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第八十話 アーシャ、選ぶ

「誰かいませんかー。って、居るわけないっぺな、こんな廃墟に人なんて……」


扉の中は、耳が痛くなるほど静まり返っていて、おいらが出した大声が、わんわんわんわんと反響していく、その音のたわみさえわかるほどだった。

そんな場所は、朽ち果てた神殿というほかない場所だった。

見ている間に今にも動き出しそう、と思うような生々しさの在る石膏像みたいな物がいくつも並んでいるここは……信者が集まるために使われていた礼拝堂の様にも見える。

そんな場所の床は、土やほこりで汚れてこそいないものの、苔や蔦があちこちを侵食している。

おいらが今、踏みしめて立っている絨毯も、もともとは真紅に染まっていたのだろうけれども、今は退色して、ちょっと足に力を入れてしまったら、穴が開きそうだった。

色々なものが、信者が誰も訪れていない年月を語っていて、ここまでくる闖入者が、居なかった事も示していた。

声をあげても、誰も現れない。

そして、何か罠でもあるのかと思ったのに、罠らしきものは一つもない。

ここがまるで、誰もが訪れる祈りの場所であるかのように。


「……」


おいらはつばを飲み込んだ。

大神官さんは、美の女神の泉の水が、どこにあるかって、教えてくれたっぺか。

記憶を頑張って漁ったものの、おいらが忘れっぽいのか、それとも言われていないのか、答えが見つからない。

でも。

おいらは手の中の水晶玉を確かめた。大神官さんが渡してくれた、かなり強い力を持つ、探し物の方角を教えてくれる水晶玉だ。

これが、ここだと示したのだから、きっとここに、美の女神の泉の水は、ある。

他にあてがあるわけもない。また一から、場所を探す事をするのは、この場所の探索が終わってからで十分だ。

そう言う風に判断して、おいらは手の中の水晶玉に、もう一度、探し物を念じた。

水晶玉から現れた、光の矢印は、すうっと、おいらが立っている場所の先を示す。

そちらをじっと見ていると、そこは礼拝堂らしき場所から、別の場所に続く通路があるようだった。


「あっちか……」


魔物がいつ出て来てもいいように、おいらは手甲を確認して、息を整えて、意を決して歩き出した。

絨毯を踏みして歩いていく。礼拝堂の絨毯は赤色が退色したものだったけれども、通路には絨毯が敷かれていた形跡はない。

あそこが特別な場所だったかの様だ。

実際に、信者にとって祈りの場とは、特別なものだから、そうだったんだろう。

石組みにはいくつもの蔦植物が、這っている。

長い長い年月を示すかのように、それらは命を示していた。

花が咲いている蔦植物もあるから、ここが一層非現実的な場所のように見えて来るのだ。

そんな中、おいらは水晶玉を頼りに歩き、突き当りの壁に、彫られた文面に気が付いた。

おいらはあまり学がないから、最低限の文字しか読めない。なのに。


「……どうして、意味が分かるんだっぺ?」


西の国の言葉を、一種類しか知らないおいらにも、そこの刻まれた文字が読めたのだ。

おいらはゆっくりと、その文字を声に出して読んでみた。


「神なる美のしずくを求めしものよ、なんじがそれを手に入れるためには、この先にある最も質素な杯を使わなければならない」


神なる美のしずく……美の女神の泉の水っぽい名前だ。その場所についたら、水晶玉に確認してみようと思いつつ、もう一度そこを見る。

文字が変わった形跡もない。

これはどうやら、とる時の注意書きのようだ。

おいらは、神殿が聖水を、人々にふるまう時の事を思い出した。

年に一度、年の初めにそれを飲むと、病気になりにくいと言われていたから、誰もがこぞって手に入れたがったものだ。

確かそれを汲む場所にも、お賽銭の値段とか、汲むために使う専用の漏斗とかの説明が書かれていた気がする。

神殿はどこでも、こう言った注意書きがあるものなのだろう。

そう納得できる文面でもある。

最も質素な杯って、どんな杯だろう。木製だろうか、石でできているのだろうか。

とりあえず、金銀宝石で、出来ている物ではないという事がそこからわかる。

こう言った物を読まないで、色々行動すると、何かと不便だと知っているから、おいらは続きを読んだ。


「最も質素な杯をもちい、導かれし水差しに注がなければ、手に入れる事は叶わない。だがなんじはそれを手に入れるために、多大な犠牲を支払う事になるだろう」


犠牲とは。いったい何を支払わなければならないのだろう。

単純に手足だけだったとしても、ここから再び、自分の居場所に帰る事は出来なくなりそうだ。

おいらも、手足を支払わなければならないなら、帰れないから考えなくちゃいけない。ディアノン様に渡す前に、命尽きるわけにはいかないのだ。

それに、海辺の魔女が、そんな無理難題を言ったとも考えにくい。

心臓石の方が価値があるものだったから、あの時交換が出来なかったのだから。

おいらが偶然手に入れられる物よりも、こんな手の込んだ事をしなくちゃいけない物の方が、価値がないなんて言うのも変な話だが。

刻まれた文字は何を意味するのだろう。

おいらは続きを読み、動けなくなった。


「なんじは水差しを手に入れ、神なる美のしずくを手に入れる代わりに、一年以上生きられなくなるであろう。神の領域のものを手に入れるゆえの代償である」


……余命一年になるって事だっぺか。

手に入れたら、残り一年しか、生きられないんだっぺか。

おいらは自分の両手を眺めた。

自分の命か、誰かの何かか。

選ばなきゃならない、とその文字は伝えて来ていた。


「…………」


おいらはものすごく考えた。でも。

自分の命がなくなる恐怖よりも、おいらは、ディアノン様が、呪われて苦しむ事の方が、胸が痛かった。

おいらは、あの人に、幸せになってほしい。

幸せになるために、呪いを解きたい。

おいらも幸せになりたいけれど、あの、傷ついた人の幸せの方が、大事だと思えたのだ。だから。


「一年、命が残されるなら十分だっぺよ」


必ず、あの人に、美の女神の泉の水を、渡せるんだから。

おいらは顔をあげて、その文字の刻まれた石が示す場所へ、さらに奥へ進んでいった。

進んでいくと、空気が一層普通のものじゃなくなっていく。

いっそう静謐に、一層神秘的に。いっそう神々しく。

肺の中にその空気を入れて行く事すら、重苦しく感じるほどの何かに満たされた空気の中、おいらは進んでいく。

そして、やっと着いた場所にあったのは、とても透き通った水が、滾々と湧き出る泉だった。

そこには、目もくらむような輝く杯や、金の杯銀の杯、ガラス、水晶、宝石飾りつき……一つだけでもひと財産になるような杯が、無造作に転がっていた。

でも、注意書きによれば、それらで汲んではいけないのだ。

おいらはそれらを見回して、年月の間に朽ち果ててしまったのだろう、一番質素に見えた、木の杯を手に取った。

それを手に取った瞬間の事だ。

頭上から、何かがおいらの脳天に直撃した。


「いってえなあ!」


思わずかなりの大声をあげてしまって、おいらは自分にあたったものが何か確認するべく、周りを見回した。

痛みからして、生物ではなさそうだ。

しかし、じんじんと痛むものだ。

頭をさすりながら、落ちた物を見ると、それは何か植物で編まれた水差しだった。

今にも、水が漏りそうな見た目の水差しである。

…………

導かれた水差しって、これだっぺか……?

おいらは周りを見回した。ほかにそれらしき水差しは落ちていない。じゃあこれなのだろう。

いよいよだ。

おいらは一度目を閉じた。ここで美の女神の泉の水を手に入れたら、おいらは、一年後には死ぬのだろう。

色々な事が頭を駆け巡っていく。

でも最後は、ディアノン様が笑った顔しか、残らないという事を確認し、おいらは、杯を、泉の中に沈めた。

それで水差しへ、泉の水を汲んでいく。

手が感じる水は恐ろしく冷たくて、それで、手触りが普通じゃない。

しかし、ぼろぼろの杯では、いつまでたっても水が溜まらない。

水差しを沈めても、きっと水は一杯にならないのだろう。

そう思った矢先だ。

おいらは、杯が、ゆっくりと原型を取り戻していく事に、気が付いた。

時を巻き戻すかのように、ゆっくりゆっくり、杯が、出来上がった当時の姿に戻っていく。

それと同時に、おいらの体は、どんどん、力をなくしていく。

そこでわかった。


「寿命を吸い込む杯じゃないと、水が汲めないんだっぺな……」


という事に。

おいらはもう決めた事だから、杯を落さずに持ち続けて、やっと、ちゃんと水が汲めるところまで戻った杯で、今度はちゃんと、水差しいっぱいに、水をそそぐ事が出来た。

おいらはふらつく体を何とか叱咤して、水差しを抱えて、立ち上がり……鼓膜を震わせない声を耳にした。


「なんじのかくごはみとどけた、そのおもいにこたえよう」


それを聞いたが最後、おいらの意識は真っ黒に染まった。


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