第六十部 完結〜昭和は、いい時代やった〜
昭和という時代は、今思えば少し不便で、驚くようなことばかりでした。けれど、あの頃を駆け抜けた記憶は、今でも色あせることなく私の胸の中で温かく息づいています。子ども時代の思い出と、家族への感謝をこめて綴りました。
小学6年生の夏に、学校で一泊キャンプがあった。
昼間は学校のプールで遊んだり、班ごとに分かれてかまどを組み、カレーライスを作ってみんなで食べたり、ゲームをしたり、歌を歌ったり。
夜になると、運動場でキャンプファイヤーを囲んでフォークダンスをした。
そして最後は、お決まりの「肝試し」。
夜の暗い校舎を歩くだけなのに、子どもにとっては本気で怖くて、友達の服の裾をぎゅっとつかんで、一歩も離れなかったものだ。
夜寝るのは、普段勉強している教室だった。
床は冷たくて硬いコンクリート。
その上に、薄いござを一枚敷くだけ。
これが背中や腰に当たって痛いし、真夏だから暑い。
なかなか眠れず、床の上でゴロゴロと何度も寝返りを打ちながら、気がつくと朝になっていた。
そういえば、体育の時間といえば、女子全員が『黒い提灯ブルマ』だった。
今の子どもたちや若い人が写真で見たら、きっと、
「えっ、何これ!」
と驚くに違いない。
それに、私たちの筆箱には、鉛筆を削るための小さな折りたたみナイフが入っていた。
私はなぜかそのナイフで鉛筆を削るのが得意で、自分のだけでなく、毎日友達の鉛筆まで進んで削ってあげていたものだ。
当時の講堂は古い木造の建物だった。
子どもたちの間では、
「夜中に幽霊が出る!」
などと噂されるほど、ちょっと怖い場所でもあった。
そんな講堂に、私たちはよく集められた。
集団予防接種などが行われ、全員が並んで順番を待っていた。
そして、今でも強烈に覚えているのが、頭に白い粉をかけられたことだ。
私たちは並んで、長い髪の頭にも白い粉を「ポンポン」と吹きつけられていた。
今では、学校で子どもたちの頭に薬剤を叩きつけるなんて、考えられない。
DDTは残留性が強いことから、1971年以降、日本国内では使用が全面的に禁止されたという記事を読んだ。
昭和の学校は本当にたくましくて、おおらかで、今では信じられないことばかりだった。
そんな小学生の頃に、新し物好きの母が、ガスオーブンを買った。
料理の苦手な母が、突然ケーキを作ると言い出した。
今のように、スーパーへ行けば何でも揃っている時代ではない。
近くのお店を探し回っても、生クリームなんてどこにも売っていなかったらしい。
そこで母は、生クリームを求めて、なんと牛乳屋さんへ行った。
母は本を見ながら、材料を揃え、慣れない手つきでケーキ作りに挑戦した。
そして、ついに完成した。
なんと、そのケーキは家の形をしていた。
その後…ガスオーブンは二度と使われることはなかった。
その頃、父は毎晩お風呂に入ると軍歌を歌っていた。
♫ここは御国を何百里
離れて遠き満州の
赤い夕日に照らされて
戦友は野末の石の下
思えば悲し昨日まで
眞先駆けて突進し
敵を散々こらしたる
勇士はここに眠れるか♫
父も戦争中は満洲にいたらしく、この歌詞に思い出を重ねていたのだろう。
晩酌をしながら、よく戦争の話をしていた。
そして今は、ニュースで戦争によって命を落とす人たちを目にする。
何十年経っても、戦争で命を落とす人がいることに、胸が痛くなる。
今は便利になり、何でも簡単に手に入る時代になった。
失われてしまったものも、たくさんある。
それでも、あの時代を駆け抜けた記憶は、色あせることなく、私の胸の中で今も温かく息づいている。
不便だったけれど、人と人との距離が近くて。
怒られたり、助け合ったりしながら、みんなで必死に生きていたあの頃。
振り返れば、いろいろあった。
楽しいことも、悲しいことも、怖かったことも、今では笑って話せることも。
そんな一つ一つの思い出が、今の私をつくっている。
そして私は思う。
やっぱり、昭和は、いい時代やった。
天国にいる父と母と姉に。
そして、あの激しくも愛おしい時代を生きた、すべての人たちに。
心からの感謝を込めて。
長い間、読んでいただき、本当にありがとうございました。




