最終話
即位式の翌日。
私は宰相達による進講を受ける謙王――皇帝を訪ねた。
光極殿の玉座に座るその姿は、新鮮でまだ見慣れない。
でもじきにすっかり馴染み、この国に欠かせない存在になるだろう。
民から慕われ、長く繁栄を牽引する皇帝になってくれるに違いない。
今後の皇帝には、私の力はもう特に役に立つことはないだろう。
(その活躍する姿を、近くで見られないのは少し寂しい気がするけど)
皇帝は玉座を下りると早足に私の下に駆けつけた。
膝を折っていた私は、立ち上がると自分の決心を伝える。
「羅国遠征は終わりましたので、青海州の廟に戻ります。大巫者にも会いたいので」
「またすぐにここに戻ってきてくれますか?」
私を覗き込む皇帝の表情は、不安と寂しさが混ざっている。
「いいえ。戻る予定はありません。ただ、私が必要になった時はいつでも呼んで下さい」
皇帝の眉尻が悲しげに下がる。彼はぱちぱちと瞬きをしながら、私からゆっくりと視線を離し、殿舎の欄干の方へ歩いた。
高い基壇に建っているせいか、光極殿は見晴らしが良く、城壁の向こうの開京の街並みが一望できる。
朝霧に霞む瑠璃瓦の屋根が、いくつも連なっている。
皇帝は赤い欄干に片手を乗せ、呟いた。
「私は結果的に望んだ以上のものが、手に入りました。ですが、同時に失ったものも多いのです。――もしも、今もこれからも、ずっと明様が必要だと言えば、私のそばに残って下さいますか?」
「陛下は軍神の明が欲しいのですか? それとも、ただの人間の明依ですか?」
皇帝は予想もしない質問をされた、といった風情で目を白黒させて私を振り返った。
「明様はただの人間ではないでしょう」
私は否定も肯定もしなかった。その代わり、欄干の上に両肘をつき、寄りかかった。街並みを見ながら、決意を込めて言う。
「これ以上皆を騙すのは、心苦しいんです。私、女であることをこれからは隠さずに生きようと思うんです」
皇帝は一瞬驚いたように目を見開いたが、穏やかに微笑んでくれた。
「軍神衛明は女性だったと、御触れを出します。今や貴女自身が伝説となっていますから、否定する者はいないでしょう」
「そうだといいんですけど」
謙王は今や皇帝となったが、私にとっては戦友だった。
別れが惜しくないわけではない。その思いを共有するように、私達はしばらくの間お互いの顔を見つめ合った。
皇宮を発つ前夜。
私は二度と訪れないと思っていた、将軍の私室を訪ねた。この日は元宵節に訪れた時とは違い、燭台の火や灯籠が灯され、明るかった。
部屋に入ってすぐのところに小上がりがあり、背の低い長卓が置かれている。
そこに向かい合って座ると、皇宮を出ていく決意をしたことを話す。
「将軍には大変お世話になりました。大巫者に会って、瀛州に帰る道を探します。たとえ帰れなくても、廟で働きます」
(どうせ一発屋軍神なんだから、もう戦に駆り出されたくないし。この皇宮で魑魅魍魎に揉まれるより、廟でお守りとかお札でも売って生活する方が、よっぽどいいわ)
だが将軍は思いもよらないことを言った。
「明様――。廟よりも、私の屋敷にいらっしゃいませんか?」
急な申し出に、言わんとすることが分からない。
「ええと、それは私を将軍がご自宅で雇って下さると?」
門番くらいなら、できるだろうか。何しろ私には、白雷刀がある。給料次第では廟で働くより、宇文邸の方が魅力的かもしれない。
だが将軍は質問に答えず、なぜか控えめに微笑んだ。
「私はこの先も、明様とこうしていつでもお会いしたいのですが」
どきんと心臓が跳ねる。この流れは、まさか……。
「私は瀛州で明様を待つ方々よりも、貴方を強く想っております」
丁度卓上の灯籠の蝋燭が燃え尽きたのか、急に火が消えて少し暗くなる。
将軍の端正な顔の陰影が濃くなり、大人の色気を漂わせる。
私は気がついた。将軍は同僚の別れの演出ではなく――果敢にも幻の少年を、押しにきているのだ、と。
将軍が卓の上に置いていた手を伸ばし、私の手の甲に触れる。途端に頼りない気持ちになる。
真摯な瞳に真っ直ぐに見つめられ、もうどうしていいか分からない。――いや、今やることは一つだ。
いつまでも隠しておくことはできない。
私は女であって、将軍の恋愛対象にはなれない。伝家の宝刀を抜くなら、今だろう。
少し残酷なやり方かもしれないけれど。
私は大きく一度深呼吸をしてから、秘密を打ち明けた。
「実は――私、お詫びしないといけないことがあるんです。私本当は、……女なんです!」
黒曜石の瞳が、はっと見開かれる。
だが表情全体には、あまり変化がなかった。予想以上に反応が薄い。
(あれっ? おかしいな。もしかして、驚き過ぎて理解できてないのかな?)
釘を刺すように、もう一回言っておく。
「私、ずっと男の振りをしていたんです」
ややあってから、将軍は言った。
「存じております」
「そうなんです。私は実は――って、えっ?」
(存じてた? って、何? いやいや、まさか)
硬直する私の目の前で、将軍は続けた。
「この部屋に侵入なさったことがあったでしょう。あの時、私が差し上げた巾着も落としていかれた」
途端に顔が上気する。そうだ。確かにあの日、あの巾着をなくしたんだった。
(将軍に買ってもらった巾着! まさか本人の部屋に忘れていたなんて‼ というか、そんなに前から私が女だって、気づいてたの……?)
ここに忍び込んだあの宮女が私だと、バレていたなんて。焦りのあまり、全身から汗が吹き出す。
だけどまだ一つ、納得できない。
「でも、だって、将軍は男性がお好きなんですよね?」
「あれは口から出まかせの、苦肉の策だったのです」
どんどん絡まっていく糸に、途方に暮れる。――いや、これは解けていっているのか。
将軍はとろけそうに甘い口調で言った。
「明様。貴女が、好きです」
(どうしよう。予定ではここで、異性だと知った将軍が私に興味を失ってくれるはずだったのに)
予定とは真逆に、どんどん深みにはまっていく。
私はもう一つの、とっておきの秘密を明かした。こうなればやけくそだ。
「私、本当は軍神なんかじゃないんです! ただ空から降ってきた雷と刀に当たってここに来ちゃった、普通のその辺の軒先に立っていた女なんです!」
「それはもう、じゅうぶん普通ではありませんよ」
私の手を包む将軍の手の熱さと、熱心な視線に怖くなり、念の為尋ねる。
「将軍が好きなのは、軍神の明ですか? それとも取るに足らない明依ですか?」
「どちらでも構いません。私はただ、貴女が好きなので」
こう言われてしまっては、逃げ道がない。
「先程の続きですが、我が家にいらっしゃれば三食昼寝付きですよ。――ただし、貴女は私が独り占めさせて頂きますが」
背筋を冷や汗が伝う。それ、もしかして仕事じゃないんじゃ……。
「それって、……なんのお仕事ですかね?」
「瀛州には、結婚という制度はありませんでしたか?」
「あ、ありましたけど……」
「それでしたら話ははやい。これからは私を将軍ではなく、一人の男としてご覧下さい」
「ちょ、ちょっと待って下さい。なんだか色々と急過ぎて!」
「私は、明様を待ちますので」
「ありがとうございます」と礼を言うと、ぎこちなく手を引き抜く。一体、何のお礼を言ったのか自分でもよく分からないけれど。
新皇帝が即位してから、二週間後。
皇帝や禁軍兵達に盛大に見送られた後、私は荷物を肩に背負い、宮門を出た。
衛帝廟からの迎えの馬車が、もうすぐ宮門まで来てくれることになっている。
辺りを見渡すと、しみじみと感慨深かった。
この世界に来た当初は、冬に向かう寒い季節だった。それが今や夏真っ盛りとなり、季節が変わっただけでなく、皇帝すら変わったのだ。
暑い陽射しの中で、蝉の合唱が聞こえる。一台の大きな馬車がやって来ると、驚いたのか蝉達の鳴き声が一斉にやむ。
眩しい木漏れ日に目を細めていると、馬車は私の目の前で停車した。
降りてきたのは、大巫者だった。衛帝廟から大巫者自らが迎えに来てくれたらしい。
大巫者は袍ではなく、襦裙を着た私を見て束の間驚いた様子だった。だが大きく一礼した後、恭しく言った。
「明様。この度の羅国討伐、まことにお疲れ様でございました」
「私はたいしたことはしていないんですよ」
思わず苦笑すると、大巫者は加齢のせいか、少し震える手で私の両手を握り締め、その垂れた目をひたと向けた。
「いいえ。明様はこの国を簒奪者から、お守り下さいました。貴女様はやはり、軍神の化身でらした。天にも、わしにも誤謬はありません」
「大巫者様ならご存知でしょうか。私は瀛州に戻れますか?」
大巫者は少しの間、返事に悩む様子を見せた。そしてゆっくりと頭を振った。
「天のみぞ知ることかと。いずれにしましても、衛帝廟は貴女様の廟です。廟主としてお迎え致します」
馬車に乗り込もうとすると、聞き覚えのある馬の嘶きが背後からした。
振り返るとそこには、万里の手綱を引き、黒風に跨った将軍がいた。彼は涼しい顔で言った。
「明様。万里をお忘れですよ」
「わざわざ万里を届けに?」
「実は青海州に別邸を購入致しまして。道中、ご一緒させて下さい」
爽やかな笑みを交えての報告だった。
「流石、宇文将軍は目が高い。青海州は、風光明媚な美しい所ですからの」
大巫者は満足そうに、その小さな首を縦に振った。
「ええ。腰を据えて、あちらであることに取り組みたいと思っておりまして」
腰を据えて……もしや求婚するつもりだろうか。
どうしよう。この不死身将軍の求婚から、逃れられる気が今からもう、しない。
こうなったら新進気鋭廟主として、仕事に邁進していくしかないかもしれない。
自分の歩む道を見据え、新たな決意を胸に抱いて馬車に乗り込む。
入り口の垂れ幕を閉めようと顔を上げると、皇宮の高楼に人が立ち、こちらを見ていることに気がついた。
遠目に、頭上に戴く冕冠が見える。――皇帝だ。表情までは見えないが、私は彼に微笑みかけながら垂れ幕を閉めた。生死を共にした彼との別離は、やはり寂しく感じる。
馬車が宮門を離れていくと、将軍が並走を始めた。その姿を見て、少し嬉しいと感じてしまう。
(私ったら、将軍が一緒に来てくれて実は喜んでる?)
複雑な心境に頭を悩ませていると、ふと向かいに座る大巫者と目が合う。彼女は茶目っけたっぷりに笑った。
「色々と、皇宮でご経験されたようですな。このわしにもぜひ教えて下され。とりわけ羅国での武勇伝や――明様を利用しようとしたあの食えない不死身将軍を、どうやって掌で転がすようになられたのかを」
「転がすなんて、とんでもない」
「ほぅ。では将軍は、勝手に転がったということじゃな」
車内に私達の笑い声が、溢れた。