疼き続けた傷跡
息抜きに書きました。
仕事が終わり帰路に着く。
駅から歩くこと15分、閑静な住宅街に建つ一軒の家に入った。
「ただいま」
電気を点け、玄関を上がる。
誰も居ない家の中はとても静かだ。
「ふう…」
鞄をテーブルに置き、ネクタイを緩める。
この家から娘が出て、早いものでもう二ヶ月が経とうとしていた。
「本当、静かだな」
息子は一年前に就職で家を離れ、娘も遠方にある全寮制の高校に進んだ。
20年前に購入した家、家族4人賑やかに過ごした時間が遠い昔のように感じられた。
「ふむ」
携帯の画面を確認すると一通のメールが届いていた。
それは妻からの物、彼女は2日前から1週間の予定で勤めている会社の出張に行っていた。
[あなたお疲れ様、今日は山科ホテルで一泊してます。
予定通り週末には帰ります、お土産何が良いですか?
あなたも明後日から出張ですね、身体に気をつけて下さい]
「[ありがとう、そちらも気をつけて…]と」
妻からのメールを読み終え、短く返事を送信する。
一見ごく普通の共働き夫婦が送る日常に感じるだろう。
夕飯は帰りに食べて来た。
冷蔵庫からビールを取り出し、帰宅途中スーパーで買ったツマミをあてに晩酌。
少し前までなら娘が酌をしてくれた時もあった。
「はあ…」
溜息が出る。
寂しいからだけではない。
子供達が巣立てば夫婦だけの生活になるのは当然の事。
ただ俺にとって夫婦二人の時間は、拭い去る事の出来ない過去の記憶に苦しむ事の始まりになるのを自覚していた。
妻は18年前に不倫をした。
結婚前から妻は上場企業の総合職で働いていた。
妻の方が収入も多く、残業で帰りが遅いので俺は定時に仕事を切り上げ、毎日幼い息子の送り迎えをしていた。
全く妻の不倫に気づかなかった。
発覚したのも妻の方から離婚をしたいと言い出したからだった。
『どうかお願いします、責任は取りますから』
妻は連日私に離婚を迫った。
浮気相手は妻の高校から大学時代に掛けて付き合っていた恋人だと言った。
大学を卒業した二人は結婚するつもりだったが男の実家から反対され、家が決めた婚約者と結婚する事になり妻は泣く泣く別れた。
しかし一年前に仕事で偶然男と再会し、話をする内に燃え上がってしまい再び関係が始まったとの事だった。
俺は離婚を拒んだ。
結婚前から交際していた恋人のことは聞いていた。
まだ想いは残っているとも。
しかし2年の交際で妻は私を選び、結婚して息子まで授かったのだ。
過去の終わった恋愛で今の生活を簡単に壊す神経が分からなかった。
『まだ謙一は5歳だ、子供に母親が必要な事くらい分かるだろ』
必死で妻を止めた。
子供の事を出すのは自分でも卑怯だと分かっていた。
妻の母性に縋ってでも、離婚を回避したかった。
『謙一はあなたに譲ります、養育費も相場より多く支払います』
『お前は…』
妻と男の間では、直ぐ再婚して二人の子供を作ると話が出来ていた。
だから邪魔な俺との息子は要らない。
あまりに薄情で身勝手な妻に義両親も娘の説得を諦め始めた。
それを恥ずかしげもなく俺達の前で話すほど史佳の意志は固かった。
俺の両親も史佳のバカさ加減に離婚を強く勧め、離婚条件の話し合いを始めようとしていた時、事態は一変した。
『私達夫婦は決して離婚を致しません』
不倫相手、板下満男の妻が離婚の意志を撤回し、断固拒否に転じたのだ。
『私のお腹に子供が居る事が分かったの。
長い不妊治療の末、ようやく授かった命よ。
あなたは私から幸せを奪うだけじゃない、この子の父親である事からも逃げるつもりなの?』
叫びに近い奥さんの訴えに男は妻と再構築を決め、史佳は再婚をする事が叶わないと知った。
『どうするつもりだ』
不倫相手との仲が終わり、憔悴する史佳に俺は聞いた。
『貴方が離婚すると言うなら従います…』
一転して弱々しく呟く史佳。
同席していた義両親の目は、なんとか離婚を覆せないかと期待していた。
対して俺の両親は、そんな家族を心底軽蔑した様子で眺め最終判断は俺に任せると言った。
ただ一言、『後悔だけはするな』と。
『…史佳はどうしたいんだ?
自分の気持ちを教えてくれ』
『私は元に戻りたいです…』
自分勝手な事を言う史佳。
あれだけ離婚離婚と騒いでおきながら、今更だと思った。
しかし息子にとって史佳はたった一人の母親。
それを俺の気持ちだけで奪っていいのだろうか?
一カ月、俺は悩み抜いた。
『いいだろう、だが息子の為だというのは忘れるな』
『ありがとうございます…』
こうして俺は再構築を決めた。
半年に渡る離婚騒動はこうして幕を閉じたのだった。
家に戻った妻はそれから私に尽くすようになった。
仕事も出来るだけ抑え、家庭を第一にして、出張で家を空ける時はメールをマメに送るようになった。
トラウマはあった。
しかし翌年に夫婦生活も復活し、娘の美愛も授かった。
あれほど子供は一人までと言っていた妻の変わりように驚きもしたが彼女なりの謝罪だったのだろう。
「それなのに…」
携帯のメール画面。
娘からの着信メールフォルダーを開き、その一つに添付されている写真を広げた。
画像は妻宛に届いた一枚の年賀状を映す。
それは女性の名前で書かれているが、筆跡は力強く、角張った文字。
去年の正月に義実家へ訪れた娘が偶然その年賀状を受け取った。
妻は慌ててその年賀状を娘から取り上げ、引き出しにしまったそうだ。
不審に思った娘が後でこっそり写真に撮り、俺に送信した。
年賀状の筆跡に覚えがあった。
なぜなら同じ筆跡の書類が我が家にある。
離婚騒動の時に書かれた示談書、板下満男の文字。
文面は当たり障りの無い物だったが、最後の一文が問題だった。
「来世か…」
短く、[私も来世があるなら、もう1度史佳と出会いたいと思います。]
そう書かれていた。
妻は何を書いたんだ?
いつから年賀状のやり取りを?
もしかしてまた不倫を?
疑念は深まり、一年以上俺の心を侵食していた。
「相談するか…」
妻を問い詰める前に相談しよう。
俺は18年前、離婚騒動の際に相談した親友に連絡を入れる。
「亮一か?
俺だ山内政志だよ、実は折り行って相談が…」
新たな一歩を、こんどこそ悔やまない決断をする為に踏み出すのだった。




