第0話:ススキノ、午後十一時四十分——俺はまだ人間だった
午後十一時四十分。その時点では、俺はまだ人間だった。
とか言いつつ、実際にやってたのはパトカーの助手席から面倒くさそうに降りただけ。
通報内容は「路地で男が倒れている」。この時間のススキノじゃ珍しくもない案件だ。
「今月何件目だよ、これ」
桑田さんが欠伸まじりに言う。
「数えてないですけど、今週だけで三件目じゃないですか」
「先週の行き倒れ、覚えてるか。救急車の中で急に暴れだして、隊員殴った奴」
「ああ、いましたね。あれ結局どうなったんです」
「知らん。多分、酔いが醒めてから死ぬほど後悔してるだろうな」
そんな話をしながら、二人で笑って路地に入っていった。
この「笑いながら」を、俺は後になって何度も思い出すことになる。
ビルとビルの隙間、ネオンの光も届かない場所に、男が一人うずくまっていた。
四十くらいだろうか。地味なジャンパーにチノパン。この街の色に全く似合わない、影に溶けそうな格好だ。俯いていて顔は見えない。
「大丈夫ですか」
桑田さんが声をかける。反応なし。
俺も声を張る。反応なし。
まあ、ここまではよくある。酔えば意識くらい飛ぶしな。
近づいて、俺は違和感に気づいた。
コイツからは酒の匂いがしない。吐瀉物も小便の匂いもない。
するのは埃っぽい服の匂いと、なんだか饐えたような、うまく言葉にできない匂いだけだった。
――酒じゃないな。ヤクか。
肩に手を置く。
九月だ、そこまで寒くもないのに、氷みたいに冷たい。
思わず手を引きそうになる。
手首を取ったが脈がない。
指の位置が悪いのかと思って測り直すが、ない。
首筋に指を当ててみても同じだった。
口元に耳を近づけたが呼吸音もない、胸も動いていない。
――マジかよ。
「心肺停止だ、救急要請!」
桑田さんが無線に叫び、俺に心臓マッサージを指示する。
俺は男の身体に手をかけ、仰向けにしようとして、気づいた。
身体が硬くない。
止まってから時間が経ってるなら硬直してるはずなのに、冷たいくせに柔らかい。
それを言葉にしようとした、まさにその瞬間、男が動いた。
首が持ち上がる。
俺は一瞬びくっとしたけど、次の瞬間には安堵してた。
生きてたのか。
脈が取れなかったのは俺の測り方が下手だったんだ、よかった。
目が合う。――でも、合ってない。
焦点が俺の後ろにある。瞳孔が開ききって、白目が濁ってる。
おかしいとは思った。思ったけど、それでも手を伸ばした。
目の前に具合の悪い人間がいたら手を差し伸べる。
そう教わってきたから。それが仕事だから。
「大丈夫です、いま――」
言い終わる前に、手首に食いつかれた。
熱くて痛くて、歯が骨まで食い込む感触がした。
振り払えない。顎の力がおかしい。
桑田さんが横から飛びかかって押さえ込んでくれて、俺は腕を引きちぎるようにしてようやく外れた。
手首から血が噴き出す。
男は暴れ続けてる。痛みも疲れもないみたいに、機械的に手足を振って歯を鳴らしてる。
「完全にキマってるな、これ」
桑田さんが無線で応援を呼ぶ。俺もそう思った。
ヤクだ。それ以外に説明がつかなかった。
血が止まらない。
傷、深いかもな。破傷風とか大丈夫だろうか。
狂犬病みたいに、人に噛まれても何かうつるんだろうか。
処置早くしないと痕残るかもな。病院行きだな。
始末書も書かなきゃだ。課長になんて説明しよう。面倒くさい。
――そんなことを、本当に、そんな程度のことを考えていた。
傷が痛くない。痛みが熱さに変わってる。
手首から肘、肩、心臓へ、熱が血管を這い上がってくる。
変な感じだ。桑田さんを呼ぶ声が、自分でも驚くほど小さい。
声が遠い。水の中みたいだ。視界の端が白く濁り始める。
膝が折れる。
地面に手をついたはずなのに、感覚がない。
指が勝手に動いてる。
俺が動かしてるんじゃない。
俺の指なのに、言うことを聞かない。
喉から音が漏れる。掠れて、人間の声じゃない。
やばい。これ、やばい。
誰か、助けて。
声にならない。
所属、道警中央署地域課。
階級、巡査。
氏名、安西。
年齢、二十六。
実家は旭川。
妹がいる。
来月の非番、久しぶりに飯を食う約束をしてる。
――俺は人間だ。忘れるな。俺は、人間だ。
でも、また崩れる。
桑田さんの顔が見えた。心配そうに覗き込んでる。いつも通りの、面倒見のいい先輩の顔。
その顔を見た瞬間、腹の底から込み上げてきたのは――空腹だった。
二年間組んできた人だぞ。
飲みに連れてってもらった。
娘さんの七五三の写真だって見せてもらった。
なのに、身体が、腹が、喉が、目の前のそれを「食い物」だと言っている。頭の中の自分が、必死に叫んでる。
違う、これは先輩だ、食い物なんかじゃない。届かない。
やめろ。
来るな、先輩。
逃げて、くれ。
叫ぼうとして出てきたのは、獣の唸り声だった。
「安西?」
桑田さんが俺の名前を呼ぶ。
身体が、
勝手に、
前に、
午後十一時四十分。その時点では、俺はまだ人間だった。
それが、最後の俺だった。
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