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月のかけら  作者: ばぼびぃ
5/8

Heart on the moon 後編

  19


 次の日から、何時もの廃ビルの屋上に行くと、勉強と、人の心を読む修行を再開した。勉強の間は、綾は自分が必要ないからと、近所のお城のような建物へ通った。一人の時に力の使い方の練習はしないようにと言い置いて。

 綾が戻ってくると、屋上から通りすがりの人の心を読んだり、買い物先で、多少の人数の中から、特定の心の声を聞いたりといった修行を行った。

 修行もあるために、勉強のペースはだいぶ落ちたものの、二週間ほどで視聴できる講義は無くなっていた。

 アパートへ戻ると、綾の指導で料理を作った。綾に体があるので、実技を見ながら教わることができた。人と作業すると、なぜか胸の奥が軽くなる。言葉にするなら、何だろう。楽しい、でいいのかな。なら、この調理の時間やそれを食べながらする雑談は、とても楽しい時間だった。

 いつもの日常に戻った。かと思えば、アパートへ時々三上が訪ねて来るようになった。必ず、何かしらの食材を持ってきてくれる。なんでも、真紀に持って行けと言われたとか。おかげで食費が大いに助かるのだけれども、助けてもらってばかりで、申し訳ない気がする。

「そんなに気になるのなら、今度食事に誘ってあげるといいわ。もちろん、あなたが作るのよ」

 と、綾が面白がって言う。

 まだ料理を始めたばかりで、いびつな物ばかり出来上がるのに。人に見せられるような代物ではない。味もきっとまだまだだ。

 真紀とは電話でやり取りするものの、直接会うことはなかった。こちらからお礼の電話をかけたり、勉強の進み具合を話したり、雑談したり。

 お互いに共通する知り合いの三上の話題もあった。

「さえない兄ちゃん」

 などと真紀は言うが、何処か嬉しそうな言い方だ。三上のことを考えるのが嬉しいのだろうか。

 真紀はあの時のあたしのパニックについて、聞こうとはしなかった。素知らぬ顔で、いつも通り接してくれる。あたしは聞かれても答えられないと思うので、大いに助かった。

 三上もそうだ。訪ねて来て、あたしの様子を見たり、世間話をしたりするものの、あたしのパニックの事や、しつこく手を握ったことについては何も言わなかった。

 今思えば、あたしはなんて図々しかったのだろう。見ず知らずの三上の手を掴み、離そうとしなかったのだ。いい迷惑だったに違いない。思い出しただけで恥ずかしい。

 そう言えば、心美からの連絡は、なぜか全然入らなくなっていた。あれだけ人に依存するような感じだったのに、ぴたりと連絡が止まった。どれだけ止まったかというと、すでに三週間経っていたのだ。

 あたしも日常に追われ、すっかりと忘れていたのもある。せっせと料理の腕を磨き、綾にそそのかされ続け、ついに三上を食事に招待することになった。あたしにとって、人生初の一大事だ。両親以外の人と食事というのは。あたしの手料理ともなると、本当に人生初だ。どうしよう。ちゃんと料理できるのかな。

 そうそう。綾はまだ依代なので、食事は不要なのだそうだ。食べて見せることはできるものの、普通に消化できないので大変なのだとか。なので、綾でも未体験なのだ。

 初めての相手が三上で、本当にいいのだろうか。真紀でもいいのではないか。ただ、呼び出す名目が、三上の方が作りやすかった。それに、時間が経つと、あの手を握った時の感覚が薄れ、本当に人と違うのか、疑わしくなり、もう一度触れて確認したいと思った。何より食材を差し入れてもらうお礼もしたかった。

 そしてなぜか、彼を食事に誘おうとすると、言葉がつっかえ、胸が張り裂けそうになる。なのに、来て欲しいと思う自分がいる。この訳の分からない感情の正体も、確かめたかった。

 綾は答えを知っているようだけど、あたしに心を読まれないように隠していた。防ぐ方法もあるのだと、それで初めて知り、綾を観察してコツを掴もうともしているのだけれども。とにかく、綾は意味深に笑ってみせ、再々、三上を誘うようにそそのかすだけだった。

 そしてあたしはついに、乗せられ、三上を誘ってしまった。

「あの!」

 言葉が途切れたら、言えなくなると思い、早口でまくしたてた。

「今度食事を一緒にしませんか!あたしが作るから!あの、何時も色々と頂いているお礼に!」

 たぶん、ちゃんと言えていると思う。舌を噛んだりはしなかった。耳が異常に暑いのが気になるけれども。

「お礼だなんて、別にいいよ」

 三上は照れくさそうにそう言った。

 あたしは断られるのかと思った。そう思うと、目頭の奥が暑くなった。

「じゃあ、今度の土曜日でもいいかな?お邪魔しても」

 三上はモバイルの画面を確認して言った。なので、あたしの顔を見ていなかった。見られていたら、大変だった。きっとくしゃくしゃになって、泣きそうだったに違いない。

 何とか目頭の奥の物がこぼれないように堪え、大きく何度も頷いて、表情をよく見えないようにごまかした。

 時間を決めると、三上は帰って行った。

 戸口が閉まった途端、あたしは崩れ落ちていた。足が震えている。頬に温かいものが伝っていた。目頭の奥の物があふれ出していた。

 無事に誘えてホッとしたら、全身の力が抜けていた。

 綾がそっと背中を擦ってくれた。そしてあたしを抱きしめ、

「よくやったわ」

 と声をかけてくれた。

 しばらく綾に抱きしめられたまま、戸口の前の廊下にうずくまっていた。

 後から冷静に考えてみれば、あたしは人の心が読めるのだから、こんな一喜一憂しなくても済んだのではないか。相手が三上だからこうなってしまったのか、修行の成果で意識しないと心を読めなくなったのか、分からない。

 それとも、心が読めても、やっぱりああなったのだろうか。なったかもしれない。



  20


 どうせなら、真紀や心美も誘えばよかったかも、と思い、心美から当分連絡が無いことを思い出したのだった。

 ただ、真紀や心美も誘うと言う考えは、綾に止められた。

「せっかくだから」

 何がせっかくなのか、意味不明だけれども、

「特定の人に料理を作るのが、成長する一番の近道よ」

 などと訳の分からない説得に、納得してしまったあたしがいた。

 でも確かに、彼に出すことを想像しながら作る料理は、なぜか苦にならなかった。それどころか、目に見えて料理の腕が上がったほどだ。これはどういうことなのだろう。

 あたしは最近、自分の気持ちがよく分からない。よく分からない出来事も多すぎる。初めてのことは色々と困る。でも、なぜか、嫌じゃない。

 あたしはいったいどうしてしまったのだろう。

 日増しに自分の気持ちが浮足立って行くのが分かった。自分の感情を持て余し、寝付けない日々が続いた。

 唯一の救いは、修行の成果が出ているのか、近所の心の声に悩まされなくなっていることだった。どこかで音がしている、程度には認識していても、意識しなければ聞こえることはない。

 金曜日はそれこそ眠れる気がしなかったので、早々と料理の下準備に取りかかった。と言っても、大した料理が作れるわけではないので、あっという間に完成し、後は時間をかけて煮込むだけだった。

 何を作ったか。別に印象深いものでも何でもないのだけど。たぶん、一生忘れないだろう。ただのカレーなのだけれども。これならば、料理の上手い下手もあまり差が出ないだろうと考えたのだった。

 自分用にカレーを作った時は、薄切り肉を使ったので、ルーを入れた後に肉を投入した。でも今回は厚切り肉なので、最初に鍋で表裏を焼いて取り出し、冷ましてから一口サイズに切った。その鍋を洗わず、そのまま玉ねぎを入れて色が変わるまで炒め、残りのメークインやニンジンを入れた。

 この野菜を切るときも、悩んだものの、意外と楽しかった。男の人の一口サイズって、どれくらいなのだろう、自分とどれくらい違うのかな。食べる人によって切り方も変わってくるとなると、難しくもあり、また面白くもあるのかもしれない。

 野菜をある程度炒めたら、最初の肉を入れ、水を入れて煮込む。軽くアクを取りながら煮込み、野菜が柔らかくなったら火を止める。

 鍋の沸騰が治まるのを待って、ルーを分量入れる。再び火にかけて、とろみが出るまで煮込んだら、後は弱火で煮込み、焦げ付かないように時々混ぜる。

 合間で使った道具を洗って片付けた。

 ここまでやってもまだ日付も変わっていなかった。

 まだ眠れそうにない。いい味になるかな、とか美味しくなるといいな、とか考えていると、どうも眠気が逃げていくようだ。

 鍋を弱火にかけたまま、部屋に戻って、読書をしたり、鍋の様子を見に行ったり、テレビを見たり、鍋の様子を見に行ったり、三上のことを考えたりしていた。

 綾が呆れるほど、あたしはソワソワしていたらしい。

 それでもあたしはいつの間にか、眠ったらしい。カレー鍋の火の始末も、混ぜることも綾がやってくれたらしい。焦がさなくてよかった。綾には大感謝だ。

 あたしは部屋が暑くなって、目が覚めた。時計を見て、飛び跳ねたほどだ。彼が来るまで時間が無い。

 慌てふためくあたしを、綾が面白がりながらも、アドバイスを差し挟んでくれた。

 冷房を入れ、部屋を片付け、小さな折りたたみ式のテーブルを出した。そしてシャワーを浴びて身だしなみを整えた。綾が言ってくれなければ、シャワーは忘れただろう。それどころか、部屋が散らかっていたままだったに違いない。危ない所だ。

 髪を乾かす前に、カレー鍋を弱火にかけた。そしてドライヤーで髪を乾かした後、鍋の中身を混ぜた。

 唐突に、チャイムが鳴り響いた。

 あたしは思わず飛び跳ねていた。

「三上です」

 あたしの飛び跳ねた音に答えるように、戸口の外から声がかかった。

「あ、はい」

 あたしは何と答えたのだろう。よく覚えていない。とにかく急いで自分の格好を確認した。

 プリント柄のシャツを着て、ホットパンツを穿いている。ラフすぎるかなっとも思ったが、他に服も大して持っていなかった。

「変に見えないよね?」

 小声で綾に確認してもらう。

「ええ、大丈夫よ」

 綾はそう答えつつ、あたしを通り越し、戸口を開けた。

「どうぞ、お待ちしておりました」

 綾はそう言って三上を迎えた。そして代わりに自分が外に出て、

「私は用事があるので、お二人でごゆっくり」

 などと言って出て行ってしまった。

 あたしはただ茫然と見送るしかなかった。

 実はこの時、一番困ったのは、三上だった。戸口に立たされ、どうしていいか戸惑っていたのだ。

 でも、あたしは気付かず、結構な時間、二人して立ち尽くしていたと思う。

 鍋の音が聞こえて、やっと動けた。鍋の火を止め、中身を混ぜた。まだ焦げ付いていないようで、助かった。

「あ、あの、どうぞ中へ」

 そこで初めて、三上が戸口に立ったままだったことに気づき、部屋へ上がるように促した。

「お邪魔します」

 三上はそう言って上がった。ポロシャツに綿のズボンと言った格好だった。そこそこラフな格好で来てくれて、助かった。あたしがラフすぎて浮くところだった。

 部屋の中に案内し、テーブルの脇にクッションを置いて、そこへ座るように促した。すぐに冷蔵庫からお茶を出し、コップに注いで渡した。

「ありがとう」

 あたしを見上げて、三上はそう言った。あたしはどういたしまして、などと返せれば良かったのだろう。でも何も言うことができず、台所へ戻ってお皿にご飯とカレーを盛りつけた。

 そして部屋に戻り、彼の前と、向かい合うところへ置いて、あたしも座った。

「お、カレーだね。いいにおいだ」

 三上はそう言いながら、何処かよそよそしい。考えてみれば、それほど面識があるわけでもないので、当然と言えば当然の反応かもしれない。

 あたしも何を言っていいのか分からないので、とにかく食べることにした。

「どうぞ、召し上がってください」

 綾が居れば、そう言うように促しただろう。でも言えなかった。実際に言ったのは、確か、

「食べましょう」

 だったと思う。

「うん、じゃ、いただきます」

 三上はそう言ってスプーンで口に運んだ。

「んん!おいひい!」

 口の中に物があるまましゃべったので、少しおかしな発音になった。そんな彼の様子がどこか、心地よかった。そしてなぜか、懐かしい思いがあった。

 あたしはなぜか嬉しくなって、胸がいっぱいだった。

 あたしもカレーを食べてみると、これが意外といい味だった。料理に成功した嬉しさも相まって、あたしは上機嫌だった。

 でも、彼のあの反応、本当なのだろうか。おべっかで、美味しそうに食べてくれただけではないのか。少し不安になる。

 あたしには人の心が読める。確かめる手段があるではないか。

『おいしいな。もう料理もできるなんて、真紀ちゃんと大違いだな』

 そういう三上の心の声が聞こえた。

 一安心だ。

『それにしても、最近の中学生は、発育いいな。目のやり場に困る』

 彼の心の声に、あたしは驚いた。

『いや、そう言えば、以前は痩せ細っていた。肉付きが増したせいか』

『とはいえ、仮にも僕も男だぞ。男の前でTシャツの下何もつけないのは、やばいだろ』

 あたしは幻滅した。この人もエッチなことを考えている。あたしはとっさに胸を隠した。そして気付いた。今日はニップレスも付けていないことに。

 一気に顔が暑くなる。あたしはノーブラのままで、男の人の前にいたのだ。綾はなぜ教えてくれなかったのだろうか。彼が欲情してあたしを襲うのを期待したのか。それともあたしが気付いて恥ずかしがるのを、面白がってどこかで見ているのだろうか。

『しかし、真紀ちゃんの二個上か。雰囲気が全然違うな。もう女性だ。肉付きがよくなるだけで、こんなにも綺麗になるんだな』

 彼の心の声に、驚いた。あたしが、綺麗。反芻してみても、実感がない。あばらの浮いたあたしが、綺麗なのだろうか。

 目線を落とすと、膨らみが見えた。

 そう言えば、以前より大きくなったような気もする。

 もっと視線を落とすと、太腿が、こちらも以前よりだいぶ太くなったように思う。

 綾があたしに、もっと肉を付けた方がいいと言っていた。肉が付いたから、綺麗になったのだろうか。

「あ、ごめん。見つめる気はなかったんだけど、その」

 三上が、あたしが手で胸を隠していることに気づいて、しどろもどろに言っていた。

「祐美ちゃん、綺麗なんだから、その、男の前で、そのえーと、そう言う格好は、あの、ちょっと」

『ノーブラは刺激が強すぎる…』

 心の声が聞こえるので、必死に言い繕おうとしても、全て分かってしまう。

 対するあたしも、もう恥ずかしさでパニック寸前だ。

「ブラを買うお金が無いの!」

 あたしは思わず、とんでもないことを言い返していた。

 三上は返事に窮する。当然かもしれない。でも心の声は聞こえていた。

『あーだから真紀ちゃんは、食材を再々持って行かせたのか。そんなに貧乏だったとは…。僕がブラを買ってあげる?いやいや、さすがに無理だろ。僕が女性物下着のコーナー行って…そもそもサイズも知らないし、聞けるわけもないし。いやいや、その前に、こんなおっさんから下着貰ったら、ひくだろ』

 三上の心の声までパニックに陥り出しているのが分かった。

 でも、この人、襲おうとか、もっと見たいとか、エッチな反応ではない。

 そして何より、この人はまた、あたしのことを、綺麗だ、と言った。その言葉があたしの頭の中で繰り返し響いていた。恥ずかしいけど、嬉しくもある言葉。体全体が火照って、でもそれが心地よかった。

 自然と緊張が解れ、いえ、解れ過ぎて、胸を隠していた手まで下してしまった。

 自分でも何をしているのか分からない。なぜか、見られてもいい気がしていた。三上はもっと、あたしのことを褒めてくれるだろうか。

「こ、こら!大人をからかうものじゃない!」

 三上がスプーンを取りこぼし、ズボンの上に落した。慌ててあたしから視線をそらし、ハンカチを取り出してズボンについたカレーを拭いていた。

『本当に中学生か?めっちゃ色っぽい…やばいやばい…』

 三上が動揺している。それがなぜか、嬉しかった。あたしは本当にどうしたのだろう。綾に洗脳でもされて、エッチになっているのだろうか。

 綾の望みそうな方向だと、ここであたしがおもむろに立ち上がって三上の隣へ行き、ズボンの汚れを拭いてあげる、だろう。それも上目使いで行えば、完璧だ。

 想像しただけで、頭から煙が出そうだ。やっぱりあたしには無理。というか、なぜあたしがそんなことをしなければならないのだろう。こんなことをあたしが考えるなんて、やっぱり綾が何かしたのかもしれない。

 あたしは台所へ向かい、布巾を濡らして絞り、部屋に戻った。それを三上に差し出す。

「はい、どうぞ」

『なんで自分で拭かないのよ!』

 唐突に、綾の声が聞こえたような気がした。

「ああ、ありがとう」

 三上は顔を反らしたまま、受け取ろうとするので、手と手が触れ合ってしまった。

 あたしの心臓が飛び跳ねたように思う。

『あ、それはそれでいいわね。さあ、そのまま手を引いて』

 再び綾の声が聞こえた。どうやら幻聴ではないらしい。

 三上が急に立ち上がった。あたしの手から布巾を受け取りながら、

「ちょっとごめんよ」

 そう言って、あたしの背に手を回した。

 顔が近い。あたしの心臓の音が、彼に聞こえてしまう。このままあたしは抱きしめられてしまうのだろうか。綾の望む方向へ進んでしまうのだろうか。

 頭が真っ白になって、何も考えられなかった。

 三上が離れた。

 なにもされなかった。ホッとしたものの、妙な気分だ。何か物足りないような感じだ。かと言って、あたしはエッチなことを望んでいるわけではない。断じてない。

 三上は部屋の入り口の柱に近づいて、何かを取った。そして振り向くと、手に持ったものをひらひらと揺らしてみせた。

 二枚の紙のように見える。

「あの狐。こんなものを仕掛けてた」

 三上はそう言いながら、あたしを指さし、背中を指さし、そして後ろの柱を示した。

「え」

「これを使って観察しながら、変な雰囲気を醸し出す空間を作っていたんだ」

 三上はそう言うと、手にした紙を引きちぎった。

 あたしが理解する前に、色々進展する。

 今度は、三上がポロシャツを脱いだ。まだエッチな方向へ続くのだろうか。彼が迫ってきて、あたしを押し倒すのだろうか。

 そう思って緊張していると、三上はそのポロシャツの向きを変え、あたしの頭からかぶせた。

「ほら、腕を通して。ちょっと暑くなるかもだけど、これで、その、目のやり場に困らなくて済むから」

 あたしはその言葉を聞いて、顔から火が出る思いだった。あたしの方が変に意識をしていたらしい。

 大人しく袖に腕を通して、胸のボタンを閉じた。結構大きく、だぼだぼだ。でも何か、温かいものに包まれたようで、心地いい。

 三上を見ると、体にぴったりとつく、白いシャツを着ていた。上半身裸ではない。あたしの頭はまだおかしな方向に向いているらしい。

 頭を激しく振った。そして一息つくと、落ち着いたように思う。

「大丈夫?」

 三上は自分に用意された席に戻りながら聞いた。

「う、うん。ありがとう」

 あたしも元の席に戻った。

 また、あたしは彼に助けられたのだろう。

「その、お礼に呼んだのに、またこれ…」

 あたしはポロシャツをつまんで見せた。

「いや、いいよ。冷める前に、食べてしまおう」

 三上はそう言いながら、布巾でズボンの汚れを拭いた。拭き終わると、再びカレーに取りかかった。

 彼が食事する姿を眺めていると、なぜか、あたしは幸せな気分になった。先ほどまでの恥ずかしい上に、変な気持ちはどこかへ消え去っていた。

 あたしは人に料理を施すのが好きなのだろうか。それとも、彼だからなのだろうか。あたしには判断できない。



  21


 三上が帰っても、綾は戻ってこなかった。きっとバツが悪くて、隠れているのだろう。つくづくエッチな人だ。それを人にまでさせないで欲しい。

 今晩はカレーの残りもあるので、夕食の準備は必要ない。片付けを行った後は、暇になった。

 暇になったので、先ほどのことを思い返していた。

 カレーは、彼は気に入ってくれたようだった。それが嬉しい。彼が座っていたクッションを手に取り、思わず抱きしめた。嬉しい。でもなぜか恥ずかしい。でもやっぱり嬉しい。

 あたしは今まで、誰にも必要とされない人間だと思っていた。

 今も、別に彼に必要とされたわけではないけれども、あたしという存在を受け入れてくれていたと思う。あたしの料理を認めてもらえたことが、その証拠のような気がしていた。

 彼は、あたしを避けるどころか、接してくれている。それに、あたしの体も気遣ってくれた。だから、ポロシャツを着せてくれた、はずだ。

 あたしに、普通の人と同じように接してくれたのだ。

 そう考えると、あの時、抱きしめられてもよかったかもしれない。ただ、抱きしめるだけ。それだけで十分だ。たったそれだけで、あたしはどれだけ幸せになれるだろう。

 きっと、あたしはこのまま生きていいのだと、信じるだけの物を貰えたはずだ。大げさな考えだろうか。あたしはそうは思わない。だって、記憶にある限り、両親に抱きしめられた覚えがないのだから。人に抱きしめられたら、どんな気持ちになるのか分からない。分からないけれど、きっと、あたしは幸せになれる。

 クッションを抱きしめていると、あたしが彼に抱き着いているような感覚になって、ちょっと恥ずかしい。いいえ、だいぶ恥ずかしい。そのまま寝っ転がって、身悶えしてしまった。でも離したくはない。

 こんなところ、綾に見られたら、相当からかわれるに違いない。

 思えば、あたしもだいぶ変わったものだ。人と、まだ彼限定なのかもしれないけれども、接していたい欲がわいてくるなんて。

 人を避けたくて仕方なかったあたしからすれば、天と地がひっくり返ったような出来事だ。

 このまま交流を続けて行けば、真紀や、心美や、他の同世代の子たちとも、普通に接することができるようになるかもしれない。

 そうしたら、あたしは人を避けて暮らさなくても済むのかもしれない。そのためには、力の制御を覚える必要があるものの。

 人と接することができるようになったら、実家に帰るのだろうか。いや、あの両親の元へは、戻らないだろう。

 あたしの居場所。あたしのやりたいこと。あたしの行きたい所。今まで考えもしなかったことだ。でもこれからは、考え、向かっていくことができるのではないか。

 彼と接していると、そう言う気分にさせてくれる。心強い味方、と言ったら、彼は困るだろうか。綾と彼がいてくれたら、あたしは変われるような気がする。大事な、大切な、味方の二人だ。

 モバイルの呼び出し音が鳴った。

 起き上がって窓の外を見ると、空が赤く染まり始めていた。あたしは長い時間、悶えていたらしい。

 モバイルを手に取ってみると、相手は真紀だった。

「やっほー。あ、兄ちゃんのシャツ…」

 真紀の明るい声が、尻すぼみになった。

「うん。借りちゃった」

 真紀が言葉に詰まっていた。

「あの、あたし、ブラ着けるの忘れてて」

 何か言い訳しないとまずいと思い、急いで言った。自分でも何を言ったのか分からない。

「ええええ!まさか、兄ちゃんに襲われた?」

「え?いやいやいやいや!ないないないない!」

「びっくりした…。あ、でも、兄ちゃんなら、ヘタレだから、手を出したりしないか」

 そう言って真紀が苦笑した。

「まさかと思うけど、ブラを買うお金もないとか?」

 真紀がおもむろに尋ねた。

 なぜ真紀にばれるのだろう。

「う、うん」

「ブラ、高いものねぇ。ボクも最近やっと買ってみたりしたから。スポーツブラ、いいよ。体にフィットするし、動きやすいし」

 スポーツブラを着けた真紀を想像してしまう。凛々しくて、似合っていそうだ。

「そうなんだ…。でも、なんで、あたしがお金ないって?」

「ああ、この前アパート行った時、部屋に物がほとんどないなって思って。モバイル越しに見る服装も、そんなに変わらないから」

 そんなことで分かってしまうのだろうか。あたしは驚きだ。でも確かに、服のレパートリーは、かなり乏しい。

「いやー、兄ちゃんがお宅で粗相してないか心配だったけど、大丈夫そうだね」

「粗相だなんて、あたしにシャツを着せてくれるくらい、紳士だったよ。またお礼しなくちゃ…」

「いいよ、べつに。つけあがるだけだから」

 真紀はそう言って、頬を膨らませていた。

「あーそだ。せっかくだし、明日、下着買いに行かない?」

「え、でも、お金…」

「スポンサーに出させれば大丈夫!」

「スポンサー?」

「そそ。それに、裕美ちゃんの胸を拝んだんだもの。お金取らなきゃ」

「うん、え?あ、見せてないよ!シャツは着てたの!」

「Tシャツでしょ?ノーブラでしょ?きっと、眼福眼福って、喜んでたはずだよ。だから出させておけばいいの」

「でも…」

「じゃあ、また料理を作って食べさせてあげて。で、その代金としていただく!」

 真紀はとんでもないことを言い出す。料理を作るのはやぶさかではないものの、それでお金を取るなんて。

「おい、えらい言われようだな。聞こえているぞ」

 真紀の後ろから、彼の声が聞こえた。思わずドキリとしてしまう。

「ほら、持ってけ泥棒!」

 彼が何かを差し出したらしい。

「やったね!祐美ちゃん、スポンサーの許可が下りた!じゃあ、明日、駅で落ち合おう!」

 真紀は問答無用に言い渡してきた。一方的に時間を指定し、通信を切ってしまう。

 困った。どうしたものか。

 着て行く物が無い。最初に思ったのはこれだった。それ以前に、人のお金で買い物なんて、おこがましい。

 ポロシャツのボタンを外し、服を引っ張って自分の胸を見た。お金が無いのと、人と接することができないのとで、自分に合うブラを探したことはなかった。自分に合うブラを探してみる、いい機会かもしれない。

 そう、無理に買わなくてもいいのだ。

 それに、最近、人の心を聞かないように、制御できるようになってきたと思う。その確認のためにも、いいかもしれない。

 でも、綾も三上もいないと、不安になる。もしもの時はどうなるのだろう。この前のようにパニックに陥るのだろうか。

 どうせなら、三上も同行して欲しい。

 そう考えた時点で、あたしは真紀と下着探しに行く気になっていたようだ。

 何を着て行こうか。と言っても、レパートリーは乏しい。ノーブラが目立つ、シャツ一枚の格好は、ダメだ。何時のもシャツの上に、このポロシャツを着よう。もう少し借りていてもいいだろう。

 ポロシャツを脱いで、におってみる。ほのかに洗剤のにおいと、別の何かがにおった。不快なにおいではない。これが三上のにおいだろうか。

 思わずポロシャツに顔をうずめていた。が、すぐに離す。いけないいけない。あたしが綾みたいに変態になる。

 綾が人の服のにおいを嗅いでいるのを見たことはないものの、そう言う怪しい行動が似合うような気がしていた。

 とにかく、このシャツを上に着ていれば、鞄で胸を隠す必要もない。

 明日、出かける。

 あたしの世界が、少しずつ、広がって行くような気がした。閉じこもる一方だったあたしの世界。これからどうなって行くのだろう。



  22


 次の日、あたしは時間に間に合うようにアパートを出た。いつもの早朝ではない。なので人通りはそれなりにある。でも、心の声は、うまく聞き流せているようだった。

 綾は戻ってこなかった。綾に導いてもらうことはできないので、少々不安ではある。でも、初めての、言ってもいいのだろうか。言ってもいいのなら、初めての、友達との買い物だ。あたしの世界になかった出来事。ソワソワしているのが自分でも分かる。

 真紀は、あたしの友達、でいいのだろうか。ふと疑問に思った。ただ電話して、話をしているだけだ。こんな関係で、友達と名乗ったら、おこがましいのかもしれない。真紀にとって、迷惑かもしれない。

 改札で切符を買ってホームに出る。いつもなら、嫌々で、不安に苛まれながら乗る電車。今日も不安はあるものの、いつもと違う感覚があった。

 しばらくするとアナウンスが流れ、電車がホームへ入ってきた。速度を落としながら通り過ぎていく窓越しに、背の高い女の子の姿があった。その隣に、ジャケットを羽織った男の人もいた。真紀と三上だ。そうと分かった途端、嬉しくなった。

 真紀のことを、友達と思っていいのだろうか。彼女があたしを見つけ、笑顔で手を振っているのが、嬉しい。

 三上がその隣でほほ笑んでいた。彼が居てくれれば、あたしが力の制御に失敗しても、きっと助けてくれる。

 電車が止まり切る前に、あたしは真紀たちの最寄りのドアへ駆け寄った。

 ドアが開くと同時に、飛び乗った。幸いにも、降りる乗客はいない。それどころか、近くには真紀と三上以外、人がいなかった。離れた前の方に、数人いるだけだ。

「おはよう!」

 あたしの声は上ずっていたに違いない。

「おはよ!」

 真紀が元気よく答えた。白いブラウスを羽織っているのかと思ったら、男性物のワイシャツだった。袖まくりをしているのが、何とも真紀らしく見え、少年のように見えた。ズボンはあたしのと同じショートパンツだ。引き締まった足が、カッコいい。

「そのシャツ、早速活躍してるね」

 三上が言った。シャツの上にジャケットを羽織っている。いつものように綿のズボンで、昨日とは色違いだ。

「かってに着て来たけど…」

「問題ない」

「でも、ちょっと大きいね」

 三上が肯定し、真紀が指摘した。

「うん」

「ボタンは途中までの方が、可愛いかな」

 真紀がそう言って、一番上のボタンを外してくれた。

「お兄さんも一緒なんですね」

「そうなんだ。下着買いに行くから来るなって言ったのに、どうしてもついて行くって。ボクらの下着見る気満々の変態さんなんだ」

「いやいや、スポンサーだからね、ちゃんと正しく使われるか確認しなきゃ」

 真紀と三上が言い合う。

 あたしにとっては、彼がいてくれる方がいい。パニックに陥った時、助けてもらえるからだ。でも、下着を見られるのは、恥ずかしい。

「だから見ないって。見せたいなら別だけど」

「誰が見せるか!」

「ついこの前まで、自分を男の子だと思って、平気で下着姿で走り回っていたくせに」

「な!何時のこと言いだすんだ!」

「え?真紀ちゃんて、男の子だと思ってたの?」

「え、あ、うん」

 真紀が恥ずかしそうに頭をかいた。

「だから、ボク、なの?」

「あー、そうかも」

「格闘技も身に着けて、いっぱしのガキ大将だったんだ」

 そう言った三上の足に、真紀の蹴りが入った。

「痛いじゃないか!」

「ふん!」

 どこか、微笑ましい二人だ。

「仲良いんだね」

「どこが!」

「この前まで、お兄ちゃんお兄ちゃんて、ついて回ってたのに、悲しいぞ」

 真紀が三上のお尻を蹴り上げた。顔が赤い。心を読まなくても、事実なのだと理解できた。真紀は恥ずかしいのだ。

 でも、二人は苗字が違う。年も結構離れていると思う。どういうことだろう。

「僕は真紀ちゃんのお父さんと一緒に働いているんだ。それで真紀ちゃんが小さいころから傍にいるものだから、何時しかお兄ちゃんって呼んでくれるようになってね」

「だー!人の恥ずかしい話をするなぁ!」

 真紀の反応を見ると、女の子らしくもある。

「じゃあ、何時、女の子だと気づいたの?」

「えっと…ひみつ!」

 真紀がちらちらと三上の顔をうかがっていた。妙に顔が赤くなっているように見える。

『お兄ちゃんのことが好きになって、自分が同性愛者かと悩んだことがきっかけだなんて、言えるわけない』

 好奇心に駆られて真紀の心の声を聞いてみた。あたしは思わず、噴き出していた。

「ちょ!な、なに?」

 真紀が困惑していた。

「ごめん、なんでもない」

 あたしは答えたものの、笑いが治まらない。

 つられて、三上も笑った。

 真紀があたしと三上の顔を交互に睨みつけたものの、あたしたちの笑いにつられ、ついには噴き出していた。

 電車が止まり、目的の駅に到着した。

 あっという間だった。いつもなら、こんなに早く着いたと感じることはない。人々の心の声に悩まされながら、恐々と乗っていると、とても長く感じるだ。

 なのに今回は、景色を見ることもなく、他愛のない会話をしただけで、着いてしまった。もっと時間があっても良かったように思う。

 電車を降り、長い階段を下りて改札を出る。この駅は新幹線も止まるので、人の出入りは激しい。

 あたしたち以外にも大勢が改札を出て、南口へ向かっていた。逆に改札を入って行く人々も大勢いる。一部の人々は、新幹線の改札口へ向かっていた。

 あたしたちは人の流れに沿って、改札を出て、南口へ向かった。



  23


「あー!裕美ちゃんに真紀ちゃん!」

 南口を出たとこで声がかかった。声の方を見ると、淡いピンク色のブラウスに鮮やかな赤いスカートを穿いた女の子がいた。心美だ。

「あ、心美ちゃん」

 しばらく連絡がなかったけど、どうやら元気らしい。

「やっほー。心美ちゃんも買い物?」

「ううん。ちょっと用事があってー。もう終わったのー」

 いつものように愛らしい。しかし、よく分からない違和感があった。心の声を聞いてみても、違和感が何なのか分からない。

 三上が、目を細めて心美を見ている。

『なんだ?この雰囲気…』

 三上も何かを感じたようだ。と言うことは、霊的な何かが、心美に起こっているのだろうか。でもあたしには全く分からない。

「買い物ぉー?心美も一緒して良いー?」

 心美が可愛らしく、小首をかしげて言った。

「え、うん。いいよ」

 真紀があっさり受けた。

『しばらく様子が見れるな。ちょうどいい』

 三上の心の声だ。何がそれほど気になるのだろう。あたしの違和感の正体は、何なのだろう。

「どこ行くのー?」

「デパートの下着売り場へ行ってみようかと」

「下着ー?じゃあ、こっちに可愛いランジェリーショップがあるよー」

 そう言って、心美が真紀の手を引いて歩きだした。あたしたちも後に付いて行く。

 駅前の大きなデパートを通り過ぎ、商店街の入り口も過ぎて、飲み屋街を横切った。そして右に曲がると、ショーウィンドウに下着をつけたマネキンが見えた。

 艶やかな下着がいっぱい飾ってある。

「ここー」

 心美がそう言って、店の中へ入って行った。

「いらっしゃいませ」

 女性店員が迎え入れてくれた。さすがに女性ばかりだ。

 店内には所狭しと、カラフルで、いろんな形のブラジャーが飾ってあった。同じような色合いのショーツも近くに置いてある。

 パッと見ただけでも、何を選んでいいのやら、皆目見当もつかない。

『目のやり場が…』

 三上は店内についてきた。が、それ以上は入り込まず、所在なさげに、レジ傍で待機を決め込んだようだ。

「どういったものをお探しでしょうか?」

「えっと、後ろの子が、初めて下着買うの。だから」

 女性店員の問いに、真紀が答えた。

「でしたら、まず採寸からですね。こちらへどうぞ」

 そう言って、奥へ向かうように指示された。

「ボクはスポーツブラでいいや」

 真紀がそう答えると、

「ダメー!可愛いの選ばなきゃー。真紀ちゃんもちゃんとカップ測ってもらいましょー」

 心美が問答無用で、真紀を奥へ連れて行った。

 店員が複数、それぞれ作業をしたりおしゃべりしたりしていた。

 緊張してしまう。

 人が多く集まっていることもある。あるけれども、下着を買うこと自体初めてで、どうしていいやら分からない。

 戸惑っていると、メジャーを持った女性店員が、奥の個室へあたしを案内した。真紀や心美もついてくる。

 入ってみると、そこは意外と広い。四人入ると、少々手狭ではあるものの。三方向全て鏡張りで、入り口は戸が閉まるようになっていた。

「ではカップを測りますので、服を脱いでください」

「え、皆いっぺんに?」

 あたしは戸惑った。こんな皆の前で、裸にならなければならないのだろうか。

「いいじゃないー。心美も見たいー」

「え」

「みんなで脱げば、恥ずかしくない!」

 真紀が訳の分からないことを言って、ワイシャツを脱いだ。続いてシャツも脱ぐと、肌にぴったりと付いた幅広のブラが出てきた。伸縮性のありそうな生地で、横も脇の下からしっかりと固定されていた。肩紐も太く、体に食い込んだり、ずれたりすることがなさそうだ。

 真紀のブラなら、あたしでも擦れるところもなく、着けられるのではないか。

 真紀のあばらも、よく見ると骨のラインが見えた。脇からお腹にかけてくびれ、再び膨らんでショートパンツの中に続いた。

 驚いたことに、真紀のお腹が六つに割れている。

 あたしのお腹はへこんでいる。以前に比べれば、これでも出てきたように思うのだけれども。

 心美もなぜか脱いだ。淡い色合いの、花柄でフリルの付いたブラジャーが出てきた。よく見かけるブラジャーの形で、真紀の物より肩紐が細く、ずれたり食い込んだりするのではないかと思えてしまう。

 あたしが試したブラも、心美の物のような形だった。フリルは付いていないし、単色で柄の無いものだったけれども。

 心美のあばら骨のラインは見えなかった。お腹は綺麗な、つるつるの肌だった。

 二人があたしを見つめて促してきた。脱がなければならないのだろうか。あたしはニップレスなので、ほとんど裸同然になってしまう。

 躊躇していると、

「ほら、脱いじゃいな」

 真紀がポロシャツを脱がしにかかった。

「あ」

 抵抗しようとすると、心美があたしの手を押さえた。

 ポロシャツを脱がされ、下のシャツも奪われてしまう。

「わお!」

 真紀が歓声を上げていた。

「大胆なのねー!」

 心美が嬉しそうだ。

「じろじろ見ないで!」

 あたしは恥ずかしくて、両手で胸を隠した。

「測りますので、手を下してください」

 店員に、やんわりと断られてしまう。

「うー」

 唸りながらも、しぶしぶ下す。

 するとすかさず、心美があたしの胸を触った。

「ひゃん」

 思わず変な声が出てしまった。

「ニップルパッチってやつー?すごーいー」

 心美はお構いなしに触っていた。

「ちょっと…」

 止めさせようと心美の手を払うと、ニップレスを取られていた。あたしの突起が自己主張して、上を向いた。

「祐美ちゃんて、意外と大きいんだね」

 心美はそう言いながら、あたしの手を掴んで、自分の胸に押し当てた。

 とても柔らかい物が手に触れた。同性同士なのに、顔が暑くなる。

「心美の、小さいでしょ」

 悲しそうに言った。

 何と答えていいかも分からない。

 心美はニップレスをしげしげと眺めた後、自分の胸に押し当てていたあたしの手を離して、その手にニップレスを返してきた。

 そして心美は、真紀の胸もさわった。

「ん…」

 真紀が何とも言えない声を漏らした。

「おっきー!」

 心美が感想を漏らした。

「でも、これ、押さえつけているでしょ?外した方がいいんじゃない?」

 心美はそう指摘した。

「別に外さなくてもいいですが、若干採寸とずれるかもしれません」

 店員はそう言ったが、真紀はあたしを見て、ブラを外した。あたしだけ裸同然なので、合わせてくれたのかもしれない。

 綺麗な形の膨らみが現れた。確かに、見た目にも大きい。ブラをしていた時よりも大きい膨らみに見えた。突起は、あたしのと違い、膨らみの中央付近にあった。

 心美がすかさず、真紀の胸をまた触った。

「ちょ!くすぐったい!」

 真紀はそう言って自分の胸を隠した。

「えーちょっとくらいいいじゃないー」

「ダメ!」

「心美の触ってもいいからー」

 そう言って、心美までブラを外した。

 可愛らしい膨らみで、突起がやや外側についていた。

 あたしのを鏡越しに確認してみると、中央のやや上、だろうか。人それぞれ違うのだと、初めて知った。

 店員が、やや困惑しているように見えた。あたしたちが遊んでいるように見えるのだろう。

 あたしは店員に向いた。

 店員はすぐに察したようで、

「両手を少し広げてください」

 と指示しながら、メジャーをあたしの背中に回した。

 背中から胸の膨らみの上にメジャーを当てて測り、メモを取る。

「気持ち、バストを持ち上げてもらえますか?」

 店員がそう言うので、膨らみの下に腕を入れて引き上げた。

「もうちょっと力を抜いて」

 そう言いながら、もう一度同じ場所を測った。それもメモすると、

「はい、手を下して」

 と言い、メジャーを膨らみの下に移動させて測った。もちろん数字をメモする。

「はい、ありがとうございます」

 そう言いながら、メモに何やら書き込んでいた。

 心美が回り込んでそれを覗き込むと、

「おしいー!あとちょっとー!でもBカップー!羨ましいー!」

 と言う。羨ましいと言う割には、何処か嬉しそうだ。

 同じ要領で、心美と真紀も測った。そして同じように、心美がメモを覗き込んで、

「やったー!ちょっと増えたー!」

 とか、

「すごーいー!Dカップー!」

 などと、喜びいっぱいだった。

 店員も、真紀の胸には驚いている様子だった。

「失礼ですけど、まだ中学生?」

 店員がおずおずと聞いてきた。

「はい」

 三人が各々答えると、

「信じられない!」

 店員が思わず嘆いていた。

「あ、ごめんなさい。えっと、みなさんまだ成長される可能性があるので、時々サイズを測定し直すことをお勧めします」

 そう言って、それぞれのサイズとブラのサイズ表記について、説明してくれた。

 ブラには、カップのサイズがAとかBとかあり、更に、膨らみのすぐ下のことをアンダーと言い、アンダーのサイズが五センチ単位であるのだとか。

「まずは色々試着してみてください。日々使うものですので、じっくりと、一番フィットするものを探してください。分からないことは遠慮なく、私たちにお声がけください。私たちもできるだけ提案させていただきます」

 そう言う店員があたしに対して、

「大変細身でいらっしゃって、アンダーの関係上、もしかしたら、Cカップにして、パッドで調整した方がいいかもしれませんよ」

 などとアドバイスしてくれた。

「パッド?」

「ええ。バストの形をよく見せるためや、言ってしまえば、バストを盛ってみせるためなどにも使えるものがあるんです」

「へー」

「後でお持ちしますので、試してみてください」

「あ、はい、ありがとうございます」

 店員が真紀に説明しに離れると、心美が後ろから近づいてきた。鏡が無ければ気付かなかっただろう。

 何をするのかと思っていると、後ろからあたしの胸を掴むように、抱き着いてきた。

「あっ!」

 またあたしの変な声が漏れていた。

「ちょ、ちょっと!」

 背中に、柔らかく、温かい物が触れている。

「ああー、いいなぁー。この感触ー」

「ちょ、手を動かさないで!」

 あたしは恥ずかしくて仕方ない。と同時に、おかしな感覚が襲ってきた。あたし自身が心美の方に吸い寄せられているような、あたしが心美の中に溶けだしていくような感覚だ。

 心地いいような気もする。このまま心美の中に溶けていくと、どうなるのだろう。

『それはダメだ!戻るんだ!』

 男性の声が聞こえ、あたしは自分の中に戻った。

 あたしの胸をもみしだく心美の手をはがして離れた。そして胸を手で隠して心美を振り返った。

「いいじゃないー、減るものじゃないしー」

 心美が訳の分からないことを言って、手を動かしていた。

「減るからダメ!」

「胸は減らないわー。それどころか、大きくなるかもよー」

「とにかくダメ!」

 心美の様子は、特に変わったところはない。

 さっきの感覚は何だったのだろう。

『よかった。僕が行くまでもなく、離れたな』

 この声は、さっきも聞こえた。三上の心の声だ。

 部屋は鏡に覆われ、外から見えていないはずなのに、あたしの様子が分かったのだろうか。それとも別の何かを見ているだけなのだろうか。

 心美は懲りないようで、今度は真紀の背後を取ろうとしていた。

 真紀は寸でのところで心美の手をかいくぐり、自分の胸を守っていた。

「ほら!遊んでないで、ブラを選びに行こう!」

「えーちょっとでいいから、もませてー!」

「やだ!」

 真紀は手早く、シャツを着て、ワイシャツを羽織った。ノーブラだと、服の上からでも膨らみが大きく目立った。そして、歩くと揺れているのが、見えた。

 あたしも走ったりしたら揺れて、恥ずかしいと思っていたけれど、真紀ほどの大きさになると、ある意味すごいことになるのだと、感心してしまった。確かにスポーツブラでもつけないと、走ったりできそうにない。あたしなら恥ずかしすぎて、外にも出られなくなっていたかもしれない。

 あたしはポロシャツを直接着込んだ。シャツと違って透けて見えることはない。ニップレスはシャツと一緒に、鏡張りの個室に置いておいた。

 心美はブラを付け、シャツも着るようだ。

 先に支度ができた真紀とあたしは個室を出て、自分のサイズのコーナーを目指した。

「B65」

 この表示のあるブラだけでも、結構な種類があって、どれを選んでいいか分からない。分からないので、単色の物を適当に選んでみた。

 店の入り口を見ると、三上がちらちらとあたしの方を見ていた。あたしの体を、裸を見られているような気がして、とても恥ずかしい。でも冷静に考えれば、棚や商品が邪魔になって、あたしの顔くらいまでしか見えていないはずだ。

 そう言えば、周りの人の心の声を聞かずに済んでいる。修行の成果なのか。とても平穏で、友達と買い物をするという、あたしにとって初めてで、楽しい催しの最中だ。心美に胸を触られるのはどうにかして欲しいけれども。でも、それも含めて、楽しく思えてしまう。

 そんな中で、なぜか、三上の心の声だけは、聞こえた。全部ではないはずだ。なぜあれだけ聞こえたのだろう。

 もしかすると、心の声にも、普通に声に出して言うのと同じで、音量の大きい小さいがあるのだろうか。大きな声、強い思いは聞こえやすいのかもしれない。

 それともただ単に、あたしが三上の心の声を拾いやすいからなのだろうか。だとしたら、なぜ三上の心の声だけなのだろう。

 真紀の側に行ってみても、特に心の声は聞こえてこない。

 真紀はブラの一つを手に取って、まじまじと見つめていた。

 試しに真紀の心に焦点を合わせてみると、ちゃんと聞こえた。

『これを着けて見せたら、ボクも可愛いって言ってもらえるのかな?』

「誰かに見せるの?」

 あたしは思わず呟いていた。

「え?み、見せるわけないじゃないか!」

 真紀の体が一瞬、宙に浮いていた。

 真紀は否定してみせても、心の声では、見せたいとの思いが伝わっていた。

 普段、少年のように見える真紀も、こういうところを見ると、女の子なのだと実感する。とてもかわいく見えた。

「ど、どんなの選んだの?」

 真紀が動揺を隠すように、話題を変えてきた。

 あたしは手に持っていたものを見せた。

「淡い色が好みなんだね」

 言いながら、奥の個室に向かった。真紀はちゃっかり、先ほどの見せたいと思ったブラも持って行った。

 誰に見せたいのか、気になるところだ。

 個室で試着してみても、選んできたものはどれも、ちょっと窮屈だった。

 胸を包む部分をカップと言うそうだけど、それが半分になっているものを付けると、あたしの突起が上に押しやられて、痛いし、それ以前に突起が見えているしで、合わないものだと分かった。

 フルカップのものが良いかと思うけれども、少しきつかったり、妙に隙間があったりした。

 真紀の方も色々試していた。着けては体を動かしている。

 動いた拍子に肩紐がずれるもの、万歳するとはみ出してしまうもの等々。真紀の方も苦労している様子だった。

 二人して顔を見合わせ、苦笑していると、心美が戻ってきた。

「これ着けてみてー」

 心美はそう言って、あたしに幾つかブラを渡してきた。反対の手に持ったブラを、真紀に渡した。

 試しに着けてみると、以外とカップの納まりはいい。フルカップよりはやや小さめのカップだけれども、どこもはみ出していない。

 体を動かしてみると、肩紐がずれた。

 別のブラを着けてみると、今度はカップの中に少し隙間ができているようだ。

「祐美ちゃん。前かがみになって、周りのお肉も集めてカップに入れるのー」

 心美がつけ方を教えてくれた。と言われても、あたしに余分な肉はないのだけれども。

 言われたとおりに試してみると、これがどうしたことだろう。カップの中の隙間が減ったように思う。

「そのブラ、肩紐の長さが調節できるのー」

 心美がそう言って、あたしのブラのホックを止め、肩紐を調節してくれた。

 体を動かしても大丈夫そうだ。万歳をしても外れることもない。

 あたしは自分に合うものがあるのだと、驚いた。どうせ合うものはないだろうと高をくくっていたのに。

 鏡越しにあたしを見ると、淡いピンクのブラが眩しく見えた。同じ色合いのショーツもあると、断然良さそうだ。

 真紀を見ると、ハーフカップのブラを着けていた。鏡を見ながら、

「これ、動きにくい。こぼれ落ちそう」

 と文句を言う割に、顔がほころんでいた。

 真紀の胸はハーフカップのブラで、より胸を強調しているように見える。胸元の谷間と肌の色が眩しい。

「激しく動かなければ落ちないのー。気を付けたらー、おしとやかな動きになってー、魅力的になること請け合いよー」

 心美が、どういう根拠からか分からないけれども、自信満々に宣言した。

「それに、肩紐が外せるのー、それー。肩出しルックができてー、可愛いわー」

 真紀も、心美が選んだブラを気に入ったようだ。しげしげと、鏡に映る自分を、色々な角度から見ていた。

「二人にスポーツブラも選んでおいたのー」

 心美の言う通り、スポーツブラも紛れている。

 あたしも真紀も、今のブラに名残を惜しみつつ、次を試着してみた。

 あたしに選んでくれたスポーツブラは、長時間着けても負担の無い、優しいフィット感の物らしい。

 着け心地は、肌触りの良い布で包んで、とても気持ちいい。カップの収まりも良く、少々動いても問題なさそうだった。

「あれ?これ、ボクが使ってるのより締め付けが弱い?」

 真紀が感想を漏らしたかと思うと、飛び跳ねたり、体を捻ったり、手を素早く動かしたりし始めた。

「おー!揺れない。ずれない」

「真紀ちゃんのはー、カップサイズが合ってなかったんだよー」

「スポーツブラにもあるの?」

「あるのー。押さえつけていればいいやって、思っていたんでしょー。ダメよー。大事なー、綺麗なバストなんだからー」

「ふーん」

 言われた真紀は、さほど関心がなさそうだ。それでもブラ自体は気に入ったようで、鏡に向かってボクシングのような動きをして、フィット感を確認していた。

「いいね」

 一通り動き終えると、真紀は呟くように言った。

 気に入ったブラは個室に残し、残りを棚に戻すと、次の試着をする、と言うことを何度か繰り返した。

 大抵、心美が選んだものの方がいい。自分で選んだものはどこか合わなかった。とはいえ、何度か繰り返すうちに、心美の選んだサイズを参考にすると、合うものが分かってきた。

 肩紐や後ろのホックでサイズ調整できるものがそれなりにあるので、自分のサイズにこだわらず、カップサイズが似た物を選ぶといい。なので、心美が選んでくれたブラを手に持ち、カップを見比べたり重ねてみたりしながら選んでいくようになった。

 途中、店員も幾つかおすすめを用意してくれた。

 ワンサイズ大きいブラを持って来て、パッドを詰めて着けると、これもなかなかいい感じにはなった。よく見ると、このブラも肩紐やホックで締め付けを調節出来うようになっていた。

 鏡で見てみると、確かに胸が一回り大きくなって見えた。店員が言っていた、盛る、と言うのは、こういうことかと、感心した。

 合わせるショーツも幾つか選んだ。

 真紀は心美が選んだハーフカップのブラとスポーツブラに、合わせるショーツを二点選んでいた。それを買うつもりらしい。

 あたしが数をどうしようかと悩んでいると、

「遠慮しなくていい。日々着けるものだから、それなりに用意しないと」

 そう言って、あたしが気に入って確保していたブラを全部、買うという。合わせるショーツも含めて。

 ざっと見ていた値札を思い浮かべて計算すると、あたしの一ヶ月の生活費に届きそうだ。

「ねぇねぇー、お姉さん」

 心美が店員に呼びかけていた。

 店員は棚に戻す予定のブラを回収している手を止めた。

「なんでしょう?」

「胸を大きくする方法ってないですかー?」

 心美の質問に、店員が唸った。

「いくつかありますね。合う合わないがあるので、一概にお奨めはできませんが」

「心美ー、大きくしたいのー!お願いー、教えてー!」

 心美は必至だ。

「では」

 店員は手に持っていたブラたちを鏡の前に降ろし、まっすぐ立った。手の親指を胸の前に持ってくる。

「鎖骨の下から、バストにかけて、大胸筋を解すんです。こうやって」

 店員は自分の親指を鎖骨の下に当て、押し込んだ。

「これを数回繰り返しながら、バストの下まで。アンダーの下もしっかりと。ただし、トップは押さないように。一番敏感な場所なので」

 心美がさっそく、見よう見まねで試している。

「バストって、脂肪なんです。脂肪は、実は移動するそうで、筋肉を解して移動しやすくしてあげる方法ですね。そのうえで、周りから寄せてあげれば…」

「なるほどー」

「後は、バストアップクリームって物があります。嘘か本当か、これを塗ったところに脂肪がつく作用があるのだとか。なので、塗るのはあくまでバストだけ」

「そうなんですかー」

「脂肪は移動する、と言うことを前提に、手首から肉を移動させるイメージでマッサージしていって、胸に集める方法もありますよ。この時、美肌クリームを塗ると、一石二鳥かも」

「じゃあ、お腹からもー?」

「もちろん!」

「試してみますー!」

「他には、そうですね…。寝るとき、ブラは着けていますか?」

「着けてません」

 真紀も同意していた。あたしももちろん着けていない。

「いけませんね。寝ている間にバストの脂肪が他へ移動したり、形が崩れたりします。形が崩れると、サイズダウンやバストが垂れる事態も発生してしまうんです。今頃は、ナイトブラと言う、寝る時専用のブラも出ています。これを使って形を維持してあげれば、逆にサイズアップへつながる方もいらっしゃいますよ」

「それ買いますー!」

 心美は物を見ずに、即決していた。

 胸が大きいと崩れやすいからと、真紀まで連れて、ナイトブラのコーナーへ、文字どおり走って行った。

 あたしもついて行った。

 遠くで、三上が手持無沙汰に、おどおどしていた。レジ近くに椅子を用意してもらって座ってはいたものの、あっちを見てはこっちを向いて、こっちを向いてはあっちを見てと、そわそわしっぱなしだった。

 ナイトブラは、パッと見、スポーツブラと同じだった。ただ、こちらの方が生地のさわり心地がいい。多少の伸縮性はあるようだけれども、スポーツブラほどの締め付けはない。

 個室に戻って試着してみると、すごく楽に過ごせそうだ。ただ、多少動くとずれたりするようだ。真紀が激しい動きをして、早速ずれていた。

「寝るためのものだからー!」

 心美がそう言って笑っていた。

 心美もナイトブラだけは自分用に選び、試着していた。

 ナイトブラも数着選ぶと、結構な数になっている。

「大丈夫大丈夫!」

 真紀が問答無用にあたしの分も手に持ち、さっさと個室を出て行った。いつの間にか、服を着こんでいたようだ。

 あたしも慌てて、ニップレスを付けて、服を着こみ、追いかけた。



  24


 レジでは、バーコードを読み込む店員の前で、三上が覗き込んでいた。

「じろじろ見るな!」

 真紀が間に入って妨害した。

「いや、金額くらい見せろよ」

「ダメ!そう言って、どんなの買ったのか見る気でしょ!」

「見ない見ない」

「うっそー!あ、どうせ、偶然を装って、風呂上りとか見る気でしょ」

「どういう設定だよ。そんなことしたら所長に殺されるわ!の前に令子さんに締め出される!」

 二人のやり取りしているところへ、心美もナイトブラを数点持ってやってきた。

「それも一緒に買うぞ」

 三上がぶっきらぼうに言った。

『一人だけ仲間外れはまずいだろう。はぁ。出費が激しい…』

 心の声が漏れていた。

「お断りしますー!」

「遠慮しなくていいよ?」

 真紀が遠慮しないように言うものの、心美は聞かなかった。

「男の人に世話になる気はありません!」

 あたしは心美の心を覗いてみようとした。すると、一瞬、とんでもないイメージが飛び込んできた。断片的なイメージが、次々と浮かぶ。

 男性を強く拒絶する気持ちと共に、そのイメージは、心美に強い恐怖心と不信感を与えていた。

 でも、イメージが事実なら、確かに男性に触れて欲しくはないだろう。

 そのイメージは、言葉で言えば、一言で終わってしまう。でも、当事者にとって、それは、一生ついて回る、そう、トラウマなのだ。

 一言で言えば、レイプだ。心美は以前、レイプされた経験があったのだ。

 当初、それがレイプだとは分からなかった。自分が男の人に触られ、くすぐったい、くらいにしか思っていなかった。訳の分からないうちに事が進んでいった。あたしは心美の目線でイメージを見たおかげで、自分が触られているような感覚に襲われた。

 心美がおかしいと思ったのは、下腹部に強い痛みを感じた時だ。やめてと言っても、相手は止めてくれず、行為が続いた。

 心美がその行為の意味を知ったのは、しばらく後だ。学校の授業で分かったようだ。と言うことは、あの体験は、小学生の時なのか。考えるだけで恐ろしい。

 意味が分かってしまうと、恐怖が生まれ、不安が生まれ、人間不信に陥った。でも、心美は誰にも相談できず、塞ぎ込んだ。

 以来、男性に対して、非常な嫌悪感、不信感、そして恐怖心が付いて回っている。

 あたしも人の心が読めるから、男の人がエッチなことを考えているのをよく知っているし、エッチな行動に出ることも知っている。知ってはいるが、あたしは行動されたことはない。うまく逃げていたから。心が読めるからこそできた芸当かもしれない。

 心美はどんな思いだったのだろう。普段、明るく人懐っこい心美に、こんなトラウマがあるとは思いもしなかった。あんなにもスキンシップを楽しむ心美が、人に触れられたくないと思っているとは、思いもしなかった。

 触れられたくないのは、男性限定なのだと思う。でなければ、自分の胸をあたしに触らせたりできないだろう。

 男性に対しては、触れられたくないどころか、関わって欲しくないようだ。

「大丈夫かい?」

 あたしはいつの間にか、涙を流し、震えていたようだ。

 三上がそっと、あたしの肩に触れた。肩から温かい何かが染み込んでくるようで、体の震えは落ち着いて行った。

 彼の存在がありがたい。あたしは彼に救われる。けど、心美は誰にも告げることができず、一人で抱えていたのだ。

 あたしは涙を拭うと、

「うん、大丈夫。ありがとう、ヒロくん」

 あたしは何とはなしに答えた。

「え」

 真紀と三上の声が重なった。

『ヒロくん…。懐かしい響きだ』

「いつの間に下の名前で呼び合うほど親しくなったんだ!」

 三上は心の中で、真紀は口に出して言った。

「え?あたし、なんか変なこと言った?」

 当のあたしは気付いていなかった。

「ヒロくんて…」

 真紀が問題点を指摘した。

 まさかと思う。あたしが、人の、年上の、男の人の、下の名前を、愛称で呼ぶなんて。なぜ、とっさに出てきたのだろう。自分でも分からない。

「え?そ、そうなの?ご、ごめんなさい!」

「あ、いや、いいよ」

 三上はどこか、嬉し恥ずかしそうな顔だ。

「ん!!!」

 真紀が三上のお尻を蹴り上げた。

「痛いわ!」

 三上がお尻を擦りながら、

「まったくもう!」

 などと呟いていた。

 どこか、滑稽だ。思わず笑ってしまった。

 店員も笑っている。

 三上はお尻を擦りながら、財布からカードを出して店員に渡した。

 三上は、支払金額を聞いて、

「えええ!!」

 と大きな声を漏らしながらも、支払い回数を決めて決済してくれた。

 続いて心美が自分の物を清算する。

「ねえー、真紀ちゃん、裕美ちゃん」

 心美が二人を交互に見て言った。

「その買ったばかりのブラー、今から着けたらどう?」

 心美はあたしたちが新しいブラを着けたところを見たい様子だ。普段と変わらない、人懐っこい笑顔だ。先ほどのイメージを見てしまうと、この笑顔も違和感があるのだけれども。

 あたしはニップレスよりは良いし、何より着けてみたかったので、提案に乗った。真紀も恥ずかしそうに個室に向かった。

 店員が一人ついて来て、値札などを切り取ってくれた。

 あたしは心美が選んでくれた、淡いピンクの物を、真紀はハーフカップのブラをそれぞれ着け、服を着こんでレジへ戻った。

 下着を一つ換えただけで、何だろう。この地に足がついているのかいないのか、よく分からない感覚。あたしはウキウキしているのだろうか。顔の筋肉が緩んでいた。

 真紀は、頬が赤いように思う。背が高く、少年のように見える真紀。そこに曲線美が加わると、テレビで見た宝塚の人のように、凛々しく、そして美しく見えた。

 心美は清算も終わり、三上と妙な間合いを取って待っていた。

『お。真紀ちゃん、胸が大きい…。さすがに令子さんの娘だけはあるな…』

 三上が真紀を見て、心の中で感想を述べていた。口に出していたら、お尻を蹴り上げられるに違いない。

 あたしの方は男物のポロシャツを着ているので、違いは分からないはずだ。三上があたしを見ても、胸のことは特に何も言わなかった。

「うん!真紀ちゃん、その方が断然かわいいー!」

 心美は嬉しそうにそう言うと、自分の腕を真紀の腕に絡ませた。そして連れ立って店を出る。

「ありがとうございました!」

 店員が店の外まで見送りに出てくれた。

 店員のそれは、規定通りの言葉と行動なのだろう。でも、なぜか嬉しい。初めての友達との買い物だからだろうか。だから嬉しいのだろうか。

「じゃあ、次は、服だ!」

「服ー?」

「そそ。祐美ちゃん改造計画~」

「あはっ。いいねぇー」

 真紀と心美が嬉しそうに歩いて行く後を、あたしは三上と並んでついて行った。

『マジか…。まだ出費させる気か…。こりゃ、所長に無心しなきゃな…』

 三上が心の中でぼやいていた。

「あの、今日はありがとうございます」

 あたしはお金を出してくれた三上に申し訳なく、何か言わなければと、お礼を述べた。

「ん、いや、いいよ」

「でも、こんなに…。どうやってお返しいていいか分からない…」

「お返しなんていいよ。どうしても気になるなら、困っている人を見かけて、自分が対処できるなら、助けてあげて」

「え?人に?」

「そう。そうやって、親切が人を巡って行くのさ。なーんてね。君には真紀ちゃんが世話になっているからね。そのお返しだと思って」

『祐美…ちゃん。ヒロくんて呼ばれたせいで、呼びにくいな…』

 三上が気にしているようだ。あたしが変な呼び方をしてしまったばかりに。それに、真紀があたしに世話になっているとは、どういうことだろう。思い当たることが無い。

『ゆみちゃん…』

 三上の心が遠くを見ているようだ。あたしの名前だけど、違う人を呼んだように感じる。

『懐かしいな…。うん。まだ忘れていない!』

「それに、僕は昔、大変世話になった人が居てね。恩返しができていないんだ」

 三上は、口ではそう言った。

「あの子に返せないから、誰か、近しい人に返したいのさ」

 そう言って、照れ笑いした。

 そのゆみちゃんと、あたしを重ねているのだろうか。だからと言って、あたしが彼の好意に甘えていい理由にはならない。

「やっぱり、何時か、働いて返します!」

 人と接することができないあたしは、今まで働いた経験がない。でも、今の調子で力の制御ができれば、アルバイトもできるのではないか。できるようになれば、そのバイト代で返せばいい。

「いいよ」

「バイトして返します!」

「無理しなくていいって」

「無理じゃないです!…たぶん」

 確かに自信はない。

 三上がクスリと笑った。

「そうだな。じゃあ、こうしよう。僕の仕事の助手、と言うバイトをしてもらおう」

「助手?」

「そ。君は霊を見ることができる」

「あ、はい」

「僕は霊に関する仕事をしている。だから、君みたいな人じゃないと、手伝えないのさ」

「あー」

 確かに、見えない人では手伝いようがない。

「あたしでもできます?」

「たぶん、できると思うよ。でも、無理にしなくてもいい。好意に甘えてくれて、それをそのまま受け取ってくれればいい」

 三上があたしの手にある紙袋を示した。

 これは、職業体験。いいえ、通信教育の職業体験とはまるで違う。でも、何かしらやってみるのは、いいのかも。あたしの世界が広がるのではないか。

「お試しはあります?」

「お試し?…うーん、そうだな…。じゃあ、定期的に除霊に行く場所があるから、この後行ってみようか」

「あ、はい、お願いします」



  25


 真紀と心美のペアは、駅の前を通り過ぎ、少しひと気の無くなった道を進んでいた。その先の交差点に、ひときわ大きな建物があった。

「あそこへ行くのかな?」

 隣で三上が呟いた。

「あそこ、昔はデパートだったんだ。もう撤退して、今はテナントが幾つか入っているって聞いてる。行ったことはないんだけどね」

「あたしも初めてです。昔はこの辺りも人が多かったんですか?」

 あたしも三上を意識しているのか、できるだけ丁寧にしゃべるようにしていた。また「ヒロくん」みたいなボロを出してはいけない。

「高校時代かな。ここへ来たのは。うん。人が多かったよ。建物の入り口に機械式の時計があって、それを見物に来る人もいたくらいだ」

「へー。いまもあるの?」

「あると思うけど、動いてるのかな?」

 建物にたどり着くと、先を行く二人がさっさと中へ入って行った。

 入り口の上を見上げると、大きな針があり、その下に何かがあるようだった。

 時間は合っているように思う。お昼の少し前だ。と言うことは、下着選びで二時間くらいかかったのかも。

 そんなに時間が経っているとは思いもよらず、びっくりしてしまった。

「そこの二人!何いい雰囲気作ろうとしているの!」

 建物に入ったはずの真紀が戻ってきた。

「もうすぐだから、見ていくかい?」

 三上は真紀の催促を無視して言った。

「うん」

 あたしが頷くと、真紀も心美も外に出てきて、一緒に上を眺めた。

「なになにー?」

「機械時計だよ」

「心美、見たことないー」

 真紀と心美はすっかり仲良しだ。ずっと腕を組んでいる。心美が一方的に、真紀にすがりついている、とも言えなくもないけど。

 しばらく待つと、針が十二時を指した。

 大きな音が十二回鳴り響く。

 すると時計の下の方が開き、軽快な曲とともに人形が幾つか躍り出て、くるくると回った。メリーゴーランドのように回る、音楽隊だろうか。

「おー動いた動いた」

「かわいいー!」

 三上と心美が感想を口にした。でも音が大きく、あまり聞き取れない。

 真紀はあまり興味なさそうだ。

 あたしは、初めて見る物なので、面白いと思う。でもこの大音響で、何度も見る気にはなれないかも。

 人形が順番に中へ消えていき、ふたが閉まると曲も止まった。

「うん、一度見れば十分かな」

 真紀はあっさりしたものだった。言うが早いか、建物の中へ向かった。もちろん心美も付いて行く。

「どこかで食事にしよう」

 三上がそう言って後を追う。

 あたしはもう一度時計を見上げた。今は静かに、時を刻んでいる。できた当初は、きらびやかな、移動式遊園地でも来たような感じだったのかもしれない。一時間ごとに上演される小さなサーカスかも。

 でも今は、観客に乏しく、飽きられてしまっているようだ。それもそうだろう。今はネット社会で、いろんなものが写真や動画で見ることができる。ここまで来て、一時間おきに見る必要もないのだ。

 そう思うと、さっきの人形たちが、寂しそうに踊っていたように思えてきた。

 古くなって、見捨てられた物。忘れられていく物。

 ふと、おかしな考えが浮かんだ。

 あたしは、何か分からないけれど、探しているものがある。十歳くらいの男の子が関係していると思う。あの夢、イメージが、もし人の物だったら。そして、古いもの、例えば、前世の記憶だったとしたら。

 あたしはあの子の生まれ変わりで、記憶にある男の子を探したいのではないか。

 でも、その男の子が、今何歳になっているのか分からない。とうの昔に亡くなっているかもしれない。生きていたとして、あの人形たちのように、忘れ去られているのではないか。

 なぜ急にこんな考えが浮かんだのか分からないけれど、合っているような気がしてならない。とにかく、あたしが見つけたいのは、あの男の子だ。前世なら、あたしの年齢分以上に年を取っているはずだ。

 手掛かりは他にないのだろうか。その前に、探し出す必要が、本当にあるのだろうか。

 分からない。でもやっぱり、見つけたい。

 真紀たちがガラスの向こうから手を振っていた。

 今はそれどころではなかった。

 あたしは気を取り直し、真紀たちを追いかけて建物の中へ急いだ。



  26


 大手チェーン店で食事をとった。一人前って、意外と多いのだと、この時初めて知ることになる。

 料理をするようになって、少しずつ食べる量は増えていたのだけど、まだまだあたしの食は細いらしい。

 でもデザートは、格別だった。こんなにも美味しいものがあるのかと、びっくりした。頬が落ちてしまうのかと思って、手で押さえたほどだ。

 プリンの周りにフルーツが並び、生クリームをかけたもの。プリンも実は初体験だった。あんなにも弾力があって、クリーミーなもの、なぜ今まで食べずにいたのだろう。

 生クリームもほのかな甘みで、口の中で溶けていく。

 一口食べる度に、至福の世界に浸っていた。

 気付くと、皆の視線があたしに集まっている。恥ずかしい。

「僕もそれ、頼めばよかった」

「そんなに美味しそうに食べる人って、初めて見た!」

「おいしそー!心美にも一口ー!」

 あたしは口を隠してモグモグしながら、顔を真っ赤にしていた。

 心美は自分のデザートで使っていたスプーンを使い、勝手に一口取って食べていた。

「んー!コンビニのよりおいしー!」

 心美も自分の頬を押さえている。やっぱり頬が落ちるのだろうか。

 こうして見ていると、心美は明るく、人懐っこい、良い子だ。影があるようには全く見えない。前についた嘘のイベントで集まったことも、あのこと自体なかったことのような気がしてくる。

 心美が本心を隠し、仮面でもつけているのか。心を覗いてみても、表情と変わらない。美味しいものを食べて喜んでいるだけだ。

 もっと奥深くの心を覗けばどうなるのだろう。もっと色々なことが分かるのかも。あの嘘の理由も。

 でも、心美が男性不振に陥った時のことなど、あたし自身が追体験することになる。とても怖い。それに、そこまであたしが踏み込んで良いものだろうか。人の心に、あたしが土足で踏み込む行為なのではないか。そこまでする権利が、あたしにあるとは思えない。

 でも、心美が抱える問題を、解決したいとも思う。あたしなんかが、心美のトラウマを取り除けるとは思えないけれども。

 食事が終わると、女性物のカジュアルな服を扱うテナントへ移動した。

 そこでも心美が大活躍だ。

 服を選んできては、あたしに着せる。あたしは着せ替え人形よろしく、フィッティングルームに居座ることになった。

 さすがに心美のようにスカートを穿く気にはなれなかった。なので選んだのは、テーパードパンツとサブリナパンツ。前者は太腿がゆったりしている割に、裾の方はスリムなもの。後者はスリムな、丈の短いものだ。

「うん、そろそろショートパンツよりは、その方がいいね」

『目のやり場に困らなくて済む』

 フィッティングルームの外にいた三上が感想を述べた。

 あたしの素足は、目の毒なのだろうか。

「へー。目のやり場に困るんだ?じゃあ、ボクも換えないとね」

「真紀ちゃんのは見慣れたから大丈夫」

「ん!」

 やっぱり蹴りが入る。

「でも、元々細いから、後の方がいいんじゃない?」

 三上がお尻を押さえながらも言った。なので、サブリナパンツにする。

 上は、心美はあたしにフリルの付いたものを着せたいらしい。断固として断る。でも、フリル袖のTシャツはいいかもしれない。

 ワンピース、ジャケット、サマーセーター、ブラウス、ファッションのためにわざと破れた部分を作ったシャツ。色々試した。ジャケットやブラウスは、羽織るものにいいかも。破れた服は、いらない。ワンピースは、あたしじゃない気がする。サマーセーターは、ゆったり着て可愛らしいかも。でも、どちらかと言えば、心美に似合いそうだ。

「フリル袖のTシャツ、いいね」

 三上の一言で、買うこと決定。

 あたしがだんだん、三上色に染まって行く。

 そう思った途端、顔が爆発した。あたしはなんてことを考えているのだろう。恥ずかしすぎる。周りの人に知られないようにしなければ。

 あたしは三上のものでも、三上のものになりたいのでもない。とんでもないことが思い浮かんでしまったものだ。

 綾でも居れば、クスクス笑って、三上に対する借りを、

「もう体で払ってしまいなさいな」

 などと言うだろう。できるはずがない。

 本当にできないのだろうか。

 またあたしは馬鹿なことを考えてしまった。そんな選択肢は、あり得ない。体を許すということは、やっぱり、恋仲で、親密でなければならない。

 そもそも、あたしにとって三上は、助けてくれる人、と言うだけだ。確かに、今も下着や服の代金を出してくれるという。あたしがパニックに陥った時、助けてくれた。感謝してもしきれない存在だ。だからと言って、恋愛しているわけではない。恋しているわけではない。

 恋とはどういうものか、いまいち分かっていない気もするけれども。

 馬鹿なことを考えたおかげで、三上の顔を見ることができない。

 それに、三上はあたしの父親くらいの年齢ではないか。年が離れすぎていて、恋愛の対象にはならないのではないか。

 さあ、馬鹿な考えは捨てよう。あたしは目の前の、服選びに集中した。

 心美が嬉しそうに、色々なものをあたしに着させる。あたしはすっかり、心美のお人形さんだ。そのうち、店の全ての商品を持ってくるのではないか。

 心美は次第に、秋冬物まで選び始めたので、あたしは丁重にお断りした。

 結局、あたしが選んだのは、フリル袖のTシャツ、ブラウス、サブリナパンツだった。これだけ選んでも、ブラとショーツのセットの値段より安い。

 もうちょっと買ってもいいと言われたけれど、下着と合わせたら、結構な額になっている。これ以上頼ると、返済に困る。今でも困るのに。

「体で返せば、一発よ」

 綾の声が聞こえたように思う。もちろん幻聴だ。

(ダメ!)

 幻聴ではあるけれども、心の中で答えておいた。あたしの中の馬鹿な考えを否定するために。



  27


 心美とは駅で別れた。お礼を述べ、手を振ると、心美も元気良く手を振り返して去って行った。

 あたしたちはホームへ上がって電車を待った。

「僕は次の駅で降りて、何時ものところ行ってくる」

 三上が真紀に言うと、心得ているようで、

「ああ、もうそんな時期なんだ」

 と答えた。

「夏だしね」

 三上はそう言うと、あたしに向かって、

「昔、僕が入院したことがあってね。あ、これから行くところではないんだけど。ともかく、入院中に遭った出来事の後始末、かな。退院後から、毎年同じ時期に行くようになったんだ」

 そう説明した。

 彼から聞こえてくる心の声が、寂しそうだ。辛そうだ。その入院していた時の出来事が、よっぽど辛い思い出なのだろう。

「君にも来てもらって、実際に助手ができるか、確認してみよう」

「ん?裕美ちゃんも連れていくの?」

「ああ」

「そ、か…」

 真紀は寂しそうに呟いた。が、すぐに表情からも寂しさが消え、

「裕美ちゃんに変なことするんじゃないぞ!」

 と、三上を睨みつけていた。

「しないしない」

 三上はそう言って、真紀から少し離れた。あたしに視線移す。

「荷物、持とうか?」

「え、あ、大丈夫」

「スケベ!」

 真紀がまだ三上を睨みつけたままだった。

「は?なんで?」

「荷物の中身知ってるじゃない」

「紙袋で、見えないでしょ」

「裕美ちゃん!兄ちゃんが変なことしたら、すぐ言いなよ。ボクが成敗してくれるから」

「え、う、うん」

 真紀と三上のこの関係は、何なのだろう。傍から見ていて、何処か面白いので、いいのだけれども。

「酷い言われようだな…」

 三上もぼやきつつも、それほど嘆いてはいなさそうだ。

 アナウンスが鳴り、電車がホームに入ってきた。騒音が大きいので、さすがに会話は中断されてしまう。

 電車に乗り込んで手近な席に三人で座ると、真紀があたしに質問してきた。

「今度の木曜、イベントの準備手伝いがあるの、知ってる?」

「うん。それ、あたしも申し込んでる」

 通信教育の授業の一環で、ボランティア活動がある。生徒が参加できるイベントの日時が公開されているので、事前に申し込んで、運営の手伝いを行うのだ。

 運営と言っても、大抵は設置などの準備作業と、イベント終了後の片付けだ。中には、イベント当日の警備員もあるにはあるけれど、今回は、木曜に準備し、その次の月曜に片付けを行うだけだ。

 イベント当日の警備員と比べると、圧倒的に敷居が低いボランティア活動だ。とはいえ、心の声が聞こえていると、同じことではある。

 このイベントの手伝いの参加申し込みは、一ヶ月ほど前に行っていた。綾との修行の成果を試す場として、綾が選んだ。

 イベント当日と違って、設営は人数もそれほどでもない。あたしの修行の成果を試すには、もってこいではないかと、綾が勧めたのだった。

「ボクも参加するから、一緒にいこ」

「うん!」

「心美ちゃんも参加するんだって」

「あ、そうなんだ」

「でも、以前と比べて、ちょっと様子が違ったなぁ」

「真紀ちゃんもそう思ったんだ」

「あ、やっぱり?どことはよく分からないんだけど」

 真紀はそう言って、考え込んでいた。

 こういう時の真紀の心を覗いても、まるで理解できない。真紀が大勢いて一斉に話しているような感じだ。

 普段接していると、真紀は別に飛び級をするような天才には見えないのだけど、こういう真紀の思考、とでもいうのだろうか。それに触れると、人と違うのだと分かる。

「あの子、もしかしたら…」

 三上が会話に割り込んできた。でも、それ以上言葉を続けない。

『何かに憑りつかれているかも』

 心の声で、続きは分かった。

「え?憑りつかれている?」

 あたしは思わず聞き返していた。

「え?また霊関係?」

 真紀の思考が止まった。

「え、あ、いや、かもしれない」

 三上がやや戸惑っていた。口に出していないはずのことに対して、あたしが聞き返してしまったのだ。当然と言えば当然だ。

 そしてみんな、あたしを怖がって離れていく。できれば、この二人には離れていって欲しくない。かと言って、下手なことを言えば、墓穴を掘るだけだ。事なかれ主義で行ってみるしかない。どうか、うまくごまかせますように。

「あの子、僕をすごく拒絶していたから、近づけなかった。確認しようもない」

「どういうこと?」

 あたしのことには触れなかったので、会話を促すように尋ねた。

「僕が触れることができれば、もしも憑りついている幽霊がいるなら、引きはがせるんだ」

「また女の子を歯牙にかけるんだ」

「誤解のある言い方止めて」

 真紀と三上がまた言い合っている。

 心美は男性不信だ。三上が触れることはできないだろう。不意を突いて後ろからならできるだろう。けれど、その後が大変なことになると予想できる。

 心美の男性不信について、三上は知らない。あたしから話すこともできない。あたしが聞いたことではない。心を読んだから知っているだけだ。それに、心美から直接打ち明けられていたとしても、人に言える内容ではない。

「それで、解決策は?」

 真紀が聞いていた。

「うーん、いや、今のところお手上げだね。特に何も起きていないから、強引な手段も使えないしね」

「なにも自覚症状が無ければ、説得もできないね」

 真紀も考えているようだ。

 あたしが知っていることを話せば、解決の糸口がつかめるだろうか。でも、彼女のプライバシーを侵すわけにはいかない。なにより、あたしの力のことがばれてしまう。ばれたら、この二人もあたしから離れて行ってしまう。それは嫌だ。

 知られなくても、離れていくのだろうか。真紀とあたしは、最近よく電話する中ではあるものの、真紀にとって、あたしは、ただの知人、かもしれない。特に用が無くなれば、音沙汰が無くなるかも。

 あたしは、真紀と友達になりたい。今まで、こんなこと、思ったこともない。人は避けるもの、だったのだ。なのに、こんなにも近くにいて欲しい人ができるなんて。

 三上は、あたしを助けてくれる。パニックに陥った時、あたしを救えるのは、彼だけに違いない。だから、傍にいて欲しい。

 真紀に直接、友達になって、と言う。いえ、恥ずかしくて、そして断られるのが怖くて、とても言えない。

 あたしはなんて薄情なのだろう。三上と真紀は心美の心配をしているのに、あたしは自分のことを考えている。

 こんな薄情な子には、友達なんてできないのではないか。考えると、悲しくなってくる。寂しくなってくる。



  28


 真紀と電車の中で別れ、駅のホームに降りた。ここからは三上と連れ立って歩く。

 駅から左へ行くとコンビニがある。コンビニを左に曲がり、線路を超えると、あたしが利用している廃ビルがある。

 駅から右へ向かい、左側の主要道路を超え、少し山側へ入ったところへ、あたしの住むアパートがあった。

 駅傍の一等地、ではあるものの、この駅は利用客も少なく、夜は駅員もいなくなる。車のある家庭は、もう少し離れた平地の住宅街に住んでいる。その住宅街の側に、スーパーなどがあった。

 三上は真っすぐ主要道路に出た。

「ここも車の通りが減ったなぁ」

 三上が信号待ちをしながら、通り過ぎる車を眺めつつ言った。

「この道路、国道だったんだ。今はバイパスができて、そっちが国道」

 バイパスができたのは、最近だ。あたしはまだこの辺りに住んでいなかったので、どのくらい変わったのかは分からない。小学、何年生の頃だろう。興味もなかったので、覚えがない。

 旧国道を渡って細い道を上った。上り切ると、道は左右に続く。

「実はね、この左右の道も、昔、国道だったんだって」

 三上が言う。言い方からして、彼も国道だった時代を知らないようだ。

「自転車で街に出るとき、通ったことあるだけ」

 そう言って笑った。

「え?自転車で?駅二つ分を?」

「そ。早い子は三十分で行ってたらしい。僕は無理だったなぁ。早くて、四、五十分だったかな」

「腕白少年だったんですね」

「いやいや。引きこもり少年。自転車で行ったのは、高校に入ってからだな」

 三上は答えながら、道を左へ向かった。右へ向かえば、あたしのアパートへ行ける。

「中学くらいまでは僕も人を避けていたんだ」

「え」

「霊が見えると、どうしても回りと違う行動をとるんだ。それが原因でね。君も、じゃないのかい?」

「え、あ、うん」

 心を読めるからだとは言えないので、頷いておいた。

「気味悪がられて、ねぇ。小さな子供にとっては、辛い体験だね」

 返事のしようがなかった。しかし、三上も別に返事を期待している風ではなかった。

「僕は子供の頃、世話になった人がいるんだ。その人のおかげで、僕は死なずに済んだ。おかしな人生を歩まずに済んだ」

 三上の声が、少し沈んでいるように感じる。

「とても感謝しているし、お礼をしたかった。でも、そのことに気づいたのは、その人がいなくなってからだった」

 かみしめるように言う。

「だから、人助け、ですか?」

「うん、まあ、人助けって程崇高でもないんだけど。関わった人くらいは、手助けできるなら、したいね」

 それで、あたしも助けてもらえる。でも、それだけで助けてもらって、いいのだろうか。あたしとしては非常にありがたいし、ずっと傍にいて守って欲しい。でも、それだけの価値があたしにあるのだろうか。

「でも、なぜあたしを助けてくれたんです?」

 思わず聞いていた。

「助ける?」

「この前、あたしがパニックになった時とか、これとか」

 紙袋を掲げて見せた。

「ああ。それは、真紀ちゃんがお世話になっているお礼だと思って。それに、真紀ちゃんの友達だから、ね」

「え?あたしが真紀ちゃんの友達?」

「え?違うの?少なくとも、真紀ちゃんは友達だと思っているよ」

 あたしは驚いた。慌てて首を振り、

「友達です!友達になりたいです!」

 と言っていた。

「あら。…ああ。人と接してこなかったから、その辺の感覚が無かったかな。僕も以前、そうだった。心配しなくても、もう二人は友達だ。僕が保証する。…ああ、ほら、泣かないで」

 三上は立ち止まり、ポケットから取り出したハンカチで、あたしの頬を拭ってくれた。

 あたしは嬉しくても、涙が出る。ここ最近、泣き虫になったような気がする。恥ずかしいけれど、止めることはできなかった。

 三上はあたしが泣き止むまで待ってくれた。田舎道のせいか、時間帯のせいか、人通りも車の通りもない。狭い道に二人して佇んでいた。

「ごめんなさい。もう大丈夫」

 やっと涙も止まり、声も震えていない。

 三上はにっこりとほほ笑み、歩き出した。

「これから行くところは、僕が世話になった人がいなくなる、原因を作ったところ、だな。何言っているか分からないか」

 三上はそう言って苦笑した。

 少し先に、二階建てのコンクリート製の建物が見えてきた。建物の前は少し開けていて、元は駐車場だったのだろう。アスファルトの割れ目から草が生えている。

 建物の上の方に文字がある。大半が削れ、無くなっているものの、北と産と科と院の文字がなんとか読める。

 たぶん、使われなくなった何かの病院なのだろう。実は、ここ、あたしの隠れ場所の一つだった。夏は暑くて利用できないけれど、人が寄り付かない場所なので、人を避けて過ごすにはちょうどいい場所だった。と言っても、奥まで調べたことはない。入り口近くで過ごすだけだ。

 どうしたことか、三上はこの建物の敷地へ入って行った。

 立ち止まって建物を見上げている。

「ここ、北村産婦人科医院、だったんだ。君らが生まれる前のことだけど、もしかしたら、聞いたことあるかもしれない。とても凄惨な事件を起こした現場なんだ」

「え?こんなところで?病院で?」

「そう。ここの医院長が、生まれたての赤子を殺していたんだ」

「産婦人科なのに?」

「そう」

 子供を産む場所なのに、逆に殺すなんて、間違っている。でも、聞いていて、思い当たることがあった。

 学生会議のテーマで出てきたように思う。北村と言う名前は出てこなかったものの、双子の片割れを殺し、間引いていた産婦人科医院があり、それが表に出て、大騒ぎになった事件があったという。あたしが生まれる少し前のことだ。

 調べてみると、数十人の新生児の死亡に関与している疑いがあったとか。しかし、肝心の医院長は姿を消して、未だに掴まっていないので、真相は闇の中だった。

 あの事件の現場が、こんな身近な場所にあったなんて。そして、そうとは知らず、あたしは隠れ家として使っていたなんて。怖くなってきた。

 今考えてみると、時々、赤ちゃんの泣き声が聞こえたような気もする。そう思った途端、背筋が寒くなった。真夏だというのに、足まで震えている。

 まだ明るい時間なのに、建物がどこか暗く見えた。

「事件が発覚して早々、誰かが婦人と医の文字をはぎ取ったんだ。器物破損で立派な犯罪だけど、誰も犯人を捜そうとはしなかったなぁ。その文字を落とした理由は、誰でも想像ついたからね。さすがに、殺人科に書き加えられたときは、すぐに消されたけどね」

 三上はあまり怖がっていないようだ。子供を産むことの無い、男性だから、思いも違うのかもしれない。

「あの事件の発覚に、僕も、少しだけ関わっててね」

 どちらかと言えば、懐かしそうな響きだ。悲しげな思いも、ずっと重なっている。でも、恐怖は全くない。

「当時、僕は入院していて、退院した後、ここを訪れた。そしたらまあ、いるわいるわ。鳥肌が立ったね。今はすっかり慣れちゃったけど」

 何がいたのだろう。いや、言われなくても分かった気がする。

「さて、中に入るけど、大丈夫?」

 三上が振り返った。

 あたしは頷くしかない。言葉が出ない。

「幽霊がいると思うから、見つけたら教えて。案外見え難いのもいるから」

 そう言うと、先に立って建物へ向かった。



  29


 大きな入り口は、元はガラス戸だったのだろう。しかし、今は何もなく、大きな口を開けていた。

 その口に、勇気を出して飛び込む。前に入った時は何も思わず、入ることができたのに。

 入ってすぐは少し広い。朽ちた椅子が並んでいる。カウンターもその奥の棚も残っている。棚は崩れかけており、並んでいたであろう書類は全て無くなっている。

 カウンターの正面に、二階へ上がる階段と、トイレの入り口がある。覗いてみると、所々タイルがはがれ、さびたパイプが見えていた。そこに、髪の長い女の人がいた。

 いや、女の幽霊だ。表情がよく見えない。動作からすると、何かを探しているのかもしれない。

 あたしはホールにいる三上を呼んだ。

 三上はすぐに来ると、手にしたものをその幽霊に押し当てた。すると幽霊が燃え上がり、炎と共に収束して消えた。

 カウンターの脇を抜けると、扉の無くなった、たぶん診察室とだと思われる部屋があった。机が傾いている。ベッドは枠しか残っていない。

 隣も診察室で、足を広げるようなベッドの枠があった。

 どこかで泣き声聞こえる。

 幽霊は、怖くない。なぜかは分からないけれど、平気だ。でも、この泣き声は、鳥肌が立つ。

 三上が奥に向かい、何かを燃やした。

 さらに奥は、たぶん手術室なのだろう。大きな部屋に、さび付いた照明機材が残っていた。部屋の中心に、ここも枠組みだけのベッドが残っていて、床にはベッドの残骸だろう、塵が積もっていた。

 手術用の道具などは全て持ち去られているのだろう。ほぼ何もない。何もないが、おかしな塊が、浮いていた。

 その塊から泣き声が聞こえる。

 よくよく見ると、赤ちゃんが何人も集まって、くっついているのが見えた。

「群霊化しているな…」

 三上が吐き捨てるように呟いた。三上にとって嫌な記憶と重なるようだ。

 彼は手に持ったライターに火を灯し、群霊にその炎を押し付けた。炎は瞬く間に群霊を包み込み、赤ちゃんの霊たちを燃やす。

 赤ちゃんの泣き声が治まった。燃えて泣くどころではないからだろうか。それとも、こんな炎で、安心して泣き止んだのだろうか。

『さあ、皆、お行き』

 優しげな女の人の声が聞こえた。

『愛しい子供たち』

 群霊の中に、女の人がいるように見えた。その女の人も、他の赤ちゃんたちと一緒に、炎の中へ消えて行った。

「ここは、霊が集まりやすい場所になっているんだ」

 三上が呟いた。ライターのふたを閉じ、無造作にポケットへ突っ込んだ。

「今の、赤ちゃんたち?」

「そう。どこかで亡くなった赤ちゃん。なぜかその幽霊がここに集まるんだ」

「幽霊が集まって、ああなるの?」

「うん。僕は群霊と呼んでる。群霊になると、手あたり次第に回りへ害を及ぼす。幽霊なのに、現実世界に干渉できるようになるんだ。でもはっきりした意思統一が無いから、手あたり次第に何かをやらかす」

「壊したり?」

「何かを壊すこともある。近づいた人に憑りつくこともある。憑りつかれて害がないこともある。あるいは、憑りついた人物ごと自殺することもある」

「だから放置できない…」

「そう言うこと」

「でも、三上さんは、憑りつかれたりしないんですか?」

「んー。今のところ大丈夫だね。たぶん大丈夫だと思う。でも、君は近づかない方がいい。赤ちゃんの霊は、特に女性に憑りつきやすいんだ」

 あたしは恐々と頷くだけだ。

 続いて、二階へ向かった。

 二階は個室が並んでいた。出産間際の母親が入院する場所だったのだろう。各部屋とも、ベッドの枠だけが残り、後は塵が散乱していた。

 大抵、三上が先に幽霊を見つけて処理していった。あたしは時々見つけたけだ。こんなのであたしは助手として役に立てるのだろうか。

 廊下を突き当ると、山側に向かって通路が続いていた。コンクリートの建物の裏手に、もう一つ建物があった。

 その先は普通の民家のような構造になっている。こんな建物があるとは知らなかった。ここを利用していた時は、下の階段やカウンター側を利用していた。一度、二階まで来たことはあったが、個室を一つ覗いた事があるだけだった。

『またあいつが来ている』

 その民家の方から、人の声が聞こえた。生きた人が、声帯を震わせて発した音ではない。どちらかと言えば、心の声と同質だ。

「さあ、引き揚げようか」

 そういう三上の服を掴み、民家の方を指さした。

「何かいるみたい」

 三上はポケットにしまい込んだライターを取り出し、廊下を民家の方へ向かった。

 朽ちた扉をまたいで中へ入ると、板の間の部屋だった。昔はここにもソファーなどあったのだろう。今は殺風景だ。

 ここは建物の二階に当たる。部屋が幾つかと、トイレと、下への階段があるだけだった。各部屋は荒らされでもしたかのように、何かの残骸しか残っていない。

 声の主は、下のようだ。

 階段を下りる。そこは薄暗いものの、玄関のようだ。玄関の入り口は外から板を打ち付けて塞いでいた。

 階段の左右に部屋がある。片方は、朽ちた畳が逆立っている、広い部屋。片方は板の間で、リビングではないかと思われる。

 板の間の奥に台所と思しき残骸が見えた。板の間も、台所もかなり広い。

 階段を起点として、洗面所、風呂、トイレもあった。そして、もう一つ部屋があった。ここは木製の引き戸が健在で、閉まっていた。

 声は、この引き戸の中から聞こえる。

 あたしが指さすと、三上が扉を引いた。

 壁際に本棚と思しき残骸があり、中央の窓際に机があった。この机の上に、何かがいた。

 それは人の形をしていない。何かの動物だとは思われるものの、何なのかも判別できない。皮膚は爬虫類のようで、形は犬か猫のような雰囲気だ。こんな生き物、見たことが無い。

「おっと…妖怪の一種か…」

 三上が呟いていた。

 その生き物が振り返る。目が、目の奥が暗闇だ。裂けたような口の中で、何かが泡立っている。

『ここまで来たからには、退治せねばならんな』

 得体のしれない生き物が呟いた。

 三上にはそれが聞こえていないのか、ライターに火をつけると無警戒に近づいて行く。

『そうだ。もっと近づけ。人間ごとき、食ろうてくれるわ』

「あぶない!食べられちゃう!」

 あたしはとっさに叫んでいた。でも、近づくことはできない。三上を捕まえて止めることができない。

「大丈夫大丈夫」

 当の三上は楽観したものだった。

 得体のしれない生き物が大きな口を開けて三上を包み込んでも、平然と食べられていた。

 が、何か様子がおかしい。得体のしれない生き物の表情がみるみる歪んでいく。ついには元にいた机の上に戻った。

 三上は先ほどと変わらない位置に立っており、何ともない。

 逆に、得体のしれない生き物の方は、炎に包まれて燃えていた。

「ね」

 三上が振り向いて笑った。その向こうで得体のしれない生き物がもがき、叫び声を上げていた。幽霊の時とは違い、すぐには燃え尽きず、しばらく燃え盛っていた。

 不思議なことに、炎は机など、回りの燃えそうなものには移らなかった。

 炎は時折、強くなった。そういう時、得体のしれない生き物から、何かが出てきている。幾つかの何かが出てくるのを見ると、ひと月ほど前の出来事を思い出した。

 大きな狐に襲われたあの時のこと。あの時は、偶然にも相手を操ることができた。あの老狐が屈服すると、狐の体から色々なものが出てきた。綾もその中の一人だった。

 目の前の現象も、同じように、霊的存在を体外へ吐き出しているのかもしれない。

「これ、いったい何なんです?」

 あたしは専門家である三上に聞いてみた。

「僕もあまり詳しくないんだ。時々、こういう得体のしれないものに出くわすんだけどね。妖怪、なのかな、と考えてる」

「妖怪?」

「そう。人を惑わす怪しげなもの、かな」

 綾も、妖怪になるのだろうか。あたしも惑わされているから、時々変な妄想をしてしまうのだろうか。特にエッチな方向の考えは、きっと惑わされているに違いない。

「君、よくこいつがいるって気づいたね」

「声が聞こえたから」

「声?」

「またあいつが来ているって」

「へー。僕には聞こえなかった。やっぱり僕と君では、能力に違いがあるようだね。とすると、僕はこいつで霊を燃やせるけど、君にはできない可能性ありだな」

 三上がライターを掲げて見せた。

 あたしは、試してみたいとは思わない。

『僕には聞こえない声…まさか、な…。ゆみちゃん…裕美…。いや、まさかな』

 三上の心の声に、あたしは緊張してしまう。彼があたしの力を疑い始めているのではないか。心が読めるとばれたら、彼も怖がって、離れて行ってしまう。

 三上があたしを見つめた。でも、何処か、違うところを見ているようでもある。あたしと、三上の知る誰かとを、重ねて見ているようだ。

 疑われてはならない。何とかして隠し通さなければ。心が読めることは、人にばれてはいけない。

「でもこいつ、ここにずっといた?毎年来る僕を知っていた?…毎年霊が集まる…。まさか、こいつが霊に干渉していた?そして集めていた?」

 三上はいつの間にか、机の上の炎に目線を戻していた。

「まあなんにせよ、今後霊が集まらなくなったら、こいつのせいだったってことだな。そうなったら、僕の数年の努力が無駄だったってことか…」

 一人で考え、一人で悔い、落ち込んでいた。

 炎が小さくなり、霊が燃え尽きる時のように、消えていった。得体のしれない生き物も一緒に消えている。

「なんにせよ、君に感謝だな」

 三上が振り向いた。笑顔であたしを見つめている。

「君が見つけてくれなければ、こいつをのさばらせていたところだ。もしも考えがあっているのなら、もう何年も、僕は無駄な努力を続けなきゃならなかった」

「そんな大層なこと何も…」

 あたしの返事に、三上が怪訝な顔をした。そして何かを思いついたように言いだした。

「君、真紀ちゃんに対して課題を渡してたことも、大したことしてないと思っているだろ」

 唐突に、真紀の話題を振ってきた。

「え」

 返答に困る。でも確かに、課題を送ったからと言って、どうと言うこともないだろう。

「真紀ちゃんにとっては、天の助けだった。だから、真紀ちゃんは真紀ちゃんなりに、君を大事に思っているんだ」

 三上があたしの横を通り抜け、来た道を戻り始めた。戸口で立ち止まり、振り向いた。

「お互いに助け合うってのも、友情の一つだろ?だから、君たちはもうとっくの昔に友達なんだ」

 確かに、ここへ来る道中で、そんな話をしていた。今になって改めて言われるとは、思いもしていなかった。

 またあたしの頬に温かいものが伝っているのが分かった。でも今度は、本当に実感できた気がする。あたしと真紀は友達なんだと。

 それにしても、この人は、ずるい。その話、さっきしてくれればよかったのに。

「真紀ちゃんは僕の妹みたいなものだ。これからもいい友達でいてくれよ」

 三上はそう言うと、外への長い道のりを戻って行く。

 あたしは涙で視界がぼやける中、彼の背中を頼りに歩き続けた。

 頼りないような、それでいてどこか頼りがいのあるような背中。

 あたしは彼に救われてばかりだ。与えられてばかりのこの関係は、では、なんというのだろう。言葉が見つからない。



  30


 アパートに戻ると、あたしはベッドに突っ伏した。

 色々あった一日だった。真紀と心美と三上とで買い物をし、三上の仕事の見学をした。言ってしまえば、その程度かもしれないけれど、中身の濃い日だったと思う。

 人生初の、友達との買い物。そう、友達と言っていいのだ。三上が保証してくれた。友達も人生初だ。自分に合う下着を手に入れたのも、人生初。色々な服を試着したのも、初めての経験だ。自分のお金ではないけれど、服を自分で選んで買ったのも、初めてだ。

 除霊に付き合ったのも、もちろん初体験だ。普通、経験できるものではないだろう。

 今日は人生初の出来事の目白押しだ。色々な気持ちが泉のように湧き出して、あふれている。気持ちを持て余して、どうしていいか分からない。

 三上はあたしをアパートまで送ってくれた。そして、やる気があるなら、是非助手をして欲しいと、頼まれたのだった。

 人に頼られるのも、初めてだ。こんなにも嬉しい事なのだと、初めて知った。

 でも、忘れてはいけない。あたしが心を読めることがばれると、皆怖がって離れていく。だから、ばれないように気を付けなければならない。

 そして、もう一つ。心美のトラウマについて知ってしまったことだ。何とかしてあげたいと思う。あたしに何ができるかも分からないけれど。

 あたしはいつの間にか、眠っていた。

 時々夢に見る、何時もの男の子。でも、今日は、何時もの、あたしのと一緒にいるだけではなかった。

 男の子が泣きじゃくっていた。大人たちに阻害され、自分はいらない子だと知らされ、ただただ泣き、卑屈になっていた。

『じゃあ、あたしがずっとそばにいてあげる。そうしたら、さみしくないでしょ?』

 あたしが重なっている女の子が男の子に言った。

「ほんとうに?」

『うん』

「ずーっとだよ?」

『ずーっとずーっとね』

「ずーっとずーっとずーっと?」

『ずーーーーーーーーーーーーーーっとよ』

 これは、あたしの前世の記憶だろうか。あたしはこの男の子を探したいと、思っていたのかもしれない。

 男の子が青年になりかかっていた。あどけない少年のような顔と、大人びた体つきが同居している。右足にギブスを付け、病衣を羽織っていた。

 今までに見たことが無かった。あたしが、前世の記憶と気付いたから、見ることができたのだろうか。それとも他の何かのきっかけがあったのだろうか。

 青年は、あたしに気づいていなかった。でもひょんなことから、再びあたしに気づいてくれた。

 あたしは成長せず、女の子のまま。彼は年月に見合う成長を遂げている。でも、あたしを思い出してくれたことが嬉しい。

 女の人が宙に浮いていた。何かおぞましいものを感じて、とても怖い。でも、彼は勇敢に、その女の人に近づいて行った。

 でも途中で膝を屈してしまう。あのままでは彼が危ない。あたしが助けなければ。

 あたしは怖いながらも前に出て、彼の手助けをした。彼が奮い立ち、行動できるように。

 彼が再び立ち上がり、宙に浮く女の人から得体のしれない塊を取り出した。よく見ると、それは、たくさんの赤ちゃんと、女の人が混ざり合ったものだった。

 あたしの体もその塊に取り込まれ、離れることができなくなった。怖い。でも、彼のために。

 彼がライターを取り出し、塊に火をつけた。あたしも一緒に燃える。でも、痛くなかった。熱くなかった。

 あたしを引きづり込んでいた塊と一緒に、あたしも消えていくのが分かる。でも、なぜか怖くない。これでいいのだと思う。彼はこれで、一人で生きていける。

 彼が別れたくないと泣く。一緒にいてくれると言ったと、ごねる。

 あたしも本当は離れたくない。そんなこと言われたら、悔いが残る。でも、もう戻れない。もう一緒にいられない。いることができない。

『ごめんね』

 これからは一人で生きていってね。できることなら、もう一度会いたいな。

 あたしはベッドの上にいた。今まで見ていたものが、夢だと気づくのに、少し時間を必要とした。

 目頭が熱い。今日は泣いてばかりだ。

 あたしと重なっていた女の子。感情もしっかり伝わってくる。いえ、同調していると言った方がいいのかもしれない。たぶん、前世の記憶で間違いない。

 女の子は、男の子のことを、友達のように、家族のように思っていた。異性としても意識していた。胸の焦がれるような思い。でも報われない思い。

 ずっと一緒にいると約束したことに対する責任感も、非常に強かった。最後に離れることを、悲しみ、悔いていた。

 だからだろう。女の子は、あの男の子にもう一度会いたいと願っている。会って約束を果たそうと言うのかもしれない。時の隔たりがあるので、どこまで実現するかは分からないけれども。そもそも、転生と言うものを信じてもらえるのかも分からない。前世だと言っても、信じてもらえないかもしれない。それでも、再び会いたいと、強く願っている。

 あたしの前世の願い。漠然と認識していたから、あたしは何かを探さなければと、感じていたのだ。

 そう言えば、三上もライターを使っていた。夢の中の彼が手にしていたのは、黒いライターだった。三上が使うものは、形こそ同じだけれども、銀色だった。

 でも、彼の面影が、三上にあるように感じる。

 探す相手は、三上なのだろうか。確信はない。でも、彼ならいいな、とも思う。

 三上で合っているとして、あたしの前世に気づいたら、どうなるのだろう。分からない。いつも分からないことだらけだ。もっと色々分かったら、人生楽なのに。



  31


 次の日の朝、ひょっこりと綾が帰ってきた。

 あたしが攻め立てても素知らぬ顔だ。

「いっそのこと、彼を押し倒せばよかったのに」

 とまで言う始末だ。

 あたしの新しい下着と服を見つけると、さっさと話題を変えてしまった。

「もーなんで呼んでくれないのよ!」

 自分も買い物に混ざりたかったらしい。ばつが悪くて逃げていたことなど、すっかり忘れているようだ。

 あたしは新しい下着を身に着け、フリル袖のTシャツにサブリナパンツの格好で、何時もの廃ビルへ向かった。

 着るものが変わると、気分も変わるらしい。あたしは晴れやかな気持ちで歩いた。周りに人がいても、大して気にならなかった。

 でも、綾が修行を付けてくれたおかげでもあるのだ。だから、周りの心の声を聞かずに済むようになったのだ。癪だけど、お礼は言っておく方がいい。

 廃ビルの、何時もの屋上に出ると、扇風機のスイッチを入れながら、

「修行を付けてくれてありがとう」

 と、ぶっきらぼうに伝えた。

「あら、どういたしまして」

 綾はいつもと変わらない。と思ったら、綾の体が光っている。

「あら?あらあら。もうなの?」

 綾がそう言ったかと思うと、紙人形と狐の綾に分かれた。狐の綾の輪郭が光っている。

『ねえ。私って、どんな姿が似合うと思う?』

 綾が唐突に、そんなことを聞いてきた。

 どういう意図があるのか、分からない。

『いいから、想像してみて』

 言われても困る。

 綾は、あたしにとって、姉であり、母親であり、師匠だ。包容力のある女性。依代で創っていた姿も印象に残っている。胸の大きさが特徴的だった。

 狐の綾を包む光が強くなり、姿が光の中に溶け込んで見えなくなった。

『あああ~~!』

 綾の、悲鳴のような声が聞こえた。一体、何がどうなっているのだろう。でも、光が強すぎて、近づくこともできない。

 光が収束していくと、人の形になっていた。胸が大きい女性の形だ。

 光が弱くなっていくと、その女性の肌があらわになって、床に崩れ落ちた。

 白い綺麗な肌だ。大きな胸が、同性から見ても色っぽい。黒く艶のある髪で顔は隠され、表情が見えなかった。

 彼女が顔を上げる。

 疲れたような表情だけれども、何処か恍惚とした面持ちがある。眉が太く、厚い唇。包容力のありそうな優しい顔つきだ。年上の女の人だ。

 あたしの思い描いた、姉であり母である女性のイメージに酷似していた。

 長い黒髪が、腰の辺りまで届いている。

 肩で息する彼女は、何処か妖艶だ。裸だからだろうか。胸が大きいからだろうか。

 彼女はゆっくりと頭を動かし、自分の手足、体を見つめていった。

「あらあら」

 自分の手で、体を触って確認していた。

「ねえ、祐美。鏡って持っていないかしら?」

 物言いも、声も、綾だ。狐の綾が、人に化けたのだろうか。

 あたしは言葉が出ないので、首を左右に振った。

「じゃあ、そのモバイルを貸して」

 言われるままに差し出すと、綾はモバイルの画面を消し、その画面を鏡代わりに、自分の顔を映していた。

「あらあら。おっとりした顔ね。でも、化粧のノリは良さそう。ええ、いいわ」

 綾は喜々として立ち上がった。

 足がふらつき、とっさにあたしにしがみつく。柔らかい物があたしに触れている。肌もすべすべだ。

「ありがとう」

 綾はそう言いながら、再び自分の足に体重を乗せた。何とか立ち上がる。でも、何より、前を隠してほしい。全裸で立ち上がると、胸も下も見えてしまう。

 胸は大きいながらも綺麗な形だった。

「まじまじ見つめて…。あたしの体、試してみる?」

 綾が体を捻ってみせた。

「試す?」

 と聞き返して、意味が分かった。

「試しません!」

「そう?これであたしも快楽をむさぼれるの。お礼に裕美も目くるめく官能の世界へご招待差し上げますよ?」

「いらない!」

 言葉だけで、あたしの顔を赤くするなんて。

「いいから早くその格好をどうにかして」

「私の初めて、祐美にもらって欲しいのに…」

 綾はそう言いながらも、再び光に包まれた。その光が消えると、胸元の開いたシャツとその上にブラウスが、下はロングスカートが現れていた。と思いきや、スカートが股下で別れている。パンツのようだ。とても大人びた雰囲気に見える。

「お金を稼いで、本当の服を手に入れなきゃ」

「え、服を着て見えるけど、裸ってこと?」

 綾は答えず、ウインクしてみせた。

「とその前に、これ、何?今の現象」

「え?ああ、これ?受肉したの」

「え?」

「そうね…。私は裕美に修行を付けると約束したわね。これが言わば契約にあたるの。契約が成就すると、内容に見合った力を得ることができるの。今回の契約で、受肉まで至るとは思っていなかったから、私も油断していたわ」

 受肉。以前、綾が説明していたように思う。肉体を得ること、だったかと。

「どう?今度は本物の肉体よ。好きなだけ触っていいわよ」

 差し出された腕に触ってみても、依代を使っていた時と変わらない。普通に人に触れたのと同じだ。モチモチとした感触で、案外と気持ちいい。あの大きな胸を触ったら、もっと気持ちいいのかもしれない。

 いえ、あたしは心美ではないのだから。思い浮かんだことを否定して追い出す。

 綾が口を押さえて笑っていた。

 しまった。この人も心の声が聞こえるのだった。

「興味はおありね。今度、お風呂一緒に入りましょ」

 そう言いながら、あたしの背中を押して、階段の下へ向かおうとする。

「ちょっと、どこ行くの?」

「そうね…。適当にデートしましょ」

「え?修業は?」

「もう必要ないから、受肉したの。祐美は卒業!おめでとう!」

 頭を撫でられても、実感がない。

 綾はあたしの肩に掴まって歩いていた。まだ足元がおぼつかない様子だった。

『この体に、まず慣れないと』

 綾が必死になって、新しい体に馴染もうとしていた。

 癪だけど、修行を付けてもらったお礼だ。デートでもなんでも付き合おう。エッチは御免だけど。

 一日、ぶらぶらと二人で歩くうちに、綾も自分の足だけで歩けるようになっていった。

 アパートへ戻ると、案の定、お風呂へ一緒に入ろうと連れ込まれた。

 思い返しても、恥ずかしすぎるひと時だった。思い返すのは止めよう。でも、人と一緒に浸かるお風呂も、悪くないのかもしれない。

 風呂上がって早々、綾は動けなくなった。歩き過ぎたらしい。綾にせがまれて、足をマッサージする羽目になった。

 それでも、次の日以降、綾は一人で出かけて行っては、大荷物を抱えて戻ってきた。

 服に下着に化粧品。どうやっているのか分からないけれど、次から次へと手に入れていた。

「まだ私の体が清らかなうちに」

 などと訳の分からないことを言ってあたしに迫ってくるのはいただけない。

 綾が料理してくれると、とても美味しかった。素朴な味で、もしかしたら、これが母親の味なのかも。あたしにも作れるようになるのだろうか。

 二人でお風呂に入り、狭いベッドで二人して寝る。こんなにも人肌に接した日々はなかった。とても、満たされる思いだ。あたしは人肌に飢えていた、恋しかったのだろうか。

 とにかく、この数日は、至福の時間だったともいえる。

 木曜の朝は、早々にやってきた。



  32


 満月の警戒週間を知らせるメッセージを、確認もせずに消し去ることから朝が始まる。この日は、昼前からイベント会場で、設営の手伝いを行う予定だ。

 綾も見学に行こうかしら、などと言いながら、念入りに化粧をしていた。お好きにどうぞとぶっきらぼうに答え、あたしは先にアパートを出たのだった。

 厚化粧するわけでもないのに、どうしてあんなに時間がかかるのだろう。不思議だ。あたしも将来、綾のように鏡とにらめっこするようになるのだろうか。今は化粧の必要性を感じない。口紅くらいはあってもいいかもしれないけれど。

 イベント会場の設営は、昼前からとは言っても、集合時間は十時だった。少し早めに行っておく方がいい。真紀や心美も来るはずなので、話しをする時間もあるだろう。

 隣町まで電車に乗り、会場へ歩いて行く。指示のあった通り、会場の裏手へ回ると、簡易の机が置かれ、受付が作られていた。でも、時間がまだ早いので、受付に人はいない。

 時計を見ると、まだ九時だ。一時間早い。早すぎたかも、と思って近くの木陰に行くと、声がかかった。

「裕美ちゃん、おはよー」

 明るい声で、愛らしい女の子が近づいてきた。今日はワンピースに白い帽子姿の、心美だ。腰の赤いリボンが可愛い。

「おはよー」

「うん、それー、似合ってるねー」

 心美があたしの服を見て、笑った。今日はサブリナパンツに、プリント柄のシャツを着て、ブラウスを羽織っていた。動いて熱くなれば、ブラウスを脱げばいい。

「でも、裕美ちゃんにもスカートにチャレンジして欲しいなー」

 正直、スカートにはあまり興味はない。でも、この前、綾が穿いていたパンツは気になったので、心美に聞いてみた。

「スカンツかなー?そんなの選ぶなんて、おっとなー」

 くすくすと笑う心美は、本当に可愛らしい。

「今度、一緒に見に行ってみよー」

「え?お金ないよ」

「いいのいいのー。見てみるだけー、試着してみるだけー」

「買わないのに、いいの?試着しても」

「うん、大丈夫だよー」

「じゃあ、また真紀ちゃんも誘って、いこ」

「うんうん」

 あたしも随分と変わったものだ。ついひと月前までは、他人の傍に近づこうとしなかったのに。今や、遊びに行く約束までしている。

 服選びとなると、心美は大活躍だ。彼女が居てくれれば、心強い。あたしでは何を選んでいいのやら分からず、店に入る前に引き返してしまいそうだ。

 そうこうしていると、背の高い少年が駆けてきた。と思ったら、真紀だ。シャツにジーンズ姿で、なぜか胸が目立たない。

「みんな早いね!」

「おはよ!」

「おはよー」

「おっは!」

「真紀ちゃん、胸、どうしちゃったのー?」

 心美が心配そうに、真紀の胸を見入っていた。

「今日は動くでしょ?だから、さらしにしてみた」

「さらし?」

「そ、包帯でぐるぐる巻き。ボンレスハム!」

 真紀がそう言って笑った。

 糸で縛られたハムを思い浮かべ、真紀の体に重ねてしまった。

「胸がかわいそー」

「大丈夫大丈夫。健やかに育っておりますよ」

 真紀が自分の胸を押さえて見せた。

「えー?また大きくなったのー?」

「どうだろう?でも、あのブラ着けてから、皆が大きくなったって」

「この、裏切り者ぉー」

「へっへーん」

 どうやら真紀は胸が大きいと言われることが嬉しいらしい。胸のおかげで、少年ではなく、女の子としてみてもらえるからだろうか。

「裕美ちゃんのパンツ、いいね!」

 真紀もあたしの服を褒めてくれた。

「ねー」

「どういたしまして」

 あたしが大仰にお辞儀をしてみせる。顔を上げ、三人で顔を見合わせると、誰ともなく拭きだして、笑っていた。

「ねねー、今度ー、また買い物いこー。裕美ちゃんが見たい服あるんだってー」

「ほほう。祐美ちゃんもついに目覚めたんだね」

「何に?」

「色気づいちゃってー」

「な、違う!」

 女の子三人でこうやっていると、なぜか楽しい。こういう時間がこれからも一杯あるといいなと思う。

 楽しいと、どうしたことか、時間の経つのが早くなる。

 いつの間にか受付に人が座り、すでに人が集まり始めていた。

「あ、ボクらも行こう」

 気付いた真紀が受付へ向かった。後を心美と二人で追いかけた。

 受付で名前を伝えると、相手がリストからあたしの名前を見つけ、印をつけた。そしてタオルとドリンクを一本くれた。

 三人ともステージ付近の作業に割り振られた。道具を運んだり、資材を運んだり、とにかく何かを運ぶ作業らしい。現場のリーダーに従うようにと指示された。

 会場の中へ入る。通路を通って、イベントホールへ入ると、奥のステージへ向かって椅子が並んでいる。ステージの前は椅子の無い空間があり、そこへ数人いた。大半が男性で、女性は少数だ。

「ボランティアの子?」

 あたしたちの姿を見つけた一人が、大きな声を出して呼びかけてきた。

「はい!」

 真紀の声はよく通る。

「こっちへいらっしゃい。まだそろってないけど、今のうちに顔合わせしておきましょう」

 声をかけてきた女性が、現場のリーダーだった。美術監督とかなんとか名乗っていたように思う。

 基本的には男性が組み立てや配置を行うので、その補助を頼まれた。

 次第に人数が増えると、担当部署を分け、作業が始まった。

 あたしはよく分かっていなかったのだけど、明日から日曜まで、ここで、とある劇団が演劇を行うらしい。その舞台背景や場面転換用の装置など、色々準備し、配置していくようだ。

 どんな劇なのだろう、とは思うものの、あまり興味がなかったので、あたしにとってはただの単純作業でしかなかった。

 真紀は大きな荷物まで運んでみせたので、中には本当に少年だと思った人もいたようだ。

「生きの良いのがいるな!」

 などと真紀の働きを褒める声が聞こえた。

 心美は愛想よく、手伝っていた。可愛らしい女の子なので、手伝ってもらう男性陣は頬が緩みっぱなしだ。

 当の心美は、ある一定距離以上には近づかない。頼まれたものも近くに持って行って置くだけだ。それでも男性陣は、嬉しそうだ。可愛いと得らしい。あたしがやると、なぜ手渡さないのかと、叱られるに違いない。

 昼休憩にはお弁当とお茶が配られた。ゴミを落とさないようにと念を押されただけで、どこで食べてもよかった。なので、観客席に三人で座って食べた。食べながら、ステージを眺めて、感想を述べてみたり、今度、何時買い物へ行くか話し合ったりしていた。

 勉強以外の予定があったためしの無いあたしが、友達と会う予定を入れるなんて。ちょっと前までのあたしでは考えも及ばない。あたしと一緒にいてくれるこの二人は、きっと、大切な存在だ。ずっと、この関係でいられたら、良いのに、とつくづく思う。あたしもだいぶ変わったものだ。

 食後も作業が続く。

 ふと、心美を見ると、何処か具合でも悪いのだろうか、それともあたしの目がおかしいのだろうか。心美が黒く見えた。でも、午前中同様、手伝いを彼女なりにこなしている。

 異変があったのは、男性の方だった。

 心美が手伝っていた男性が、数人、倒れた。突然だったので、一瞬、何が起こったのか分からなかった。

 ドスンという音が複数重なる。

 周りで作業していた人々が一斉に振り向くと、男性が数人倒れていた。しかし、状況をすぐには飲み込めず、静寂が辺りを支配した。

 誰かが倒れた人のもとへ駆けつけると、それが合図だったかのように、皆が駆け寄った。

「意識が無い!」

「救急車!」

「怪我は?」

 口々に、色々な言葉が飛び出して、騒然としていった。

 心の声でなくても、人々が口々に叫ぶと、似たような状態になるらしい。

 周囲の不安から逃げるように、あたしや心美や真紀は観客席近くに集まった。

「何があったの?」

「分かんないー」

「頭でも打ってなければいいけど」

 誰かがモバイルを掴んで叫んでいた。誰かが駆けだしていく。

 騒然としていた。しばらくするとサイレンが近づいてきて、白衣の集団が、倒れた人々を担架へ乗せ、出ていく。大人たちがその後をぞろぞろと付いて行くと、ステージ付近は恐ろしいほどの静寂に包まれた。



  33


 気付くと、全ての戸口が閉まっている。外の音が聞こえないので、静かなのだ。中の音も壁に吸収され、隔離されたような感覚だ。

 残っているのは、あたしたち三人だけだった。後の人たちはみんな出て行った。倒れた人々の様子が気になるのだろう。

「どうしよう」

 そう呟きつつ、二人の顔を見た。でも、心美を見た瞬間、視線が捕まった。

 心美の体から、何かが出ている。霊的な何かだ。皮膚から蒸気がほとばしるように、それが立ち上っている。それ自体が生き物のように、辺りを侵食し始めていた。

 霊的な物なら、真紀にはこれが見えていないはずだ。触れては、まずい気がする。これが触れたから、あの男の人たちは倒れたのかもしれない。

「真紀ちゃん、心美ちゃんから離れて!」

 あたしの声が、壁に吸収される。

 心美の目が、何処か虚ろだ。

 真紀はあたしと心美を交互に見つめていた。

「どうしたの?」

 真紀が、心美の顔の前へ手を差し出し、振っている。しかし、心美は無反応だ。代わりに、心美から噴き出すものが、真紀の手へ向かって動いた。

 あたしはとっさに真紀へ飛びついて離れさせた。

 二人して床の上に転がる。

 肩越しに後ろを見ると、心美がゆっくりとこちらへ向きを変えているところだった。

 真紀が下からあたしの腕を掴んだ。

 真紀を見ると、目があたしに質問している。

 とっさに、簡潔に説明する方は、と考えた。急がなければならない。真紀に理解させ、心美から離れなければ。

 数日前の電車の中での会話を思い出した。買い物の帰りの電車の中で、三上が言っていた。

「心美に何かが憑りついているの!」

 あの時の三上の言葉を、伝えた。

 あたしは起き上がり、真紀に手を差し出して引き起こした。そして心美と対峙し、じりじりと後ろに下がる。

 霊が憑りついて、悪さをしている。たぶん、これで合っていると思う。でも、あたしにはその対処方法が分からない。

 心美が近づいてくる。

 どうすればいいのか、分からない。綾でもいてくれれば。

 そう思って辺りを見渡すと、いつの間にか、観客席の一つに、綾が座っていた。

「綾さん!」

 助けを求める。

 しかし、綾は近づいてこようとはしなかった。

「嫌な気配を感じるわ…。祐美、その子に近づいてはダメよ」

 綾はそう言うだけで、何もしてくれない。あたしがもっと冷静だったら、綾が震えていることに気付けたかもしれない。でも、この時のあたしはいっぱいいっぱいで、気付けなかった。

 あたしがもっと冷静だったら、綾の様子がおかしい事から、心美に憑りついているものが分かったかもしれない。でも、焦っているあたしには無理だった。

 あたしの予想が正しいなら、今の心美に触れるとまずい。心美から出ているものに触れたら、あの男の人たちのように倒れるに違いない。

 振り向くと、真紀もあたしのすぐ後ろで、少しずつ後退していた。真紀には見えていないのに、よく従ってくれたものだ。先ほどの一言で理解してくれたのだろうか。

「綾さん!これ、対処法は?」

「分からないわ…」

 綾の声に力が無い。

「じゃあ、せめて、心美ちゃんを助ける方法はない?」

 綾の返事はしばらく返ってこなかった。

 あたしと真紀がじりじりと後ろに下がる。横に、肩の高さほどのステージが近づいてきた。

「裕美なら、助けられるかも…」

 綾の弱々しい声が聞こえた。

「どうするの?」

「操って。憑りついているやつを。離れさせるの」

 綾にしては、要領の悪い発言だった。

 あたしが、心美に憑りついている相手を操って外に出させる、と言うことだろう。そのためには、憑りついている相手の心に接触しなければならない。

 あたしにできるだろうか。

 このまま心美を放置すると、あの男の人たちのように倒れるのだろうか。それとも、心美は無事だけど、近づく人々を片っ端から意識不明にしてしまうのだろうか。

 そもそも、今の心美に意識はあるのだろうか。

「心美ちゃん!」

 呼びかけてみたが、反応が無い。既に心美も意識が無く、憑りついた何者かが操っているだけなのかもしれない。ならば、一刻も早く助けなれば、取り返しのつかないこと、心美が死んでしまうようなこともあるのではないか。

 やってみるしかない。

 心の声を聞くのは、簡単だった。ちょっと意識しただけで、聞こえてきた。

『無駄じゃよ。諦めて、皆、ワシのもとに来るがいい』

 どこかで聞いたような、老齢の男性の声。

『なんと都合のよい事よ。あのわっぱや女狐まで居るとは』

『こやつらを取り込めば、以前に増して力を得られよう』

『さあ、大人しく、食わせろ』

 声の響きと、ひと月前の出来事が重なった。

(断る!誰も食べさせない!心美も返せ!)

 あの時の老狐だ。間違いない。そして、あの時、操ることができた相手だ。今回もできるはずだ。

 あたしに妙な自信がわいていた。

(心美から出てきなさい!駄犬!)

『誰が犬畜生じゃ!』

 あの時の老狐を思い浮かべ、心美の中から出てくるイメージを思い浮かべつつ、

(心美から出て行きなさい!)

 強く願った。

 心美の体から、何かが出てくる。

『なんじゃと!この状態でも操れると言うのか!出てなるものか!』

(出なさい!)

 心美の体の中から、爬虫類のような、いぼいぼの体が出てきた。

 おぞましい。思わず鳥肌が立つ。

 あんなものが心美の中にいて、心美のためにいいはずがない。必ず引きずり出す。

(出て行きなさい!このヘンタイ狐!あんたなんかより犬の方がよっぽど高等よ!)

『人間に媚びへつらう毛むくじゃらと一緒にするでないわ!』

 いぼいぼの体が心美の中に戻りかける。

(出なさい!)

『頑張って!』

 綾の励ましの声が聞こえた。

 あたしが負けるわけにはいかない。心美を助けるのだ。あたしが役立てる場所があるとすれば、今しかない。あたしに服を選んでくれた心美を、あの老狐にいいようにさせるわけには、いかない。

(あたしの友達を返せ!)

 心の中で叫んでいた。

 心美の体から、再び、いぼいぼのものが出てきた。

 相手も必死の抵抗をしているのが分かる。でも、あたしは負けるわけにはいかない。あたしは負けない。あたしにはできる。あたしならできる。あたしだからこそできる。

(出て行け!)

 手で引きずり出すような動作をすると、呼応するかのように、それが飛び出した。

 その物体がステージの上に落ちた。

 同時に、心美の体が崩れ落ちた。

 あたしの脇を何かが駆け抜けた。真紀だ。倒れた心美に駆け寄り、恐る恐る手を触れていた。

「触っても大丈夫!危ないのはステージの上!」

 あたしはそう言いながら、真紀の横に駆け付け、二人で心美を抱え上げた。

 真紀は心得たように、ステージから離れる方向へ移動した。

 綾が駆け付け、あたしと代わってくれる。

「やっぱりあの爺だったのね…。私では相手ができないの。祐美、お願いね」

 綾と真紀が心美を両脇から抱え、戸口方向へ向かった。

 あたしはステージを振り返った。

 少し離れたおかげで、ステージの上が見える。

 そこには、巨大なイボガエルと言ってもいいほどのものがいた。もはや狐ではない。大きなカエルだ。カエルの口に牙が付いている。どす黒い色の肌に、異臭を放ちそうないぼが多数ついている。

 もう、狐ではない。どちらかと言えば、先日廃病院で見た妖怪のようだ。

 あれが襲ってきてはたまらない。

 あたしはその化け物が動かないように操る努力をした。でも、それ以上の対処方法が無い。

 あたしはいつまでこの化け物を押さえていられるだろう。打開する方法は何かないものだろうか。

『ククク。してやられはしたものの、どうした?焦っておるのか?ワシは気長に、わっぱが力尽きるのを待てば良さそうじゃの』

 化け物が笑っていた。裂けた口をゆがめている。

 逃げ出した方がいいのだろうか。でも、追ってこられたら、逃げ切れないかもしれない。

 何か方法はないものか。

 三上のようにあたしがあいつを浄化する。なんとなく、できないような気がした。

 ならば、三上に来てもらう。三上を呼び出す。これだ。これなら何とかなるかもしれない。あたしは彼が来てくれるまで持ちこたえればいい。

 呼ぶには、真紀だ。彼女ならすぐに呼び出せるはずだ。

 肩越しに後ろを見ると、どうしたことか、真紀がすぐ傍にいた。でも、ちょうどいい。

「お兄さんを呼んで!」

 あたしの呼びかけに、真紀は手に持ったモバイルの画面を見せた。通話中の表示で、ヒロ兄となっている。画面の向こうは、何かに押し当てているのか、よく分からない映像だった。

 真紀はいつの間に電話していたのだろう。

「裕美ちゃんが、心美から離れるように言った時に、もしやと思ってね。専門家を呼んでおいた」

 あたしの顔に疑問符でも浮いていたのだろう。真紀が説明してくれた。

 そんなに早く。あたしは驚くと同時に、安堵した。あれからどれくらい時間が経過しているのだろう。後どれくらい頑張ればいいのだろう。でも、彼が来てくれるのが分かっている。こんなにも心強いことはない。

 彼ならライター一本で、こともなげに片づけてくれる。あたしにはそう思えた。安心すると、力がわく。彼が来るまで、あたしはこの化け物を押さえておける。大丈夫だ。



  34


 どれくらいの時間が経ったのだろう。あたしには時間の感覚が無かった。

 イベントホールは静まり返っていた。

 隣で真紀の息遣いが聞こえる。それ以外は、あたし自身の心臓の音が聞こえるくらいだ。

 静寂が支配する世界を、扉の開く音が破った。

 ヘルメットをかぶった男性が飛び込んできて、あたしの前へ駆けてきた。

「待たせたかい?」

「遅いぞ!」

 真紀が抗議していた。

 三上だ。彼はヘルメットを脱ぐと、真紀に手渡した。あたしに頷いて見せると、ゆっくりとステージへ向かった。

 あたしはことが終わるまで、あの化け物を押さえておけばいい。

『主は…』

 化け物が反応していた。

『ワシを退治に来たか。じゃが、遅かったのう。十分に力を付けた。もはや近づけぬぞ』

「その声は、あの狐か…。力を付けた?全身はげたの間違いだろ?」

 三上にもあの声が聞こえていた。姿が見える者には、聞こえるのかもしれない。それとも、他に何か要因があるのだろうか。

 三上がステージに上がると、蒸気のようなものが三上を目指して迫った。

 三上はハエでも遠ざけようとするように手を振った。しかし、気体のようなものなので、らちが明かない。

『ふぉっふぉっふぉっ。主の精気も吸って進ぜよう』

「うっとおしいな」

 三上はポケットからライターを取り出すと、その蒸気にライターの火を近づけた。するとなぜか、火が付く。蒸気に火が灯り、瞬く間に広がって行った。

『なんじゃと!』

「さっさと燃えてしまえ。狐」

 火が点いてしまえばもう終わりだと言わんばかりに、三上が踵を返して、あたしたちの所へ戻ってきた。

「君が押さえているの?もう離して大丈夫だ。ご苦労様」

 そう言われて、あたしは一気に力が抜けた。崩れ落ちそうになるのを、真紀が支えてくれた。

 ステージの上では、化け物が少しずつ小さくなりながら燃え盛っている。

 老狐の声が聞こえる。何を言っているのかは全く分からない。叫び声だ。

 化け物の体が小さくなる度に、何かが飛び出していく。その中に、心美の姿があった。

「裕美!その子をこっちへ!」

 綾の叫び声が聞こえた。綾のもとに、ぐったりとして動かない心美がいる。

 ステージの上にも心美がいた。いや、こっちは魂なのだ。霊体なのだ。

 三上が走り出していた。ステージに駆け上がり、燃え盛る炎の中に飛び込んだ。そして空へ飛び去って行こうとする心美の手を捕まえ、戻ってきた。

 三上は、どこも燃えていない。心美の体には炎が移ったものの、三上が叩くと、どうしたことか、消えていた。

「危ない危ない。生霊まで取り込んでいたのか」

 三上はそう呟きつつ、綾のもとへ心美の魂を連れて行った。

「ねえ、さっき、何人か男の人が倒れたの。その人たちの魂も出てくるかも」

 あたしはとっさに思いついたことを、三上の背中に投げかけていた。

 三上は頷くと、走って心美のもとへ行った。

「裕美!こっちへ来て。あなたの導きが必要だわ」

 綾に呼ばれて、あたしも心美に駆け寄る。足元が少しおぼつかないけれど、なんとか走れた。

「この子の魂を操って、中へ導いて」

 綾が言うので、その通りを実行する。

 三上が横目であたしを確認しながら、ステージへ急いで戻って行った。

『操る…まさか…』

 三上の心の声が背中に刺さった。でも、今は気にしている場合ではない。心美を助けなければ。

 作業は簡単だった。魂に戻るよう指示しただけだ。後は心美の魂が、勝手に自分の体と重なり、融合した。肉体と魂が結びつくのが分かる。これで大丈夫なはずだ。

 動かなかった心美が、まぶたを重そうに明けた。

「心美!」

 あたしの呼びかけに、彼女の目が答えた。



  35


 心美の魂を操ったせいだろうか。心美の心の中が覗けた。

 明るい部屋だ。ソファーで四十代くらいの男の人がくつろいている。

 奥のキッチンで音がする。

 振り向くと、やはり四十代くらいの女の人が料理をしていた。

「ママ。心美ね…」

 あたしが話しかけていた。いえ、心美だ。今、心美の記憶を見ているのだ。

 あたし…。心美は母親に話しかけ続けていた。どこにでもありそうな普通の家庭。でも、何処かがおかしい。

 しばらく様子を見ていて、分かったことがある。母親の返事や相槌が無い。ソファーの父親も全く反応していない。まるでそこに心美が存在していないかのようだ。

 いつの間にか、ステージの上にいた。あたしはそこで一人、泣いていた。

 モバイル越しでしか見たことのない同級生たちが集まってきた。

「どうしたの?心美ちゃん」

 誰かが声をかけた。

「ヒック、ヒック…。あの…ヒック…ね」

 涙で声が詰まる。

 確かに仕事を頼まれたのに、誰もいない。困っていた。誰かに傍にいて欲しかった。そんな言葉が浮かんでは消えた。

「助けを求めたら、誰かが来てくれるって思った…」

 周りの同級生の様子が変だ。よく見ると、首から下は皆同じ。顔だけ、モバイルの画面を切り取って張り付けたかのようだ。

 真紀もいた。彼女だけ、周りの同級生たちと、背の高さも服装も違う。本人のままだ。

 夜の公園にいた。あたしと男の子がベンチに座っている。二人で楽しそうに話をしていた。

 遊園地。両親が見守る中、あたしは楽しく遊んでいた。

 ピアノの発表会で演奏し、観客から拍手喝さいを浴びた。

 テレビの画面に心美が映っていた。ひらひらの飾りがついた派手な服を着て、マイクを片手に歌を披露していた。

 目まぐるしく、色々な場面が現れ、消えていく。

 幸せなイメージの数々なのに、虚しさが支配した。まるで心の中にブラックホールでもあるかのように、埋め難い穴があった。幸せは全てその穴に吸収される。思い出も吸収される。幾ら思い出を想像しても、吸い込まれていく。

「甘えないで!」

 頬が痛い。目の前の真紀から、平手打ちを食らったのだ。

 辺りには、真紀とあたししかいない。ステージの上だ。

 誰もいないキッチンで、一生懸命、一日の出来事を語った。母親も父親もいない。

 年上の男の子とベンチにいた。話しをしているうちに、服を脱がされ、初めはくすぐられているのかと思った。

「くすぐったいからやめてー」

 笑いながら断っても、止めてくれない。次第に押し倒され、下腹部に強い痛みが走った。

「やめて!」

 事態のおかしさにやっと気づいても、もう遅かった。押さえつけられたあたしの力では、男の子に勝てない。

 ピアノの発表会で失敗をして笑われているあたし。

 テレビの前でアイドルに憧れているあたし。

 先ほどと同じシーンなのに、ことごとく内容が違っていた。

「甘えないで!」

 真紀の声が響いた。

「だっ…だって…。寂しかったんだもん…」

 泣きながら、言い訳をする。

「だからってうそは良くないよ」

「ひとりぼっちで、寂しかったんだもん…」

「ほら。泣かない。ボクが…」

 そこでイメージが途切れた。



  36


「裕美。この子は私に任せて。あなたにしかできない事があるでしょう」

 隣から声をかけられ、あたしは現実へと引き戻されていた。

 隣で綾が、心美の体を抱きしめながら、あたしに微笑んだ。そして、目線であたしの後ろを指す。

 後ろを振り向くと、三上が霊体の男性を三人ほど捕まえていた。

 綾は、あたしがあの男の人たちを助けるべきだと言うのだろう。でも、心美はどうなるのか。先ほどのイメージから察するに、心美もあたしと同様、両親の愛を知らない。飢えている。そして心美は両親の代わりに、自分を愛してくれる人を探したのだろう。

 年上の男の子を信用しすぎ、レイプされた。友達に支えてもらおうとしても、誰も来てくれなかった。真紀を除いて。

 心美は自分の心も嘘で偽って、幸せであると信じ込んでいたのではないか。そんな心美を、現実に引き戻したのが、真紀なのだ。

 でも、心に大きな穴があるように感じた。その穴は埋まらないまま、残り続けた。偽りの幸福で穴を塞ごうとしながら、その穴を埋めてくれる存在を探していたのだろう。誰かに依存して、幸せを分けて欲しかったのではないか。そこをあの狐に利用されたのかもしれない。

 心美の心の穴を、あたしなら埋めることができるかもしれない。心美を幸せにすることは、あたしにはできないかもしれない。でも、心の事なら、何らかの対処ができそうな気がする。なのに、ここで立ち去ったら、心美はあたしにも見捨てられたと思うのではないか。

「お姉さんに任せておきなさい」

 綾は心得ているとばかりに、頷いて見せた。

 綾なら、確かに、心美を何とかしてくれるだろう。綾も多少心が読めるのだから。あたしを救ってくれたように、心美も救ってくれるのではないか。でも、心美を救うのは、あたしでもいいのではないか。

 もう一度振り向くと、三上が霊体を連れて近づいていた。

 彼らを助けることができるのは、あたししかいないのか。いないのかもしれない。いえ、あたしにできるのなら、あたしが人の役に立てるのなら、行動すべきだ。あたしは一人だ。一度にたくさんのことはできない。どちらか一方しかできず、片方を任せられる人がいるのなら、任せてもう一方をやるべきだ。

 あたしは綾に頷き、立ち上がった。心美には申し訳ないけれど、あの男の人たちは、綾ではだめなのだから。目の前で、あの人たちを見捨てる勇気は、あたしにはない。

 心美も見捨てたくはない。

 綾が真剣な顔をして、頷いた。

 綾なら、心美を救ってくれる。あたしを救ってくれたように。もう一度あたし自身にそう言い聞かせ、立ち上がった。



  37


 あたしと三上は連れ立って、外へ出た。

 真紀もついて来ていた。綾が、真紀にも出ているように頼んだのだ。

 会場の外へ出てみると、救急車はいなくなっていたものの、会場設営の人々が幾つかのグループを作っていた。そのグループの端に、ひときわ目立つ、大きなバイクに、革の上下を着た男性が座っていた。

「パパ!」

 真紀がそう言って、バイクの方へ駆けだした。バイクの男性が手を上げて答えている。

「弘樹、解決したか?」

 バイクの男性は、真紀からヘルメットを受け取りつつ、三上へ声をかけた。

「あー、後は、倒れた人たちを助けるだけ。どの病院へ運ばれたか、分かります?」

「念のために聞いておいてよかった。尾永病院」

「ああ。あそこ。なら、歩いて行ける。じゃ、ちょっと行って解決してきます」

「おう」

「ボクはここにいるよ」

 真紀は自分の父親と一緒に、待つつもりのようだ。

 三上とあたしは一緒に、南方向へ向かって歩きだした。

「さっきのは?」

「ん?ああ、皆川龍也って、ヤクザな所長」

「調査事務所の?」

「そそ」

「何も聞かずに手伝ってくれるんですね」

「僕が信頼されている証拠さ!」

 三上はそう言っておどけてみせた。

「てのは冗談で、真紀ちゃんて、何処か鋭い所があるでしょ?あれ、父親譲りなんだ。妙に察しが良い。ま、後でちゃんと説明させられるけどね」

「ふーん」

「いわゆる探偵と言っても、ピンと来ないよね」

 三上はそう言って苦笑した。

「それにしても、君、霊を操れるんだね」

「え…」

 あたしは何と答えていいか分からなかった。あたしが心を読めることは、決してばれてはいけない。心を操っていると分かったら、彼もあたしを怖がって離れるに違いない。

「ますます、恩人に似ているな。名前といい、能力といい」

 三上が呟いていた。

 三上が唐突に立ち止まり、あたしの顔を見つめてきた。

 あたしは答えることができず、ただ、立ち尽くした。ばれてはいけない。見つかってはならない。

 それは永遠のように思えた。彼の視線があたしに刺さる。

『こちょこちょこちょ』

 三上の心の声が、押し寄せてきた。始めは何を言っているのか分からなかった。

 次第に、三上と、十歳くらいの男の子が重なって見えた。あたしが夢で見た男の子だ。その男の子が、あたしの脇をくすぐっている。

 実際には三上の手も、そのイメージの男の子も、あたしには触れていない。でも、くすぐられているのが分かった。

『こちょこちょこちょ』

 この人は、心の中で、あたしをくすぐっているのだ。男の子が、あたしをくすぐっているのだ。

 緊張していたのが馬鹿らしい。

 あたしは思わず、噴き出していた。彼の、あまりの真剣さに、可笑しくなってしまった。

 一度笑い出すと、止まらない。急に笑い出したら勘ぐられると思うのに、もう駄目だ。

『やっぱり!同じ能力!』

 目の前の彼は黙ったまま。でも、ほほ笑んでいた。

『ね。聞こえているだろ』

 あたしが戸惑っていると、

『もう一回くすぐろうか?』

 と言う。

「やめて…」

 あたしは口に出して答えた。もう、観念するしかない。これで、彼はあたしを避けるようになるだろう。

『そうかそうか!いいね!嬉しいね!ゆみちゃんに、祐美、か。偶然としても、神様がいるとしたら、粋なことをしてくれる』

 彼の心の声は嬉しさではち切れんばかりだった。

 どういうことだろう。他人に心を読まれて、嬉しいはずがない。恥ずかしく、嫌なことのはずだ。なのに、彼は喜んでいる。

『さあ、とにかく用事を済ませよう!』

 彼は口には出さず、心の中で会話し続けていた。さもそれが当然で、慣れ親しんだことのように。彼は人に心を読まれるのが、日常だったのだろうか。

 彼は心の中で、幽霊のゆみちゃんについて、語っていた。

 彼の恩人、幽霊のゆみちゃんのこと。その話を聞いた途端、あたしの中で色々なイメージが浮かび上がった。

 山の峠道で男の子と出会った。

 男の子の家で、彼を慰めた。そして、一緒にいてあげると、約束していた。

 彼が成長し、あたしのことを忘れていっても、あたしは傍にいた。

 彼が車を運転し、事故に遭いそうになった時、逃げ道を教えた。それでも彼は逃げきれず、怪我を負う。

 彼が入院した病院で、あたしを見ることのできる女の子と出会った。

 彼の当時の恋人に、幽霊が憑りついている。あたしと言うものがありながら、恋人なんて作るから、そう言うことになるの。

 彼があたしを思い出し、再びあたしを見てくれた時は、どんなに嬉しかったことか。

 でも、ずっと一緒にはいられなかった。彼の恋人に憑りついた霊を退治するため、あたしも協力した。そしてあたしはその霊に捕まり、その霊諸共、あたしも彼に浄化され、消えた。

 これが、あたしの前世。幽霊になる前の記憶はない。彼と共にいた記憶だけ。その彼が、三上弘樹なのだ。

 そう思うと、あたしは涙をこぼしていた。

 彼の背中を見ていると、嬉しくもあり、寂しくもあり、懐かしくもあった。色々な感情が入り乱れ、自分でもよく分からない。

 ゆみちゃんだったころの感情が、あたしに染み込んでくる。余りに色々な思いが湧き上がってくるので、あふれて止めようがない。

 あふれる涙が、その感情たちを洗い流しているのかもしれない。



  38


 ひとしきり泣くと、落ち着いてきた。彼が振り向かなかったのが幸いだ。

 急いで涙を拭って隠した。

 病院まで距離があったおかげで助かった。近かったら、彼に泣いているところを見られただろう。

 病院へは裏口から勝手に入った。

「おー。ほとんど昔のまま」

 三上が感想を漏らした。

 しばらく歩いて、窓の外を見た。病棟らしい五階建ての建物があり、屋上のフェンスが見えた。

 あたしの前世の記憶にある病院に似ていた。三上の入院していた病院。そして、あたしが消えた場所。

「さーて、何処かの診察室かなぁ?」

 彼が立ち止まって考え込んでいた。

 彼が掴んでいる霊たちが、しきりに一方へ向かおうとしていた。

「もしかして、その人たち、自分の体に戻りたがってません?」

 あたしが指摘すると、三上も頷いた。

「行ってみよう」

 反応がある方へ向かう。病院内を上へ下へと歩き、とある部屋に行き着いた。

 扉の前で三上と顔を見合わせていると、中から開き、白衣の女性看護師が出てきた。

 看護師はあたしたちを見止めると、驚き、一瞬後に、

「ここは立ち入り禁止…」

 と言いかけて尻すぼみになった。

「ちょうど良い所に!」

 三上の方は、看護師を見て表情を明るくしていた。

「何?また不可解事?」

 看護師の方も三上を見知っていたようで、うんざりしたように言った。

「そう、それ!いやー、田頭さんに出会えてよかった。この中に先ほど運ばれてきた男性三人がいますね?」

 看護師は三上を睨みつけ、沈黙した。

「田頭真由美看護師長!頼みますよ。原因不明のこん睡でしょ?意識を取り戻してみせますよ」

「フルネームで呼ぶな!」

「へいへい」

 看護師はもう一度三上を睨んだ後、大きなため息を漏らした。そして後ろ手に扉を開け、中に戻った。

「手早くね」

 三上はあたしにそう告げて、看護師の後を追った。

 あたしも後に続く。

 中は何やら機材が並ぶ広い部屋で、移動式のベッドが三つ、中央に並んでいた。そのベッドを囲むように、医師や看護師が複数、忙しく動いていた。

 ベッドの上にはステージの上で倒れた男の人たちがいた。上半身をむき出しにされた人、まぶたを押し上げられ、眼球に光を当てられている人、体中触診されている人。三人とも、全く反応していなかった。

 せわしなく動く看護師や医師は、まだあたしたちに気づいていないようだった。

 三上があたしに頷いた。

(みんな、自分の体に移動して)

 あたしが心の中でお願いすると、三上が連れてきた魂たちがそれぞれ、自分の体を目指した。

(そう。体と重なって。大丈夫。体と繋ぎ止めるから)

 魂が体に重なると、あたしは心と体を結びつけ、互いにつかみ合って離さないようにした。後は放っておいても、自然とくっつくだろう。

 看護師があたしたちに気づき始めた。

 しかし、その瞬間、後ろで患者たちが目を覚まし始めたので、あたしたちを咎める間もなくなっていた。

 三上がここぞとばかりに、あたしの腕を掴んで逃げだした。

『よし!上手くいった!あとで田頭さんにはお礼しておかなきゃ』

 三上は心の中でそう言い、廊下を走って外へ向かった。



  39


 イベント会場へ戻り、ホールへ入ると、訳の分からない事態になっていた。

 心美が綾にべったりとくっつき、

「お姉さまー」

 などと呼んでいる。

 いったい何が起きたのだろう。いや、聞かない方がいいのかもしれない。

 しかし、綾はあたしの疑問に気付いたようで、

「ごめんなさいね。私の初めて、裕美に上げる約束だったのに」

 と悲しそうに言った。

「そんな約束してない!」

 あたしの顔は真っ赤になっていただろう。綾の台詞で、綾が心美に何をしたのか、おおよその見当がついてしまった。

 二人の着衣が乱れているように見えた。見当が間違っていない裏付けだ。

 あたしはそのことには触れないようにした。綾はあたしに、何を飛び火させるか分かったものではない。

「ああそれから、私はしばらく、この子と暮らします」

 綾はあっさりとそう告げた。

『心のケアがまだまだ必要なので』

 心の中で付け加えていた。

 綾の手段は賛成できないものの、今の心美の様子を見る限り、問題なさそうだ。綾を信頼しきっている様子だし、このまま綾に任せてしまおう。

「居候が居なくなって清々する!」

 あたしは心にもないことを言い返していた。そうでも言わないと、涙があふれるに違いない。

 綾には、力の使い方や料理を教わった。姉のように、母親のように接してくれた。あたしにとっても大事な人になっている。彼女が離れるのは、正直、寂しいし、不安もある。でも、あたし以上に綾を必要としている人がいるのだ。

「あら?何かいいことがあったわね?」

 綾が下からあたしを覗き込み、言った。心美が綾の首に抱き付いている。

 あたしは何と答えていいか分からなかったので、

(探し物が見つかったの)

 とだけ、心の中で答えた。

「良い顔になっているわ。大事になさい」

 あたしの表情がそんなにも変わっているのだろうか。もちろん、綾はあたしの心も読んだうえで言ったはずだ。でも「顔」と言うからには、どこか違って見えたのだろう。

 あたしは二人のもとを離れながら、自分の顔を触ってみた。特に変わった様子はない。

 外へ出ると、三上が真紀や所長に成り行きを説明していた。

 彼が話し終えると、真紀が口を開いた。

「心美ちゃん、どうだった?」

「もう大丈夫みたい。綾さんがしばらく面倒を見てくれる」

 あたしの返事に真紀は頷くと、別のことを口にした。

「夕方から作業再開だって。でもボクたちはもう帰っていいって」

 そう言えば、あたしたちはイベント準備の手伝いに来ていたのだった。

 周りにはもうひと気が無くなっている。イベントホールでも綾と心美以外には出会わなかった。いったんどこかに移動したのか、休憩にでも入ったのか。

 とにかく、今日はもういいと言うのなら、従うだけだ。

「イベントは予定通りするから、片付けをまた手伝って欲しいって」

 真紀が付け加えた。

「うん」

 あたしは答えつつ、三上の横顔を見た。少年の顔と重なって見える。顔を見ると、なぜかホッとする。この気持ちは何なのだろう。

 綾と心美が出てきた。

 真紀は二人に近づき、手伝いの件について、心美に伝えていた。

 心美は頷くと、笑顔で真紀に手を振った。そして、離れたところにいるあたしにも手を振った。

 綾と心美、どちらからともなく歩き出し、去って行く。

「俺たちも引き上げるか」

 所長がそう言った。

 このままでは三上も帰ってしまう。そう思うと、胸が苦しくなった。思わず、三上の服を掴んでいた。

「真紀。乗れ。そう不満そうな顔をするな」

 所長の声が聞こえた。でも、あたしは周りを見る余裕もなくなっていた。あたしはいったいどうしてしまったのだろう。

 バイクの大きなエンジン音が鳴り響き、ゆっくりと遠ざかって行った。その間、三上は何も言わず、待ってくれていた。

 あたしのこの気持ちは何なのだろう。前世の気持ちだろうか。何をさせようとしているのだろうか。胸が苦しく、切ない。

 でも、前世がらみなら、あたしがゆみちゃんだと、名乗るべきなのだろうか。名乗ったら、彼は信じてくれるだろうか。あの頃のように、親しくできるだろうか。

 名乗らない方がいいのだろうか。名乗っても信じてもらえないかもしれない。変な子だと思われるかもしれない。

 それ以前に、人の心を読める人間に、今まで通り接してくれるとは思えなかった。

 やっぱり言うべきではない。彼の心を読んで、ゆみちゃんだと偽っている、などと勘繰られたら、それこそおしまいだ。

 ゆみちゃんのことは、あたしの胸の奥にしまっておかなければ。

『ゆみちゃんが大きくなっていたら、この子みたいだったのかな』

 彼の心の声が聞こえた。

 なんて酷いのだろう。せっかく隠そうと思っているのに、彼はあたしの隙間を突くようなことを考えていた。思わず口走ってしまいそうになっていた。あたしがそのゆみちゃんであると。

 でも、出てきたのは、嗚咽だった。嗚咽で助かった。言わずに済んだのだから。

 代わりに、あたしは涙をぽろぽろと流していた。

 彼がおどおどしているのが分かる。でも、止めようがない。

 あたしは頭を彼の胸に押し当て、泣いた。

 三上は戸惑いつつも、あたしになされるがまま、付き合ってくれていた。



  40


 あの時のあたしは、本当に何もできなかった。でも、それでよかったのかもしれない。

 あの出来事から、もう三年経っているなんて。今更ながらに、時間の流れに驚いた。あの時は十五歳で中学生。今は十八歳。高校ももうすぐ卒業だ。

 あれから色々あって、あたしと真紀、心美は、たぶん、親友になった。口に出して確認してないけど。

 あたしは人と接することができるようになり、徐々に社会へ溶け込んでいった。それもこれも、あの時の綾と弘樹のおかげだ。そして傍にいてくれた、真紀や心美のおかげだ。

 あの後しばらくして、あたしはアパートを引き払った。そして、弘樹の家に下宿させてもらった。と言っても、その家は大きく、木村法律事務所、皆川調査事務所が敷地内にあるうえに、木村家、皆川家、三上家が混在していた。

「僕の家が狭くなる!」

 などと弘樹は文句を言っていたものの、広い土地を持て余していたので、問題ないらしい。そのうえ、家賃収入があるので、安泰だとか。

 弘樹の亡き父上が残してくれた大事な土地だとか。

 あたしもそこの一員として受け入れてもらえ、弘樹の仕事を手伝いながら、高校生活を過ごしたのだった。

 急にできた大家族に、最初こそ戸惑ったものの、皆良い人で、あたしは幸せ、と言うものをここで学んだように思う。

 今から数ヶ月前、大きな事件があり、あたしの力が皆にばれても、変わらずに接してくれている、貴重な人々だ。

 あたしと弘樹の関係がどうなったか。それは別の機会に。

 でも、これを書いた理由は、弘樹の文章を見つけたからだ。たぶん、これが弘樹の人生の三番目の転機だ。だから、弘樹の文章の続き。

 そして、数ヶ月前のが四番目の転機。もう少し後に待ち受けている用事が、五番目の転機。たぶん、これで間違いないだろう。

 でも、勢いに任せてこんなものを書いたけど、大丈夫かな。急に恥ずかしくなってくる。誰も読まないで欲しい。でも、弘樹なら、いいかもしれない。

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