第0話 終わり?
「ゴロゴロ……」
雨が石畳を激しく叩く。
だが。
「はっ、はっ……っ!」
荒い呼吸音が、雨音を切り裂いた。
「ドタッ、ドタッ……!」
急ぐ足音。
「ばしゃっ!」
水たまりを踏み抜く音。
石造りの家が並ぶ通りを、一人の少年が駆け抜けていく。
細身に見えるが、泥だらけの服の下には、締まった体つきがうかがえる。
黒い髪はぐしゃぐしゃで、藁や雑草が絡みついていた。
少し遅れて――
「ガン、ガン、ガン、ガン!」
重たい鉄靴が同じ水たまりを踏みつけた。
少年の後ろから、剣を手にした二人の衛兵が迫っていた。
明らかに、少年を捕まえに来ている。
前方の道端に、小さなレストランがあった。
軒下のテーブルには、湯気の立つスパゲッティが一皿置かれていた。
走っている少年の目がそこを一瞬捉え、閃いた。
――使える!
走りながら腕を伸ばし、皿を掴む。右手でしっかりと持ち上げると、指先に触れたスパゲッティが少し震えた。
金色の砂のような粒子が、指先からスパゲッティの隙間に混ざり込む。
少年は振り返ることなく、スパゲッティの乗った皿ごと、近いほうの衛兵めがけて投げた。
皿ごと宙を舞うその瞬間、金色の砂がその上方で新たなスパゲッティに変わった。
形を素早く変え、ねじれ、やがて顔を覆う蜘蛛のような怪物――フェイスハガーの姿に膨らんだ。
新たに生まれたスパゲッティは、ためらうことなく、空中から遠い方の衛兵の顔めがけて飛びついた。
「■!?」
「びちゃっ――!」
「■■■■■――!」
遠い方の衛兵は悲鳴を上げ、恐怖で手を振り回し、頭を振り、顔面に絡みついたものを必死に払い落とそうとした。
驚きに目を見開いた近い方の衛兵は、気を取られ、皿の存在を忘れた。
「ぐっ……!」
スパゲッティを乗せたままの皿は、容赦なく近い方の衛兵に命中し、頭を打ち付けた。
衛兵は痛みに顔を歪め、手で押さえた。
その一瞬の混乱の隙に、
少年はもう、通りの先へと駆け抜けていた。
・・・
少年の足が止まった。
道が――途切れていた。
その先は、街を横切る運河だった。
濁った水が雨に打たれ流れ、舟がいくつか激しく揺れている。
見た目では水の深さも泳げるかどうかも分からなかった。
一瞬だけ足が止まったが、その隙に、背後から足音が迫った。
振り返ったときには、すでに囲まれていた。
いつの間にか数の増えた衛兵たちが、剣を抜いてじわじわ距離を詰めてくる。
その中の一人、明らかに上の立場の男が前に出た。
何か言っている。低く、落ち着いた声で。
「■■■!■■■■、■■■■?」
言葉が通じない。逃げ場も、ない。
ならば――
少年は衛兵たちが驚く中、力を抜き、体をそのまま後ろへ預けた。
「ばしゃあっ――!」
水が大きく跳ね、波紋が重なり合い、濁った水面は雨に叩かれ絶えず揺れていた。
・・・
「――っはあ!」
揺れる水面を破って、ゴーグル姿の少年が顔を上げた。
まるで溺れかけたかのような息遣い。
プールの縁に必死に手をかけ、痛みに耐えながら咳き込む。
二人の大人が素早く駆け寄る。ひとりはゴーグルを外し、もうひとりは少年の腕を掴んで上がるのを手伝う。
「頑張っているのは知ってるのに……」
「もう、いいじゃない」
少年は痛みに顔をゆがめ、首を軽く横に振る。
ぎこちなく車椅子まで這い寄り、もたれるようにして這い上がり座った。
視線は、自分の脚に注がれる。
最近、トラック事故で潰されたその脚。
無力感と絶望が入り混じる。
水滴が顔を伝い落ちるが、それがプールの水か涙か、誰にも分からない。
しかし、その瞳は光を失わなかった。
まるで果てしない闘志が宿っているかのように。
両親が静かに車椅子を押し、少年の移動を手伝う。
少年は一言も発さない。
・・・
夜、海辺。
少年は自作の小さなロケットを、夜空に打ち上げる。
暗闇を切り裂き、光の尾を引きながら昇っていった。
「ロケットのようになりたい……自由に、未知へ」
少年はその光が消えるまで見つめ、瞳を輝かせながら内側から湧き上がる決意を確かめた。
「身体が縛られていても、心は縛られない」
「自由な心は、絶え間なく未知を追いかけるべきだ!」
静寂。
そして、突然――
声。
「運命を変えたいか?」
少年はぴたりと動きを止め、辺りを見回す。
誰もいない。
ただ、広がる海、風、そして空っぽの夜空。
首を振り、聞き間違いだと思おうとする。
しかし数秒後、再び――
「君、自由になりたいか?」
少年の表情が硬くなる。
自分の声とそっくりだった。いや、確かに自分の声だ、そして自分の頭の中から直接響いている。
「今日の疲れで、頭がおかしくなってるんだな……」
そう思いながらも、少年は答える。
「はい」
「でも」
「自由は自分で決めるものだ」
「誰かに教えられたり、押し付けられるものではない」
静寂。
少年は自分に話しかけている自分が馬鹿らしく思えながら、車椅子を押して家に帰ろうとした。
そのとき、頭の中で、自分の無感情の声が響いた。
「お前には選択権がないと思う」
少年は思わず動きを止めた。
眉をひそめ、何か言いかけたその瞬間――
自分の体から金色の砂のような粒子が溢れ出し、周りに漂い始める。
手を振り払おうとするが、手が粒子を通り抜けてしまう。
慌てて無意識に立ち上がろうとする。
そして立っている!
だが、足が地面に触れていないことに気づく。
「……私、どうなってる?」
狂ってしまったのかと思った瞬間、少年は跳躍する――そして、ロケットのように空高く突き進む。
飛行機をすり抜け、幽霊のように避ける。
やがて、自分の体が視界のどこにも存在しないことに気づく。
手も足も体もない、ただ視界だけが残っている。
地球が遠くに見える。
太陽系も、
銀河も、
宇宙のすべても視界に入る。
そして、すべてが暗闇に溶けた。
・・・
「――っはあぁ!」
弾かれたように目を開ける。
うつ伏せのまま、何千年も眠っていたかのように、空気を貪るように何度も吸い込み、吐き出す。
視界はぼやけているが、自分の手が確実に地面に置かれ、体が支えられているのを確認できた。
手で体中を確かめると、腹も胸も肩も、どこも消えてはいない。自分は幽霊ではないが、何も身につけていないことにも気づいた。
周りを見渡すと――
なんとか、目の前に鉄格子がある。
周囲の薄暗さに目が慣れてきて、自分が岩肌むき出しの空間にいることにも気づいた。
洞窟の一角らしい。
鉄格子の向こう側には机や椅子、本や箱、ろうそく立てなどが無造作に置かれていた。
どこか錬金術師の仕事場のような雰囲気があるものの、完全に隔絶されていることが伝わってきた。
「……なんだよ」
「さっきのは夢だ……?」
「じゃあ、こっちも夢か?」
「夢の中の夢か……」
そのとき――
後ろで、「どさっ」、と音がした。
少年が振り返ると、鉄格子の向こうに、いつの間にか老人が立っていた。
背は高く、がっしりとした体格。頭は完全に禿げ上がり、眉さえもない。
老人は手にしていた本を落とし、少年を見つめて驚いた表情を浮かべている。しかしそれ以上に――その目は見開かれ、口を大きく開け、興奮が全身から溢れているのが伝わってきた。
「――■■■、■■■■■■?」
何を言っているのか、全く分からない。意味のない音にしか聞こえない。
少年は少しだけ考えて、ふっと息を吐いた。
「くだらない」
昇天のシーンも、鉄格子も、老人も、現実とは思えない。
いまの自分は、多分、車椅子に座ったまま寝ているようだ。
「ならば」
少年はそのまま横になり、冷たい地面など気にせず体の力を抜く。
「すぐに覚めるだろ」
目を閉じる。
「これらのふざけた夢を」
「……ここで、終わり、でいい……」
少年の意識が、静かに沈んでいった。
彼の周りのかすかな金色の粒子も、静かに消えていった。




