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ご先祖様、訴状です  作者: Rastarock


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第七件 かわいい地位確認訴訟 正式名称:曖昧好意語「かわいい」の濫用に伴う対象観察停止、評価内容未特定及び未来感性記録毀損確認請求事件

さてさて、賢明なる読者諸兄。


人間というものは、実に便利な言葉を発明します。


その中でも、たいへん愛され、たいへん広く使われ、たいへん油断ならない言葉がございます。


かわいい。


小さなものに、かわいい。

古いものに、かわいい。

不便なものに、かわいい。

怖いものに、かわいい。

錆びたものにも、かわいい。

無愛想な大将にも、かわいい。

なぜか恐竜にも、かわいい。


こうなりますと、もはや「かわいい」とは何であるのか。

好意なのか。観察なのか。消費なのか。縮小なのか。

褒めているのか。なめているのか。本人も分かっていない場合がございます。


本日、未来時際裁判所へ呼び出されましたのは、相川慎吾さん。


犯行当時四十一歳。

都内の食品メーカーに勤める、商品企画部の係長でありました。


酒癖が悪いわけでもありません。

家族を顧みぬわけでもありません。

会社で怒鳴り散らすわけでもありません。


娘の授業参観には顔を出し、週末には家族で買い物へ行き、会議では人の意見をいったん受け止める。街頭インタビューに声をかけられれば、困ったような笑みで物価高を嘆く。


まことに普通の、感じのよい大人でありました。


ただ一つ、少々困った癖がございました。


彼は、見たものをすぐ「かわいい」と呼んでしまうのであります。


     *


訴状が届いたのは、土曜の夜だった。


相川慎吾が家族との買い物を終えて帰宅すると、玄関の郵便受けに銀色の封筒が入っていた。


差出人はない。


封筒には、見慣れない文字でこう印字されていた。


未来時際裁判所

第七件 かわいい地位確認訴訟

被告 相川慎吾殿


相川は、しばらく封筒を見つめた。


妻の美咲が背後から声をかけた。


「なにそれ」


「分からない。なんか、裁判所って書いてある」


「裁判所?」


美咲は封筒をのぞき込んだ。


「銀色でかわいいね」


相川は、少し笑った。


「いや、裁判所の封筒をかわいいって言うのもどうなんだ」


「でも、ちょっとかわいいじゃん」


その瞬間、銀色の封筒がかすかに光った。


次に相川が目を開けたとき、彼は白く広い待合室に立っていた。


壁も床も白い。だが病院のようではない。どこか図書館に似ていた。壁際には古い木の椅子が並び、中央には受付台がある。


受付台の向こうに、淡々とした顔の係員が座っていた。


「相川慎吾さんですね」


「ここ、どこですか」


「未来時際裁判所です」


「未来?」


「はい。現在時間との厳密な対応は、説明すると長くなりますので省略します」


相川は顔をしかめた。


「いや、省略されても困ります」


係員は少しだけ目を細めた。


「その感覚は、本件では大切にしてください」


「本件?」


「あなたは被告です。かわいい地位確認訴訟における代表的使用者として、出廷を求められています」


「代表的使用者?」


「はい。あなたが特別に悪質という意味ではありません」


相川は少し安心しかけた。


係員は続けた。


「特別ではないことが、本件の重要性です」


安心は、すぐに引っ込んだ。


     *


法廷は、劇場のように広かった。


高い天井。半円状の傍聴席。中央に被告席。その前方に、裁判官席がある。


裁判長の机には、木槌ではなく、銀色の栞が置かれていた。細く、薄く、しかし妙に存在感がある。


裁判長は栞に指を添え、静かに言った。


「開廷します」


銀色の栞が、かすかに鳴った。


書記官が立ち上がる。


「第七件、かわいい地位確認訴訟。正式名称、曖昧好意語『かわいい』の濫用に伴う対象観察停止、評価内容未特定及び未来感性記録毀損確認請求事件」


相川は、途中で理解を諦めた。


検察官が前へ出た。


「本件で問題とする語は『かわいい』です。なお、未来側は『かわいい』という言葉そのものを禁じるものではありません」


相川は少しだけほっとした。


検察官は続けた。


「しかし、この語は、一定条件下において、観察、評価、対象理解を代替し、相手や未来へ具体的情報を渡さないまま、好意だけを置き去りにする効力を持ちます」


弁護人が立った。


「被告は悪意を持って『かわいい』と言ったわけではありません。むしろ、好意を示したのです。かわいいとは肯定です。相手を傷つける言葉ではありません」


裁判長はうなずいた。


「その点は、本件でも前提とします」


相川は、さらに少し安心した。


裁判長は、銀色の栞を一度だけ机に置き直した。


「では、好意がどのように対象を曇らせたのかを確認しましょう」


     *


検察官が指を上げると、法廷中央に記録映像が浮かび上がった。


駅前の商業施設。


相川と妻の美咲、小学四年生の娘、芽衣が歩いている。三人は昼食を済ませ、文房具売り場へ向かう途中だった。


古い商店街を抜けると、まだ取り壊されずに残っている大衆酒場が一軒あった。


煤けた赤提灯。

少し傾いた暖簾。

黒ずんだ木の引き戸。

昼間は閉まっているらしく、店先にはビールケースが二つ積まれている。


映像の中で、美咲が足を止めた。


「見て。ここ、かわいいね」


相川も振り向く。


「ほんとだ。かわいいな」


芽衣は、特に何も言わなかった。スマートフォンで写真を撮る両親の横で、少し退屈そうに靴先を揺らしている。


映像はそこで止まった。


弁護人が立つ。


「弁護側は、証人として相川美咲さんを申請します」


証人席に、美咲が現れた。


相川は思わず身を乗り出しかけたが、係員に目で制された。


弁護人が尋ねる。


「証人。あなたはこの時、被告とともに『かわいい』という言葉を使いましたね」


「はい」


「被告の発言を聞いて、何か違和感を覚えましたか」


「いえ。普通に、そうだよねって思いました」


「被告の発言によって、何か実害が発生しましたか」


「ありません」


「不快でしたか」


「全然」


弁護人はうなずいた。


「つまり、この発言は夫婦間の日常的な感想であり、誰かを傷つけたものではありません」


検察官は、まだ何も言わなかった。


     *


次の記録映像が浮かんだ。


書店の恐竜図鑑売り場だった。


芽衣が、恐竜図鑑の前で立ち止まっている。表紙には、口を大きく開けた肉食恐竜が描かれている。歯は鋭く、眼は黄色く、今にも画面の外へ飛び出してきそうだった。


映像の中の相川が言った。


「これもかわいいな」


芽衣は図鑑の裏表紙を見ている。肉食恐竜の噛む力、足の速さ、化石から分かる生態。相川はそこまでは見ていない。


「買う?」


「うん」


「じゃあ、かわいいし買っちゃおうか」


芽衣は図鑑を抱えた。


映像は止まった。


弁護人が尋ねる。


「証人、相川芽衣さんに伺います。この時、お父様の『かわいい』という言葉をどう受け止めましたか」


証人席の芽衣は、少し緊張しながら答えた。


「別に、いつものことだと思いました」


「あなたは、その図鑑を買ってもらいましたね」


「はい」


「不利益を受けましたか」


「ないです」


「お父様の言葉によって、選択を妨げられたと感じましたか」


「別に」


弁護人は裁判長へ向いた。


「ご覧の通りです。被告の『かわいい』は、娘との買い物における親しみのある言葉です」


検察官は、まだ何も言わなかった。


     *


さらに映像が続いた。


文房具売り場。


芽衣が筆箱を選んでいる。


相川は棚の前に立ち、片端から商品を手に取った。


「これかわいいね。あ、こっちもかわいい。これも色がかわいいじゃん」


芽衣は、留め具を開けたり閉めたりしている。


「パパ、かわいいばっかり」


「かわいいものが好きだろ?」


「好きだけど、開けやすいのがいい」


「そうなの?」


相川はそこで初めて、筆箱の留め具を見た。


映像は止まった。


弁護人は尋ねた。


「証人。お父様の『かわいい』という言葉で、筆箱選びに支障が出ましたか」


芽衣は少し考えた。


「別に。パパはいつもそんな感じなので」


「つまり、日常的なやりとりですね」


「はい」


弁護人は満足げだった。


検察官は、まだ何も言わなかった。


相川は、少し不気味に思い始めた。


     *


次の記録映像は、会社の会議室だった。


早瀬食品、商品企画部。

新しい低糖質スナックのパッケージ案を検討する会議である。


若手社員の戸倉が、少し派手な案を出している。


黒地に銀色の文字。中央には、あえて大きく割れたクラッカーの写真が置かれている。従来の健康食品らしい淡い色ではない。どちらかといえば、夜のコンビニで目立つデザインだった。


戸倉の説明が流れる。


「健康食品っぽさを出しすぎると、若い層に手に取ってもらえません。罪悪感を減らすより、ちゃんと美味しそうに見せたいんです」


映像の中の相川がうなずく。


「いいと思う。かわいいし、目立つ」


戸倉の顔が少し明るくなる。


映像はそこで止まった。


弁護人は、証人として戸倉を呼んだ。


「証人。あなたはこの会議で、被告の『かわいい』という発言をどう受け止めましたか」


「肯定されたんだな、と思いました」


「不快でしたか」


「いえ」


「具体性が足りず、困りましたか」


「会議ではよくあることなので」


「つまり、被告の言葉は、若手案への前向きな評価として機能した」


「はい」


弁護人はうなずいた。


「実害はありません」


検察官は、ここでも何も言わなかった。


沈黙が長くなるほど、相川は落ち着かなくなってきた。


弁護人は勢いを得たように、裁判長へ向き直った。


「以上の通り、被告の『かわいい』は日常の範囲内に収まっています。妻も、娘も、部下も、重大な実害を受けていません。むしろ、被告の言葉は場をやわらかくし、肯定の空気を作っています」


裁判長は静かに聞いていた。


弁護人は続けた。


「未来側は、日常の好意に過剰な説明責任を課そうとしています。しかし、すべての感想を細かく分解していては、生活は成り立ちません。かわいいものを、かわいいと言って何が悪いのですか」


法廷は、しばらく静かだった。


     *


弁護人は、少し勝負に出る顔をした。


「弁護側は、参考人を申請します。北守男氏」


傍聴席がわずかにざわめいた。


証人席に現れたのは、第二件で店名過積載民事訴訟の被告となった、北商店の店主であった。


北さんは、緊張した顔で頭を下げた。


「またですか」


裁判長は静かに言った。


「今回は参考人です」


「それなら、少しだけ安心しました」


弁護人が尋ねる。


「北さん。あなたは過去の裁判で、長い名称が人に負担をかけることを身をもって経験されていますね」


「はい。まあ、はい」


「言葉が長すぎると、受け手に負担がかかる。そうですね」


「それは、そうですね」


「つまり、相川氏が『かわいい』のような短い言葉を用いたことには、受け手の負担を下げる合理性があった。そう考えられませんか」


北さんは困った顔をした。


「ええと、長いと困るのは、確かに困ります」


弁護人はうなずいた。


「ありがとうございます」


検察官が、そこで初めて立った。


「反対尋問をします」


北さんは、さらに困った顔になった。


「また反対尋問ですか」


「短くします」


「助かります」


検察官は言った。


「北さん。あなたの店名が問題になったのは、長かったからですか」


「長かったから、では」


「本当に、それだけですか」


北さんは少し考えた。


「……いや、違いますね。どこを指しているのか、分かりにくかったからです。正確にしたつもりで、かえって分からなくなっていました」


「その通りです」


検察官は弁護人を見た。


「長いこと自体が罪なのではありません。短いこと自体が親切なのでもありません。問題は、伝わるかどうかです」


検察官は、相川へ視線を向けた。


「被告の言葉は短かった。しかし、伝わったのは『いい感じ』『好きそう』『やわらかい肯定』という印象だけでした。何が良いのか、なぜ良いのか、何を残すべきなのかは伝わっていません」


北さんは小さくうなずいた。


「短くても、迷うことはありますね」


検察官は言った。


「はい。短い迷路もあります」


     *


検察官は、法廷の中央へ進み出た。


「弁護側は、誰もその場で困らなかったと主張しました。未来側も、その点を争いません」


相川は顔を上げた。


検察官は続けた。


「妻は困りませんでした。娘は困りませんでした。部下は困りませんでした。会話は流れ、買い物は終わり、会議は進みました」


弁護人がうなずいた。


「その通りです」


検察官は言った。


「しかし、本件で問題となるのは、まさにそこです」


法廷の空気が、少し変わった。


「誰もその場で困らなかった。だから誰も立ち止まらなかった。誰も問い返さなかった。誰も、その『かわいい』が何を指していたのかを確認しなかった」


検察官は、銀色の栞をちらりと見た。


「未来側は、誰もその場で困らなかったことによって見過ごされたコストが、後の世に請求された事例として、これらの証人を提示します」


裁判長がうなずいた。


「認めます」


     *


最初の検察側証人は、居酒屋の大将だった。


髪は白く、腕は太く、法廷に立っても割烹着が似合いそうな男である。


店名は「酒処たつみ」。創業七十年の大衆酒場。赤提灯と煤けた暖簾で、相川が「かわいい」と評した店によく似ていた。


大将は証言台に立つと、少し照れくさそうに頭をかいた。


「最初は、若いお客さんが写真を撮ってくれてね。『昭和かわいい』とか、『おじいちゃん家みたいでかわいい』とか、そういうのを言ってくれたんですよ」


弁護人が言った。


「好意的な評価ですね」


「ええ。だから、ありがたいと思いまして」


大将は続けた。


「ただ、何がかわいいのかは、よく分からなかったんです。赤提灯なのか、暖簾なのか、古い椅子なのか、俺の顔なのか」


「最後は違うのでは」


裁判長が静かに言った。


「自分でもそう思います」


大将はうなずいた。


「でも、かわいいって言われたから、かわいくすればいいのかなと」


法廷中央に写真が表示された。


以前は煤けた暖簾と赤提灯だけだった店内に、熊のぬいぐるみが吊るされている。招き猫が三倍に増え、赤提灯には丸い目と頬紅が描かれている。短冊メニューには「おじさんのきまぐれ煮込み♡」と丸文字で書かれていた。


傍聴席がわずかにざわついた。


大将は言った。


「常連が減りました」


検察官が尋ねる。


「なぜだと思いますか」


「煮込みを食ってる横で、熊がこっちを見てるのが落ち着かないって」


「なるほど」


「あと、丸文字のメニューが読みにくいって」


「なるほど」


「それと、俺が無理して『いらっしゃいませぇ♡』って言ったら、四十年通ってた常連が黙って帰りました」


法廷が少しだけ揺れた。


裁判長は表情を変えなかった。


大将はうつむいた。


「かわいいって言われたから、かわいくしたんです」


検察官が尋ねる。


「何が好まれていたのか、確認しましたか」


大将は首を横に振った。


「してません。照れくさくて」


「では、あなたは『かわいい』という好意を受け取った。しかし、その中身を確認しなかった」


「はい」


「その結果、店の何を変えましたか」


大将は写真を見た。


「変えなくてよかったものです」


     *


二人目の検察側証人は、金物屋の店主だった。


名前を風間久作という。


彼の店は、古い商店街の角にあった。入口の上には鉄製の看板が掲げられ、長い年月で赤茶色に錆びていた。


風間は証言台で、少し誇らしげに言った。


「うちの看板がね、かわいいって言われたんですよ」


法廷中央に、証拠写真が映る。


古びた金物屋。錆びた看板。剥げかけた塗装。確かに、ある種の味はあった。


風間は続けた。


「お客さんが『この錆び、かわいい』って。写真も撮ってくれて。そうか、錆びかと」


「そうか、錆びか」


裁判長が繰り返した。


「はい。錆びが価値なんだと」


次の写真が表示された。


看板は、さらに錆びていた。文字の一部は読めなくなっている。


次の写真。


入口の鉄枠まで錆びている。


さらに次の写真。


雨樋も錆び、戸車も錆び、店の引き戸が半分ほどしか開かなくなっている。


風間は言った。


「酸化を進めました」


弁護人が額に手を当てた。


検察官が尋ねる。


「どのように」


「霧吹きで水をかけたり、塩水を少し」


「看板に」


「最初は看板だけです」


「最初は」


「はい。そのうち、入口も一体感が大事かなと」


裁判長が言った。


「結果は」


風間は小さく咳払いをした。


「店に入りづらくなりました」


「物理的に」


「はい」


「営業は」


「一時休業しました。戸が開かなかったので」


法廷に、何とも言えない沈黙が流れた。


検察官は尋ねた。


「証人は、錆びの何が好まれていたのか確認しましたか」


「してません」


「時間の経過ですか。古さですか。看板の書体ですか。現役の店として残っていることですか」


風間は黙った。


「分かりません」


「では、あなたは『錆びていてかわいい』を、『もっと錆びればもっとかわいい』と解釈した」


「はい」


「その結果、客は」


「入れなくなりました」


裁判長が静かに言った。


「かわいい以前の問題ですね」


「はい」


風間は、うなだれた。


「かわいい以前でした」


     *


三人目の検察側証人は、若い店員だった。


名前を倉橋楓という。


彼女は地方の郷土料理店に勤めていた。店には、亡くなった先代女将が使っていた古い土地言葉が残っていたという。


倉橋は証言台に立つと、少し困ったように笑った。


「先代女将の言い回しが、常連さんにすごく懐かしまれていたんです」


法廷中央に、店内映像が映る。


古い木の柱。座敷。壁に貼られた手書きの献立。奥の写真には、穏やかに笑う老女が写っている。


倉橋は続けた。


「観光客の方も、『おばあちゃんの口癖かわいい』『土地の言葉かわいい』って言ってくださって」


弁護人がうなずいた。


「地域文化への好意ですね」


「はい。だから店長が、接客に取り入れようと」


「良い試みではありませんか」


倉橋は、少し目を伏せた。


「最初は、そう思いました」


法廷中央に、接客マニュアルが表示された。


郷土かわいい接客強化月間

先代女将の言葉で、お客様にぬくもりを届けよう


その下に、古い土地言葉の接客例が並んでいた。


ただし、それはイントネーションの違い程度ではなかった。単語レベルで、地元の若者にも分かりにくい古い表現である。


倉橋が読み上げた。


「おすすめを聞かれたら、『本日は、へごまつの、ずんだれ炊きが、よんべからおっちらして……』」


弁護人が遮った。


「すみません。意味は」


倉橋は首を横に振った。


「分かりません」


「店員なのに」


「はい。研修でも意味までは」


裁判長が言った。


「意味を教わらずに、接客で使用したのですか」


「はい」


「結果は」


倉橋は、ため息をついた。


「注文が通りませんでした」


法廷中央に、店内映像が映る。


客が尋ねる。


「おすすめは何ですか」


若い店員が、マニュアル通りに古い土地言葉で答える。


客は笑顔のまま固まる。


店員も笑顔のまま固まる。


その背後で、地元の七十代らしき客だけが「ああ、懐かしい」と笑っている。


倉橋は言った。


「地元のご高齢の方は喜んでくださいました。観光客の方は写真を撮っていました。でも、注文は通りませんでした」


検察官が尋ねる。


「証人は、方言が悪いと考えていますか」


倉橋は首を振った。


「いいえ。先代女将の言葉は、店にとって大事なものです」


「では、何が問題でしたか」


「意味も文脈も分からないまま、かわいい接客として使ったことです」


「残したかったのは、言葉ですか。雰囲気ですか」


倉橋は少し考えた。


「たぶん、雰囲気です」


検察官はうなずいた。


「雰囲気だけを残そうとした結果、言葉の意味が失われた」


倉橋は、静かにうなずいた。


「はい」


     *


四人目の検察側証人は、出版社の編集者だった。


彼は、子ども向け恐竜図鑑の編集を担当していた。


名前を真柴亮という。


真柴は、法廷中央に一冊の図鑑を表示した。


表紙には、ティラノサウルスが描かれている。


ただし、丸い。

歯が小さい。

目が少し困っている。

短い前脚が、やたら愛嬌たっぷりに描かれている。


芽衣が傍聴席で、小さく眉をひそめた。


真柴は言った。


「前版のレビューで、『こわかわいい』『恐竜かわいい』『歯がかわいい』『怖いけどかわいい』という感想が多く寄せられました」


検察官が尋ねる。


「それをどう受け止めましたか」


「恐竜には、もっとかわいさが求められているのだと」


「結果は」


真柴は、次々とページを表示した。


トリケラトプスが困り眉。

ヴェロキラプトルがほぼ犬。

ステゴサウルスの背中の板がハート型。

捕食場面には「なかよしランチ」の見出し。

骨格図には、なぜか頬の赤みが添えられている。


弁護人が目を閉じた。


検察官は尋ねた。


「読者の反応は」


真柴は言った。


「恐竜好きの子どもたちから、強い抗議が来ました」


「どのような」


真柴は資料を読み上げた。


「『肉食恐竜をなめるな』」


法廷が、少しざわついた。


「他には」


「『ラプトルは犬ではない』」


「他には」


「『ほっぺたをつけるな』」


裁判長がうなずいた。


「妥当な抗議です」


真柴は肩を落とした。


「かわいいと言われたので、かわいくしました」


検察官が尋ねる。


「怖さも含めて好まれていた可能性は考慮しましたか」


「していません」


「畏怖は」


「考慮していません」


「生態の迫力は」


「かわいさを優先しました」


検察官は言った。


「その結果、恐竜は何になりましたか」


真柴は、少し沈黙した。


「恐竜風の丸いものになりました」


     *


最後の検察側証人は、未来の商品開発職だった。


名前を三津原怜奈。

生活用品メーカーの感性記録復元主任である。


肩書きだけで胃が重くなる職業でありました。


三津原は、証言台に立つと、法廷中央にいくつもの古い投稿記録を表示した。


昭和かわいい。

レトロかわいい。

なんかかわいい。

この古さ、かわいい。

こわかわいい。

ゆるくてかわいい。

かわいすぎて無理。

全体的にかわいい。


三津原は言った。


「二十一世紀前半の消費記録は、大量に残っています。写真も、動画も、購買履歴も、投稿も残っています。しかし、そこに添えられた言葉の多くが『かわいい』でした」


弁護人が言った。


「好意が残っているのですから、十分ではありませんか」


三津原は首を振った。


「かわいいことは分かるんです。ですが、何が好まれていたのかが分からないんです」


彼女は表示を切り替えた。


古い喫茶店。恐竜のぬいぐるみ。昭和風の家電。古びた商店街。ゆるい手描き文字。傷のついた木の椅子。小さな湯呑み。色あせた看板。


「丸みが好まれたのか。古さが好まれたのか。小ささが好まれたのか。不完全さが好まれたのか。怖さが薄まって見えたのか。生活の痕跡が好まれたのか。距離のあるものを、自分が扱いやすい大きさに縮めていたのか」


三津原は、少し疲れた顔で言った。


「分からないんです。全部、かわいいなので」


法廷中央に、未来の商品案が映った。


昭和居酒屋風スマート体重計。

赤提灯型スマート加湿器。

新品なのに煤加工されたキッチン家電。

全恐竜が丸顔の知育端末。

古民家風ワイヤレスイヤホンケース。

「手書き感」を再現した結果、少し読みにくい行政通知テンプレート。


裁判長が、一枚を見て言った。


「この体重計に、赤提灯が付いていますね」


三津原はうなずいた。


「当時の記録に『昭和居酒屋かわいい』とありましたので」


「なぜ体重計に」


「弊社でも、そこは議論になりました」


弁護人が小さく咳払いした。


三津原は言った。


「好意は残っていました。けれど、好意の中身が残っていませんでした」


検察官が尋ねた。


「証人にとって、『かわいい』は害のある言葉ですか」


「いいえ」


「では、何が問題ですか」


「そこで終わっていることです」


三津原は答えた。


「かわいい、の先にあったはずの観察が、未来に渡されなかったことです」


     *


証人たちが退廷すると、法廷は静まり返った。


検察官は、ゆっくりと中央へ戻った。


「『かわいい』は、好意を残しました。しかし、好意の理由を残しませんでした」


法廷中央に、大将のぬいぐるみだらけの居酒屋が映る。


「古さが好まれたのか、生活の痕跡が好まれたのか分からないまま、店はぬいぐるみを吊るしました」


錆びた金物屋が映る。


「時間の経過が好まれたのか、現役の店として残っていることが好まれたのか分からないまま、店は酸化を進めました」


郷土料理店の接客マニュアルが映る。


「言葉の意味が好まれたのか、先代女将の存在が好まれたのか分からないまま、店は方言をただの音にしました」


丸顔の恐竜図鑑が映る。


「怖さとの落差が好まれたのか、恐竜そのものが好まれたのか分からないまま、図鑑は生命のありようを削りました」


最後に、未来の商品案が映る。


「そして未来は、かわいいという好意だけを頼りに、何が好まれていたのか分からない商品を作りました」


検察官は相川を見た。


「これらは、被告一人の罪ではありません。しかし、被告はその言語習慣の、あまりにも普通の担い手でした」


弁護人は、ゆっくり立ち上がった。


「未来側は、社会全体の問題を被告一人へ背負わせようとしています」


検察官は首を振った。


「いいえ。未来側は、被告を悪人だとは主張していません」


そして、相川を見た。


「被告は、普通でした。普通に好意を示し、普通に言葉を省略し、普通に対象を見たつもりになりました。だからこそ、本件は地位確認訴訟なのです」


裁判長は、銀色の栞に指を添えた。


「相川さん」


「はい」


「あなたはなぜ、異なる対象を同じ言葉で評価するのですか。実態は、すべて別物ではないですか」


相川は顔を上げた。


裁判長は続ける。


「古い酒場を見たこと。恐竜図鑑を選んだこと。娘さんが筆箱を選んだこと。若手社員が企画案を出したこと。実態は、すべて別物です」


「はい」


「それにもかかわらず、あなたは同じ言葉を使っています。かわいい。なぜですか」


相川は、しばらく黙っていた。


「細かく言うと、時間がかかりますし、相手の認知負荷が高まるので、親切ではないと思いました」


裁判長は、その言葉だけを繰り返した。


「親切」


法廷の空気が少し重くなった。


「会話に要する時間は、本当になかったのですか」


「場面によります」


「あなたは、その場で相手が抱えていた認知負荷を考慮に入れましたか」


相川は、口を閉じた。


「娘さんは、説明を受け止められない状態でしたか。部下は、具体的な評価を聞く余裕がないほど追い詰められていましたか。妻は、酒場の何を好ましいと思ったのかを話す時間を持てない状態でしたか。あなたは確認しましたか」


「……確認はしていません」


「相手を信用していなかっただけではありませんか」


「そんなつもりはありません」


「では、相手の状態を見ずに、相手のためだと決めたのですか」


相川は答えられなかった。


裁判長は言った。


「相手の認知負荷を理由にするなら、まず相手を見なければなりません。あなたは相手を見ましたか。それとも、あなたが考える時間を惜しみ、言葉にする労力を惜しんだだけですか」


相川の喉が小さく動いた。


「……そこまで、考えていませんでした」


裁判長はうなずいた。


「はい。そこが本件です」


     *


判決の日、裁判長は銀色の栞を開いた。


「主文」


書記官が立つ。


「『かわいい』は、日常語としての地位を有する。使用そのものを禁じるものではない。ただし、対象観察、評価内容、好意の理由を代替する目的で使用された場合、思考停止語としての地位を有することを確認する」


相川は、聞いていた。


「被告、相川慎吾を、未来判断能力保全局、初期思考停止兆候相談窓口、通称『ことばの救急受付』に配属する。期間中、被告は相談者の用いる曖昧好意語を聴取し、観察、理由、対象、伝達内容へ分解する補助業務に従事せよ」


裁判長は相川を見た。


「ただし、相談者の言葉を否定してはなりません。その言葉が何を守ろうとし、何を隠し、何を省略しているのかを確認してください」


相川は小さくうなずいた。


こうして彼の刑が始まった。


     *


ことばの救急受付は、未来判断能力保全局の一階にあった。


受付窓口は、役所と病院の中間のような場所だった。相談者は番号札を持って待ち、呼ばれると半透明の仕切りの向こうに座る。


相川の机には、三枚の札が置かれていた。


相談者が抱える問題の解決を補助するのが、相川の役割らしい。


「かわいい」で終わらせない。どこが、なぜ、何を伝えたいのか。

「あぶない」で終わらせない。危険、迷惑、信用、責任、保身を分けてリスクを回避する。

「不安」で終わらせない。対象、確率、影響、軽減条件へ分解して問題を解決する。


相川は札を見て、少し戸惑った。


「あぶない」と「不安」もある。


裁判では「かわいい」だけだったはずだ。


背後に立っていた監督官が言った。


「構造は似ています」


それだけだった。


相川は、それ以上聞けなかった。


初日、相談者の若い女性が写真を見せた。


古い商店街の一角にある、小さな喫茶店だった。


「この店、かわいいと思って写真を上げたら、店主さんにあんまりいい顔されなくて。私、悪いことしましたか」


相川は札を見た。


「どこが、かわいいと思いましたか」


「看板が古くて、椅子が小さくて、窓のところに置いてある造花が色あせていて」


「では、それは『かわいい』だけでなく、古さが残っていることへの好意ですね」


相談者は少し考えた。


「そうかもしれません」


相川は記録欄に入力した。


かわいい:古さが残っていることへの好意


監督官は画面を確認した。


「初期対応としては十分です」


相川は振り向いた。


「十分、ですか」


「はい。相談者は、自分が何を言いたかったのかを、少し言葉にできています」


相川は、久しぶりに肩の力を抜いた。


「ありがとうございます」


監督官は、記録画面を閉じた。


「この調子で続けてください」


それだけだった。


相川は、その「それだけ」に少し引っかかった。


だが、すぐに打ち消した。


褒められたのだ。

少なくとも、自分は前へ進んでいる。


そう思った。


     *


次の相談者は、企業の管理職だった。


「若手が出してきた企画が、あぶない気がするんです」


相川は一瞬戸惑った。


法廷では「かわいい」だった。

しかし、机の札には「あぶない」とある。


相川は尋ねた。


「怪我や事故の危険ですか」


「いえ」


「法令違反ですか」


「それも違います」


「炎上ですか」


「少し」


「責任所在ですか」


相談者は黙った。


「たぶん、それです。誰が説明するか決まっていないのが怖い」


相川は言った。


「では、危険なのは企画そのものではなく、説明責任が曖昧なことですね」


相談者はうなずいた。


「そうです」


相川は記録した。


あぶない:説明責任の所在が未確定であることへの懸念


監督官は記録を見た。


「良い分類です」


相川は、少しだけ胸を張った。


「ありがとうございます」


「次の方を呼んでください」


監督官はそれ以上、何も言わなかった。


相川は、相談者が席を立つのを見送った。


説明責任が曖昧だと分かった。

ならば、かなり役に立てたのではないか。


そう思った。


     *


三か月が過ぎた。


相川は、相談者の言葉を分解できるようになっていた。


「かわいい」は、観察へ。

「あぶない」は、分類へ。

「不安」は、対象へ。


相談者が「この昭和っぽい店、かわいい」と言えば、相川は促す。


「古さですか。小ささですか。自分の生活から遠い感じですか。残っていることへの安心ですか」


相談者が「この企画、あぶない」と言えば、相川は分ける。


「事故ですか。炎上ですか。信用ですか。説明責任ですか。あなたの立場ですか」


相談者が「子どものスマホが不安」と言えば、相川は確認する。


「犯罪ですか。課金ですか。いじめですか。依存ですか。親が把握できないことですか」


監督官からも、一定の評価を受けた。


「初期対応は安定しています」


相川は、そこでようやく刑期満了を意識した。


自分は変わった。少なくとも、以前よりは言葉を見ている。そう思った。


満了審査の日、相川は再び法廷へ呼ばれた。


裁判長は記録を読み、静かに言った。


「被告は、思考停止語を具体的言語へ分解する能力を一定程度獲得したものと認めます」


相川は、胸の奥で息をついた。


裁判長は続けた。


「よって、刑期を延長します」


相川は顔を上げた。


「延長、ですか」


「はい」


「なぜですか。私は、言葉にできるようになりました」


裁判長はうなずいた。


「その通りです。言葉にできるようにはなりました」


「では、なぜ」


裁判長は、銀色の栞を指先で押さえた。


「しかし、言葉にした感情は、その時点で新たな責任を生みます」


相川は黙った。


「言葉にして終わらせる。これもまた責任の放棄なのです」


法廷は静かだった。


裁判長は続けた。


「好意を好意のままにしないことは、確かに前進です。不安を不安のままにしないことも同じです。しかし、その正体が分かったなら、次に問われるのは、それをどう扱うかです。避けるのか。受け入れるのか。備えるのか。誰かと分けるのか。条件を変えるのか。そこまで進まなければ、言葉はまた、新しい停止線になります」


相川は唇を噛んだ。


「言葉にできれば、あとは本人の問題ではないんですか」


裁判長は、少しだけ目を細めた。


「あなたは、かつて言葉を途中で終わらせることで、他者の判断を止めました。今度は、言葉にしたところで手を離すのですか」


相川は何も言えなかった。


「言葉にすることは、救いではあります。しかし、免罪ではありません」


裁判長は主文を読み上げた。


「被告を、未来判断能力保全局、認知後対応設計補助課に配属する。被告は、言語化された感情、懸念、欲求に対し、相談者が次の一手を設計できるよう補助せよ」


銀色の栞が鳴った。


刑期は延びた。


     *


認知後対応設計補助課は、ことばの救急受付の奥にあった。


そこでは、相談者の言葉を分けるだけでは終わらない。


分かったあと、どうするか。


それを一緒に考える。


最初の相談者は、子どものスマートフォン利用に悩む母親だった。


「子どものスマホが不安です」


相川は、以前のように分解した。


「犯罪、課金、いじめ、依存、親が把握できないこと。どれが近いですか」


母親は答えた。


「把握できないことです。何を見ているのか分からないのが怖い」


相川は言った。


「把握不能への不安ですね」


そこで止まりかけた。


背後の監督官が、黙って相川を見ていた。


相川は言葉を続けた。


「では、どこまで把握すれば十分かを決めましょう。全部を見るのか、課金だけ確認するのか、夜の使用時間を決めるのか。逆に、お子さんに任せる範囲も決める必要があります」


母親は少し驚いた顔をした。


「任せる範囲、ですか」


「はい。不安だから全部見る、にすると、お子さんは信用されていないと感じるかもしれません。ですが、何も見ないとあなたの不安は増える。だから、確認する範囲と任せる範囲を分けるんです」


母親はしばらく考えた。


「夜九時以降はリビングに置く。課金は親の承認制。友達とのやり取りは、何かあったら話す約束にする……くらいなら」


「それなら、不安は少し下がりますか」


「少し、下がります」


相川は記録した。


不安:把握不能への恐れ

対応:確認範囲と信任範囲の設定


監督官は小さくうなずいた。


「今のは、対応設計です」


相川は、初めて少しだけ分かった気がした。


     *


次の相談者は、地域イベントの実行委員だった。


「古い商店街で夜市をやりたいんです。でも、あぶないって言われて」


相川は聞いた。


「事故の危険ですか。苦情ですか。説明責任ですか」


「苦情と、説明責任です。誰が責任取るんだって話になって」


「では、イベントそのものを止める前に、三つ決めましょう。警備の範囲。苦情対応の窓口。中止条件」


相談者はメモを取った。


「中止条件?」


「雨天、混雑率、騒音の苦情件数、警備員の配置不足。先に決めておけば、あぶないという言葉で全部止めずに済みます」


相談者は少し笑った。


「できそうな気がしてきました」


相川は、かつて自分が会議で使った言葉を思い出した。


あのときも、説明者を決めればよかった。

想定問答を作ればよかった。

撤退条件を置けばよかった。


あぶない、で止める前に、できることはあった。


     *


最後の相談者は、若い男性だった。


彼は写真を一枚見せた。


古い居酒屋だった。


赤提灯。色あせた暖簾。昼間は閉まっている引き戸。かつて相川が、商店街で見た店によく似ていた。


「こういう店、かわいいって思うんです。でも、なんか失礼なのかなって」


相川は写真を見た。


「どこを、かわいいと感じましたか」


「看板の文字とか、暖簾とか。あと、残ってる感じです」


「残っていることへの好意ですね」


そこで、相川は止まらなかった。


「その好意は、どこから来ていますか。自分の生活にはない古さへの憧れですか。入りづらい場所を、近く感じたいからですか。それとも、消えてほしくないと思っているからですか」


相談者は、しばらく写真を見つめた。


「消えてほしくない、ですかね」


「では、写真を撮って終わるより、中に入って一品頼む方が、その気持ちには近いかもしれません」


「入るの、ちょっと怖いです」


「怖いなら、無理に入らなくてもいいです。ただ、かわいいと思ったものが、誰かの生活や仕事でできている場合があります。そのときは、かわいいで終わらせるか、少しだけ関わるかを選べます」


相談者は写真をしまった。


「今度、昼営業してたら入ってみます」


相川は記録した。


かわいい:古さが残っていることへの好意

発生源:消えてほしくないという感情

対応:消費ではなく、可能な範囲での関与


監督官が後ろで言った。


「良くなりましたね」


相川は少しだけ笑った。


「まだ浅いですか」


「浅くはありません」


監督官は言った。


「ただし、終わりでもありません」


相川は苦笑した。


「でしょうね」


     *


刑期を終え、相川が現在へ戻されたのは、土曜日の昼だった。


彼は、家族と同じ商業施設にいた。


時間は、訴状が届く前の週末へ戻ったわけではない。けれど、よく似た日だった。


美咲と芽衣は、文房具売り場にいた。


芽衣が筆箱を手に取る。


派手な紫色で、妙にとぼけた顔の恐竜が描かれていた。あまり一般的なかわいさではない。


相川は反射的に言いかけた。


「かわ……」


芽衣が見る。


相川は、言い直した。


「色は派手だけど、開けやすそうだな。仕切りも多い。あと、その変な恐竜の顔、たぶん芽衣は好きだろ」


芽衣は少し驚いて、それから笑った。


「かわいいでしょ」


相川はうなずいた。


「うん。かわいい」


そのあと、芽衣が通路の向こうにある消しゴム売り場へ早足で向かおうとした。


相川はまた、反射的に言いかけた。


「あぶな……」


そこで止まった。


「ここで走ると、人にぶつかるかもしれない。商品も倒れるかもしれない。あと、店の人に迷惑がかかる。だから歩こう」


美咲が隣で笑った。


「なんか今日、説明が長いね」


相川は一瞬、言葉に詰まった。


説明が長い。

確かにそうだった。


短くするために言葉を丸めることは、逃げだった。

しかし、長く話せばよいわけでもない。


長い説明は、相手の時間を奪うことがある。

情報を増やして、かえって伝わらなくすることもある。

北さんの店名のように。


相川は、美咲と芽衣を見た。


「長かった?」


美咲は少し考えた。


「ちょっと」


芽衣も言った。


「でも、さっきより分かった」


相川はうなずいた。


「じゃあ、短く言う。ここでは走らない。ぶつかるし、迷惑になるから」


芽衣は「はーい」と言って、歩き出した。


美咲が言った。


「それくらいでいいんじゃない?」


「なるほど」


相川は本気でそう言った。


     *


帰り道、三人は例の大衆酒場の前を通った。


赤提灯。色あせた暖簾。煤けた戸。ビールケース。


美咲が言った。


「やっぱり、ここかわいいよね」


相川は店を見た。


「そうだな」


そこで、少し考えた。


「でも、かわいいだけじゃないな。長く続いてる店なんだと思う。たぶん、入りづらいけど、誰かにはずっと馴染みの場所で、煤とか暖簾とかも単なる古さじゃなくて、店の時間というか、生活の跡というか……」


美咲が横から言った。


「それ、ちょっと多い」


相川は口を閉じた。


芽衣が笑った。


「パパ、また説明長い」


「ああ」


相川は、赤提灯を見直した。


「またやったな」


美咲は少し笑った。


「でも、言いたいことは分かる」


相川は、もう一度だけ店を見た。


「じゃあ、短く言う」


「うん」


「かわいいだけで済ませるのは、ちょっと失礼かもしれない。でも、気になる店ではある」


美咲はうなずいた。


「それくらいでいいんじゃない?」


芽衣が店先の札を指さした。


「私、入れる?」


相川は札を見た。夕方五時から営業。家族連れ歓迎、と小さく書いてある。


「今度、早い時間に来てみようか」


相川はそう言った。


     *


さてさて、読者諸兄。


かわいいものを、かわいいと言ってはならぬ、という話ではございません。


ただ、その一言で、目を閉じてはならぬのであります。


かわいいなら、どこが。

なぜ、そう思ったのか。

それを相手にどう伝えたいのか。

そして、それを受け取った相手が、何を変えようとしてしまうのか。


言葉が短ければよいわけでもありません。

長ければよいわけでもありません。


短すぎる言葉は、理由を隠すことがある。

長すぎる言葉は、相手を迷わせることがある。

大切なのは、長さではありません。伝わることです。


言葉にすることは、救いではあります。

けれど、免罪ではありません。


言葉にした感情は、その時点で新たな責任を生む。


どうか皆様も、次に「かわいい」と口にするときは、ほんの少しだけお気をつけください。


未来時際裁判所の銀色の栞は、案外、かわいいものの陰にも挟まっているのであります。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


今回の教訓は簡単です。

「かわいい」は便利です。

便利ですが、便利すぎる言葉は、人間の思考を少しずつ寝かせます。


どこが、なぜ、どう良いのか。

本当はそこまで言えた方が、相手にも未来にも親切です。


もちろん、全部を言語化していたら日常生活は破裂します。

それでも、大事な場面で「かわいい」だけを置いて逃げると、未来から呼び出し状が来るかもしれません。


次の事件では、便利な仕組みと責任の所在が、ややこしく絡み合います。

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