家族を壊すような姑がいる家庭なんか、誰も入りたがらないだろう。
「母さんが何を考えてるか想像出来るけど、僕が結婚しないのと母さんは関係ないから。
向こうの家族も母さんの事を知った上で交際を許してくれたんだから」
「…だけど」
「心配しなくても、時期が来たらするよ」
明るく笑うけど、謙一は32歳。
彼女さんも28歳だから、早くしないと。
「それより美愛だよ。
あれだけ『私は結婚しない』って言っといて、さっさと決めるんだからさ。
少しは兄を立てろって」
「ふふ」
確かにそうだった。
大学時代に恋人が出来たのは知っていたけど、まさか別れないで結婚すると思わなかった。
「本当に私なんか式に出席していいのかしら?」
「母さん今更なに言ってんの」
「だって私は…」
新郎家族は私の事情を知っていたとしても、やはり気が引ける。
披露宴は遠慮して式だけの参加であっても。
「どちらかの親が離婚してる家族なんて今どき珍しくないって」
「分かってるけどね」
離婚率がどうとかは問題じゃない。
やはり結婚は家同士も縁を結ぶ側面がある。
美愛の負担になってしまうのが恐い。
「大丈夫だって、なにしろ母さんは執行役員だし」
「単なる社内制度に過ぎないわ」
執行役と違い単なる肩書だけの役職、それに社会的地位で人間性は測れない。
私みたいな人間がいるように。
「着いたよ」
「お疲れ様」
駐車場に車を停め、ホテルに入る。
併設されている美容室で髪をセットしてもらい、着替えを済ませ親族控室に入った。
「…失礼します」
室内に入る私へ向けられる二人の冷たい視線。
夫の義両親からの物だった。
「…ご無沙汰しております」
頭を下げる私に義両親は無言。
許してはいない、当たり前だ。
先に部屋に居た謙一は笑顔で義両親に一生懸命話掛けている。
強張った空気が少し緩んだ。
「おまたせしました」
ドアが開き、一人の紳士が室内に入る。
9年振りに見る夫。
体型こそ変わらないが、髪に白い物が増え顔も幾つかの皺が刻まれていた。
「…元気そうで安心したわ」
部屋の片隅で小さく呟く。
義両親は夫の前に歩み寄り、その身体を擦っている。
もしかして、義両親とも会ってなかったかな?聞けるはずもない。
この場に私の両親は居ない。
高齢だからと言ったが、本当は義両親に遠慮した。
孫の晴れ姿さえ見せられないなんて、本当に私は親不孝だ。
用意が整い、私達は式場内のチャペルに入る。
最前列は夫と義両親が座り、私は息子が座る後ろの3列目に。
これは私が強く望んだ席順だった。
夫の腕に手を添え、バージンロードを歩く美愛。
綺麗で幸せそう、花嫁の控室に行かなかったので、これが初めて見る娘のウェデングドレス姿だった。
「おめでとう…」
涙でよく見えない。
手が痛くなるのを忘れて祝福した。
「さて…帰ろう」
式も終わり、席を立つ。
もう悔いは無い、母親として娘の式を見られたんだから。
「史佳」
「え?」
立ち去ろうとする私を呼ぶ懐かしい声。
振り返ると、そこに居たのは…
「あなた…」
どうして私の名前を?
もう二度と呼んで貰えるなんて思って無かったのに。
「母親が娘の披露宴に出ないでどうする」
「は?え…?」
夫の後ろで謙一が親指を立てて笑っていた。
「私達は帰るよ、年寄りに長い披露宴は堪えるからね、あんたの席は私のを使うといい」
そう言って義父様はお義母様と私の前を通り過ぎた。
「さあ母さん」
「ち、ちょっと待って」
何が何だか分からない。
息子に背中を押されて、私は親族テーブルに着いた。
私と夫の間に息子が座り、何だか凄い笑顔。
対して夫は無表情だった。
その後の記憶は定かではない。
なにしろ気持ちの準備が全く出来て無かったのだから仕方ない。
「さあ父さん飲んで」
「あ…ああ」
謙一は夫に酒を頻りに勧めていた。
「では新婦美愛様よりお手紙です。
お父様お母様、どうぞこちらへ」
「え…ええ!!」
司会の言葉に頭が真っ白になる。
こんな演出プログラムも当然知らない。
「行くぞ」
「わ、分かりました」
真っ赤な夫に腕を掴まれ、私はステージ真ん中のスペースに立った。
「お父さん、お母さん…」
私達を見る美愛の目は潤んでいた。
「今日は二人共来てくれて本当にありがとう。
お父さん、私は本当にお父さんが大好きでした。
いつも包み込む笑顔で…」
美愛の手紙が続く。
お父さんの事、おじいちゃん達、謙一、温かな言葉に私は心が満たされた。
「お母さん…」
美愛の言葉に身体が引き締まる。
まさか私の事まで?
一体何を言うの…
「私が小さい頃、熱を出して寝込んでいた時、仕事を切り上げて帰って来て、一晩中寝ないで看病してくれましたね。
母親として、その優しさは決して忘れません」
「…美愛」
そんな昔の事を覚えていたのね。
「でも悲しい事もありました…許せない事も…」
美愛の声が震える。
私は顔が上げられない。
「でも、やっぱりお母さんが大好きです。
生まれ変わっても、やっぱり私はお父さんとお母さんの娘に生まれたいです」
「あぁぁぁぁ!!」
力が抜け、崩れ落ちそうになる私を謙一が後ろから抱きとめてくれる。
そんな私を夫はなんともいえない表情で見つめていた。
「母さん落ち着いた?」
「ごめんね心配かけて」
過呼吸を起こした私はそのまま控室まで連れて行かれた。
ようやく体調が戻って来たみたい。
息子の肩を借り、なんとかホテルを出る。
夫の姿はない、呆れて先に帰ったのだろう。
あんな不様な姿を見せられたら…
「来たよ、気をつけて帰って」
「今日はありがとう」
息子が手配したタクシーが停まる。
後部座席の扉が開き、中に乗り込もうと…
「…どうして?」
「謙一が手配したタクシーに乗っただけだ」
既に夫が後部座席に座っていた。
「ちょっと謙一…」
「すみません行って下さい」
私の言葉を聞かず謙一はタクシーの運転手に発車を促す。
またしても何が何やら分からないまま、扉が閉まりタクシーは動きだした。
沈黙が続く車内。
隣には9年振りに会う夫。
何を話せば…いや私にそんな権利はない。
「披露宴、君は何も食べてなかったな」
ポツリと夫は呟いた。
「私も殆ど食べられなかった。
謙一の奴、酒ばかり勧めて…」
夫の顔はまだ少し赤い。
空腹でビールばかり飲まされたら、酔いも回るでしょう。
「…もう帰るんですか?」
恐る恐る尋ねてみた。
「帰る」
「そうですか…」
素っ気ない返事。
でも私の言葉に返事をてくれるだけで嬉しい。
「その前に酔いを醒まそう」
「分かりました…運転手さん、どこかに喫茶店がありましたら」
「…いや今日はこのまま帰ろう」
「は?」
「家に…あの家に」
「わ…分かりました。
そのままで宜しくお願いします」
座席で身体を丸め、嗚咽する口を押さえる。
我慢の限界を迎えた私は顔を上げる事が出来ない。
「謙一…美愛…家を売る事は当分出来そうにないみたい」
夫の隣で私は呟く。
今日だけの奇跡かもしれない。
これが最後で、もう二度と来ないかも。
それでもいい、私達を乗せたタクシーは家族が過ごした家に向かっている。
それだけで満足だった。
おしまい




