第一部 トカゲの親指
昭和の暮らしや家族との思い出を、小説として綴りました。
笑いあり、驚きあり、ときどき涙あり。
懐かしい昭和の空気を楽しんでいただければ幸いです。
「親指隠せ!」
道端でトカゲを見つけるたびに、大人たちは決まってそう叫びました。
私たちは何が何だか分からないまま、飛び上がるほど驚いて親指をぎゅっと握りしめ、慌てて両手を背中へ隠したものです。
今思えば、どうして親指だったのかは分かりません。でも、あの頃の私たちは、大人の言うことを何の疑いもなく信じていました。
私も古希を迎え、七人の孫たちの賑やかな笑顔を見ていると、ふと、あの遠い昭和の時代へ心が引き戻されることがあります。
あの頃の子どもたちは、迷信を本気で信じ、畑や山や、ときには墓地まで駆け回って遊んでいました。土の匂いがして、世界が今よりずっと広く感じられた時代でした。
今のままごとは、可愛いプラスチックや木のおもちゃで行われているけれど、私の子供の頃の道具はまったく違っていた。
まな板は蒲鉾の板で、包丁は安全剃刀。鍋はどこからか持ってきたボコボコのアルミ鍋に、欠けたお茶碗。
野菜なんてどこにもない。そこら辺に生えている草を摘んできて、安全剃刀でトントントンと刻み、鍋に入れてこう言うのだ。
「はい、できたよ〜♫」
大人になった今なら笑ってしまう。
今の時代からは考えられないような、危ない遊びもあった。
車なんて滅多に通らない土の道。私たちはスコップで大きな穴を掘り、竹を割って横に並べ、その上に新聞紙を敷いてから、さらに土を被せた。そして、物陰に隠れてじっと待つ。
「誰か来んかな〜」
私たちは息をひそめながら、胸をワクワクさせて待っていました。
もちろん今なら「危ないから、絶対ダメ!」と言われるだろう。というより、大人になった私自身だって、「絶対にダメ!」と言うに違いない。
ヒバリが畑の上でピーチクパーチクとさえずりながら空を舞う。
「あそこに降りた!」
子どもたちは草をかき分けて夢中で探した。
けれど、一度も見つけられたことはなかった。
今はもう無き、紙芝居屋さん。
水飴を買って、煎餅を買って。おじちゃんの巧みな語りに、子どもたちは皆、目をキラキラと輝かせて聞き入っていた。
墓場だって立派な遊び場だった。大きなお墓と大きなお墓の間に身を隠し、チームに分かれては陣取り遊びに興じたものだ。
ある夏の日のこと、夢中で遊んでいて、不意に蜂に刺されました。
「痛いっ!! 蜂に刺されたーーっ!!」
泣きじゃくりながら叫ぶと、家の中から母の乾いた声がひとこと飛んできました。
「オシッコ塗ったら治る。」
えっ、と思う間もなく、気がつけば本当にそれは塗られていました。独特のアンモニアの匂いがいつまでもまとわりついているような気がして、刺された痛みなのか、それとも別の意味で恥ずかしいのか……。さすがに子供心に泣きそうになったのを、今でも鮮明に覚えています。
空が黒く染まり、雷が轟く日には、「雷が鳴ると、おへそを取られる」と教えられました。
我が家ではそれが絶対の掟で、雷鳴が響くや否や、父は慌てて家中のコンセントをすべて抜いて回りました。私は蚊帳の中に潜り込み、光る稲妻のたびに「いち、に、さん……」と数を数えながら、恐怖に震えつつ嵐が遠ざかるのをじっと待っていました。
スイカを食べるときもそうです。「スイカの種を飲み込むと、お腹の中で芽が出るよ」と大人たちは言いました。それを真受けていた私は、縁側にちょこんと座り、一生懸命に種をぷっ、ぷっと遠くへ飛ばしながら食べたものです。
庭に吐き出したスイカの芽が出て小さな実をつけましたが、そのスイカは秋風が吹く頃には、いつの間にか枯れてしまいました。
「ご飯を食べてすぐ横になると牛になる」という言い伝えもあった。これは何度お腹いっぱいに食べた後で試してみても、どうしても牛には変身してくれませんでした。
「夜に爪を切ると、親の死に目に会えない」
そう言い聞かされていたから、どんなに伸びていても、夜に爪をパチパチと切るようなことは決してしませんでした。
――それなのに。
いざその時が訪れてみれば、私は、親の最期の死に目には会えませんでした。
あんなに守り続けた言い伝えは何だったのだろうと、切なさが胸をかすめます。
今思えば、あれもまた、子どもを危険から守り、生活の理を教えるための、親たちの優しい「昭和の知恵」だったのでしょうか。
コンセントを抜き、オシッコを塗り、親指を隠させ、夜の爪切りを禁じた父と母。
信じることも、笑うこたも、怖がることも、全部が本気でした。
あの頃の子どもたちは、毎日がまるで大冒険のようだった。
あの不器用で温かな愛情の香りが、今でも私の中で、優しく息をしています。




