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ご先祖様、訴状です  作者: Rastarock


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第十件 トイレットペーパーの芯だけ遺棄事件 正式名称:生活終端作業の黙示的転嫁に伴う後続者負担累積及び終端確認社会招来事件

さてさて、今回の被告は、怪盗でもなければ大悪党でもありません。


銀行を襲ったわけでもなく、国家を欺いたわけでもなく、密室で血塗られた凶器を握っていたわけでもありません。


ごく普通の男であります。


毎朝、会社へ行き、昼にはそれなりの定食を食べ、会議ではそこそこ真面目な顔をし、帰宅すればテレビの前で「今日も疲れたな」などとつぶやく。どこにでもいる、実に平凡な中年男性でありました。


ところが、であります。


未来裁判所の目は、かくも細かい。


人が見逃すものを見逃さず、家族がため息まじりに片づけるものを片づけず、歴史の片隅に積もった小さな怠慢を、ある日突然、証拠品として突きつけてくるのであります。


読者諸兄。


今回の物証は、刃物でも、毒薬でも、盗まれた宝石でもありません。


芯です。


そう。


トイレットペーパーの芯であります。



黒川誠一郎は、トイレのドアを開けて廊下に出た。


いつも通りの朝だった。


洗面所ではまだ換気扇が低く回っている。台所の方からは、妻が食器を重ねる音が聞こえた。テレビでは天気予報が流れていて、昼過ぎから雨だと言っている。黒川は、その言葉を半分だけ聞いて、洗面台の前に立った。


手を洗い、タオルで拭く。


そこまでは、何ひとつ特別なことはなかった。


顔を上げたとき、鏡の端に、知らない女が映っていた。


黒川は、少しだけ肩を跳ねさせた。


廊下に、黒い制服を着た女が立っていた。宅配業者でも、管理会社の人間でもない。警察官にも見えなかった。だが、妙に公的な顔をしている。朝の自宅の廊下に立つには、あまりに場違いな顔だった。


「黒川誠一郎さんですね」


女は、感情の薄い声で言った。


「……はい。どちら様ですか」


「時際裁判所執行部です」


黒川は、タオルを持ったまま固まった。


「じさい?」


「生活終端作業不履行に関する現行確認により、出頭を命じます」


「……何の話ですか」


女は答えず、開いたままのトイレの扉へ視線を向けた。


黒川も、つられて振り返った。


便座の横。紙巻き器の上。そこには、白い紙がほとんどなくなった芯だけが残っていた。


「芯です」


女は言った。


「芯?」


「トイレットペーパーの芯です」


黒川は、数秒、女の顔とトイレの中を見比べた。


「いや、あの、替えようとは思ってました」


「思念は確認されています」


「じゃあ」


「実行は確認されていません」


女は、懐から薄い端末を取り出した。そこに、黒川には読めない文字と、読みたくないほど鮮明な芯の画像が表示されていた。


「本件は、トイレットペーパーの芯だけ遺棄事件として、時際裁判所に送致されます」


「遺棄って」


黒川は、ようやく笑いそうになった。


だが、女は笑わなかった。


「被告は、生活終端作業を完了せず、後続使用者に交換義務を黙示的に転嫁しました」


「いや、そんな大げさな」


「大げさかどうかは、法廷で判断されます」


女が端末を操作すると、黒川の足元に淡い光の輪が浮かんだ。


「ちょ、ちょっと待ってください。これ、逮捕ですか」


「正確には、即時出頭命令です」


「手錠みたいなの、出てますけど」


「逃亡防止具です」


「逮捕じゃないですか」


女は、そこで初めて黒川の目を見た。


「芯を残した方が、制度の呼称にこだわらないでください」


黒川は、返す言葉を失った。


台所から、妻の声がした。


「あなた、トイレットペーパー替えてないでしょ」


黒川は、思わずそちらを見た。


その瞬間、足元の光が強くなった。


「証言一件、追加で保全しました」


女が言った。


黒川は、自分がまだタオルを握っていることに気づいた。


未来へ連行される人間の手元としては、いくらなんでも締まらなかった。


   *


時際裁判所第七小法廷。


黒川誠一郎、四十八歳。会社員。


被告席に座らされた黒川は、まだタオルを持っていた。執行官から返却されたものである。裁判所側の説明によれば、「現代物品の証拠性はないため返還可能」とのことだった。


そんな説明をされても、ありがたみはなかった。


裁判長は、目の前の資料を静かにめくった。


「それでは、第十件、トイレットペーパーの芯だけ遺棄事件を開廷します」


黒川は、小さく手を上げた。


「すみません」


「何でしょう」


「事件名が、その、ちょっと」


「不服ですか」


「いえ、不服というか。トイレットペーパーの芯で、事件って」


裁判長は顔色を変えなかった。


「事件です」


「いや、あの、芯ですよ」


「はい。芯です」


検察官が立ち上がった。


「裁判長。検察側は、冒頭陳述に入ります」


「許可します」


検察官は、黒川の方を一度見た。黒川は、なぜか反射的に背筋を伸ばした。仕事で課長に詰められる時に似ていた。ただ、詰められる内容が芯である。


「本件は、一見、きわめて軽微な家庭内の怠慢に見えます。被告は、トイレットペーパーを使用後、紙巻き器に芯のみを残置しました。通常であれば、家族間の注意、あるいは生活習慣上の小さな不満として処理される事案です」


黒川は、少し安心した。


そうだ。分かっているじゃないか。


だが、検察官の声は続いた。


「しかし、本件は単なる紙製円筒形廃材の残置ではありません。被告は長年にわたり、生活の終端作業を自ら完了せず、後続者へ黙示的に転嫁する行動を反復してきました」


「しゅうたん……」


黒川はつぶやいた。


弁護人が小声で言った。


「物事の終わりの処理、という意味です」


「そんな言葉にするようなことですか」


「ここでは、なります」


弁護人の顔には、すでに諦めがあった。


検察官は端末を操作した。法廷中央に、黒川家のトイレが立体映像で再現された。


黒川は、朝の自宅を未来裁判所で見るという経験の気まずさを知った。


「証拠甲第一号。令和八年六月八日、午前七時十四分。黒川家一階トイレ内、紙巻き器上の状態です」


立体映像の中で、芯が光った。


「残量、三・一センチ」


検察官が言った。


「当該残量は、一般的な成人一名が十分な衛生処理を行うには実用限界を下回っています」


「いや、でも、完全になくなってはいないですよね」


黒川は、思わず言った。


法廷が静かになった。


検察官が、ゆっくり黒川を見た。


「今、被告は本件の核心を自白しました」


「えっ」


「完全にはなくなっていない。その一点をもって、交換作業を後続者へ移転していたのです」


「いや、移転って」


「被告。その三・一センチは、優しさではありません」


黒川は、弁護人を見た。


弁護人は、目をそらした。


検察官は、次の証拠を表示した。


「証拠甲第二号。麦茶ポット残量五ミリ事案」


法廷中央に、冷蔵庫の映像が出た。


透明なポットの底に、茶色い液体が薄く残っている。黒川には見覚えがあった。見覚えがありすぎた。


「被告は、共有飲料である麦茶を使用後、容器底部に五ミリ残して冷蔵庫へ戻しました」


「でも、それは空じゃないです」


「家族四人が、その五ミリをどのように分配する想定でしたか」


黒川は黙った。


「口をつけたら終わる量です」


検察官が言った。


「被告は、飲み切ったのではありません。洗浄と再製造の義務を、次に喉の渇いた者へ移転したのです」


「再製造って、麦茶ですよ」


「麦茶もまた、製造物です」


裁判長が言った。


黒川は、裁判長まで敵に回ったことを悟った。


「証拠甲第三号。ゴミ箱山体崩壊危険事案」


今度は、リビングのゴミ箱が映った。


ゴミ箱からティッシュ、菓子袋、レシート、割り箸の袋が積み上がっている。上部は斜めに傾き、何かの遺跡のようだった。


「被告は、ゴミ袋を交換せず、既存のゴミの上に新たなゴミを角度十四度で載せ、山体を維持しました」


「維持したわけじゃ」


「これは廃棄ではありません」


検察官は言った。


「築造です」


傍聴席のどこかで、小さく笑いが漏れた。


裁判長がそちらを見た。


「静粛に」


黒川は、どうして自分の家のゴミ箱が建築物扱いされているのか理解できなかった。


「証拠甲第四号。シャンプー水道水化事案」


映像が浴室に切り替わった。


黒川家のシャンプーボトルである。見覚えがあるどころではない。今朝も使った。


「被告は、シャンプー残量が少なくなるたびに水を加え、内容物を延命していました。鑑定の結果、第五回加水時点で、当該液体の八九パーセントが水道水であったことが確認されています」


「でも泡は立ちました」


黒川は、かすかな抵抗を試みた。


「検察側は、泡の発生を否定しません」


検察官は淡々と言った。


「しかし、現在の成分比率では、髪を洗っているのか、濡らしているのか、判別できません」


弁護人が立ち上がった。


「異議あり。洗浄意思は存在していました」


「意思で髪は洗えません」


検察官の返答は速かった。


弁護人は座った。


「証拠甲第五号。冷凍庫内空箱残留事案」


黒川は、嫌な予感がした。


映像は冷凍庫の中になった。ファミリーパックのアイスの外箱が映っている。


「被告は、最後の一本を消費した後、空の外箱を冷凍庫内へ戻しました」


「それは、次に捨てようと思って」


「では、なぜ冷凍庫へ戻したのですか」


「……手が、覚えていて」


検察官は端末を閉じた。


「冷却対象が存在しません。被告は、無を冷やしていました」


傍聴席がざわついた。


裁判長が木槌を打った。


「静粛に」


黒川は、初めて少し泣きたくなった。


無を冷やしていた。


そんな罪名を、人は四十八歳になって初めて知る。


弁護人は立ち上がった。


若い男だった。黒川から見ると、息子でもおかしくない年齢に見えた。未来の弁護士がなぜ若く見えるのかは分からない。そもそも本当に若いのかも分からない。


「弁護側は、被告の行為が家庭内において一定の不便を生じさせた可能性を否定しません。しかし、それらはすべて短時間で解消されるものです。トイレットペーパーは替えればよい。麦茶は作ればよい。ゴミ袋は交換すればよい。シャンプーは詰め替えればよい」


黒川は、少し勇気づけられた。


「つまり、本件の損害は、未来世代へ継承されるほどのものではありません。せいぜい、家庭内での注意、あるいは夫婦間の小言にとどまるべき事案です」


まったく、その通りだ。


黒川は、弁護人に心の中で拍手した。


検察官は、表情を変えなかった。


「弁護人の主張は、個々の行為を点として見た場合には一応成立します」


「一応、ですか」


弁護人が眉を上げた。


「しかし、検察側は本件を点として見ていません」


検察官が端末を操作した。


法廷中央に、膨大な数の小さな点が現れた。


最初、黒川にはそれが何を表しているのか分からなかった。


星のようにも見えた。


だが、よく見ると、それぞれの点には小さな分類名が付いていた。


紙巻き芯残置。共有飲料極少残量残置。ゴミ袋交換回避。洗浄液過剰加水。冷凍庫内空箱残留。


どれも、黒川には見覚えのある言葉だった。


検察官は、そこで一拍置いた。


「被告の確認可能な生活終端作業不履行件数、七百十二件」


黒川は、声を失った。


「うち、紙巻き芯残置百八十六件。共有飲料極少残量残置九十二件。ゴミ袋交換回避七十一件。洗浄液過剰加水四十三件。冷凍庫内空箱残留二十二件。その他、筆記具先端露出、ハサミ刃部開放、ティッシュ箱最終紙片放置、傘留め具未締結など、二百九十八件」


「そんなに」


黒川の声は、自分でも驚くほど小さかった。


検察官は続けた。


「一件あたりの負担時間は、平均すれば数秒から数分にすぎません。しかし、被告はそれを軽微であるがゆえに、自分以外の者へ渡し続けました」


法廷の空気が、少しだけ変わった。


「本件の本質は、芯ではありません」


検察官は、黒川の方を見た。


「被告は、物を使い切ったのではありません。終わったと認める責任を、ほんの少し残したのです」


黒川は、目を伏せた。


「完全に空ではない。まだ少し残っている。あとでやるつもりだった。その言葉の裏で、終わらせる作業は、いつも誰かの手に渡っていました」


証人として、黒川の妻、黒川奈緒美が呼ばれた。


本人は現代の台所にいたはずだが、証人席に座っていた。時際裁判所では、証言のために必要な時間だけ抽出されるらしい。黒川にはよく分からなかったが、妻の顔がいつも通りだったので、余計に怖かった。


「黒川奈緒美さん。被告の日常的な生活終端作業について、証言をお願いします」


奈緒美は、少し困ったように笑った。


「そんな大げさなものじゃないんですけど」


「構いません」


「最初は、気づいた人がやればいいと思っていました。トイレットペーパーも、麦茶も、ゴミ袋も。別に、怒るほどのことじゃないと思って」


黒川は、少し救われた気がした。


「でも、だんだん、気づくのがいつも私だなと思うようになりました」


黒川は、救われた気持ちを取り下げた。


「言えば替えてくれるんです。でも、言わないとやらない。しかも、完全に空ではないんです。芯に少し紙が残っているとか、麦茶が底に少しだけあるとか、シャンプーが水っぽいけど一応出るとか」


奈緒美は、黒川の方を見た。


「だから、文句を言うと、私が細かいみたいになるんです」


黒川は何か言おうとして、やめた。


「それで、たぶん途中から、言うのも面倒になりました」


法廷が静かになった。


「記録はありますか」


検察官が尋ねた。


奈緒美は、少し恥ずかしそうに頷いた。


「あります」


黒川は目を見開いた。


「あるの?」


奈緒美は、黒川を見ずに答えた。


「あるわよ」


検察官が端末を受け取った。


「提出資料、乙第一号。家庭内終端作業不履行メモ」


「乙って」


黒川は、そこに引っかかった。


弁護人が小声で言った。


「証人側提出資料です」


「そこじゃないです。メモって何ですか」


奈緒美は淡々と言った。


「最初は愚痴のメモだったの。でも、百回を超えたあたりから、これは家族の歴史だと思って」


傍聴席がまたざわついた。


裁判長が木槌を打った。


「静粛に」


黒川は、家族の歴史に芯が刻まれていたことを知った。


検察官は、次に未来側の損害を説明した。


「過去人の皆様には理解しがたいかもしれませんが、被告らのような終端作業転嫁者の累積により、未来社会では生活用品の信用設計が大きく変化しました」


法廷中央に、未来の住宅が映し出された。


一見、清潔で便利そうな部屋だった。だが、あちこちに小さな表示パネルがある。


「未来世代は、家庭内における最後の一手を人間同士の信頼に委ねることを断念しました」


検察官が言った。


「結果として、各種生活終端確認機器が普及しました」


映像が切り替わる。


まず、電子レンジが映った。


加熱が完了してから十四分が経過しています。食品は現在、加熱前より冷たくなっています。


黒川は、思わず目をそらした。


次に、流し台のスポンジが映る。


現在使用中のスポンジの有効面積は当初の一一パーセントです。洗浄効率より交換コストが下回っています。


「一一パーセント」


黒川はつぶやいた。


次は、製氷皿だった。


製氷皿が空です。氷を使った人物の特定が完了しました。その人物は現在この警告を聞いています。


傍聴席が少しざわついた。


「怖くないですか、これ」


黒川が言うと、検察官は答えた。


「効果はあります」


次は、玄関の傘立てだった。


傘の留め具が未締結です。現在の状態を『たたんだ傘』と呼ぶかどうかは哲学的な問題ですが、周囲の人は迷惑しています。


裁判長の眉がわずかに動いた。


次は、エレベーターの内部だった。


ドアが自然閉鎖するまで二十三秒が経過しました。あなたの後ろに三人います。三人ともボタンを押してほしいと思っています。


「思っている、まで分かるんですか」


弁護人が尋ねた。


検察官は、少し間を置いて答えた。


「統計上、ほぼ確実です」


最後に、自動車のメーターパネルが映った。


Eランプ点灯から現在まで四日が経過しています。お客様は現在、信仰によって走行されています。


傍聴席で、誰かが吹き出した。


裁判長は木槌を打とうとして、少しだけ遅れた。裁判長も今のは危なかったらしい。


「裁判長」


弁護人が立ち上がった。


「このような機器の開発は、未来側の設計思想の問題であり、被告個人の行為に帰責するのは過剰ではありませんか」


「検察官」


裁判長が促した。


検察官は頷いた。


「もちろん、被告一人が未来社会をこのようにしたとは申しません」


黒川は、やっと当然のことを聞いた気がした。


「しかし、被告は過去社会に無数に存在した終端作業転嫁者の一人であり、その行為は統計上無視できない累積債務を構成します」


また始まった。


黒川は思った。


未来裁判所は、絶対に個人を逃がさない。


「過渡期には、終端確認センサーの電池切れを検知する補助センサーも開発されました」


裁判長が、わずかに眉を動かした。


「しかし、補助センサーの電池切れを誰が検知するのかという問題が発生し、二〇八四年に当該方式は廃止されています」


弁護人が言った。


「それは、未来側の技術開発が迷走しただけでは」


「そのような迷走を必要とする社会を招いたのが、被告ら過去人です」


検察官は真顔だった。


黒川は、未来裁判所の無理やりさに初めて怒りかけた。


しかし同時に、少しだけ思った。


センサーの電池切れを検知するセンサーは、確かに意味がない。


そこだけは、分かってしまった。


判決前、裁判長は黒川へ発言を求めた。


「被告人。最後に述べることはありますか」


黒川は、しばらく黙った。


言いたいことは山ほどあった。


たかが芯ではないか。麦茶くらい作ればいいではないか。ゴミ箱は、まだ少し入ると思ったのだ。シャンプーに水を入れるのは、昔から誰でもやっていたではないか。


だが、妻の証言が残っていた。


言わないとやらない。


完全に空ではないから、文句を言う方が細かいみたいになる。


その言葉が、変に残っていた。


「悪気は、なかったんです」


黒川は言った。


「はい」


裁判長は頷いた。


「でも、たぶん、それで済ませていたんだと思います」


法廷は静かだった。


「まだ少し残ってる、って言えば、自分では終わらせなくていいと思ってました」


黒川は、膝の上で手を組んだ。


「それを毎回、誰かがやっていたんだと思います」


奈緒美は、証人席で何も言わなかった。


裁判長は、しばらく資料を見ていた。


やがて、静かに判決を読み上げた。


「主文」


法廷の空気が引き締まった。


「被告人、黒川誠一郎を有責とする」


黒川は目を閉じた。


「被告人は、生活の中に現れる終端作業を、自ら完了させず、後続者へ黙示的に転嫁する行為を反復した。各行為は軽微である。しかし、軽微であるがゆえに見過ごされ、見過ごされるがゆえに不公平な負担として累積した」


裁判長の声は、淡々としていた。


「本裁判所は、被告人一名の行為により未来社会全体が変質したとは認定しない。しかし、被告人の行為は、過去社会に広く存在した生活終端作業転嫁の一例であり、未来社会における終端確認機構の過剰発展を招いた累積要因の一部として、責任を免れない」


黒川は、妙に長い罪を背負わされている気がした。


「よって被告人を、生活用品警告音声収録刑に処する」


黒川は、目を開けた。


「……何ですか、それ」


裁判長は、少しだけ黒川を見た。


「警告される側から、警告する側になる刑です」


   *


収録室は、意外なほど普通だった。


小さな防音ブースがあり、マイクが一本立っている。壁の向こうに、音響技師らしき人物と、時際裁判所の監督官が座っていた。


黒川は、台本を渡された。


厚かった。


「これ、全部読むんですか」


「標準警告音声の追加収録分です」


監督官が答えた。


「追加?」


「主要な終端確認音声は、すでに別件の受刑者が担当しています」


「別件の受刑者」


「過去人は多様ですから」


黒川は、聞かない方がよかったと思った。


台本の一枚目をめくる。


そこには、こう書かれていた。


『シールの剥離が九三パーセントで停止しています。残り七パーセントの剥離を完了してください』


黒川は、しばらく黙った。


「……何ですか、これ」


「シールの角だけ残して諦める人向けの警告です」


「そんなものまで」


「未来社会では、途中で諦められた粘着物の蓄積が問題になりました」


黒川は、もう少し反論したかったが、台本の文字は逃げなかった。


仕方なく、マイクの前に立つ。


「シールの剥離が九三パーセントで停止しています。残り七パーセントの剥離を完了してください」


音響技師が手を上げた。


「すみません。残り七パーセントを、もう少し見捨てられたものとして扱ってください」


「シールの気持ちですか」


「違います。剥がし残した人間への諦めです」


「難しいな」


「刑ですので」


黒川は読み直した。


次の台本には、さらに分からないことが書かれていた。


『ラップの切り口が失われました。現在、切り口の捜索を開始してください。推定所在地、どこか』


黒川は、そこで完全に止まった。


「推定所在地、どこか?」


「はい」


「何も推定できてないじゃないですか」


「ラップの切り口は、そういうものです」


監督官は平然としていた。


「未来でも?」


「未来でもです」


黒川は、未来にも解決できない問題があることを知った。


監督官は、間を置かずに次の紙を差し出した。


『クローゼット内のハンガーの向きが混在しています。左向き十三本、右向き九本。この非対称性に意味はありません。あなたがそうしたのです』


黒川は、読み終えてから言った。


「これは、別にいいじゃないですか」


監督官は、すぐ答えた。


「そういう人が、増えました」


「増えたら何なんですか」


「未来の収納管理AIが、意味のある分類かどうかを誤判定しました」


「ハンガーで?」


「ハンガーで」


黒川は、ハンガーで未来が乱れるとは思わなかった。


「では、次です」


音響技師が言った。


『鍋底への接触が三四七回を超えました。分子レベルの残留物を除き、カレーはもう存在しません』


黒川は、これはさすがに少し理解できた。


「これは、やりますね」


「やるのですか」


「カレーは、最後まで食べたいので」


「最後まで食べたい気持ちは否定されていません」


監督官が言った。


「ただし、存在しないカレーをこそぎ続ける行為は、終端認識の不全として分類されています」


「終端認識って、カレーにもあるんですか」


「あります」


「あるのか」


黒川は、カレーの終わりを初めて意識した。


黒川がその感覚を飲み込む前に、別の台本が置かれた。


『食パンの耳が皿に残されています。耳はパンです。これはパンを残したということです。パンに謝りますか』


黒川は、黙って台本を見た。


「これ、子ども向けですか」


「全世代向けです」


「パンに謝るんですか」


「任意です」


「任意なんだ」


「ただし、謝罪選択率は高いです」


黒川は、未来人の暮らしが少し分からなくなった。


その次の台本は、もっと分からなかった。


『絆創膏の端がめくれています。このまま放置された場合、絆創膏はいずれ絆創膏でなくなります。何になるかは不明です』


黒川は、読んでいる途中で笑いかけた。


音響技師が手を上げる。


「そこは笑わないでください。何になるか分からない不安を込めて」


「何になるんですか」


「不明です」


「台本にそう書いてありますね」


「はい。不明です」


黒川は、不明を込めて読んだ。


しばらく収録が続いた。


黒川は、だんだん、何を警告されても驚かないようにしようと思い始めていた。


驚くたびに、未来裁判所の勝ちになる気がした。


そう思ったところで、監督官が次の紙を差し出した。


『壁のカレンダーが先月のままです。現在の室内時刻認識に、十日間の遅延が発生しています』


「これは」


黒川は、少し身に覚えがあった。


「めくるだけですよね」


監督官が言った。


「はい」


「だったら、気づいた人が」


言いかけて、黒川は口を閉じた。


さっきまでの法廷で、自分が何度もその言葉の近くに逃げ込んでいたことを思い出した。


気づいた人がやればいい。


それは、たいていの場合、自分以外の誰かだった。


音響技師が、静かに言った。


「今の気づき、声に入れましょう」


「嫌な仕事だな」


「刑です」


黒川は、台本を持ち直した。


監督官は、さらに紙をめくった。


台本の束は、まだ半分も減っていないように見えた。


『パーカーのフード紐に著しい左右差を検出しました。左紐露出率七八パーセント、右紐露出率一二パーセントです。衣類は現在、片側だけ強い主張をしています』


黒川は、台本を見たまま固まった。


「衣類が主張」


「はい」


「未来の服は大変ですね」


「過去人が直さなかったので」


「何でも過去人のせいにしますね」


「そういう裁判です」


黒川は、諦めて読んだ。


次の紙は、監督官が無言で差し出した。


黒川も、もう無言で受け取った。


『使用済みコンタクトレンズ容器のアルミ蓋が洗面台上に三枚残留しています。これは地層ではありません。捨ててください』


「三枚くらい」


黒川は言いかけた。


監督官と音響技師が、同時にこちらを見た。


黒川は咳払いした。


「読みます」


読んだ。


それからも、台本は続いた。


『新品靴接続用プラスチック紐が玄関上に残置されています。切断後の使命は終わっています。風景の一部ではありません』


これは、黒川にはよく分からなかった。


だが、読んでいるうちに、なぜか玄関の靴箱の上にそういうものがあった気がしてきた。


終わったものが、風景に混ざる。


それは便利な言い訳だと思った。


「もう少し、風景にされてしまったものの虚しさを入れてください」


音響技師が言った。


「虚しさの種類が多すぎませんか」


「未来は分類が進んでいます」


「嫌な進み方ですね」


黒川は、読み直した。


少しだけ、うまくなった気がした。


次の台本を見た瞬間、黒川は眉を寄せた。


『信号待ち中、足先が車道に七センチ進出しています。信号が変わるまで四十二秒あります。七センチに理由はありますか』


「これは、俺じゃないですよね」


「被告個人の事案ではありません。汎用警告です」


「何で俺が読むんですか」


「終端作業転嫁者は、生活上の小さな境界を軽視する傾向があるためです」


「ひどい分類だな」


「便利な分類です」


黒川は、未来社会が分類を便利に使いすぎていることを知った。


何本も読んだ。


何十本も読んだ。


最初は、ひとつずつ突っ込んでいた。


途中から、突っ込む前に息を吸うようになった。


さらに途中からは、息だけ吸って、突っ込まないまま読むようになった。


そのたびに、音響技師は細かい注文をつけた。


「今の『どこか』は、少し探す気がありすぎます。もっと見失ってください」


「『パンに謝りますか』は、責めずに逃げ道を塞いでください」


「『地層ではありません』は、考古学への敬意を忘れずに」


「『七センチに理由はありますか』は、問いそのものの無意味さを信じてください」


黒川は、だんだん上手くなった。


上手くなりたくはなかった。


収録の最後に、監督官が言った。


「被告の音声は、旧型生活終端確認装置の補助音声として登録されます」


「補助なんですね」


「主要音声は、別の受刑者の方が担当しています」


「その人は何をしたんですか」


監督官は、少しだけ資料を見た。


黒川は、なぜか身構えた。


ここまで来ると、未来裁判所の重罪の基準が分からなくなっていた。


「詰め替え用洗剤を、袋の口を切ったまま倒しました」


黒川は黙った。


頭の中に、倒れた袋から洗剤がゆっくり広がっていく光景が浮かんだ。


床に広がる透明な液体。踏めば滑り、拭けば泡立ち、拭いた雑巾まで洗剤になる。


そこには、芯とは違う取り返しのつかなさがあった。


それは、確かに重い気がした。


   *


刑の終了後、黒川は現代へ戻された。


自宅の廊下だった。


手には、まだタオルがあった。


時計を見ると、ほとんど時間は進んでいなかった。台所から、妻が食器を重ねる音が聞こえる。テレビでは、相変わらず昼過ぎから雨だと言っている。


すべてが元通りだった。


ただ、黒川だけが、少し元通りではなかった。


彼はトイレへ戻った。


紙巻き器の上に、芯がある。


黒川は、それを外した。


捨てた。


収納棚から新しいロールを取り出し、紙巻き器に差した。


ほんの十秒ほどの作業だった。


黒川は、その十秒を見つめた。


廊下に戻ると、妻がこちらを見た。


「替えたの?」


「替えた」


「珍しい」


黒川は、何か言い返そうとして、やめた。


代わりに、タオルを洗濯機へ入れた。


そこまでやってから、少しだけ得意になった。


その直後、洗濯機の中に昨日の洗濯物が残っていることに気づいた。


黒川は、しばらくそれを見つめた。


そして、小さくため息をついた。


「……干すか」


何かが少し変わったようだった。


   *


それから、長い時間が過ぎた。


黒川誠一郎という名を知る者は、もうほとんどいない。


ただ、未来のある家庭では、古い型の終端確認装置が今も使われていた。


新しい機種に比べると反応は遅い。警告文も少々くどい。音声も、妙に低く、妙に真面目で、生活用品に言われるには少しだけ重い。


それでも、その声が好きだという者もいた。


その家では、買い替えの時期を過ぎた旧型機が、まだリビングの壁に取り付けられていた。


ある日のことだった。


子どもが、リビングのテーブルに使い終わった絆創膏を置いたままにしていた。


端は、少しだけめくれている。


しばらくして、壁の装置が低く光った。


そして、男の声が流れた。


「絆創膏の端がめくれています。このまま放置された場合、絆創膏はいずれ絆創膏でなくなります。何になるかは不明です」


子どもは、声を立てて笑った。


「また芯おじさんだ」


母親は、絆創膏をつまんでゴミ箱へ入れながら言った。


「昔の人は、自分で終わらせなかったのよ」


「終わらせるって?」


子どもが首をかしげる。


母親は、少し考えた。


「使ったものを、次の人が困らないところまで戻すこと」


子どもは、ふうん、と言った。


その説明が、どこまで届いたかは分からない。


けれど子どもは、テーブルの上に置きっぱなしだったシールの台紙に目をやった。


角のところに、少しだけ剥がし残しがある。


子どもはそれを指でつまみ、最後まで剥がしてから、そっとゴミ箱へ入れた。


壁の装置は、何も言わなかった。


   *


さてさて。


芯だけ残す。麦茶を五ミリ残す。空箱を冷やす。


どれも、世界を滅ぼすほどの大罪ではありません。


けれど、誰かが終わらせなければ、生活はいつまでも終わりません。


そして、終わらせる人の手元だけに、静かに小さな仕事が積もっていくのであります。


読者諸兄も、ゆめゆめ油断なされぬよう。


あなたが残したその三センチ。


未来では、もう優しさとは呼んでもらえないかもしれません。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


今回の教訓は簡単です。

最後の一手を、他人に残してはいけません。


トイレットペーパーの芯。

麦茶の残り五ミリ。

ゴミ箱の山体崩壊。

シャンプーの水道水化。

冷凍庫の空箱。

マヨネーズの遠心力濫用。


どれも小さなことです。

小さなことですが、その小さな面倒を誰かに渡し続けた結果、人類は未来で余計な警告装置を作る羽目になりました。


第10話までお付き合いいただき、ありがとうございます。

本作は一話完結型の連作です。

気が向いたときに、また別の訴状が届くかもしれません。

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