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月のかけら  作者: ばぼびぃ
1/8

Ghost on the moon 前編

  0


 僕は今、人生の大きな転機を迎えている。生活ががらりと変わる。いや、思うほど変化はないのかもしれない。それでも今までと大きく違う。未知の領域に踏み込むのだ。

 これは、大抵の人が向かえるであろう節目だ。が、思えば、人よりは遅い。だいぶ遅い。

 もちろん、転機、節目と言っても色々ある。四十手前の今、これまでの大きな転機を数えてみると、五回目になる。少ない方だろうか。進学する、就職すると言ったことも転機だろうが、それらは数えていない。なので、僕は多いほうだと自負している。比較する対象が無いので定かでないが。

 人生の節目にあたり、最近はずっと、今までの出来事を思い返していた。せっかく思い返しているので、文章に書き起こしてみようと思う。

 誰に読ませるわけでもないが、これを読んだ人は、僕の人生は面白いと思うだろうか。不思議だと思うだろうか。恵まれていると感じるだろうか。数奇な運命だと珍しがられるだろうか。それとも大した事は無いと言われるのだろうか。

 書き出す前から少々不安になる。が、別段、誰かに読ませる予定はない。気にせず書いてみよう。

 最初の転機は「あれ」だが、都合上、二番目から書いてみようと思う。とすると、大学に入り、免許を取り、中古車を手に入れた頃なので、二十年ほど前の事だ。

 当時の車は、新車であればオートマチック車だが、手に入れたのは中古車だ。中古車が新車だったころは、まだクラッチペダルのあるマニュアル車が支流で、三種の神器を搭載するかしないかを謳っていた。

 三種の神器とは、パワーウィンドウ、パワステ、エアコンだ。今の人たちが聞くと、何それ、と言われるだろう。当時の車には、高級車や特別仕様車にしか、それらが装備されていなかったのだ。

 僕が手に入れた中古車は、パワステとエアコンは装備されていたものの、パワーウィンドウはなく、ハンドルを回して開け閉めするものだった。父さんの車もそうだった。あのハンドルをぐるぐる回す感覚は、今も覚えている。

 エアコンの性能も、今の車とは比べ物にならない。夏は窓を開けて走ったほうが快適だったはずだ。はずだと言うのも、その車に乗ったのは、実質一週間程度で、真夏に走ってみる機会がなかったのだ。そして、当分車を購入することは無かった。

 この二番目の転機は、僕の精神的な面でも大きな出来事だった。それまでの小学中学時代は、周りに気味悪がられ、避けられ、疎まれたので、大いに荒んでいた。言われるまま、自分はいらない子だと信じていた。死についてもよく考えていた。

 心が荒む度に、胸の奥で何か針のような物が突き刺さり、その数を増していった。いつしか棘の塊自体が意思を持ったかのように、時に背を丸めて辺り構わず突き刺し、時に背を伸ばして動き回った。

 この内側からの痛みは予期せぬ時に起こり、取り払うことができなかった。まるで胸の中に一匹のハリネズミを住まわせているかのようだ。ハリネズミの気まぐれで、僕は胸の奥に痛みを感じ、どうしようもない感情とともに押しつぶされそうになったものだ。

 高校生ともなると、自分の心すら偽り、表面的には平静を装うことができるようになっていった。それに伴い、ハリネズミとの付き合い方も覚え、また、考えの外に追いやることで存在自体も忘れていった。

 この内面的な変化のおかげか、周りとの軋轢も産まなくなり、極力空気然とすることで、三年間の集団生活で、形だけでも馴染んで、無難に過ごせるようになった。

 そして世間の波に乗り、特にやりたいことがあるわけでもないのに、大学へ進学した。当時、大学に進学し、就職するのが世間一般の常識的進路だった。この線路から外れる者は、負け組とまで思わせる風潮だったのだ。

 だが、せっかく大学に通うのだから、もう一段、自分を変える努力をしようと考えた。胸の奥のハリネズミとも妥協できたのだ。周りの人々と接点を増やし、社会に適応していくこともできるだろう。その努力はしておくべきと考えた。同時に、自分でできることも増やしておきたかった。

 春の長期休暇を利用して、幾つかのバイトを経験した。大学入学を契機に、大学傍のアパートでの一人暮らしも始めた。とは言っても、家は隣町にあったので、何時でも戻ることができた。

 大学も始まり、一ヶ月ほど経った頃、同じ講義で出会い、多少なりと話をする仲になっていた女の子に、思い切って告白してみた。思いがけず、付き合うこととなり、慌てて中古車を購入したのだった。何の計画もなく行っていた長期休暇のアルバイトが、ここで役に立った。曲がりなりにも車を購入できたのだから。

 そのようなころに迎えた、人生で二番目の転機だ。


 二十年前のあの日は、初夏のエアコンいらずの時期だった。夜のドライブだった。助手席には付き合い始めたばかりの彼女を乗せて。

 何より印象的なのは、大きな満月が出ていたことだ。なぜか、付き合い始めたばかりの彼女ではなく、月なのだ。

 当時の十年前、つまり今から数えれば三十年前の出来事で、月が地球に接近した。おかげで月が太古の昔のように大きく見えるようになり、月の満ち欠けで、体内の水分が満ち引きするように影響を受けた。

 考えてみれば、三十年前の月の異変も転機と言えば転機だ。月の異変については後に触れることになるので、今はやめておこう。

 とにかく、二十年前の転機から書く。


 その夜は、綺麗な丸い月が出ていた。地球からほんのわずかずつ遠ざかっていた月に、とある事が起きて再接近したために、非常に大きく見えた。

 昔から満月の夜は犯罪が増加すると、確かアメリカあたりで統計が出ていた。月が接近したおかげで、この統計が大幅に上昇したと言う。犯罪ばかりではなく、事故も満月時に増加した。

 こう書くと悪い事ばかりのように聞こえる。しかし、良い反面もあった。出産率の増加だ。三〇年前の僕は知る由もなかったが、少子化の歯止めになった。公の場では第三次ベビーブームと呼ばれている。世間では、月の女神にあやかって、ルーナベイビーズと呼ぶ声もあった。

 ベビーブームは一時的なものだが、後も出生率は高めに推移したらしい。また、出産はより満月の日に集中するようになった。

 月の影響を受けて人の精神が高揚状態にあるため、満月に告白すれば、成功し易い、などと実しやかに報じるテレビ番組まであったようだ。

 満月は人の精神や体に何らかの影響を与えるのだろう。そのこと自体は、真実だと思う。各言う僕自身も、あの時、月の影響を受けていたのだから。



  1


 僕は手に入れたばかりの車の運転をしているにもかかわらず、月に見とれていた。

 助手席に女の子を乗せていた。車での初デートだ。それどころか、彼女、麻奈美とのデート自体、初めての事だった。

 麻奈美は色白で細身だ。大学ではジーンズを好んで穿いていた。この時も白のワンピースの下にジーンズと言う格好だ。やや目つきは鋭いのだが、それがかえって美しく見えた。

 彼女が何か話している。

 しかし、僕は上の空で、月ばかりを気にしていた。月光に魅入られ、月まで飛んでいこうとする虫か何かのように。

 この時の麻奈美の事はあまり覚えていないが、あの月だけは未だによく覚えている。胸がざわついた、妙に落ち着かない感覚。水面に映って波に散らばる月明かり。明る過ぎて周りの星が見えない、やや青みがかった黒い空。寒々とした景色に、胸騒ぎのような感覚と、月光に包まれて、闇から救われた安らぐような感覚の、相反する気持ちが入り乱れた。

 思えば、僕は初デートだと言うのに、彼女に悪い事をした。心ここにあらずでは、失礼極まりない。僕などにはもったいないほどの美人だ。本来なら必死で麻奈美の言葉を聞き、笑顔になってもらおうと話題を切り出したはずだ。飽きさせない努力をしたはずだ。

 免許も取りたて、車も乗りたてなのだが、なぜか操作を誤ることは無かった。ドライブ自体は快適に過ごせたのではないだろうか。

 当時の僕自身、なぜスムーズに運転できたのか、そして、なぜこんなにも月に引き付けられるのか、不思議だった。

 何時頃からか、僕自身の癖で、頭の中で言葉を発して考える癖ができていた。この時も、考えていた。

(麻奈美と初めてのデートなのに、なんでだろう…?ちょっと前までは緊張していたのに、今は月が気になるだけ…)

 頭の中で独り言ちてみても、なぜこんなに月が気になるのか分からなかった。やや赤みを帯びた大きな月明かりに、気持ちが、自分の中の何かが引き寄せられているような、妙な感覚だった。

 夜空は、月明かりが強すぎて、星一つ見えない。しかし、道路に並走して走る海は、無数に波打っていて、星々のように煌めき、心に染み入る。水面に月が反射し、波で拡散され、煌めく。月明かりが海に溶けていくように、心にも染み込む。感覚としては冷たいが、なぜか熱く感じてしまう。乱反射した光が、僕の中で集まり、熱を発しているのだろうか。

 満月の明かりに照らし出された景色は、完全な黒ではなく、どこか青みが差していたり、黄色い月明かりを反射していたりで、まるで何かのフィルターを通して見る映像のようだ。

 車窓の景色は月明かりを受けて、どこか神秘的で、別世界にでも迷い込んだように儚げだ。今なら、普段見えないものが見えても不思議ではない。普通では行けないところまで走って行くこともできるだろう。

 麻奈美の存在も忘れ、月に魅入られ、ただただ、異世界をドライブしていた。このままずっと走っていたら、きっと月にまでたどり着ける。

『こっちへおいで』

「え?」

 突然聞こえた声に反応して、助手席を見た。

「どうしたの?」

 麻奈美が言った。

(麻奈美じゃない)

 そのまま目線を前に戻そうとした時、助手席の窓の外に、女の人が立っているのを見た。

 背筋に冷たいものが走る。

 思わず速度計を確認した。針は時速五十キロ辺りを指していた。

 もう一度、助手席の窓を見ると、女の人は変わらず、そこにいた。黒く長い髪が顔を隠していた。白いワンピースを着ていた。だが、走っているのでも、車の窓にしがみついているのでもない。

 これだけの速度で移動しているのに、髪の毛一本揺れていない。満月が見せる幻なのだろうか。ここはすでに異世界で、僕の知る法則は当てはまらないのかもしれない。

『おいで』

 その女の人の声だ。

「弘樹!前みて!前っ!」

 麻奈美の悲鳴のような声で振り向くと、目の前に大きなトラックの荷台が迫っていた。

(ぶつかるっ!)

 慌ててハンドルを右に切ってブレーキを踏んだ。

『こっちよ!』

 またそんな声が聞こえた。

 僕は思わず、声のする方向へハンドルを切り直し、アクセルを踏んでいた。

「きゃぁ~~!」

 麻奈美が悲鳴を上げていた。

 僕の車は寸でのところで、トラックの後ろへ滑り込んだ。同時に、対向車がけたたましくクラクションを鳴らして通り過ぎた。

 トラックの後ろに戻らなければ、あの声に反応していなければ、今の車に正面から衝突していただろう。理解した途端に、心臓が激しく打ち付け、手足が震えた。アクセルがうまく踏めない。ハンドルが定まらない。これでは運転どころではない。僕は路肩の広い場所を見つけると、すぐに車を寄せて止めた。

 手がハンドルに張り付いて、震えている。足の感覚もない。

 左手を無理やり離し、震えて力の入らない状態ながらも、何とかサイドブレーキを引き上げた。

 足の感覚に意識すると、両足とも力いっぱい踏み込んでいた。右足はブレーキ、左足はクラッチだ。

 震える手でギアをニュートラルに入れ、足をペダルから退かそうとしたものの、動いてくれない。

 右手もハンドルを強く握ったまま、動いていなかった。

(落ち着かなきゃ…)

 自分の思い通りに動いてくれない体は後回しにし、助手席の彼女の確認をした。

 麻奈美は肩を震わせて泣いていた。大丈夫かと声をかけようとした、その時、目に入った。まだ助手席の窓の外に、変わらず、女の人が立っていた。

『こっちへおいで』

 そう言って手招きまでしていた。

(誰なんだ?僕を呼んでいるのか?だったら彼女は…!)

 だが、手招きの先は、麻奈美だった。

『こっちへおいで』

『ダメッ!逃げて!』

 別の声が聞こえ、また僕は指示に従っていた。前も確認せず、ギアを一速に入れてアクセルを踏み込み、サイドブレーキを叩き落した。先ほどまで反応を拒んだ体が、嘘のように軽やかに、動いた。

 正面を向くと、右側の視界を塞ぐように大きなものが迫っていた。

 次の瞬間、鈍い衝撃が伝わって、車の制御を失った。重たい車が、まるで紙でできているかのように崩れ、揺れ動いた。体がシートベルトや座席や何かにぶつかった。

 そこから先は、何も覚えていない。



  2


 目の前に、白い天井が見えた。蛍光灯が並び、僕を囲むようにレールが、そしてそのレールから黄色く変色したカーテンが吊り下がっていた。天井はレールの向こうへずっと続いている。天井の様子から、広い部屋の一区画だろう。

「ここは…」

 僕は体を起こして周りを確認しようとした。

「痛っ…」

 体中に痛みが走って身動きできない。頭を起こそうにも、激しい痛みで力を籠めることもできなかった。首が堅い物で固定されているようだった。一瞬、首から下の感覚が無いかのような感覚に襲われ、焦った。

 まずは動かせるところはないか、落ち着いて確認する。

(手は…動く。腕も上がる)

 首から下の感覚が無いわけではなかった。

(足は…あれ?)

 右足が奥の方から激しく痛み、まとわりつくような、堅く重い感触があった。

(う、動かない…)

 手を上げてみると、包帯やらガーゼやらがあちこちに巻かれていた。その手で顔や頭を触ってみると、頭にも包帯が巻かれ、顔もガーゼがいくつか貼ってあるのが分かった。

 ここまでじっくりと自分を観察して、やっと理解した。僕がいるのは病院のベッドの上だ。それ以外にこんなカーテンに仕切られたところは思い当たらない。

(どうしてこんなところに…?)

 だいぶ考え込んだように思う。時計は見ていないのではっきりしない。頭の回転が遅くなっているような気がした。

(そうだ。事故ったんだった…)

 ふと、思い出した。

(生きているんだ、僕。…ありがとう)

 僕は生きていることに安堵し、同時に感謝した。

(え?ありがとう…?何がありがとうなんだろう?)

 自分で感謝しておいて、それがなぜなのか理解できなかった。

(誰に対して…?何に対して?)

 いくら考えても、事故のことを思い返しても、分からなかった。そもそも、事故の事を思い出そうとしても、何かがぶつかった衝撃のところまでしか覚えがない。

 なぜか、胸の奥が疼く。胸の奥に住みついたハリネズミが、寝場所を変えた。この胸の奥にいるハリネズミは、どういう理由で丸まり、どういう時に落ち着き、何時になったらいなくなるのか、まったく分からない。

(そういえば、麻奈美は…?)

 目だけで左右を見る。どちらも黄ばんだカーテンに遮られて見えない。

 天井の蛍光灯が光った。今まで明かりが灯っていなかったことすら、気付いていなかった。

「は~い、おはようございま~す」

 女性の声が部屋の中に響き渡った。

「朝ですよ。ほら起きて」

 容赦ない口調で、次々にカーテンを開け放っていった。音が近づいてきて、僕のところにもやってきた。目だけで何とかその女性を確認した。

(白いあの格好をした人は、看護婦さんしかいないだろう)

 僕はすぐにそう悟った。と言うより、病院のベッドと思い至った時から、看護婦が来ると予測できていた。

「おはよう、三上くん」

 看護婦は僕の顔を覗き込むようにしてきた。

「あ、おはようございます」

「今日もいい天気よ~」

 看護婦の声のトーンが妙に高い気がした。

(起こしに来たということは、朝の七時くらいかな?)

 などと考えていると、看護婦はさっさと隣のベッドへ移っていった。

 とにかく起き上がってみようと、体を動かした。

(くッ…い、痛い…)

 激しく全身がきしむ。自分の体ではないようだ。それとも、粘りつく何かがまとわり付いているのだろうか。何とか動こうと努力する。その度に痛みが襲われた。

 痛みにうめき声が漏れそうになるのを堪え、手で頭を持ち上げて、なんとか、上半身を起こした。全身を見渡してみると、首はコルセット、右足はギプスで固定されていた。右足はギプスごと白い布で吊り下げられていた。その二ヵ所以外は、たいしたことないようだ。骨折などに比べれば、だけれども。

 服も無くなっており、病衣を羽織っているだけのようだった。痛みが勝り、服装など気にもしていなかったが。

(首は、むち打ちだろうな…)

 横を見ると、テレビの台に松葉杖が立てかけてあった。横を向くのも一苦労だった。首が回らないので、腰や肩ごと回して見なければならなかった。

(麻奈美はどうなったのかな…?探しに行ってみるか)

 手を添えて右足を吊り下げている台から降ろすと、体を滑らせてベッドの端に座った。足を降ろすと、痛みも一緒に下りてきた。脂汗をかいている。まだ朝は寒いくらいだというのに、痛みが勝って気温を感じることもできなかった。ベッドの端にじっと座り込み、痛みの嵐が過ぎ去るのを待った。

「あ、三上くん。検温、お願いします」

 さきほどの看護婦が部屋中のカーテンを開けて戻ってくると、テレビ台から体温計を取って手渡してくれた。

 僕はそれを脇の下に入れた。脇の下に入れるだけでも、体の節々に痛みが走っていた。それでも右足の痛みに比べれば我慢できる範囲だ。

「それにしても三上くんて、運が良かったんだね」

「え?」

 看護婦に運がいいと言われても、何のことだか思い当たらない。

「だって、すごい事故だったそうじゃない。タンクローリーに突っ込まれて爆発炎上でしょ?」

「ば、爆発炎上?」

(ぜ、全然記憶にない…)

「あれ?三上くんが昨日、自分で、治療を受けながら、警察の人に説明していたのを聞いただけよ。私のは」

 看護婦は僕の顔を覗き込みながら、続けた。

「たしか、運転手が居眠り運転して、反対車線の端に停めてあった三上くんの車に突っ込んで、爆発炎上でしょ。普通、死んでいるか大怪我と大火傷で、最低でも一年、数年は病院生活ね」

「うそ…。全然覚えていません…」

「あらまあ。ショックで一時的な記憶喪失かしら?主治医の先生に伝えておくから、聞いてみるといいわ。はい、体温計を出して」

 看護婦に言われるまま、脇の下から体温計を取り出して渡した。

 事故のあらましを聞いて、何も思い当たらず、驚いた。今まで記憶喪失になったことは無く、ドラマなどの世界だけの話だと思っていた。なのに部分的とはいえ、自分の記憶が飛んでいる。不思議な感覚だった。

 ただ、事故以外の事は覚えているようなので、焦ってパニックになることは無い。自分でも、驚きはしても、だからと言って別段困ることもないと理解していた。

「うん。少し熱があるわね。まあ、骨折すると少し熱が出るものだから。大丈夫よ」

 そう言って看護婦は笑った。体温計をケースに入れてテレビ台の上に置いた。

「それから、今日の午後に予定通り右足の手術を行うから、何も食べないでね。飲み物も極力控えて」

「はあ」

「後で点滴があるからね。たくさん」

 それだけ告げると看護婦は他の人のところへ行こうとした。

「あ、待って」

「ん?なに?」

「麻奈美…北村麻奈美さんは…?」

「北村………。ああ、一緒に運ばれてきた女の子ね。彼女ならたしか、四〇五号室よ」

 看護婦は答えると、他の人の体温を聞きに行った。

(事故…か)

 教わったあらましを思い出す。すると、手足が震えてきた。

(この震えは…恐怖?)

 頭よりも、体が反応しているようだ。

(でも、今度も無事だった)

 僕は安堵すると同時に、自分で考えた「今度も」に引っかかり、悩んだ。しかし、いくら考えても思い当たらない。そもそも事故の事も覚えていないのに、訳が分からない。

 体も頭も混乱気味だった。

 気付くと震えが治まっていたので、考えるのも止めた。胸の奥に住む架空のハリネズミと同じ対処だ。考えの外に追いやっていれば、それ以上の苦痛や恐怖を味わわなくて済む。自由の利かない僕の内面との処世術だった。



  3


 少し時間が経過したおかげで、足の痛みは和らいでいた。早速松葉杖を使って麻奈美の様子を見に行こうとしたのだが、慣れない手つきで松葉杖を使うのは、これまた一苦労だと痛感した。

 僕はぎこちなく松葉杖を前に出し、持ち手に体重を移動しながら右足を引きずった。

 右足がばらばらになりそうな痛みが走る。全身にも痛みはあるはずだが、右足の痛みが強すぎて他は麻痺しているようだった。

 次は、松葉杖を短く前に出し、右足をやや上げて、杖の取っ手に体重を乗せてから左足を移動した。先ほどよりは痛みが少ない。

 痛みも、どの動作でどこが傷むのか分かってくると、案外と耐えられる。右足だけは耐えられないので、右足の負担が最小限になるように、だんだんと工夫していった。

 痛みや、松葉杖の扱いに慣れながらだったので、僕の歩みは非常に遅かった。何人かが僕を追い越し、戸口を出て左手に曲がって行くのを見送った。

 部屋の出口に差し掛かるころには、松葉杖の扱いに多少慣れてきた。

 部屋を出たところで体ごと振り返り、部屋番号を確認した。なにしろ、何号室にいるのか全く記憶がなかったのだ。

(五〇二号室か…)

 僕は頭の中で呟き、しっかりと記憶に留めた。これを忘れて病院内をさまようのは、さすがに恥ずかしい。

 部屋の中を見た。ベッドは六床あり、それぞれカーテンで周りを囲めるようになっていた。各ベッドにはテレビとテレビ台があり、テレビ台に収納用の引き出しがあった。どれも同じ間取り、色合いなので、どこが誰のベッドなのか分からなくなりそうだ。

 僕のベッドは入り口から見て右側の真ん中だった。そこだけ荷物がほぼない。

 他の人も起き出し、用足しに出て行ったり、煙草を手に出て行ったりしていた。まだベッドで微睡んでいる人もいるようだ。

(さて、階段はっと…)

 左右を確認しようにも、首が回らない。松葉杖を使い、体ごと向きを変えた。

 左右どちらを見ても、どこに階段があるのかよく分からなかった。右に行けば、ホールがあるようだ。僕を追い越していった人たちも、僕から見て右方向へ進んでいた。すでに彼らの姿はない。

「こっちだな…」

 口に出して確認し、ホールへ向かうことにした。隣の病室を通り越し、もう一部屋分ほど廊下を進むとホールのようだ。

 すぐそこに見えているホールだが、たどり着くまでにだいぶ時間を要した。

 松葉杖での移動は意外と全身を使うらしい。大きく移動しようと前へ杖を突くと、腕から脇腹にかけて痛みが走り、杖のところまで体を運ぶと今度は支える腕と下半身のあちこちで痛みが走った。部屋から出る間に慣れたはずの痛みとは違うものもあった。

(大きく動かしただけでも、こんなに違うんだ…。そういえば、走って筋肉痛になって、自転車で別のところもさらに筋肉痛になってってあったなぁ)

 妙なことを思い出しつつ、松葉杖と体を動かした。結局大きく移動するのは諦め、ゆっくりと少しずつ歩いた。

(打ち身だよな…。こんなにあちこち、どうやって打ったっけ…?)

 事故の記憶は、急発進したところまでしかなかった。看護婦に教わった事故状況も踏まえて記憶をたどっても、一向に思い出せない。

 隣の病室を過ぎると、廊下側一面が窓になっている部屋があった。部屋の中央に机が並び、壁際にファイルの入った棚が見えた。部屋の奥は仕切りがあって、何があるのかは見えない。部屋の中に人の気配はなかった。

 大窓の部屋が途切れると、広いスペースになった。大窓の部屋はこのホールに面した側がカウンターになっており、その上を見るとナースステーションと文字があった。

 ホールには長椅子が数台と、観葉植物、そして大きなテレビがあった。今は何も映っておらず、黒い画面だ。

 長椅子にはパジャマ姿の男性が数人座って雑談をしていた。それぞれ、どこかに包帯が見え隠れしている。

 ナースステーションの向かい側にエレベーターと階段があった。エレベーターは一基で、下へ向かって移動中だった。

 エレベーターが中央、左側に階段、右側にはトイレだ。つまり、今いる廊下を突き当ればトイレになる。

(う~ん、階段で行くか…。どうせ、慣れなきゃなんないんだし)

 僕はゆっくりと階段へ向かった。階段ホールに出ると、下りのみだった。階段の途中の踊り場には喫煙コーナーが設けられており、病室を出ていった人がそこで煙をふかしていた。

 松葉杖を一段下に突き、体を杖へ預けていく。

「うわっ」

 急にぐらつき、慌てて体を起こした。煙草を吸っていた男性が、声に反応して僕を見ていた。

 僕は苦笑いで答え、もう一度チャレンジしてみた。やり方も変えた。松葉杖を両方とも右手に持ち、左手で中央の手すりにつかまった。手すりに体を預け、右手の松葉杖を一段目に突き、体重を多少乗せて、両足を浮かせるように下りた。左足を下して一段落だ。

 かなり苦労するが、これなら何とか下りられそうだ。上りもおそらく同じ要領だろう。

 二段目を攻略したところで、煙草を吸っていた男性が上ってきた。会釈だけして上がっていった。僕も会釈を返した。手助けしようとはしない。だが、考えてみれば、同じ入院患者なのだから、男性もどこか怪我をしているのだ。手助けしようにもできないのだろう。

 僕はゆっくりと階段を攻略していった。体を動かすと、どういうわけか頭がすっきりする。余計なことを考える余裕がなかったともいえる。とにかく、僕は階段を下りることだけに集中していた。

 踊り場まで下りた時、後ろから声がかかった。

「あら?エレベーター使えばよかったのに」

 タンクトップにジーパン、片手にジャケットを持った女性が階段の上に立っていた。どこかで見た顔のような気もするし、まるで見たことない人のような気もした。

「何見とれてるの~?」

 いたずらっぽく笑いながら、その女性が僕の隣へ来た。やや甲高い声になったことで、思い出せた。

「あ、さっきの看護婦さん?」

「はい、ご名答。今日はもう上がりだから」

「ふ~ん」

「ほんとは後一時間あるんだけど、早引けなのよ」

 看護婦はそう言って片目をつむって見せた。

「デートですか?」

「まっさかぁ。こんな仕事しているとね、付き合ってくれる奇特な人、そうそういないわよ」

「そう、なんですか?」

「そういうことにしておいて。さ、私は婦長に会いたくないから。さっさと帰るわ」

 そう言って先に行った。

 ところが、急に戻ってくる。

「ほら、貸して」

 そう言って僕から松葉杖を奪うと、僕の右手を自分の肩に回し、僕の体を支えてくれた。

(この看護婦さん、痩せて見えるけど、結構柔らかいな…。あ、いや、そんなつもりはないからね!)

 自分で自分に言い訳してみる。しかし、こんなに異性と接近することもないだけに、意識せずにいられなかった。

 彼女の肩の感触が、とても柔らかく、何か不道徳な物に触れているような感覚に襲われた。腕に触れる彼女のうなじが、少し湿っているように感じた。僕の腕の汗なのか、彼女自身の汗なのかは分からない。その湿った感触が、より一層背徳感をかきたてた。

 体中痛いはずなのに、この時の痛みの記憶はまるでない。人の感覚とはこうも意識に支配される雑なものなのだろうか。いつも都合よく痛みを感じないようにできればいいものを。

 脇腹に、時折、柔らかい物が触れ、ドキリとした。何が触れているのかは、確認できない。確認する勇気もなかった。しかし、その辺りにある柔らかい物と言えば、一つしかないはずだ。

 横を向くと、看護婦のうなじが見えた。髪の生え際と白い首筋が、なぜか眩しく、直視できない。首筋から目線を移していくと、鎖骨のくぼみが見えた。そのくぼみが何とも言えず、僕の心を鷲掴みにした。

 鼓動が早くなるのを感じる。彼女の鎖骨ももまた直視に耐えかね、視線を移動すると、今度は張りのある膨らみが見えたような気がして、慌てて目をそらした。

 彼女の肩を見ると、紺のタンクトップの下に、白い帯が見えた。僕の心臓はもう早鐘の様に鳴り響いていたに違いない。彼女に、僕が見ていることがばれるのではないか。慌てて左方向の手すりに視線を向け、右側は見ないように心がけた。

 ここまで女性と至近距離で接する機会がなかったのだから、この機会にじっくりと観察する手もあったし、その誘惑は実に甘美だ。誘惑に負けて視線を戻そうとする自分と、理性を保とうとする自分が同居していた。

(見たい…。女の人ってどんな…。いや、だめだ!そんなことして、せっかく優しくしてくれてる看護婦さんに嫌われたら…。もしかしたら、この人と付き合うチャンスだってあるかもだし。って何考えてんだ、僕は!麻奈美がいるじゃないか)

 僕は思わず、首を振っていた。

「どうかした?」

(看護婦さんに気づかれてしまう)

 僕の心臓はもう破裂しそうだ。しかも、振った首が痛くて声が出せなかった。手を振って、何ともないと訴えた。

「そら。はい、四階到着で~す」

 看護婦の肩に体を預け、最後の段を下りた。看護婦は肩を持たせたまま、松葉杖を僕に渡した。僕が松葉杖に体重を移すと、看護婦は離れた。

(なんか、悲しい気もする…)

 ずっと触れていたいような感覚に襲われていた。離れたのが残念で仕方がない。

「ほーら、私の胸に気を取られてないで、彼女に会ってらっしゃいな」

「うん…。え?ええ!み、見とれてないって!」

「あら、そう?この格好、結構ワイルドでセクシーでしょ?」

 そう言って胸元を広げて見せた。広げて見せなくても、前に突き出された膨らみが大きな存在感を醸し出していた。

「あ、う…」

 目のやり場に困る。

「ふふ。ジョーダンよ」

 そう言って僕の肩をポンと叩いた。

「イタッ…」

「あ、ごめんごめん」

 看護婦は三階への階段に向かった。階段の手前で振り向くと言った。

「私、高坂令子よ。何かあったら言ってね」

 看護婦は階段を一歩下りた。そしてまた振り向き、念を押すように言った。

「言いなさいよ」

「は、はい」

 看護婦、高坂は僕の返事を聞いて満足したのか、そのまま駆け足に下りていった。僕はそのまましばらく立ち尽くして、彼女の足音が遠ざかるのを聞いていた。初めて女性と肌が触れ合う距離で接したせいか、彼女の事が異常に気になった。ドギマギしているのがなかなか収まらない。彼女の何らかの魔法にかかったのだろうか。

(なんだったんだろう…?か、からかわれたのかな…。うん。そうに違いない)

 僕は自分を納得させるように頭の中で独り言ちた。

(でも、あれはあれで、いいかも…)

 彼女の肩の柔らかい感触が、今も手に残っていた。彼女のうなじや鎖骨、肩の様子が、まぶたの裏に焼き付いていた。

(美人…?きれいだよな…。高坂さん)

 唐突に、麻奈美の顔が思い浮かんだ。

(あ。いけない、いけない。麻奈美の様子を見に行くんだった)



  4


 四〇五号室は、僕の五〇二号室と同じ、六人部屋だった。ただ、こちらは女性だけだ。

 廊下では白衣の女性たちがワゴンで朝ご飯を運んでいた。もうすぐ、この部屋にも大きなワゴンを押してくるのだろう。

 麻奈美のベッドは部屋の左奥の窓際だった。彼女のベッドの脇に、両親らしい四十代くらいの男女がいた。

(嫌な予感がするな…)

 両親に怒られるのは、当然だろう。あれだけの事故に巻き込んだのだから。

(そうか…?巻き込まれたの、僕なんじゃ…)

 ふと、そんな考えが僕の頭に浮かんだ。

(え?なんで…?)

 突然浮かんだ考えが、なぜなのか全く分からない。

(やっぱり嫌な予感がする)

 叱責されるのとは別の、何か嫌な気配がする。虫の知らせというのだろうか。昔からこういう予感はよく当たった。

 体中が痛い上に、予感で気後れして、なかなか病室に入れずにいた。

 何時までも、部屋の入り口で眺めているわけにもいかない。覚悟を決めて、僕はゆっくりと、部屋へ入った。

 麻奈美も、僕と同じく足を吊っていた。首も同じらしい。麻奈美と目が合った。

「あ、弘樹…」

 その声に、彼女の両親らしい男女が振り向いた。二人とも、鬼のような顔に見えた。男性が勢いよく立ち上がり、僕に近づいてきた。

「お父さん!」

 麻奈美が甲高い声を上げた。

「追い出して!」

 麻奈美のそのセリフに、僕は耳を疑った。

 次の瞬間、僕は胸に激しい痛みを感じ、廊下へ突き飛ばされていた。ちょうど通りかかった、食事を積んだワゴンに激突し、大音響を廊下に響かせ、食器や食べ物を廊下に散乱させた。散乱した物の中に僕が埋もれていた。

「うちの麻奈美に近づくな!この疫病神め!」

 父親が吐き捨てるように叫び、転がった松葉杖を拾い上げ、杖で僕の胸を突いた。

「か…はぁ…」

 激しい痛み。そしてどうしたことか、息を吸い込むことができず、もがいた。胸を突かれた衝撃で空気を吐き出したのだろう。息が苦しい。しかし、空気を吸い込むことができなかった。周りで金属の食器が激しく転がっているのが音で分かった。

 呼吸をしたいのに、吸い込もうとすると、胸がつっかえて咳が出た。手足を動かしたところで呼吸ができるわけでもないが、それでもバタバタと動かしてしまい、また金属が廊下を転がる音がいくつも響いた。

 妙に音だけがはっきりと聞こえた。

「や、止めてください!」

 女性の悲鳴のような声が聞こえた。ゴムが床と擦れてキュッキュと鳴っていた。パタパタと、スリッパのような足音も近づいてきた。

 胸をかきむしる。突かれた部分が傷む。しかし、呼吸をすることはできない。

「娘に近づいてみろ!今度は殺してやる!」

 男性の怒鳴り声が聞こえた。

 僕は胸を叩いた。それでも息は吸えない。

 胸が激しく痛む。でもそんなことはどうでもいい。とにかく呼吸をしたかった。

 僕は目を開けているのか、瞑っているのかすら分からなかった。ただ、目の前がだんだん暗くなっていくのだけが分かった。

 いつの間にか、周りの音も聞こえなくなっていた。

(僕はこのまま死ぬのかな…?)

 ふとそんなことが頭に過った。

『………!』

 暗闇の静寂の中で、何かが聞こえた気がした。気のせいなのだろうか。

 僕は考えるでもなく、死について思いが廻った。

(もともと、生きていても仕方がなかったんだ…。父さんと母さんに死なれてから…)

 葬儀の日に、親戚の人が言っていたのを聞いた。

「嫌よ。あんな気味悪い子、引き取りたくないわ」

 この言葉が頭から離れない。僕は誰からも必要とされない。父さんと母さんの代わりに僕が死ねばよかったんだと、ずっと悔やんできた。

 胸の痛みに、内部から突き刺すような痛みも加わった。胸の奥のハリネズミが丸まっている。

(もう、いなくなっていいんだ…)

 自分で考えていることなのに、まるで誰かが話しているかのように聞こえた。

(なんであのとき、父さんと母さんと一緒に死ななかったんだ…。そうだ。だから、今、死ぬときが来たんだね。もう、休んでいいんだね…)

『ダメッ!死んじゃだめ!しっかりして!』

(誰…?もう、放っておいてよ…)

『何よ!あたしとヤクソクしたじゃない!そんことであきらめないで!』

(約束…?なんだっけ…?)



  5


 車は暗闇の中を走っていた。ヘッドライトが照らし出す世界に、狭い道が続いていた。左右から木々の枝がせり出し、なお一層狭くしていた。上は枝葉の屋根ができていた。

 車内の暗い天井が高く見えた。立てば子供でも天井に頭が当たる高さのはずなのに。

「ずいぶん遅くなってしまったな」

 とても懐かしい声だった。僕は声の主を見たくて、動かない体を動かそうと努力した。すると、なんとか運転席に父さんの後頭部が見えた。

「弘樹、もう少しの辛抱だからね」

 助手席に、母さんがいた。母さんの優しい声の響きが、胸に刺さる。

(だめだ!この道を行っちゃ!)

 僕はこの先で起こる出来事を知っている。必死に声を出して訴えようとするが、唇はピクリともしなかった。

「この峠を超えれば家へはすぐですから」

 僕がだんまりなのを、母さんは、遅くなったことに対して機嫌が悪いのだと思い、諭すように言った。

「まったく、こんな日に限って高速で事故だわ、下道は工事中だわ…。まったく…」

 父さんがぼやいていた。

 僕は車の外を眺めた。眼は動く。いや、この時の僕も外を見たのだ。大きな満月が、木々の切れ目から見えた。不思議と月が大きく感じられ、月に何かが引き付けられた。

 既視感に襲われる。同じ満月は毎月のようにやってくる。既視感は当然と言えば当然なのだが、どこか神秘的な輝きを帯びていた。

 進行方向を向くと、ヘッドライトが照らし出す闇の中に女の人が見えた。車は女の人に向かって進んでいるにもかからわず、一向に近づかない。そして離れることも、見えなくなることもなかった。まるでその女の人が車を導いているかのようだ。

「ダメだよ。この道いっちゃ…」

 僕は呟いていた。話すことはできたが、これはあの時に僕が言った言葉だ。今伝えたいことは一言も口にできない。

「え?」

 母さんは怪訝な顔をした。驚きと、少し、怖がっていたのかもしれない。僕が時々変な話をしていたから。

「ここを通らなきゃ、家に帰れんだろうが」

 父さんは、いつものように怒っていた。

「でもダメだよ!ここは!」

「うるさい!お前は黙って座っていろ!」

「でも、あなた…」

 母さんが不安そうに言った。

「いいから!俺が事故を起こすとでも思うのか?これだけ安全運転しているんだぞ!」

 運転席の速度計を覗くと、三十キロを刺していた。

 クネクネと曲がる峠道を確実に、ゆっくりと登って行く。

 車の前にいる女の人がしゃがんだ。

 ガコッ

 大きな音が車の底で響いた。何かをひいたのだ。でこぼこした道だから、それ以外にも何度もガコガコと鳴っている。しかし、この音だけは、気になった。

 女の人がまた立ち上がっていた。

「引き返そうよ…」

 僕は半分、泣きそうな声で訴えていた。返事はない。

「あなた!」

「うるさい!そう何度も不吉なことが当たってたまるかっ!」

 父さんと母さんが何か言い合っていた。

 道は、上り下りが激しくなってきた。次第に、下りが多くなる。数分も経たないうちに、下の方に町の明かりが見えた。

「ほらみろ。何もなかったじゃないか」

 父さんがそう言った次の瞬間、急に慌てだした。

「どうしたの?」

 母さんが聞いた。

「ブ、ブレーキが…」

 父さんの耳が青ざめていた。

(やっぱりだ。あのガコッて音、これだったんだ…)

 車の速度がどんどん上がっていく。

 前方にガードレールが見えた。そのガードレールと重なるように女の人が立って、笑っていた。

 父さんも母さんも、言葉にならない声を上げ続けていた。

 車はガードレールへ真直ぐ向かって行く。その先は崖だ。

(確かその下、父さんと釣に行った池があったはず…)

 車内はパニックに陥っているにもかかわらず、なぜか僕は冷静だった。体を固定しているシートベルトを両手で掴み、頭を膝に押し当てた。車に乗る時、母さんにいつも言われていた。ちょっとでも危なくなったら、今の体制を取るようにと。

 ガードレールを突き破った衝撃の後、体が浮き上がった。体が宙を飛び続けているようだ。一瞬の事なのに、何時までも何時までも飛び続けていたように感じた。

 音が途切れ、静かだ。実際には悲鳴や、言葉にならない叫び声や、車のエンジン音、衝突音など聞こえていたのかもしれない。でも、この時の音は記憶にない。今、この出来事を見ていても聞こえない。

 次の瞬間、何かにぶつかり、激しく揺れ動いた。物が宙を飛び交い、揺れ動き、何がどうなっているのか、分からない。体も木の葉のように振り回された。ただただ、シートベルトにしがみついて耐えた。

 指に、体に、ベルトが食い込んだ。膝で頭もしたたかに打った。車ごと誰かに捕まって、玩具のように振り回され続けているのだろうか。もしも外を見る余裕があれば、無邪気に遊ぶ巨大な子供の顔が見えただろう。遊ぶのに飽きるまで、この揺れは続くに違いない。

 気が付くと、小さな揺れになっていた。何か非常に柔らかいものの中に落ち込み、揺れ動いているようだ。

 窓の外でバシャバシャと水が踊っていた。前を見ると、運転席や助手席の背もたれのすぐ前に、変形したボンネットがあった。フロントガラスはすでになく、隙間から大量の水が入ってきていた。

 僕はまだシートベルトを握りしめていた。

(早く逃げろ!)

 思っても、指が開かない。体が動かせない。

 足が妙に冷えてきた。見ると、両足とも水の中に浸かっていて、その水が見る間に、僕の体に登ってきて、まとわりつく。

「うわっ!」

 水に驚いた拍子に、手が自由になった。手を伸ばしてボタンを押すと、シートベルトはあっさりと外れた。

「父さん?母さん?」

 僕が呼びかけても返事はない。まだ音が聞こえないのだろうか。耳を触ると、指の触れる音は聞こえた。

 僕は運転席の背もたれを持つようにして立ち上がった。小舟の中で動いた時のように、車も揺れ動いた。バランスを崩して、背もたれにしがみつくと、その手に、妙な感触が伝わった。

 その感触は、嫌なイメージしかない。水のようであって、ぬるっとやや粘り気を帯びている。何か鉄のような臭いもする。

 僕は背もたれを支えにして、助手席との隙間に行き、父さんを覗き込んでみた。

 黒いものがあるだけだった。最初、人とは思えなかった。黒い塊がそこにあった。黒い塊からハンドルの半分が生えていた。

「とう、さん?」

 僕はその塊を触ってみた。粘り気のある何かが、その物体を覆っていた。感触は柔らかい。温もりもある。しかし、ピクリとも動かない。そもそも、頭らしきものがどこにも見当たらない。どういう形をしているのかもよく分からなかった。

「母さん…?」

 僕は反対側を見た。母さんらしき物体がそこにあり、深く項垂れ、目の前の変形したボンネットに頭を乗せていた。母さんの白かった服が、なぜか黒くなっていた。

 思えば、この時の僕は、よくも正気を保てたものだ。この状況を見るのは居たたまれない。目を背けたいが、体が動かない。たぶん、この時の僕は、父さんや母さんの、この状態を理解していなかったのだ。

(そうだ、この時の僕は、九歳だったんだ)

 今見ている出来事を、思い出しつつあった。この再体験は、僕の過去の出来事を、そして忘れていたことを、否が応でも思い出させていた。

(これは現実じゃない)

 僕自身に言い聞かせ、動かせない体で事の顛末を見守った。それ以外に何もできないのだ。

 急に車が傾き、一気に沈み始めた。

(早く出ないと…。早く父さんと母さんを連れて出ないと…)

 その時の僕はそんなことを思っていたはずだ。

 フロントガラスはすでになく、変形したボンネットが塞いでいた。後ろのガラスはひび割れていて外が見えない。

 僕は運転席につかまったまま、右側のドアノブを引いてみた。ノブは動くものの、全く反応がない。

 窓に水が打ち寄せた。

 いつの間にか、胸の近くまで水が来ていた。運転席と助手席の間に、何か細長いものがゆらゆらと、水の動きに合わせて揺れていた。左右から突き出たそれは、まるで腕を広げるように動いていた。

 僕は手探りで窓を開けるレバーを掴んで、回した。いつもよりレバーが重い。このレバーをぐるぐると回すと窓が少しずつ開くのだが、非常に重く、ほとんど動かなかった。

『ふふふ。無駄な努力よ』

 どこからか、そんな声が聞こえた。

「そんなことない!」

 僕は声に対して怒鳴り返すと、両手でレバーを握って回した。窓が少しずつ下がると同時に、水が入ってきた。

 僕はその水に、反対側のドアまで押し流された。まるで、誰かに引っ張られるように窓から遠ざけられた。窓からの水はほんのわずかで、押し流されるほどの水量はないはずだった。

 先ほどまで車の前にいたあの女の人が、僕の足をつかんで笑っていた。押し流されたのではなく、引き離されたのだ。

「は、はなして!」

 女の人は笑いながら、足を掴んで離さない。

 水が顎の下まで迫っていた。顔の上は天井だ。空気を求めてもがき、手足をばたつかせても、思うほど動いてはおらず、逆に顔に水がかかり、呼吸に困った。

 僕は思い切って潜り、女の人の手を解きにかかった。女の人の指を一本一本掴んで引きはがす。子供の力でも、水の中でも、引きはがすことができた。

 女の人の笑い顔が消え、驚いているように見えた。座席の背もたれに女の人の体が重なる。そのままそこに何も無いように上がり、僕の顔を覗き込んだ。

『何なの?この子は…?私に触れるの?』

 女の人は険しい顔つきになって、僕の顔に手を伸ばしてきた。

『ダメよ。そんなこと、許さないわ』

 女の人はそう言うと、もう片方の手も上げてきた。顔に来ると思った手が、すっと首に巻きつき、締め付けた。

 僕は水中で声も出せず、もがいた。息苦しくなって、空気を求めて床を蹴った。しかし、女の人に捕まっていて、天井付近の空気までたどり着くことができない。

『あなたも一緒にくるのよ。そう、お父さんとお母さんと一緒にね』

 女の人がそう言って笑った。

 いつの間にか、天井の空気もなくなり、運転席と助手席の間に、左右から突き出た腕がゆらゆらと動いているのが見えた。

(は、早く、父さんと母さんを連れてここから出ないと…。息が…!やだ、いやだ、死にたくないよ…!)

 僕は声にならない声で叫んでいた。

『さあ、楽になりなさい』

(いやだっ!)

『楽になれば両親と一緒に何時までも過ごせるのよ』

(いやだ!)

『私と同じ目に合うのよ!なんで私ばっかりがこんな目に合わなければいけないのよっ!』

(いやだ、いやだ、いやだぁーーー!)

 僕は必至で抵抗していた。息苦しく、何も考えられない。だからその時、僕は何をしたのか覚えがない。

『ぎゃぁ…』

 女の人が突然悲鳴を上げて離れた。

 僕はすぐに天井を見た。後部の亀裂の入ったガラスの傍に、少し空気があるように見えた。床を蹴ってそこに顔を向け、わずかな空気を吸い込んだ。水も一緒に吸い込んでしまい、咽た。

 それでも呼吸ができたことは大きい。もう一度呼吸をすると、色々とおかしなことに気づいた。

 女の人が車のドアと重なっている。水の中に沈み、暗闇のはずなのに、周りの状況がよく見える。いや、女の人は闇であろうと、認識できてしまうようだった。

『いったい何をしたの?』

 女の人が手で顔を押さえて迫ってきた。手の隙間から見える顔が、ただれていた。

『危険だわ。この子。危ない子はここで一緒に死ぬのよ』

 女の人が更に迫ってくる。が、途中で急に止まった。

『じゃ、邪魔しないで!』

 女の人を、誰かが羽交い絞めにしていた。男の人だ。僕のよく見知っている顔だった。父さんだ。

 前を見ると、父さんはまだ、水の中でゆれていた。父さんが二人いた。一人は頭の無くなった状態で、水中で揺れていた。もう一人は女の人を捕まえていた。

『弘樹、あなただけでも逃げなさい』

 母さんが僕の隣で言った。いつの間に来たのだろう。だが、母さんも二人いた。一人は助手席でゆらゆらとしており、もう一人は僕の隣にいた。

『早く行かないかっ!』

 父さんが怒鳴った。

『離せっ!邪魔するなっ!』

 女の人が暴れていた。

『弘樹、行きなさい。これからは、一人で生きていくの。あなたならできるわ』

 母さんがそう言って、僕の顔を撫でようとした。母さんの手は僕に触れることなく、すり抜けた。母さんの顔が悲しそうに歪んだ。

 僕は母さんの手を取って、頬に触れさせた。冷たいような温かいような、何時もの柔らかい感触があった。

『ありがとう』

 母さんは泣きながらそう言って、手を引いた。

 僕は窓に近づいて、もう一度振り向いた。

 母さんが頷く。

『行けっ!』

 父さんの声だ。

 僕はドアのハンドルを回して窓を開けた。今度は簡単に回り、すぐに窓が開いた。そこから外に泳ぎ出て、無我夢中で泳いだ。

 振り向くと、車らしい影がゆっくりと遠ざかって行った。

 息苦しい。空気を求めて辺りを見渡しても、暗い水ばかりで何も見えない。どちらが上で、どちらが下かも分からない。

 息が続かない。上も下も分からず、混乱した。焦って闇雲に進んでも、状況は変わらなかった。

(僕は死ぬの…?)

 息苦しい中、そんな考えが浮かんだ。同時に、母さんの言葉が思い出された。

『弘樹、行きなさい。これからは、一人で生きていくの。あなたならできるわ』

(そうだ、生きなきゃ!)

 僕は周りをもう一度見た。

(まだ死にたくない!)

 はっきりとそう思った。

 ふと、視界の隅に楕円の黄色い光が見えた。僕はその光を目指して泳いだ。

(僕は生きるんだっ!死んでたまるかっ!)

 僕は息苦しさに耐えるために、心の中で叫び続けた。

(死ぬもんかっ!)

 あの時、子供の僕は必死にそう考えていた。

 今の僕に、その言葉が染み渡る。

(そうだ!僕は、死にたくないんだった!)



  6


 窓の外に大きな月が輝いていた。再体験した時に見た月が、そのままそこに居座っているのだろうか。周りの景色に、窓枠か木々の枝葉かの違いはあったが。

 僕は白いシーツの上に転がっていた。横には点滴袋が吊り下がり、中身は無くなりかけていた。

 目の端が濡れていた。僕はそれを手で拭った。十年前の事故を思い出し、忘れていた両親の事を思い出した。あまりの事故に、忘れようとした時期もあった。でも、忘れるはずはないと思っていた。

「忘れてた…」

 思わず、呟いていた。そしてため息が漏れた。すると、胸に痛みが走った。手で触ってみようとすると、堅いものが邪魔して触れることができない。

 首が固定されていて見えない。手の感触で確認する。おそらく、コルセットだ。肋骨が折れるかどうかしているのだ。

 何かが滑り動く音が聞こえ、足音が近づいてきた。そして僕の顔を覗き込んだ。

「あら?気がついたのね」

 看護婦の高坂だ。

「あれ?帰ったんじゃなかったの?」

 僕は思わず、そんなこと聞いていた。

「何言ってるの。もう夜よ。ほら、満月も出てるじゃない」

「そういえば…」

 窓の外に居座る月は、夢の続きかと思っていた。

「あの後大変だったみたいね」

 高坂が点滴を交換した。

「よく、覚えてないんだ…」

「そう…。まあ、忘れたほうがいいと思うわ」

 そう言って、ベッドの端に腰を下ろした。

「なんだったら、私が忘れさせてあげようか?」

 いたずらっぽく笑って、僕に近づいてきた。

「ちょ、ちょっと…」

 僕は動かない体で下がろうとする。あまりにも唐突なのでびっくりしたのと、戸惑いと、そしてなんとなく、妙な期待もあった。

「ふふっ。冗談よ」

 高坂が上体を起こした。

 僕の期待を見透かされ、避けられたような気がして、恥ずかしい。今の僕の顔は真っ赤に違いない。

「でも、病院以外だったら、考えてもいいかも」

「え?」

「な~んてね」

 そう言ってベッドから離れた。

「そういえば、お見舞いの人が来てたわ。呼んでくるね」

 それだけ言うと、さっさと出て行った。

(あ、あの人はいったい、何なんだろう?僕をからかって遊んでるのかな?)

 ため息が漏れた。安堵のため息なのだろうか。それとも落胆のため息なのだろうか。自分でもよく分からなかった。

(高坂令子、さんか…。何歳くらいなんだろう…?ああは言っても、何かをしてくれるのかな…?)

 ふと彼女の肩に触れた感触がよみがえり、先ほどの思わせぶりな台詞と重なって、期待が膨らんでいく。つい今しがたまで生死について考えていたとは思えない。彼女のおかげか、きれいさっぱり忘れていた。

「そう言えば、見舞いの人とか言ってたような気が…」

 僕はなんとか体を起こした。

 ベッドの横に鞄があった。開いた口から、見覚えのある服が覗いていた。

(僕の服…?僕のアパートから…?誰が?)

 部屋を見渡すと、ベッドが一つきりだった。

(あれ?個室?)

 右側に窓があり、月明かりが差し込んでいた。

 窓枠の下がカウンター状になっている。枕元にテレビ台。ベッドの向こう側の壁際に椅子が見えた。左側にもテーブルがあり、その足元に口の開いた僕の物らしい鞄がある。テーブルの向こう側は壁だ。

 天井の蛍光灯が光った。

(わっ、まぶし…)

 手で目の上に屋根を作る。

「よお。生きてるか?」

 背広を着た男性が視界の端に入った。三十代後半くらいだ。髪を短く切りそろえ精悍な顔をしている。僕の後見人の木村賢吾だ。凛々しく見えるのは仕事を知っているせいだろう。それとも僕にとっての救世主にでも見えたのかもしれない。

 事実、十年前の事故の後、賢吾は僕を救ってくれた。彼がいなければ、僕は全財産を失い、どこかの施設にでも入れられていたはずだ。親戚は皆、僕を気味悪がり、引き取ろうとはしなかった。そこそこ稼いでいた父さんを妬んでいたとも聞く。態の良い理由をでっち上げ、家財を処分され、財産だけ取って、僕はどこかに捨てられていただろう。

 賢吾は僕の後見人となり、父さんの財産をそのまま残してくれている。財産と言っても、土地と家と、株と、貯金が少々で、株は処分され、貯金と合わせて僕の生活費や学費などに充てられている。その管理一切を賢吾が引き受けてくれていた。

「だれ?あんた」

 僕はわざと、そう言った。

「あ、あんた…?てめぇ…。自分の後見人つかまえて、誰とは何だ!」

 賢吾が詰め寄ってきた。

(相変わらずだな。この人)

 僕は可笑しくなって、笑った。

「俺をおちょくってそんなに可笑しいか?」

「お前、こんなガキにもからかわれているのか?」

 別の声がした。その声の主らしい男性が部屋に入ってくる。二十代くらいで、革製のズボンに革のジャケット姿をしていた。

 目の上の手をどけてみても、見覚えがない。

「誰です?木村さん」

 僕は尋ねた。答えは返ってこなかった。

「何だ?木村さんとは。よそよそしいじゃないか。いつものように賢吾にいちゃんでいいぞ」

「な、なんでいまさら…」

(恥ずかしい…)

「僕もう、十九だよ。そんな歳じゃない」

「そうか?」

 そう言って賢吾が笑った。

「何だ。もう立場は逆転か。つまらん」

 革のジャケットの人が、本当につまらなそうに呟いた。

「こいつはうちで使っている探偵の皆川龍也君だ」

 賢吾が紹介してくれた。

(へ~探偵ねぇ…)

 皆川がベッドの横に椅子を持ってきて座った。その間ずっと、僕が見ていたことに気が付いていたようだ。

「そんなに珍しいかい?」

「え、いや、その…。はい。探偵さんを見たの、初めてだから」

「正直者だな。損するぜ」

 そう言って懐からタバコを出してくわえた。

「おい」

 賢吾がその一言でいさめた。

「わーってるよ。口元が寂しいんだ」

 皆川は答えて、片手に持ったジッポライターで遊び始めた。蓋の部分をつまみ、手首を振って開け、指を動かして持ちかえると火をつける。すぐに蓋を閉め、親指で蓋を開けてその指の戻し際に火をつける。人差し指で蓋を押して閉じ、また親指で蓋を開けた。

 カチッシュッパチン

 個室の中に音が響いた。

「まったく。タバコ止めろよ」

 賢吾がベッドの端に腰かけ、横に置いてあった鞄を持ち上げた。

「お前のアパートから着替えを持ってきておいたぞ」

「あ、はい」

「まあ、今は着られそうもないが」

 賢吾は僕の胸や右足を見比べて言った。

「はあ」

「歯ブラシはこの横に洗面所があるから、そこに置いたぞ」

 賢吾は自分の背側を指さして言った。

「あ、はい」

「他にいるものがあったら言ってくれ」

「う~ん、これといって別に…」

「そうか?」

「あ、じゃあ、ジャンプとマガジンとサンデーと…」

「下に売店がある」

「この体で、ですか?」

 僕の体は今や、惨憺たる状況だ。我ながら、感心してしまう。

「右足の圧迫骨折。首はむち打ち。胸は打撲による、肋骨二、三本にヒビ。ついでに全身打撲に擦過傷」

 皆川が呟くように言った。

「ほんとに見事にやったもんだ」

 賢吾が言った。

「右足の治療はかなりかかるそうだ。骨は若いからすぐ治るだろうとのことだが…。見てのとおり、足首が固定されているだろう?元通りになるには、かなりリハビリが必要になる、とさ」

 賢吾が説明してくれた。声のどこかに棘があるようだ。

「首は動かさなければすぐに治る。肋骨は一ヶ月くらいか。あまり動くな。ちょっとしたことで折れるかもしれないそうだ」

「え、そうなんだ…?」

「ああ、そうだ。その胸の件は、向こうと話をつけてきた」

「え?」

「一つ聞いておくが、あの北村を訴えるつもりはあるのか?」

「麻奈美の父さんのこと?」

「ああ」

(僕の胸を突いたことか…。訴えたところでどうなることでもないし)

「追い出して!」

 麻奈美の声だ。今朝のあの時の言葉が、今でも頭の中で響く。

(もう、関わりたくない…かな)

 関わればもっと嫌な思いをするだろう。触れずに済むなら、もうこのままでもいいと思った。

「別にいいよ」

 なので僕はそう答えた。

 なぜ麻奈美を好きになったのだろうか。彼女が美人だからだろうか。

 講義で何度か隣に座り、話をするようになった。美人なのに意外と親身に接してくれるので、意識するようになり、思い切って告白してみた。あっさりと付き合うことになったこと事態、驚きだ。慌てて中古車を購入し、ドライブデートに誘ったのだった。

 なのに、なぜ「追い出して」だったのだろう。一緒に事故に遭ってしまった。でも、それは僕のせいではないはずだ。付き合いだしたばかりの状態で、なぜあのような突き放す言い方になるのか。

 付き合いだしたばかり…。いや、そもそも僕の勘違いで、麻奈美にしてみれば、新しい遊び友達くらいの感覚だったのだろうか。だから、事故に巻き込んだ僕を避けたかったのか。

 しかし、僕が怪我をさせたわけではない。なぜ、拒絶され、父親にひどい仕打ちを受けなければならないのだろう。あまりにも理不尽だ。せめて麻奈美くらい、僕をかばってくれてもいいではないか。「父さん、止めて!」があの時の正しい言葉だったのではないか。

 胸の奥で、針がうごめくのが分かる。この痛みは、肋骨の痛みなのか、胸の奥の疼きなのか、はっきりしない。

 麻奈美の笑顔は可愛かった。大学の講義を聞いていた時、ちらちらと、あの凛々しい顔を見つめた。目が合い、微笑み返した麻奈美。僕はあの笑顔に釘付けだった。

 麻奈美に拒絶され、父親に怪我まで負わされたにもかかわらず、彼女の事を嫌いになれない自分もいた。

 麻奈美の怪我の具合はどうなのだろうか。時間が経てば僕の事を考え直してくれるのだろうか。またあの笑顔で僕を見つめてくれるのだろうか。

 賢吾に、別にいいと答えておいてなお、また麻奈美と関わりたいと、思いがひしひしとわいていた。

「そうか」

 賢吾が呟いた。

「まあ、そう言うだろうと思ってな。もう示談してきた」

「え?」

「肋骨の治療費および慰謝料を貰う。代わりに二度と北村麻奈美に近づかないようにとのことだ」

「はあ」

「こっちが被害者だからな。父親にもお前に近づかないように念書を書かせておいた」

「そっか…。そっちは任せます」

 少し残念な思いがあるものの、すでに話が付いているのなら、従うべきだ。弁護士であり、僕の後見人でもある賢吾の処理に、間違いはない。

 そもそも僕では解決できない事柄ばかりだ。賢吾がいてくれて大いに助かる。面と向かってお礼など、恥ずかしくてなかなか言えないものの、心の中で感謝し、彼の処置に従う。

「ああ」

「後、今度の交通事故の処理も…」

「分かっている。それが俺の仕事だ」

 賢吾は投げやりに言って、ベッドから降りた。

「今晩はゆっくり休め」

 背中越しにそう言うと、皆川を促して部屋から出て行った。

 皆川が僕の傍に寄ってきて、耳打ちした。

「AVとか必要ないか?必要なら一式揃えてやるぞ」

 皆川の顔は笑っていない。からかっているわけでもなさそうだ。

「い、いりません」

「そうか?こんなところに閉じ込められると、たまるぜ~」

 やはりからかっているのかもしれない。

「龍也、行くぞ」

 部屋の外から声がかかった。

「必要になったら言ってくれ」

 皆川はそう言ってウインクすると、部屋から出て行った。

(やっぱ、からかってんだ…)

 僕はそう思うことにした。



  7


 賢吾と皆川が帰った後に、看護婦の高坂が戻ってきた。

(何か用なのかな?点滴はまだ残ってるけど)

 と思いながらも、先ほどの続きを期待していた。

(また僕に迫ってくれないかな…)

「えっと、怪我の説明は、明日、先生が来てしてくれるから」

「あ、はい」

「それと、いまさらな説明だけど、これがナースコールね。何かあったら押して」

 ベッドの頭のそばにあったスイッチを僕の目の前まで引き寄せて見せた。

「それと、さっきの二人のことだけど」

 高坂の声のトーンが落ちた。

「はい?」

「面会時間がだいぶ過ぎているのよ。来たこと、内緒でね」

 小声でそう言った。

「はあ…」

 言われてみれば、僕は今の時間を知らない。この部屋に時計も見当たらなかった。

「ところで、今何時です?」

「十二時よ」

「え…?」

 言われてみれば、月が空高くにあった。朝起きて、怪我をして、気を失ったら、もう夜中だと言うことだ。余りにも時間が経過していた。

「僕、そんなに気を失ってたの…?」

「そうみたいね。昨日の事故の疲れとか、今朝のこととか、精神的なものとか、麻酔とかいろいろあったからじゃない?」

「はあ」

(ん?麻酔…?)

「今はとにかくゆっくり休まないと」

「はい…」

 しかし、今の状態だと寝れそうにない。

「点滴は、今日はこれが最後だけど、寝てていいわよ。後で取りにくるから」

 麻酔、点滴と聞いて思い出した事があった。僕は今日手術の予定だったはずだ。

「あの、手術は…?」

「したわよ」

「え?」

「予定より遅れて夕方だったみたい。あ、意識なかったのなら、自分のあそこ見てショック受けないでね」

「ど、どういうことでしょう?」

「見れば分かるわ」

(な、何なんだろう…?)

「ところでさあ。聞きたいことがあるんだけど」

 高坂が椅子を持ってきて、ベッドの横に腰かけた。神妙な面持ちで、僕を見つめていた。

「な、なんでしょう?」

 高坂に見つめられ、緊張してくる。先ほどの続きなのだろうか。僕に迫って遊ぶのだろうか。期待で胸が高鳴った。

「ゆみちゃんて、誰?」

「はい?」

 余りにも意識外の質問で、僕は素っ頓狂な声を出していた。

「ゆみちゃんよ。寝言で呼んでいたわよ。でも、三上くんの彼女って、確か麻奈美さん、よね。もしかして、二股?」

「なわけないでしょ!」

 否定してみたものの、「ゆみちゃん」に心当たりがなかった。これでは高坂の疑いを晴らすこともできない。

「あの麻奈美さんとは別れるんだろうから、もう問題ないわね」

 高坂がいたずらっぽく笑った。

「別れるのは、たぶんそうでしょうけど、でも僕、ゆみちゃんてのも知りませんし、二股もしてません」

「そう?じゃあ、そういうことにしておいてあげるわ」

 彼女は全く信じていないようだった。何か言い返そうと考えていると、別の話題を振ってきた。

「でも、三上くんの後見人って人、すごいのね。あの北村さんをやり込めるなんて…。みんなの噂になってるわよ」

「木村さんね。あの人、一応、弁護士ですから」

「へえ、弁護士なの~」

 高坂の目があらぬ方向を眺めて笑っていた。

「ダメですよ。あの人、ちゃんと奥さんいますから」

「え~妻帯者なの~?もったいない」

(ほんとに何考えてんだか、この人は…)

「もう一人の皆川さんとかは?」

 ためしに高坂のノリに便乗してみる。

「革ジャンの人?う~~~ん、ちょっとカッコいいんだけど、どこか幼く見えるのよね~」

(じゃあ僕は?)

 一番聞いてみたいことが、言葉に出せなかった。これを聞きたくて、ノリに便乗したのに、喉に引っかかって出てこなかった。



  8


 眠れないと思っていたのに、いつの間にか眠っていたらしい。気付くと朝になっており、主治医がベッド脇に椅子を置いて座ったところだった。

 主治医が、僕の右足に鉄板を入れ、粉々になった骨同士を固定しているとか、いつ頃それを取り出すかとか、いろいろ説明してくれた。

(鉄板を体の中に?)

 あまりのことに、それ以外はほとんど聞き流していた。

 主治医は一通り説明し終えると、さっさと退室していった。

 それ以降は、トイレに行くのが不自由なこと以外、何もない入院生活が始まった。と言っても、トイレも個室内にあったので、そこまで不自由ではなかったのかもしれない。

 体中の痛みが、昨日よりも増していた。そして何より、ほんのわずかな動きでも胸が痛み、耐えがたい疼きを伴った。昨日は松葉杖を突いて廊下を歩いたというのに、今日はわずかな距離ですら歩けず、強烈な痛みが襲った。

 数メートル先のトイレですら、苦痛になってしまった。苦痛から逃れるために、極力ベッドから動かないことにした。

 バイト先からクビを宣告された。しばらく入院するバイトなど抱えていても意味がないので、当然と言えば当然だ。賢吾が見舞いに来た時に、そのことを知らされた。

 大学の方も一年目から留年かもしれない。

 大概の事は賢吾が全て手配してくれ、大学の方にも連絡はしてあるらしい。賢吾は再々時間を作って、見舞いに来てくれていた。

 賢吾以外は、皆川がたまにからかいに来たり、看護婦の高坂がちょくちょく来てくれたりしていた。

 一日中動けずにいると、気持ちが陰にこもるのだろう。取り留めなく、嫌な出来事が思い出された。

 親族に気味悪がられ、避けられたこと。同級生に避けられたこと。不幸事があると、僕のせいにされたこと。

 嫌な思い出がよみがえる度に、死について考えた。

 死について考えると、胸の奥のハリネズミが大きくなったように感じる。胸が重い。単純に、肋骨の痛みやコルセットのせいなのかもしれないが。

 死を考える度に、誰かに声をかけられたような気がした。声の主を探しても周りには誰もいない。が、そう言う時に限って、高坂が訪れてくれた。

 動くことがままならないので、高坂が来てくれるのは助かった。その度に、陰気な気分が晴れ、僅かながらも活力を得ていたように思う。物理的にも大いに助かった。トイレの介添えだ。夜間の勤務中でも、私服でも、トイレの介添えをしてもらった。もちろん中までは遠慮してもらったが。

 初めてトイレに行ったとき、高坂の言葉を思い出した。

「自分のあそこ見てショック受けないでね」

 自分の下腹部を見て、その言葉が理解できた。ただ毛が無いだけなのに、確かにショックだ。どうせ生えてくるものなのに、喪失感に似た感覚だ。

 同時に、自分の陰部を誰かに見られたという恥ずかしさが襲ってきた。

(まさか、高坂さんがこれを?)

 トイレから出れば、高坂がいる。どういう顔をして会えばいいのだろう。

 いっぱしに悩んでみたものの、対面した彼女はいたって普通で、体を支えてベッドに戻してくれた。触れた彼女の肩の感触に意識が行き、僕もすぐに忘れていた。

 ベッドの上では、僕はほぼ動けなかった。痛みを堪えれば、多少は動ける。しかし、その痛みが尋常ではないのだ。じっとしていれば、たまに疼く痛み以外は、思い出さずに済む。

 動くと辛いので、とにかくじっとしていた。動かなければ、いくらかはましだった。だが、精神的には動かないことが悪影響だったのかもしれない。どちらにしろ、動かなくても、右足や胸が時折、疼くように痛んだ。神経を逆なでするような痛みで、こういう時は良くない考えが浮かんで離れなくなった。

 「死んだ方がいい」とか、「死んでいた方がよかった」とか、「このまま死ぬのだ」などと思い悩み、気持ちが塞がる。痛みと連動するかのように、頻繁に浮かんで頭から離れなかった。

 死に向かって気持ちが塞がっている時を見計らうように、高坂が訪れた。偶然なのか、彼女の思うところがあって頻繁に来ていたのかは分からない。とにかく頻繁に僕を訪ねて来てくれた。

 高坂は訪ねて来ると、体の向きを変えさせてくれたり、どこか異常はないか確認したりしていた。たまに、お湯で湿らせたタオルで体を拭いてくれもした。

 他愛もない世間話をしてくれたこともある。こういった行為を、婦長が見咎め、高坂を非難したと、後で知った。それでも高坂は事ある毎に病室へやって来て、介護をしてくれた。話し相手になってくれた。

 高坂の介護のおかげか、僕は不思議と、塞がっていた気持ちが晴れ、生きる気力を取り戻す。そしてまた塞がる。彼女が来る。このような精神的浮き沈みを繰り返していた。

 高坂は私服で来てくれることもよくあった。夕方や、朝が多かったと思う。

 僕としては私服の方がありがたかった。彼女の私服は露出が多いので、目のやり場に困る。が、その露出を期待している自分もいた。いや、正直に言おう。期待の方が大きかったし、事ある毎に見つめていた。十九歳の、異性に興味がある少年に、見るな、興味を持つなと言う方が土台無理な話だ。

 高坂が夕方から朝にかけてしか姿を現さないこともあって、僕は夜起きていることが増えた。気分が塞ぐのは夜に多く、こういう時は寝付けないせいでもあった。

 高坂が帰った後は、他の看護婦が来るものの、様子を見るだけで何もしてくれなかった。動けば痛むので何もできない。寝ていても咎められない。だから、寝る他にない。幸い、日中は眠ることができた。

 入院から一週間ほど経ち、打撲の痛みがほぼなくなると、徐々に死について考える頻度も下がっていった。やっと精神的余裕もできたのだろう。そのくらいから、テレビを見たり、賢吾が持って来てくれたマンガを読んだりといったことを始めた。高坂の来る回数が減ったのもこの頃だった。

 後から思えば、高坂は僕の精神状態を気遣い、頻繁に介護してくれたのだ。そして何かの拍子に、精神的には回復したとみて、病室へ来る回数が減っていったのではないか。

 とはいえ、ベッドの上での生活は変わっておらず、できることは限られた。テレビを見てはウトウトし、マンガを読んではウトウトしての繰り返しだ。あとは時折、用足しに行くだけだ。日がな一日、眠ってばかりだ。それでも眠気は再々襲ってきた。

 何の気なくテレビを見ていると、最近は同じ話題が繰り返し報じられていることに気づいた。

 八歳から九歳くらいの子供に、いじめと思われる自殺や怪我、更には行方不明が相次いでいるということだった。それも全国規模らしい。

 子供が死傷する痛ましい事件が相次いでいること、八歳から九歳と幼い年代に集中していることが、ワイドショーでしきりに話題に上っていた。

 この八歳から九歳は、いわゆる第三次ベビーブームの世代だ。この子供たちがいじめなどの事件を起こすので、俗にルーナベイビーズと呼ばれるこの世代をもじって、ルナティックベイビーなどと皮肉るコメンテイターもいたほどだ。

 テレビをつけてもこの話題ばかりなので、次第に飽きてきた。そして入院から二週間も経つと、だんだん寝つきが悪くなり、じっとしているとイライラするようになってきた。

 日勤の看護婦が、車椅子を押してやってきた。ウトウトしていた僕を起こして車椅子に乗せ、後ろから押した。高坂以外の看護婦が僕に何かをするのは、覚えのある限りで初めてだった。

 エレベーターに乗ったところまでは覚えている。しかし、昨夜も夜中に起きていたこともあり、車椅子に座ったままウトウトして、道中の記憶がない。

 揺り動かされて目が覚めると、硬いベッドに移された。白衣にマスク姿の男性が現れて、首のコルセットを外し、首周りを触診した。

 名前も覚えていない、主治医だ。

 僕は言われるままに首を動かし、気になるところはないかと聞かれたので、違和感があると答えた。もう動かして大丈夫なので、首筋を使って解すように言われた。

 次に胸のコルセットを外し、看護婦に指示して、僕の体を拭かせた。温かいタオルが当たると心地よく、タオルの熱が肌から蒸発すると、一緒に垢も蒸発したような、清らかな心地を感じた。

 コルセットは外したままで病衣を羽織ると、今度は右足のギプスが取り外され、胸同様、温かいタオルで清められた。

 足首のやや外側に、縫合痕があるようだった。主治医は痕の周りや足首を触診した。主治医が退くと、看護婦が待ち構えていたように、縫合痕を消毒してガーゼを当て、包帯を巻いた。

「念のため、抜糸はもう少し先にします」

 主治医が僕の枕元に座り、説明していた。

「触診した限り、経過は順調ですよ。さすがに若いね。後二、三週間でサポーターに変えられるかもしれません」

 そう言った後、足首の金属が入った場所の説明をしていたように思う。

「経過を見るために、胸と足首のX線写真を撮ります」

 主治医はそう説明すると、看護婦に段取りを説明し、退出していった。

 僕は数人の看護婦の手を借りて、ゆっくりと車椅子に移され、運ばれた。

 首に胸に足にと、固定する物が無くなった解放感と、蒸しタオルで体を拭いてもらった心地よさと、寝不足とが合わさって、僕はすぐに眠っていた。

 気付くとレントゲンを撮る機材らしい物の前にいた。そこにいた男性の医師に手を借りて、胸と足首のレントゲン写真を取ると、再び看護婦の押す車椅子に乗せられた。

 僕はつくづく眠かったのだろう。夜更かしが過ぎたのか。車椅子に乗るたびに眠っていた。これだけ色々させられていたら頭が目覚めそうなものなのに、我ながらよく眠ったものだ。

 車椅子のまま、診察室に移動していたようだ。主治医の机の上に、黒と白でできた写真があった。よく見ると、白い部分は骨のようだ。

 胸の写真は、僕が見てもよく分からない。幸いなことに、主治医が指で、ここにヒビがあると教えてくれた。経過は順調らしい。

 足首の方は、骨以外に何かが映り込んでいた。また、骨も、これは素人が見ても分かるほどバラバラだった。異物を支えにして、かろうじて形を保っている雰囲気だ。

「もう骨と骨とがくっついているね。さすがに若い」

 主治医が笑いながら、バラバラになっている部分を示した。僕にはどう変化しているのかが分からないので、答えようがない。

 主治医は返事が無くてもお構いなしに説明した。

「胸はもう少しコルセットで固定しておきましょう。でも、激しい運動でなければ、そろそろ、動いて大丈夫なので、病院内でも歩くようにしてください。激しい運動はダメですよ」

 自分の足を見ると、ふくらはぎの膨らみがない。太ももも、痩せ細っていた。

(確かに動かないとまずいかも)

 そう自覚できるほどだった。

「足首はもう一度ギプスを付けます」

 主治医にそう告げられ、看護婦が僕を連れに来た。

 別の部屋に移ると、車椅子に座ったままギプスを付けるようなので、僕は見学するつもりだった。が、道具を用意する待ち時間の間に眠ってしまった。

 次に気づくと、もう自分の病室だった。看護婦に促されて車椅子からベッドに移ると、看護婦はそのまま車椅子を押して去って行った。

 まだ眠かった僕は、そのままベッドで眠っていた。

 顔が温かくなり、目が覚めた。陽が高くなり、僕の顔を温めていたようだ。

 さすがに眠気もだいぶ晴れたので、ゆっくりと起き出し、ギプスを確かめた。

 胸が固いものに阻まれ、思うように動けず、もぞもぞとベッドの上で体制を変えた。胸のコルセットが戻っていた。いつ着けたのか、覚えがない。

 重い足も動かして、やっとギプスに触れると、もう固く乾いていた。

 ベッドの端に移動して右足を床に付けてみる。触れる程度ではなんともなかった。少しずつ体重を乗せていくとやはり痛むので、右足は床に付けない方がいいと悟った。

 ベッドの端に座っていると、太陽の光が体全体を包み、じわじわと暑くなってくる。この熱気が気持ちの温度も上げたのか、体を動かしたい衝動に襲われた。

 もう、じっとしているのには耐えられそうもない。陽の光には、体を動かしたくなる効果でもあるのだろうか。

「せっかくだし、病院内を探検するかな」

 僕は一人呟いて、近くに立てかけてあった松葉杖を手に取った。



  9


 僕の病室は五一一号室で、最初の病室と同じ五階ではあるものの、ナースステーションから非常に遠かった。

 部屋から出て右を見ると、そこにも階段がある。建物の東端だ。この階段は上りもあった。

 今回は階段を避け、とりあえず、ナースステーションに向かってみた。病室の戸口から左に曲がり、廊下を進む。

 廊下の左側には病室が並び、右側は窓が柱と柱の間を埋め尽くしていた。学校の廊下を思わせる作りだ。窓の下に手すりが延々と続き、窓の外には防護ネットが張ってあった。

 病室は五一一が東端で、五〇九から三部屋が個室だった。

 僕の個室の作りは、扉のすぐ右側にトイレと洗面所があり、奥の窓際に、横向きにベッドがあった。廊下からは寝ている人の足元が見える程度だ。

 その足元の傍にテレビと台がある。元々は枕もとの横、窓際にあったが、高坂が、首を固定しているうえに体を動かせない状態では見られないだろうと、移動させたのだ。テレビ台にはストッパー付きのキャスターが付いているので、高坂でも簡単に動かせた。

 窓際にはカウンターのようなでっぱりがあり、この上に花瓶が置かれていたり、小物が置かれていたりする。

 廊下からは見えないが、ベッドと洗面所やトイレの壁との間に机がある。この机の下は収納スペースになっていた。他の個室も似たような作りだろう。他の個室は全て、扉が閉まっていたので確認はできなかった。

 五〇六から五〇八は横幅が個室の倍くらい広い。中が覗ける部屋を見ると、ベッドが四つ並んでいた。

 五〇五号室に差し掛かると、今度はベッドが六つあった。五〇四は存在せず、次は五〇三で、以降五〇一まで六床の部屋だった。

 僕が最初に入った五〇二を覗いてみると、右側の真ん中はシーツが綺麗に整えられ、使われていない様子だった。廊下の部屋番号の下の名札も、その位置は空欄だ。

 病室を通り過ぎ、ホールに出た。ナースステーションのカウンター越しに覗き込むと、机に向かって何やら書き仕事をしている人、奥の衝立の側で何か話し込んでいる人がいた。

 高坂はいない。今まで夜にしか見かけたことがなかった。やはり昼間はいないようだ。

 僕はホールの長椅子の一つに腰かけた。久しぶりに動くと、この廊下の移動だけでもいい運動だ。息が切れるわけでもないが、左足や松葉杖に捕まる両手両腕が、悲鳴を上げるように震えていた。

 筋肉が衰え、たったこれだけの移動で悲鳴を上げているのだ。僕は軽くショックを受けた。

(これはやばいな…。ちゃんと運動しなきゃ)

 そう思いながら、手足をさすった。

 ホールには患者が三人いた。三人とも年配のようで、頭髪に白いものが目立つ。ホールの南側には窓がなく、代わりに大きなテレビが置かれ、三人はこのテレビに見入っていた。

 三人とも別々の長椅子に腰かけている。僕はその内の一人が座る椅子の反対側に腰かけていた。

「お、少年、生きていたか」

 同じ長椅子に座っていた男性が、僕に気づいて声をかけてきた。

「短い間だったけど、隣のベッドだったんだ。噂には聞いていたけど、無事で何よりだ」

 彼はそう言ってほほ笑んだ。

「あ、はい、ありがとうございます」

 僕は何と答えていいか分からず、とりあえずお礼を返しておいた。

「もうよくなったのか?」

 僕の体を気遣ってくれているのだろう。

「胸のコルセットとギプスは残ってますけど、だいぶ楽になりました」

 正直、首もまだ動かし難かったり、痛かったりする。が、そこまで答える必要もないだろう。楽になったのは事実なのだから。

「うんうん、よかったよかった」

 彼は嬉しそうに笑った。

「君は若いから、治りも早いだろ。わしより先に退院だな、きっと」

 それだけ言うと彼はテレビに向き直った。

 僕は何も答えず、しばらくテレビを眺め、震えが治まるのを待った。

 昼間のテレビは、ワイドショーばかりだ。今も、芸能人の誰々がどうしたとか、さも真剣そうに論議していた。

 特に興味もないので、震えが治まり、体を動かせそうになると、すぐに部屋路へと戻った。

 初日の探検はそんなものだった。これでは探検とも呼べないか。

 次の日、しっかりと筋肉痛に襲われた。動くとあちこちに痛みが走る。だが、打撲の痛みに比べると、どこか心地いい。

 動いていればその痛みもだんだん薄らぐので、今日も探検に出かけることにした。

 探検、と名目を付ければ、どこか非日常になる。ただの散歩でも気分が高揚する。男の性だろうか。いや、男の子の性だ。何もないときの遊びと言えば、探検と相場が決まっている。特に見知らぬ場所にいる時は。

(そういえば麻奈美はどうしてるだろう?)

 ふと、麻奈美を思い出したこともあり、今日は四階へ行ってみることにした。

「うちの麻奈美に近づくな!この疫病神め!」

 彼女の父親の怒鳴り声が、今も耳に残っていた。言われたとおりに近づかない方が賢明だろう。だからといってすっぱり諦められるほど、心の整理はついていなかった。

(やっぱり、麻奈美のこと、嫌いにはなれないな…)

 彼女のことを好きか嫌いか考えると、こういう結論になる。僕は未練がましいのだろうか。

(怪我の回復具合も気になるし、廊下から眺めるくらいはいいだろ…)

 僕はそう考えながら、エレベーターへ向かった。

 四階で降りると、目の前に長椅子が並び、その先にナースステーションのカウンターが見えた。構造は五階と同じだ。ただ、ここは女性ばかりで、正直気が引ける。

 引き返そうかとも思う。が、麻奈美の事が気になって仕方が無くなったので、思い切って歩き出した。

 麻奈美は相変わらず四〇五号室の左奥、窓際にいた。仕切りのカーテンが目一杯開いているおかげで、眺めることができた。幸いなことに、両親の姿もない。

 女性の寝顔を、真直ではないとはいえ、じっくり見るのも初めてだった。あまり見てはいけないような、後ろめたさを感じながらも、見つめていた。

 麻奈美の顔はなかなかに整っていると思う。余り高い鼻ではないものの、鼻筋が綺麗だ。髪は茶色く染めている。二週間の入院生活で、頭皮に近いほど黒髪に戻っていた。

 麻奈美のベッドの周りは殺風景で、特に何も置かれてない。その殺風景な中に、なぜか折り畳み式の車椅子が見えた。

 麻奈美は眠っているのか、動く様子がない。右足も吊り上げたままだった。

 ふと、麻奈美のお腹の辺りで何かが動いたような気がした。もう一度よく見てみても、今は動きがない。何かが渦巻くような、もぞもぞ動くような感じだったので、呼吸による上下とは違う。

 呼吸らしい上下運動以外、動きは見えない。やはり目の錯覚だったのか。

 時間をかけて確認するわけにもいかない。異性ばかりの空間に佇んでいると、目立つ。誰かに見咎められているような気分になり、まるで罪でも犯しているような焦りを覚えた。

 僕はあまり長居してもまずいと思い、立ち去った。廊下ですれ違う患者の女性たちに睨まれているような気もしたが、それは自意識過剰だった。実際は別段、僕を見ているわけでもなかった。しかし、別に気にしていないと言う確信もない。逃げるように自分の病室へ戻ると、ベッドに腰かけ、一息ついた。

(前と様子が変わらなかったけど、大丈夫なのかな?今度高坂さんにでも聞いてみようかな)

 そう考えた。ベッドに体を横たえると、すぐに眠っていたらしい。気付くと、食事が届いていた。窓の外が赤く染まっている。

 最近、この食事も物足りなくなった。ご飯と煮物と味噌汁とサラダにデザート。それに薬が少々。つい先日まではこれでも十分だったのに、食べ足りない思いが募った。実際に食後しばらくしてお腹が鳴ったこともあった。

「そろそろ購買まで行けるようにならないと、ひもじいかなぁ」

 独り言ちながら食べた。

 食べ終わると、ちょうど白衣の中年の女性がお膳を片付けにやってきた。お膳を持ち帰る女性と入れ替わりに、白衣姿の高坂が現れた。

「はぁい!元気?」

 高坂が明るく言う。

「はい、おかげさまで」

 僕もすぐに答えた。最近の開口一番、こういう挨拶に落ち着いていた。

「ふむ、だいぶ顔色が戻ってきたわね」

 高坂は僕の顔を覗き込んでそういい、踵を返して出て行こうとした。

「あ、待って」

「ん?」

 高坂は立ち止まり、顔だけこちらに向けた。

「麻奈美の具合はどうなんです?よくなってるんです?北村麻奈美です」

「ああ、彼女ね。ってもうフラれたんでしょ?」

「うん、まあ」

「でも気になる?」

「はい」

 僕の返事に、高坂は体も向き直った。

「私は五階の担当だから、詳しくないのよ」

 彼女はそう言い置いて、少し考え込んでから言った。

「外傷は順調に回復しているそうよ。元々、君よりは症状軽かったの。でも、原因不明で、意識の混濁が起こっているみたい」

「え?原因不明?混濁?」

「ええ、言葉通りよ。簡単に言えば、寝ぼけたような状態が続いているの。でもこれ、部外者に言うべき事じゃないから、お口にチャックでお願いね」

 高坂は、口の前で親指と人差し指で何かを摘まむ仕草をし、そのまま口の端から端まで動かした。そして僕の返事を待たず、踵を返して病室を出て行った。

 意識が混濁すると言うことは、頭でも打っていたのだろうか。あの口ぶりからすると、麻奈美は寝たきり状態なのだろう。それで大丈夫なのだろうか。

 だが、一つ気にかかることがある。父親に頼んで、僕を追い返したことだ。あの時は、混濁したような様子は一切なかった。麻奈美を見たのは一瞬に過ぎないし、専門家ではないので断定はできない。それでも、対応はともかく、普通の状態だったと思えた。

 その後で、混濁が起こったのだろうか。そうとしか思えない。

 それはなぜか。僕は詳しいことを知らない。医学生でもない。ただの平凡な、社会学部生だ。人体の異常について考えても、分かるはずもなかった。

 麻奈美のことをもっと詳しく聞けば、少しはヒントがあるのかもしれない。しかし、家族や縁者でもない僕に、病院が説明するわけもないだろう。高坂も、あれ以上は答えてくれそうになかった。

 麻奈美に直接問いただす。これならもう少し分かるだろう。しかし、麻奈美の父親から近づくなと言われている以上、行けば面倒なことになるのが目に見えている。今度は本当に殺されかねない。

(気にはなるけど、僕ではどうしようもないなぁ)

 僕の思考はそこに行き着いて、停滞した。



  10


 気付くと、また転寝をしたようだ。辺りは暗く、電気も消えていた。

 窓の外に月はない。夜空に星もあまり見えなかった。病室は完全な闇ではなく、非常灯の薄明りで意外と見渡せる。外は外で、街灯や病院から漏れる明かりなどで、星が見えるほどに暗くはないのだ。

 それでもじっと見つめていると、いくつかの星は確認できた。

 僕はもう一度寝ようかとも思ったが、目を瞑ってじっとしていても眠れそうにない。

 仕方ないので、ベッドから起き出し、少しだけ廊下を徘徊して体を動かそうと考えた。

(そういえば、高坂さんの仕事ぶり、まともに見たことなかったし)

 と、自分にも妙な言い訳をして歩き出した。

 廊下は所々に非常灯が点いているだけだ。それでも歩く分には困らない明るさだった。

 ちょうどその時、二つばかり向うの扉が開いた。

「もうそういうことでナースコールは押さないでください。自分でできることは自分でしましょう」

 高坂だ。室内に向かってそう言い切ると、扉を閉めて立ち去った。

(患者さんにあんな言い方、いいのかな?)

 疑問に思いながら、彼女の背中を追う形で歩いた。

 高坂はすぐ次の扉を開けて、入った。そこは四人部屋だ。

 部屋の前まで行くと、扉は開け放たれており、中が覗けた。が、各ベッドの仕切用カーテンが閉め切られており、高坂がどこにいるのか分からなかった。

「体の向きを変えますね」

 高坂の、小さな声が聞こえた。答えるように、ベッドがきしみ、布がこすれる音が響いた。

「すまんね」

 男性の小声が聞こえた。

「いえ、これも仕事ですから、遠慮なさらず、言ってください」

「どうも人をボタンで呼びつける気にはなれんでね。時々見に来てくれて助かったよ。本当にありがとう」

「どういたしまして。さ、長くは寝付けないかもしれないけど、眠ってください」

 そう言う声が聞こえ、高坂が右手前の仕切りから出てきた。

 高坂は、僕が入り口を塞いで立っているのに出くわし、一瞬驚き、咎めるように眉をひそめた。

 僕は軽く後ろに押され、気付くと扉が音もなく閉まっていた。そして、耳元で声がする。

「覗いちゃ、ダメよ」

 高坂の息が耳にかかり、何とも言えない感覚が襲った。くすぐったいような、もっとその吐息を感じていたいような、今までの人生で味わったことのない感覚だ。いや、もしかしたら、両親が亡くなる前の幼いころに経験があるかもしれない。どこか懐かしいような感覚もあった。

 吐息に気を取られて気付いていなかったが、彼女の体が僕に触れている。コルセットさえなければ、彼女の柔らかい感触が、胸に伝わってきたかもしれない。

 スッと、高坂が離れた。

「眠れないの?」

 囁き声だ。離れたと言っても、まだ顔が目と鼻の先にあるので、よく聞こえた。これはこれで、顔が近い。二重瞼が見て取れた。薄い唇が、なぜか艶めかしい。

 僕は高坂の唇から目が離せなくなった。わずかに開き、歯が見える。舌が出てくると唇をひとなめした。その舌の動きすら、色っぽく見えた。

 僕は無性に、高坂の唇に触れたくなった。そっと触れたら、彼女はどんな反応をするのだろう。湿った唇に触れたら、どんな感触なのだろう。その唇に、僕の唇を触れさせたら、天にも昇る心地に違いない。

 僕はどれくらい、高坂の唇を見つめていたのだろうか。時間の感覚がなかった。

 突然、鼻の頭を突かれたことで、正気に戻った。

「こら」

 高坂が、小さい子供を叱るような言い方をした。だが、それもまた、艶めかしく感じる。

「なんだよ、そこで抱き着いて唇でも奪えよ」

 唐突に、男の声が後ろから聞こえ、僕の背中が叩かれた。振り向くと、なぜか皆川龍也がいた。

「なっ!こんなところでっ!こんな時間に!何やってるのよ!」

 高坂も驚いていて、少し大きな声で文句を言っていた。

「少年、もったいない」

 皆川はお構いなしに、僕の肩に手を置いて、同情するように言った。

 高坂が皆川に向かって一歩踏み込み、拳を打ち込んでいた。

 皆川はお腹を押さえて後退った。

「いいブローだ…」

 皆川が呻いた。

「どこから侵入したのよ!面会時間じゃないのよ!」

「ああ、ちょちょいと開けて、そこの一階から」

 皆川はお腹を擦りながら、高坂から距離を取った。空いた手の親指で、東端の階段を示していた。

「ちょっと確認ごとがあってね。もう済んだから帰るさ」

「一階って、施錠してあるはずだけど?」

「そうだったかな?」

 高坂が拳を振り上げたので、皆川はさらに距離を取った。

「おー怖い怖い。また殴られる前に退散退散」

 皆川は言うが早いか、階段に向かって走り出した。

「待ちなさい、この不審者!」

 高坂が後を追う。

 僕も後を追って様子を見たかったが、走り出した二人を追いかけるのは、松葉杖では無理だ。僕はおとなしく部屋に戻った。

 窓を開けて下を覗けば、皆川が出てくるのが見えるかもしれない。

(でも、皆川さん、こんな時間に何やってたんだろう?)

 考えながら窓を開け、下を覗いた。

(そう言えば、足音もしなかったよなぁ)

 考えを巡らせる間もなく、誰かが駐車場に飛び出したのが見えた。そのまま走って通りに出ると、左方向に曲がって見えなくなった。

 高坂は、外までは追いかけなかったようで、他に人影はなかった。

 僕は窓を閉め、ベッドに戻ると、腰かけて空を眺めた。

(何だったんだろう?)

 皆川は探偵だと聞いていた。ならば、何かを調べに来ていたと考えるべきだ。

(何を調べに?)

 考えてみても、まるで見当がつかない。

 勢いよく扉が開く音がして、僕は振り向いた。

 肩で息をする高坂が、仁王立ちしていた。口を動かしているが、声にならない。しばらくして、

「あんな大人になっちゃだめよ!さっさと寝なさい!」

 と、まくし立てて、扉を閉めた。

(うん、怒らせない方がいいね)

 僕は妙な納得の仕方をして、大人しく寝ることにした。



  11


 次の日、心地いい筋肉痛を引きずりながら、僕は病室を出た。

(今日はいっぱい歩いてみよう)

 そう決心し、頭の中で宣言してみた。

 まず、エレベーターに乗り、三階で降りた。この階も構造は五階と同じで、エレベーター前はホール、その向こうはナースセンター、右側は階段、左側はトイレになっていた。

 違うことと言えば、そこかしこに子供がいて動き回っており、気を付けないとぶつかってしまうことと、子供たちの発する奇声が、とても賑やかなことだ。

 四階や五階の廊下では、たまにパジャマ姿の人とすれ違うことがある程度で、時間によっては廊下が無人の事もあった。なので自由に松葉杖を突いて歩けたのだ。

 ところがこの三階は、下手に松葉杖を突くと、通りかかった子供にぶつけてしまいそうだ。

 目の前で、長椅子の周りを走り回って追っかけっこをする一団があった。男女の区別はない。同様にパジャマ姿で、わけ隔てなく一緒になって遊んでいた。

 しばらく眺めていると、ここが病院だとは思えなくなってきた。

(この子達、いったいどこが悪いんだろう?入院の必要がなさそうだけど)

 あまりにはしゃぎ回っているので、ふとそんなことを思った。

 僕はゆっくりとトイレの前へ移動し、廊下を眺めた。見える限り、上の階と同じようだ。この廊下も子供たちの遊び場になっていることを除けば。松葉杖を突いて歩くには、不規則に動き回る子供が多すぎる。

 僕はこの階を歩くのは諦め、エレベーターに戻った。

 二階で降りる。

 正面はホールになっているものの、ここにはテレビもナースステーションもなかった。正面は壁だ。右手には階段、左手にはトイレがあり、トイレの正面が廊下になっているのは、今までの階と同様だ。ホールに長椅子もテレビもなく、人もいない。観葉植物すらなく、殺風景だ。

 廊下に出てみても、いくつか部屋が見え、東端に行き着く前に扉に突き当たり、廊下が終わっているだけだった。人の気配もなく、それぞれの部屋の前に札も何もないようだった。

 何をするところなのかさっぱり分からなかったが、あまりの殺風景に歩く気が失せ、エレベーターに戻った。

 エレベーターはまだ動いておらず、すぐに扉が開いた。そのまま一階へ向かった。

 一階も今までと同様、目の前はホールになっている。右手に階段があり、その左側、南に面した壁が無く、代わりに通路があった。他の階ではナースステーションがあった正面は、壁だ。左手にはトイレがあり、トイレの正面から東に向かって廊下が続く。

 廊下へ出て奥を見ると、少し先で扉に行き当たり、袋小路になっていた。袋小路の扉の上には大きな文字で「リハビリセンター」と書いてあった。

 右足のギプスが外れたら、ここへ通うことになる、と主治医から言われていたことを思い出した。それまでは用がないので、南側にある連絡通路へ向かった。

 僕が今いる建物は、病棟とか別館とか呼ばれているらしい。そしてこれから向かうところは本館という。別館は東西に長い五階建てだ。本館は南北に長く建っている。本館も五階建てのようだった。

 連絡通路はすぐに右へ曲がり、本館側に入ると突き当って左右に廊下が分かれた。

 右側、こちらは北になる。廊下は少し先で突き当り、左へ曲がっていた。その角の北側の壁に扉があり、非常口と書かれていた。

 僕は突き当りまで歩いて行き、左を覗いてみた。少し先の左側に階段と、エレベーターがあるようだった。僕はそれだけ確認すると、廊下を引き返し、連絡通路を通り越してそのまま真直ぐに進んだ。

 南に向かって歩くと、時々、右へ向かう廊下が現れた。そこでは曲がらずに進むと突き当り、右に曲がった。そして、南北に続く廊下に突き当たる。

 左に曲がって進んでみた。

 廊下の両脇には、背もたれの無い長椅子が点々と置かれ、途切れると扉があった。今は誰も居らず、静まり返っていた。

 さらに進むと大きなホールに出くわした。待合室のようだ。背もたれ付きの長椅子がいくつも並ぶ。

 ホールの先、南に面した部分が正面玄関だ。その左側にはシャッターがいくつか降りた場所がある。一ヶ所だけ開いており、会計という文字盤がぶら下がっていた。「総合受付」「外来受付」「薬局」といった文字盤があるが、すべてシャッターが下りていた。

 会計の前に腰の曲がった人物がいて、事務服姿の女性がカウンター越しに受け答えしていた。その横から白衣の男性が現れ、白い袋を差し出した。

 玄関の右側は大きなシャッターが下りていて入れない。廊下に「診察室」と書かれ、矢印がシャッターに向かっていた。

 会計の前の人以外、誰もいない。もう外来も終わったのだ。僕は廊下を引き返した。

 先ほど曲がってきた廊下が右に見えた。そこを通り越した。次は、直進と、左に廊下があった。

 左の廊下は両開きの扉で突き当り、その手前の右側に階段とエレベーターがあるようだった。

 直進すれば、売店に突き当たり、右に廊下が続く。

(左に行って上ってみようかな?)

 僕は少し考えた。が、お腹が鳴って、売店に誘われた。

 廊下を前進し、扉が開きっぱなしの売店へ飛び込んだ。六畳くらいだろうか。狭い店内に、菓子パンやお菓子、カップラーメン、雑誌に新聞、歯ブラシや紙コップ、割りばしなどあった。大して品揃えはなさそうだが、空腹を満たすには事足りそうだ。

 僕は入り口傍の籠を取って、松葉杖は片手にまとめた。

 適当に気になった菓子パンやお菓子を籠に詰めてレジカウンターへ持って行った。飲み物は、病室に冷蔵庫もないのでやめた。いざとなれば、病室の洗面所の水を飲めばいい。

 それに、意識して見てなかったので気づかなかったが、どこかには自動販売機があるはずだ。

 僕は病衣のポケットから財布を出し、レジの男性が言う金額を出した。男性が商品をビニール袋に詰めてくれ、取っ手を広げて差し出すので、右手を入れて受け取った。

 しかし、それでは足を踏み出せないことに気づき、左に持ち替え、右手で松葉杖二本を持った。

「大丈夫?」

 男性が聞いてきた。

「はい、大丈夫だと思います。ありがとうございました」

 僕はお礼を言い置いて、ぎこちなく歩き出した。先ほどまでと比べると歩き難いが、買い出ししておかないと空腹で困る。

 僕は売店を出て左へ進み、突き当りを左に曲がった。

 本当は、本館側の階段二ヶ所、それに別館の東端の階段について見ておきたかった。しかし、買い物をした以上、このままでは動き回れない。真直ぐに別館のエレベーターを目指した。

 別館のエレベーターに近づいた時、どこからか女性の声が聞こえた。どうやら、階段から聞こえるようだ。

 僕はふと、階段の踊り場に近づいてみた。

 声はやや聞き取りにくい。わずかに反響していたり、声が遠かったりするせいだ。

(三階辺りかな?)

 僕はそう見当を付けた。声の主は二人のようだった。かなり大きな声で話しているようだ。

「ねえ、聞いて聞いて」

「今度は何やったの?」

「彼氏との待ち合わせ、忘れてたぁ!」

「また?」

「うん、またやっちゃった」

「今度こそ愛想尽かされたわね」

「そうなのよ~、もうごめんだって」

「諦めて新しい彼氏探しなさいな」

「この仕事してたら出会いなんてないのよ」

「それはそうだけど、ねぇ」

「ああもう、あたしってなんでこう、失敗ばっかりするんだろう」

「どじっ子を売りにする?」

「やめて!」

 言ったかと思うと、二人の笑い声が響いた。

 他愛のない話なので、聞いているのもまずいと思い、立ち去ろうとした。

「そう言えば、五階の高坂さん、また外科病棟の婦長と揉めたって?」

 高坂の名を聞いて足が止まった。僕は音を立てないように階段端に戻った。

「ああ、田中婦長に目を付けられているあの子ね」

「そうそう」

「でも、私は高坂さん、あながち間違ってないと思うのよね」

「でも、命令違反とか、一部の患者の頼みごとを無視とか…」

「私も時々思うのよ。これ私たち看護婦呼んでお願いしないでも、自分でするか、家族にしてもらいなさいなって」

「あ、それ思う!自分で動けるのに、あれ取ってとかそれして、とか」

「ねぇ。三階だと相手が子供だから、そこまでないけど、四階五階って、理不尽なナースコールも多いもの」

「そうそう、でも応えないと苦情言われて。あたし、小児病棟へ移動になって良かったわ」

「肉体的には大変だけどね、子供たちの相手」

「うんうん」

「高坂さんのやり方は角が立って、一部問題にはなっているけど、重篤な患者に寄り添って看護しているのだから、あれが本来の看護婦なのかも」

「そう言われると、そうね」

「でも、田中婦長に聞こえると目を付けられるから、内緒でね」

「あの婦長、自分の言うこと聞かない子にはとことん酷い仕打ちするわよね」

「今は高坂さんが目立って、彼女が一手に鞭を受けている感じね」

「うわぁ。想像すると怖い。あたし、関わってなくてよかった」

「あ、その口ぶりは、酷い目にあったことあるのね」

「あたし、失敗多いからねぇ」

「うん。目の敵にされそうね」

「おーこわ」

「私たち、小児病棟でよかったわね」

「ここだと男あさりができないけどね~」

「数年先の予約しとく?」

「アハハ、美少年捕まえて、光源氏計画?」

「何年かかるのよ!」

「手っ取り早くだと、五階にあさりに行くか、研修医辺りね」

「ああ、北村先生。ああいうの、いいね」

「でも、もう相手いるっぽいの」

「え、そうなの?」

「うん、それもここの看護婦」

「ええ!だれだれ?」

「知りたい?」

「知りたい!」

「これ、本人たち隠しているみたいだから、内緒よ?」

「分かったから!」

「遠藤園子」

「遠藤…ああ、小柄で少しポッチャリ系の」

「そうそう」

「ああ、もうお手付きかぁ。それにしても、男の人って、ああいう可愛い系って好きよね」

「そうよ、残念だわ。ここに美女が二人もいるのに」

 そう言うと少し間が空き、二人の笑い声が響いた。

「ああもう、五階に若い男あさりに行ってみようかしら?」

「アハハ、いいね。田中婦長だけは注意で」

 男あさりの話になって、僕は何か聞いてはいけないことを聞いてしまったようで、罪悪感と言うか、妙な背徳感を感じて、見つからないように、音を立てないように、立ち去った。

 話題に出ていた高坂の事が気になって聞き入っていたものの、いまいち要領を得なかった。婦長と言うことは、上司との確執だろうか。

 確かに高坂は気が強そうだ。人から見たら、目障りかもしれない。看護婦の仕事をよく知らないので断言はできないものの、看護を受けた身からすれば、高坂には感謝し足りない。よくやっていると思う。仕事をしっかりとこなして、なぜ上司に怒られ、目を付けられないといけないのだろうか。他人事ながら、理不尽なものを感じていた。

 しかし、僕の気持ちは別のことに捕らわれていた。考えるにつれて雑念が増し、そわそわしていった。二人の看護婦の、男あさりの方が気になって仕方なかったのだ。

(女の人って、男あさりって…)

 驚きと、知ってはいけないような背徳感と、そして、全くチャンスはないのに、僕にもチャンスがあるのかと、妙な期待を抱いていた。

 誰とも分からない二人の看護婦の会話が頭の中で繰り返され、離れなかった。

 そこからどうやって病室に戻ったのか覚えていない。気付いたらベッドの上に戻り、悶々としていた。

(ひょっとしたら、扉が開いて、さっきの看護婦が入ってきて…)

 などと妄想が浮かんでは、気恥ずかしさで悶えた。

 唐突に誰かに呼ばれたような気がして、ベッドから上体を起こした。見渡してみても誰もいない。扉も開いていない。五階なので、窓の外ももちろん誰もいない。

(そういえば、僕が女の子のこと考えてると、よく、誰かに呼ばれたような感じがするんだよなぁ)

 既視感と言うのだろうか。これを感じるのは何時も、と言うわけでもないので、あまり意識していなかった。

 ベッドから降りて、窓の外も確認してみた。窓を開けて外を覗くと、陽が落ちてきて、風が冷たくなり始めている。目の前の防護ネットが風に揺れていた。

(このくらいの時間が一番心地いい気温かもしれない)

 柔らかい風が心地いい。気恥ずかしさから体が熱くなっていたのが、心地よく冷まされる。

 窓の下方は駐車場で、もう車はほとんど止まっていない。右を見ると、五階建ての建物が、視線を遮るように存在した。本館だ。左を見ると、二階建ての民家のようなものの屋根が見えた。

(自意識過剰なのかな?変なこと考えてるから、見られたくない、とか。それで呼ばれた気がしたり、視線を感じたり…)

 自分の考えに、一部引っかかった。

(ん?視線?)

 考えてみる。が、何の答えも出ないので、そのうちに忘れ去った。そして再び、顔も知らない二人の看護婦が訪問してくる妄想にふけっていた。



  12


 次の日も、筋肉痛に鞭打って病室を出た。今日は東端の階段を利用してみるつもりだ。

 右に曲がるとすぐに階段で、まずは上に行ってみた。

 踊り場に出ると両開きの扉があり、ノブを回すと押し開けることができた。

 青空に囲まれた空間が現れた。左の空に太陽が輝いている。

 ここはフェンスで外周を囲まれた空間で、フェンスの脇にはベンチもあった。患者が自由に出て、憩える場所のようだ。

 ただ、西方向は建物の半分ほどの所でフェンスによって仕切られ、西側には入ることができない。位置的にはナースステーションから五〇五号室くらいだろうか。西の端に四角い建物が突き出ている。三階分くらいの高さがありそうだ。その突き出た建物と仕切りのフェンスとの間に、シーツと思われる白い布が所狭しと干され、風に揺れていた。

 仕切りのフェンスまで近づいてみた。一応、入り口はあるものの、南京錠が付いていて、開かなかった。フェンスは僕の背より少しだけ高い。コルセットやギプスが無ければ、乗り越えることもできるだろう。

 病棟の外周のフェンスも同じ高さだった。ただ、こちらは乗り越えようとは思わない。

 振り向くと、東端に四角い建物が乗っているのが見えた。先ほど出てきた階段だ。こちらは一階分程度の高さだ。その上に、大きな給水タンクがあった。

 僕は南側のベンチの一つに向かいながら、景色を見渡した。

 北側も南側も、大小の建物が点在しているようだ。ここは、街中だろう。

(そう言えば、僕はこの病院の名前を知らなかったなぁ)

 改めて景色を確認した。

 北の奥の方は山々が連なっている。その山裾まで建物が詰まっていた。所々、背の高いマンションやビルが見えた。

 南側は少し先に小山があって、小山の向こう側が見えない。小山までの間に、少し視界の開ける場所が点在していた。二階建てくらいの高さで横に広い建物と、その駐車場だ。ホームセンターか、スーパーマーケットだろう。この辺りに商業施設がいくつかあるようだ。

 そういった地形に符合する場所、と思いを巡らすと、一つの病院に思い至った。

「尾永病院かぁ」

 僕は呟きながらベンチに腰掛けた。

 尾永病院はこの町の比較的大きな総合病院だ。しかし、特に病院名が分かったからと言って、困ることも得することもない。友達の少ない僕は、見舞いに来てくれる友人知人もいないのだ。なので知らせる相手もいない。

 座ったまま振り向いて北側の山々を眺めた。この山の西の方に、嫌な思い出がある。しばらく忘れていた出来事だ。一生忘れないと思っていたのに。ここからでは山道があることも池があることも分からない。

 両親が死に、自分も死ぬと思ったあの頃のこと。山を眺めると思い出され、胸が締め付けられた。胸の奥の住人がもぞもぞと動き出したのが分かった。

 僕は南に向き直った。もう十年経つと言うのに、思い出すと目頭が熱くなった。だから、気分を変えたい。

 右の方を見ると、本館が南に向かって競り出していた。見た感じだと、四階と五階は病室のようだ。パジャマ姿の人影や、ベッドや仕切りのカーテンが見えた。

 二階三階はよく分からない。一階は昨日歩いたので、外来受付や診察室や各種検査室があることが分かった。

 本館と別館に囲まれたスペースが駐車場で、フェンスに張り付けばかろうじて見える。

 気持ちが落ち着いてくると、車の騒音が聞こえることに気づいた。駐車場の南側は大きな通りになっていて、車が行き交っていた。

 その道路の向こう側は民家のようだ。時々、背の高い建物が現れる。そして開けた場所が現れ、車が数台止まっているように見えた。隣接するように、二階建て程度の高さの建物がぐるっと囲んでいる。かなり大きな建物だ。

(あの辺りは…ホームセンターだったかな)

 とっさに店の名前は思い出せなかった。

 そのさらに南へ目線を移すと、小高い林があった。ここからは見えないが、林の先に海がある。海辺に整備された道があり、そこで麻奈美とドライブデート中に事故に遭遇したのだった。

 こうしてみると、北も南も悪い思い出ばかりだ。

 ここからは見えないが、北東方向の町中に通っている大学がある。駅もその方向で、やや北寄りだ。

 西の方にも山があり、そこを超えた隣町の小さな駅の側に、木村賢吾の事務所がある。僕の実家もその町だ。今は賢吾が管理をしてくれており、誰も住んでいない。

 僕は今、大学の近くにアパートを借りて一人暮らしだ。ここからはもちろん見えない。

 物音がしたような気がして振り向くと、小さな女の子が屋上へ出てきたところだった。女の子は僕の方へ近づいてきた。

「こんにちは」

 可愛らしい声で、はきはきと言った。そして隣のベンチに腰掛けた。

「こんにちは」

 僕も応えた。

 女の子はもう一度僕の方を見て、

「こんにちは」

 と言う。

 よく見ると、僕の後ろの方を見ている。振り向いても誰もいない。

(僕の返事が聞こえなくて、もう一度言ったのかな?)

 返事をし直そうかと思案していたら、女の子は下の方を見始めた。

 女の子は、白地に、ピンクの可愛らしい動物が沢山プリントされた、パジャマを着ていた。髪の毛は肩の辺りで切り揃えている。眉毛が少し濃く、目鼻立ちは良さそうだ。ふっくらとした頬に赤みがさして、可愛らしい。小学生低学年くらいだろうか。

 女の子は食い入るように、右手のやや下方向を見ていた。本館の三階辺りだろう。僕も見てみたが、特に何もない。

 ふと、何かが動いたような気がして、もう一度本館三階辺りを見た。しかし、何もない。

「何をそんなに見ているの?」

 僕は気になったので、尋ねた。

 女の子は顔を上げ、僕を見つめた。妙に憂いのある表情だ。

「いろいろよ。知らない方がいいわ」

 女の子は大人顔負けの訳知り顔で答えた。まるで、母親が子供に答え難い質問をされた時のようだ。

 僕は何も言えなくなった。しかし、このまま無口になっても居心地が悪い思いがして、別の事を聞いてみることにした。

「君、名前は?入院しているの?」

「あら?ナンパかしら?レディーに名前を聞くときは、自分から名乗るものよ」

 女の子は、はきはきとすまし顔で言った。

(ナ、ナンパ?)

 僕はびっくりしつつも、名乗った。

「ごめんごめん。僕は三上弘樹って言うんだ。見ての通り、怪我で入院中なんだ」

 僕は答えながら、女の子の対応が微笑ましく思え、自然と笑みがこぼれていた。右足のギプスを持ち上げてみせる。

 女の子は僕のギプスをちらっと見た後、ゆっくりと答えた。

「あたしは、姫子よ」

「ひめこ…ひめちゃん…。苗字は?」

 女の子は顔をしかめ、躊躇しているようだった。少し間を置いて、意を決するように言った。

「可香谷よ」

「かがや、ひめこ?かがやひめこ。かがやひめ…かぐやひめ!?」

 僕は思わず言っていた。

「ちがーう!か、が、や!」

 女の子は頬を膨らませた。赤い頬が膨らんで、可愛らしい。

「もう、どうして男の子って、勝手に都合よく解釈するのかしら」

 まるでどこかの主婦が不満を漏らすように言う。母親のまねだろうか。

「ごめん。でも、学校とかで言われるんじゃない?」

「そうよ、だからうんざりしているの」

「そか。…えっと、可香谷姫子ちゃんね。ヒメちゃんで良いね」

「それはいいわ。ヒロキ」

(え?呼び捨て?)

 僕は名前を呼ばれてドキリとした。ドキリとはしても、不快ではない。なぜだろう。相手が女の子だからだろうか。

 それから少し話をすると、姫子は数日前に救急車で運ばれ、隣の棟の四階にいたそうだ。と言っても、少しの間らしい。すぐにその下の手術室へ運ばれ、盲腸を取った。そしてまた四階の部屋に戻り、経過が落ち着いたので、今日、この棟の三階に移ってきたと言った。

 僕が、今も手術跡が傷むかと聞くと、痛痒いと答えた。動き回っても大丈夫なのかと聞くと、走り回らなければ大丈夫と言う。

 姫子もじっとしているのが辛く、出てきたのだろう。

 しばらくすると姫子は疲れたのか、まぶたが重そうにしていた。なので僕は中に戻ろうと誘い、三階まで付いて行った。

 三階は子供の声が響き渡っていた。泣き声、笑い声、何やらはしゃいで言い合っている声が混ぜこぜで、賑やかだ。

「こんなにうるさいから外に出たの」

 姫子はうんざりしたように言いながらも、自分の病室へ戻って行った。



  13


 僕は姫子を見送った後、そのまま東端の階段を下りた。二階の階段ホールに扉が一つあるだけで、他は何もない。扉もカギがかかっていて開かないので、下へ向かった。

 一階は左手に廊下が続き、突き当りとその手前に扉がそれぞれあった。突き当りの扉は開いており、そこから覗くと駐車場だった。

 廊下の右手の扉の横に、小さな窓口があった。日曜日など、本館が閉まっている時の入り口のようで、窓口に名前を記入して入館するようにと言った注意書きが貼ってあった。

 今は本館が開いていることもあって、ここには誰も居らず、窓口もカーテンが閉まっていた。

 僕はもう一度外を覗いた。駐車場を横切って表の入り口まで行かないと、別の入り口はなさそうだ。

 足元を見る。右足はギプスで、左足はスリッパだ。さすがにこれで外を横断するのはまずいと思い、引き返した。

 階段ホールまで戻ると、どこかから声が聞こえるような気がした。僕は何となく、できるだけ音を立てないように階段を上がった。

 二階ホールまで上がったところで、声が聞こえた。なので僕はそこで立ち止まり、階段の手すりに体を預けた。

 声のトーンを落としているので、内緒話かもしれない。

「また財布取られて、ゴミ箱に捨てられていたって?」

 女性の声だ。

「そう。もちろん中身は取られて」

 答えたのも女性だった。

 昨日に続いて、立ち聞きをしている自分に気づき、少し罪悪感が持ち上がった。しかし、聞いてみたい欲求に負けて、じっと身を潜めていた。

「手口も同じね。犯人は高坂なのでしょ?」

 最初の女性が言った。

 高坂と聞いて僕はびくりとし、なお一層聞く気になっていた。

「証拠はないのよ。ただ、彼女が出勤しているときに限って起こっているわね」

 もう一人が答えた。少し年配のようで、淡々と答えている。

「こんな仕事だからシフト替えてって訳にもいかないし、心配で仕事に差し支えるわ」

「そうね。みんな言っているの。でもまだ証拠がないので、事務局の許可が出ないのよ」

「自分勝手な行動をとるし、あんな子さっさとクビにすればいいのに」

「クビにはできないけれども、彼女が自分から辞めると言う分には問題ないわ」

「え?あれだけ自分勝手で傲慢な子が、自分から辞める?」

「ええ、辞めると言わせたわ」

 年配の女性がそう答えた途端、もう一人が奇声を発した。

「ちょっと!静かにしなさいな!」

「あ、ごめんなさい。でも、びっくりして。それで、どうやったの?」

「時間はかかったわ」

 年配の女性がため息交じりに言った。

「もったいぶらずに聞かせてくださいよ」

「どうしても聞きたい?」

「聞きたい!」

「声、落として」

「ごめんなさい」

「簡単よ。辛い仕事をあの子に全部押し付けて、シフトも外して、ここ半年ほどずっと夜勤よ。しかも休みもなし。そしてトドメが、この盗難事件ね」

「シフト外して問題なかったの?休みも?まずくない?」

「ええ。事務局には彼女の家庭の事情で、しばらく夜勤だけにさせてくれって、強いての希望だと伝えたわ」

「事務局がよく許したわね」

「だって、実際は彼女、しょっちゅう休んでることになっているもの」

「え?」

「彼女は出勤していても、給料が出ていない日があるのよ」

「それって、事務局は休みだと処理している日も、彼女には出勤させてただ働き?」

「ええそう」

「それでよく高坂が黙っているわね」

「彼女には、給料は二重帳簿で着けてあるから、後日別の形で支払うと言ってあるわ」

「でもそれって…」

「ええ、だから、事あるごとにミスを見つけて、罰金と言う形で残りの給金を削っているの」

「それって、最終的に無しにしようと?」

「もちろん。でないと事務局にばれるじゃない」

「うっわ…。でももしどこかでばれたら、大変なことになりそう」

「少なくとも本人からばれることは無いわね。私も小耳にはさんだのだけれど、男に貢いでいるんですって?」

「ええ、仲間内でのもっぱらの噂よ」

「そう…」

「でも、盗難事件の方は…」

「彼女が墓穴を掘ったのよ、きっと。仕事でストレスが溜まって、魔が差したのでしょ。お金も必要だったようだし」

「なるほど」

「おかげで周りから犯人扱いされて、居辛くなったのでしょうね。ついに辞表を出したわ」

「と言うことは、犯行も認めたも同然ね!」

「ええ」

「まあ、こうなって当然ね。先輩には盾突く。患者には媚を売る。書類は雑。私服は…あばずれね。良い所なんてありもしない」

「独身の医者にも媚を売っていたそうよ」

「え?誰?田中先生?村上先生?」

「北村先生よ。ほら、研修できている」

「ああ、北村産婦人科医院の院長の息子さんよね、確か」

「そう、その人。まだ産婦人科医院を継ぐかどうかは決めてないそうで、ここで内科の研修を受けているわ」

「北村先生…甘いマスクの良い子ちゃんね」

「こらこら、よだれが出ているわよ」

「婦長と違って私はまだ独身なのよ。いいじゃない」

「はいはい、試しにアタックしてみれば」

 年配の女性がそう言った後、足音が登って行った。もう一つの足音も追って行くようだった。

 僕はしばらく呆然とした。

(確かに高坂と言った…。高坂令子さんのこと?無給で働かされている?泥棒?仕事を辞める?)

 聞いた内容に、色々ありすぎて、頭が追いつかない。

 僕が見る限り、高坂は仕事をちゃんとこなしていた。媚を売るかどうかは、確かに誤解を与えそうな行動があるものの、問題あるとは思えなかった。

 思えば、高坂とはずっと夜に出会い、朝方に私服で病室にやって来ていた。

(ずっと夜勤て、頭がおかしくなりそう…)

 一度、バイトで夜勤を経験してみたが、昼夜逆転して生活がままならなくなった覚えがある。たった一度でこれなのだから、半年ともなると、考えも及ばない。

 それに、高坂が人の財布を盗むようには見えない。まだ彼女と接して一ヶ月も経たないが、僕には彼女ではないと確信できた。

 たまたま、高坂の仕事ぶりを見た。たった一度だったが、それでも高坂の優先順位が分かった気がする。彼女は動けず、苦労している患者へ率先して接しているのだ。多少でも動けるのに、ナースコールを押したがったり、わがままを言ったりするような患者は突き放す。

 同僚から見れば、そういう分け隔てがある接し方は問題なのかもしれない。でも、僕から見ると、当然と言えば当然の接し方に見えた。

 逆に、身動きできず、暗い顔つきの患者に、高坂は極力明るく接し、患者の気力回復に努めているのではないか。

 考えてみれば僕の時もそうだ。僕はもう死ぬのだと思っていた。麻奈美の父親に胸を突かれた後など、このまま死ぬのだと思ったほどだ。

(あの時のように)

 ふと思った。

(あれ?あの時ってなんだっけ?両親と一緒に死にそうになった時?)

 ふと思い立った小さな事が気になった。僕はまだ、あの事故の全てを思い出せてはいないのだろうか。

『まだ思い出してくれないの?』

 どこからか声が聞こえた。

(え?)

 周りを見渡しても誰もいない。しかし、この声にはどこか聞き覚えがあった。少し考えて、思い当たる。

(また、あの声だ…)

 あれから全然聞こえないので、すっかり忘れていた。麻奈美とのドライブ中に『こっちよ』と逃げるように教えてくれた声だ。

(誰なんだ?)

 頭の中で問いかけてみても返事はなかった。

(誰なんだろう、あの声は)

 首を回し、胸を大きく膨らませて背筋を伸ばし、一呼吸した。何も考えない動作をすることで、思考の自由度を広げる。

(約束?約束したとか言ってたかな…)

 階段の手すりに体を預け、松葉杖を傍の手すりに立てかけ、自由になった体を適当に動かす。

 僕の体は一回り小さくなっていた。つい数日前まで、ほとんどベッドの上だけの生活だったので、筋肉が落ちているのだ。あれから増えたものと言えば、下半身の毛くらいなものだ。

 手術前に剃られたらしい。僕は気を失っていた間の事なので、記憶にない。初めてトイレに行くまで気づかなかったほどだ。

(あれって、高坂さんに剃られたのかな…?別の誰か?その人にはあそこ、たっぷり見られたんだ…)

 そう思うと、急に恥ずかしくなった。

「おや、少年。こんなところで考え事か?」

 突然、男の声が降ってきた。

 辺りを見渡すと、一人の男性が下りてくるところだった。革ジャンの前を開け、赤いシャツが覗いている。白いズボンのポケットに手を入れて歩いていた。

 皆川龍也だった。

「あ、こんにちは。僕の見舞いに?」

「いや、ちょいと野暮用でね」

 皆川はそう言いながら踊り場まで下りてくると壁際へ行き、背中を預けるように寄りかかった。

「何時からそこにいた?」

 皆川は僕の顔をうかがうように言う。

「え?何時からって…」

 僕はどう答えていいのか分からず、聞き返した。

「そうか、聞いたのか」

 皆川にはそれで確信できたようで、断定的に言った。

「さっき上で聞こえていた声の主は、外科病棟の婦長と熟練の看護婦さ。ま、予想は付いたろうがね」

「え、あ、そうなんだ」

「ま、この病院は色々と面白いことになっているようだ」

 皆川は言って笑った。

「でも、高坂さんが盗みだなんて…」

「ふむ、少年はその点を見るか。彼女の無実を信じるんだな?」

「少年はやめてください。はい、信じます」

「付き合いも短いのに?」

「それでもです。そんな人には見えません」

「人は見かけによらないぜ?」

「それでもです」

「そうか」

 皆川は僕をじっと見つめ、一つ頷いた。

「人は、見たいものを見、聞きたいことを聞く」

 皆川は呟いた。

「え?どういうことですか」

「先ほどの看護婦どうしの会話にしても、少年は盗みの点について聞いた。だが、他にも多くの情報がある。同じように、少年の見た高坂令子が、全てであるとは限らない」

「それは、高坂さんが盗んだ証拠でもあって、僕の思いが間違っていると?」

「いや、だが、盗んでいない証拠もないだろう」

「でも」

「全ての可能性を拾い上げ、検証する必要があるのさ」

「はあ」

「各言う俺自身も見落としや聞き漏らしがあるかもしれない。それだけの事さ。色眼鏡をかけてみると、見たくないものは見えにくくなるものだ」

「その言い方だと、僕が間違っているって言っているようなものでしょ」

「間違っているとは言わないが、先入観を持ちすぎるのもよくない」

 皆川はそう言って、頭を掻きむしった。

「いや、忠告のつもりだったが、言い方が悪かった。すまん」

 僕は何と答えていいのか分からず、じっと皆川を見つめた。

 皆川は僕から視線を外し、うつむいて考え込んだようだ。すぐに革ジャンのポケットから煙草を取り出し、一本くわえた。残りをポケットへ戻し、ジッポライターを取り出したが、火は付けなかった。

 皆川は再び顔を上げ、僕を見つめると、言った。

「俺の目的とは外れるんだが、まあそっちの情報も掴みつつある。この件は俺に任せてくれ」

「つまり、素人の僕は手を出すなと?」

「ハハ、手厳しいな。が、有り体に言えばそうだ。彼女を信じるあまり、お前が突っ走ると、いらぬ問題が生じる」

 皆川はそう言いながら壁から離れ、僕に近づいた。

「少年。お前は見た目に寄らず、案外鋭いな」

 そう言って僕の肩に手を置いた。

「そう心配そうな顔をするな。高坂令子の無実は俺が証明してやるよ」

 僕はこの人を信じていいのだろうか。賢吾が頼りにしている探偵だから、悪い人ではないはずだ。そして探偵なのだから、調べ事は得意な部類だろう。

 しかし、調べた結果、僕の思いと違う方向だったら、どうなるのか。皆川にとって必要ない事柄だとしたら、打ち捨てられはしないだろうか。

(ん?無実を証明する?)

 皆川はすでに何らかの情報か証拠を持っているのかもしれない。無実を知りながら、僕にはどちらか分からないと責めたのか。だとしたら、人が悪い。

 僕はいつの間にか、皆川を睨んでいたようだ。

 皆川は笑いながら僕から離れ、階段を下りて行った。その途中で足を止め、振り返った。

「そうだ、一応聞いておこう。遠藤園子と言う名前に心当たりは?」

「遠藤?いえ、知りません」

「わかった。いいか、この件は黙っておけよ、少年」

 皆川は言い置いて、階段を下りて行った。

「少年じゃないのに…」

 僕は不満を言ってみたものの、もう相手はいなかった。

(あの口ぶり…。遠藤…?やっぱり何かを知っているんだな)

 僕には教えられないようだ。それは今現在だからなのか、僕が信用されていないからなのかは分からない。蚊帳の外に置かれたようで、釈然としなかった。

 それとも、何も分かっておらず、僕の気持ちに寄り添った答えを返しただけなのだろうか。ならば、僕は高坂の手助けをすべきなのかもしれない。

 何より、高坂の事が気になる。彼女が盗みを働くとは到底思えない。まだ短い付き合いながらも、直感的に確信していた。

 かと言って、僕は証拠を持っているわけでもない。先ほど聞いたばかりの、寝耳に水状態だ。そして僕自身が何かできる技能を持ち合わせているわけでもない。

 僕に何ができるのだろう。何かできることは無いのだろうか。高坂のために、何でもいいから手助けをしたい。

 僕は高坂のおかげで、今があるようなものだ。彼女が居なければ、塞ぎ込み、もしかしたら死んでいたかもしれない。死んでいなかったとしても、今もきっと塞ぎ込み、ベッドの上で悶々としていただろう。

 高坂のおかげで生きているのだと思うと、もうじっとしていることができない。だが、どう行動していいのかも分からない。何か行動を起こしたいが、何もできない。

「人は見たいものを見、聞きたいことを聞く」

 ふと、皆川の言葉を思い出した。

(そうだ。盗みだけじゃない)

 先ほど聞こえた会話の内容は、高坂の盗みだけではなかった。

 高坂が仕事を辞める。高坂自身は看護婦と言う仕事に、思い入れはあるのだろうか。理不尽な境遇に合い、心身を守るために辞めるのなら、止めようもない。しかし、辞めたくもないのに、辞めざるを得ない方向に進んでいるのなら、何かできるのではないか。

 察するに、半年間におよぶ夜勤で、肉体的にも精神的にも疲労困憊だろう。それに、給料も半分、あるいは半分以下しか貰えていないのだろう。これはそもそも犯罪ではないだろうか。

(これは、賢吾に相談すれば何とかなるかも?)

 僕自身ではどうにもできないが、賢吾は弁護士だ。何とかしてもらえそうな気がする。ただ、そのためには無給で働かされていたという証拠が必要だろう。

(そんな証拠、どうやって手に入れればいいんだ?)

 証拠についても、賢吾に相談すべきだ。

 僕は自分でできないことの方が多い。両親が他界し、友人も少ないことで、僕は不自由することが度々あった。そんな時、賢吾や関わってくれた人が解決してくれたり、解決の糸口を見つけてくれたりしていた。

 今年の春まで、僕は賢吾の家でお世話になっていた。料理も洗濯も掃除も、賢吾の奥さんがやってくれたし、春から一人暮らしをするとなると、手解きもしてくれた。おかげで、料理本のレシピさえ守れば、見栄えはともかく、味はまともであることを知ることができた。

 色々な手続き、学校の入学卒業などなど、こういったことは全て賢吾がやってくれ、PTAなどの行事も、親代わりに参加してくれた。

 賢吾兄ちゃんと僕は呼んでいたが、実質、彼が父親役だった。

 賢吾夫婦が居なければ、僕はどうなっていたか。感謝してもしきれない。

 人数は少ない。しかし、彼らが居なければ、僕は生きていけなかっただろう。その恩人の列に、高坂がすでに加わっていた。

 賢吾夫婦に対する恩返しは、何をしていいのかも見当が付かない。でも、高坂については、何かできるのかもしれない。

 相変わらず、僕自身では何もできないが、頼れる人物を紹介できるだろう。

 つくづく僕は頼りない。誰かの助けを借りないと何もできない。ちっぽけな人間だと思う。

 僕自身の手で何かができれば、カッコいいことができれば、高坂の気を引くこともできるのかもしれない。そういう打算も否定できない。打算はできても、解決方法を思いつかず、何をしていいのか分からずじまいだ。

(僕には何もできないのかな?)

 考えれば考えるほど、自分の無力感に押しつぶされた。腕力もなく、もちろん喧嘩も弱い。何とか大学には進めたが、頭も決して良いわけではない。唯一誇れるとしたら、直観力だが、これでどうにかできるほど世の中は甘くなかった。

 考えてもらちが明かず、僕はトボトボと階段を上った。

 病室の前に戻り、入り口と反対側の窓の外を見ると、ビルの谷間が赤く染まっていた。かなり長い時間、あの階段で考え事をしていたようだ。

(そろそろ、高坂さん出てきてるかな?)

 僕はふと思い立ち、部屋を通り過ぎてナースステーションまで行った。

 ナースステーションを覗き込むまでもなく、エレベーターから出てきた高坂に出くわした。僕に気づいた彼女は小さく手を振り、微笑んだ。

(れ、令子さん。よし、今度から令子さんと呼ぼう!心の中でだけど)

 僕は内心ドキドキしながら、片手を松葉杖から放して手を振った。

 立ち聞きした件があるからだろうか、彼女の眼の下にクマがあるように見えた。今までは気付かなかったのに。先日などは至近距離で見たのに気づかなかった。唇が全てだった。

 令子は僕の傍に来てウインクすると、通り過ぎてナースステーションの奥へ入って行った。

 僕は、心臓が止まるかと思った。彼女のウインクに、衝撃を受けていた。天にも昇るような感覚で、松葉杖を突いていなければ、走り出すところだ。

 僕はじっとしていることができず、踵を返すと、松葉杖を大股について走るように病室へ戻った。そしてそのままベッドに飛び込み、悶えていた。

 それまで令子について悩んでいた事柄が、全て吹き飛んでいたのは言うまでもない。



  14


 それから数日間、僕は令子の噂話を思い出す度に悩んだ。が、何も解決策は見いだせない。

 気分転換も兼ねて、病院内の探検を続けた。本館二階にX線室など検査室が並ぶのを確認し、三階の静まり返った様子に近づきがたいものを感じて引き返した。本館三階は手術室があるようだ。

 四階五階は病室で、別館とは作りが違っていた。まず、ナースステーションは建物の中央付近にあった。ナースステーションの東側は広場になっていた。ナースステーションから、西と、南北に廊下があり、西は階段とエレベーターに繋がる。南北の廊下の両側に病室が並んでいた。北の端に広場があり、そこにも階段とエレベーターがあった。

 そして患者は、誰もギプスなど着けていない。こちらは内科の病棟ではないかと検討を付けた。

 そこまで確認すると、もう見る物もなくなり、探検は終了した。

 次からは、屋上へ直行して日向ぼっこをしたり、廊下を意味もなくうろついてみたり、売店へ行って食べ物の買い足しをするくらいになった。

 屋上に出ると、よく姫子と出くわしたので、話をする間柄になっていった。姫子とは、なぜか打ち解けた。

 僕は人と接するのがあまりうまくない。子供の頃のことが引っ掛かり、接するのが怖いと言うのが正直なところだ。

 僕は同級生から、「嘘つき」とか「疫病神」とか「不幸の運び人」などと言われ、疎まれ、気味悪がられ、避けられた。僕が不幸事に限って言い当ててしまったり、不幸を予見してしまったりしたせいだ。

 僕の発する言葉で、相手がどう思うか気になり、次第に臆病になっていった。結果、「無愛想」「根暗」辺りで落ち着いた。相手を不幸にする発言、不幸を予見する発言をするよりは、無愛想の方がいいだろう。

 姫子の場合は、そんなことを気にすることもなく、気軽に話ができた。不幸を予見できなかったからだろうか。それとも女の子だからだろうか。

 誰かに、僕は異性に対して惚れっぽいと言われた記憶がある。誰が言ったのかは覚えていない。女の子も僕の対象なのかと思うと、自分でも怖い。が、姫子に対して恋愛的な感情はないので、大丈夫だろう。どちらかと言えば年の離れた友達ができた感覚で、嬉しかった。姫子にとって迷惑でなければいいのだが。

 その姫子は早々に退院と相成り、屋上へ出ても寂しい日が始まった。

 僕の体は日を追うごとに歩くのが楽になり、少々右足をついても平気になってきた。足の太さも戻った気がする。

 コルセットを付けたまま胸を動かしてももう痛みはない。いつの間にか、あの神経を逆なでするような疼きも消えていた。

 首の痛みは、以前より減ったと思う。しかし、何か違和感が残ったままだ。むち打ちも簡単に治るものではないのかもしれない。

 入院から四週間が経った。

 僕は令子のために何ができるのか、結論が出ないまま、無駄に日々を過ごしたことになる。そう思うと悲しくなるが、今日、ついにギプスが取れる日だと思うと、心が躍った。

 回復してくるにつれて、ギプスの下が痒くて仕方なくなっており、早く外したくて仕方なかった。医師や看護婦から診察などで聞かれる度に、早く取って欲しいと伝えるようになっていたのだ。

 最近は天気の良い日が続いていたのに、今日は朝から風が強いようで、窓がガタガタと揺れていた。天気とは裏腹に、僕の心はうきうきしていた。コルセットもギプスももういらない。

 朝一で、診察待ちの人々を押しのけて処置室に入った。コルセットとギプスを外すためだ。

 診察室の窓外で、植木だろう、激しく揺れ動いていた。不意に窓が風に押されて、バンとなると、一瞬の静寂の後、看護婦一同が窓を見つめて唸った。互いの顔を見つめ合い、声を漏らした恥ずかしさからか、互いに笑った。

 主治医も窓は見たものの、素知らぬ顔で僕に向かい、今回も、ギプスはもう一週間ほど様子を見てもいいと言った。が、不自由で仕方ないと訴えると、取り外してくれた。X線写真で問題がなければ、と一言を言い置いて。

 主治医は胸と右足首を丹念に触診すると、足首の抜糸を行った。そして看護婦に縫合痕の処置をさせた。

 僕からしてみれば、この縫合痕が、一番疼くもとだった。抜糸はもっと早くてよかったのではないかと、素人ながらに思えてしまう。口に出して不満を言うことはないが。

 前回の様におしぼりで足を拭き、縫合痕を消毒して包帯を巻いた。

 二階へ向かい、レントゲンを撮り、再び一階へ戻って診察室へ。入院患者が優先されるのだろうか。各部屋の前には私服姿の人々が座っているにもかかわらず、ほとんど待つことなく、次の場所へ呼ばれた。

「本当に若いねぇ」

 主治医がX線写真に光を当てながら眺め、しみじみと言った。

「胸はもう問題なし。前より丈夫になっているくらいです。足首は、順調ですね。リハビリで動くようにしなければなりません。それと、走ったり飛んだりといった、足首に負担のかかることはしばらく控えてください」

 そう言って金属の付いたサポーターを足首に着けてくれた。

 これで、足が痒いときも指が届く。病衣も止めて、ジャージでも着ることができる。お風呂にも入れるそうで、今日早速、病院の風呂の使用許可が出た。後で病棟の看護婦が時間の打ち合わせに来るとのことだ。

 たったこれだけの事なのに、妙に清々しい気分になっていた。羽が生えて飛んでいけそうなくらい、身軽になった気がしていた。

 診察もあっさり終わり、

「次はリハビリセンターへ行ってください」

 と言われて診察室から出された。

 この時の僕は、リハビリに対して何とも思っていなかった。知っていたら、強い風で荒れる天気同様、気持ちも荒れていただろう。

 踊り出したい面持ちで、松葉杖を突いて、以前より歩き易くなったのを堪能しながら、別館一階にあるリハビリセンターへ向かった。

 歩きながら、試しに右足を使ってみると、立つことはできても、歩を進めようとすると足首が全く動かない上に、痛かった。足首が石のように固まっている。主治医から関節が固まるとは聞いていたものの、ここまでとは思っていなかったので、驚いた。

 別館一階のリハビリセンターは広々とした奥行きのある部屋だった。左右、つまり北南は建物の幅しかないので大したことは無い。

 入り口すぐの右手にカウンターがあり、リハビリの医師が男女数名、詰めていた。男性に名前を聞かれたので答えると、カルテのようなものを確認し、カウンターのすぐ左手にある大きなマットへ行くように指示された。

 マットは何かの台の上に乗っている。六畳間よりも広そうなマットを細い四本の足で支えていた。膝くらいの高さで、座るようにしてマットに上がれるので、楽だった。

 北側の窓がガタガタと鳴っていた。窓の外の木々が激しく揺れ動いている。対して南側の窓外は植木も揺れておらず、風が建物で遮断されていた。南側の植木の先は車が数台駐車されていた。

 リハビリの医師は僕をマットに案内すると、機材を取りに奥へ向かった。

 太い柱が所々にあって、意外と邪魔だ。その柱と柱の間にベッドくらいの大きさの台が数台ある。その先は別のスペースで、鉄の手すりが狭い間隔で並ぶ。そのさらに向こうはよく分からない機械が並び、さらに向こうは椅子が山積みにされていた。

 一番奥に扉があり、医師は扉を開いて中に入った。しばらくして何かの機械を持って出てきたところを見ると、倉庫になっているのだろう。

 建物の東端の階段は、その倉庫の更に向う側だろうか。

 戻ってきた医師はL字を斜めに寝かせた形の機械をマットの上に置くと、僕にマットの中央へ行くように促し、自分も上がった。

「まずは、上半身を解しましょう。片方の膝を立てて座って」

 言われるままに座ると、横で医師が同じ格好をしていた。

「このように、反対の肘を立てた膝に当てるようにして背中をぐっと捻って」

 実演しながら言う。

 真似をするものの、ほとんど体が回らない。

「うん、背中も硬いね」

 医師は言いながら立ち上がると、僕の肩を軽く押した。

「はい、次は反対側」

 僕の体はカチコチなのだろう。自分では捻っているつもりでも足りないようで、必ず最後に医師が一押しした。

 ただ、たいして痛いわけではなく、ストレッチをしているだけだ。指示に従って、腕を伸ばしたり、曲げたり、背筋を伸ばしたり、前かがみになったりと、いろんな角度に曲げ伸ばしした。

 要所要所で医師が、自分の体を使って一押しした。

 寝っ転がって、言われるままに手足を移動し、体を捻った。医師は必要に応じて、僕の手や足を引っ張ったり曲げたりした。

 体が伸び切ると張って痛いものの、どこか心地いい。これならリハビリも楽勝だ。体育の授業でやったストレッチと大差ない。コルセットに覆われていた胸も、何時もより突っ張る感じがするだけで、特に問題はなかった。

 医師はひとしきりストレッチが終わると、僕に体操座りをさせた。

「じゃあ、この台の上に右足首を乗せて」

 そう言いながら、先ほど持ち出してきた機械を僕の右足の傍に置いた。短い側はどこかペダルのような雰囲気だ。医師は問答無用に僕の足を持つと、金具付きのサポーターを外し、台のくぼみに僕の踵を置いた。そしてベルトで足と機械を固定していった。

「はい、では動かしますよ。痛くなったら、このボタンを押してくださいね」

 そう言って、足を置いた台から延びるコードの先を手渡した。ナースコールに似た、ボタンが一つ付いただけのものだ。

 訳も分からずにいると、足裏が押され、足首に激痛が走った。思わずボタンを押すと、足裏が少しずつ遠ざかって行った。

 そのまま止まらずに遠ざかり、ベルトで固定された足まで持って行こうとする。再び足首に激痛が走り、ボタンを押す。

 再び足裏が押され、足首に痛みが走る。

 ボタンを押す。

 もう、ほぼ連打状態に陥った。

 見ていた医師が思わず笑っていた。

(笑い事じゃない!)

 言い返したいものの、痛みの連続で、言葉を発する余裕もなかった。

「もう少し我慢してみようか」

 医師は無責任なことを言う。この痛みが分からないのだろう。

 僕は言い返す余裕すらないので、聞き流し、ボタンを連打し続けた。

 石のように固まった足首は、元々その形で動かないものだと決めつけているように、ビクともしない。それを機械で無理やり曲げ伸ばししようとするのだから、もう痛いなどと言うものではなかった。

 たっぷり脂汗を掻いていたのではないだろうか。早く止めて欲しいのだが、医師は見ているだけで、何時まで経っても何もしてくれなかった。

 僕は拷問を受けているのかもしれない。この痛みに負けて、心が折れるのを待っているのだ。

 この男性は初対面のはずだ。だから恨みつらみがあるはずもない。では、最初に見ていたカルテに、僕の拷問指示が書いてあったのだ。この人はただ指示に従う拷問官なのだ。

 人が痛がるのを見て、面白がっているに違いない。実際、笑いながら僕の様子を見ているのだから。

「うーん、二センチか。もう少し頑張って欲しいな」

 医師が機械のメモリを眺めながら言った。

 二センチがなんだと言うのだろう。そんなことはどうでもいいから、早くこの機械を止めて欲しかった。この激痛の連続から解放して欲しかった。

「少しは我慢しないと、動くようにならないよ」

 医師がそんなことを言っていた。

(そんなことはどうでもいいから、早く止めて!)

 僕は歯を食いしばっていて、声を出せない。ひたすら、止まってくれることを祈った。

 いったいどれほど時間が経ったのだろう。この拷問が始まってからは時間の感覚がない。やっと機械が止まり、固定のベルトが外されると、僕はマットの上に倒れこんだ。

 いつの間にか、肩で息をしていたようだ。まるでどこかを走ってきたかのように、荒い息をしていた。僕は痛さのあまり、呼吸を忘れていたのだろうか。

 再び足首に痛みが走った。

 慌てて上体を起こすと、医師が僕の足首を持って、曲げ伸ばししようとしていた。

 その時、窓の外で大きな音がした。

 医師の手が止まる。そして視線も窓の外で止まったまま、動かなかった。口をあんぐりと開け、固まっている。

 僕はここぞとばかりに自分の足を取り返し、振り向いた。

 窓の外に、異様なものがあった。僕も思わず、動きが止まってしまう。

 車が見えるはずのそこに、緑色の何かが突き刺さり、揺れていた。

 マットの上で立ち上がると、車がその緑の物で真っ二つになっているのが見えた。二つに割れた車の左右にも別の車があり、それらにも緑の物が食い込んでいた。

 いつの間にか、窓の周りに人だかりができた。僕が拷問を受け、必死に耐えている間に、患者が増えていたのだ。患者だけではない。白衣の男性や女性も紛れている。

「なんだ…あれ…」

 僕の相手をしていた医師も、マットの上に立ち上がって外を見ていた。

 緑の物は、よくよく見ると網状の物が付いている。緑の枠で囲われたものだ。

「フェンス」

 ふと思い至り、僕は呟いた。

「フェンス?なぜそんなものが…どこから…」

 医師が呟いた。

 僕はフェンスと分かった時点で直感していた。屋上のフェンスの一部だと。屋上は同じ色のフェンスが建物のをぐるっと囲っていた。その一部に違いない。

 車に刺さっているフェンスは、北からの強風で落とされたのか。自分の今いるあたりの屋上と言えば、シーツなどを干していた、立ち入りのできない場所だ。

「屋上のフェンスですよ。ほら、この強風で落ちたのでは?」

 僕はそう言って北の窓を示した。北側の窓は、何時割れてもおかしくないほど、風に揺り動かされていた。

 医師は北の窓を見つめ、そして天井を見上げた。

「まさか、そんな…」

「誰か事務局に連絡して!それと、また何か落ちてくると危ないから、窓から離れて!」

 近くにいた白衣の男性が叫んだ。応じるように、白衣の女性がカウンターの中に駆け込んで受話器を取っていた。

 窓の周りの人だかりを、リハビリの医師たちが押し戻しにかかった。僕の相手をしていた医師も慌ててマットを下りると、仲間に加勢した。

 南側の窓から一定の距離を無人にしたころ、外の駐車場に人が集まり始めていた。皆、一様に上と切断された車を見比べていた。

 僕自身も屋上が気になりだしたので、医師に帰ってもいいかと尋ねると、

「そうだね。もうほぼ終わっていたし、続きは明日にしよう」

 との答えだった。

「幸いにも下に誰もいなかったみたいだ。あんなものが人の上に落ちていたら、大事だぞ」

 誰かがそんなことを呟いていた。

 サポーターを自分で取り付けるとなると少々手間取ったものの、何とか取り付け、スリッパを履き、松葉杖を持ってエレベーターへ急いだ。リハビリセンターから逃げ出したい思いの方が強かったのかもしれない。

(あんな拷問、勘弁して欲しいや)

 明日も呼ばれているので気が滅入る。が、今は屋上だ。

 今日は朝から北風が強く、まるで台風のように吹き曝している。その風で、フェンスの、それも一部のみが落ちるということはあるのだろうか。もしかしたら、周りのフェンスも中吊りになってぶら下がっているだけかもしれない。

(一部だけが落ちるように、誰かが細工した?)

 ふとそんな考えが浮かび、悩みの種となる。

 そもそも何のために、一部のフェンスだけを落とす必要があると言うのか。論理的ではないと自分でも分かった。なのに、なぜか否定しきれない。

 屋上に上がってみれば、案外、周りのフェンスも落ちる寸前になっていて、落ちたところだけ、たまたま足元が朽ちていたということかもしれない。自然現象であり得るとするなら、そんなところだ。

 一部だけが落ちるように細工するような人為的なものであるわけがない。そんなことをして誰が得をするというのだろうか。

 だが、僕はその誰かに思い当たる気がした。こういう虫の知らせというか、直感というか、超常的なものは、なぜか、確信めいたものを伴って、僕の頭にこびりつく。

 エレベーターが下りてくるのを待つ間、答えを導くヒントすらない状態なのに、考え続けていた。

 周りのフェンスも変形しており、

「なんだ、ただの風と老朽化か」

 と安堵できることを期待していた。期待と確信は別だったが。

 エレベーターが来ると、僕以外も数人が乗り込み、皆五階へ行くようだった。エレベーターの中では妙な沈黙が支配し、モーター音だけが響いた。

 五階に到着すると全員が、我先にと廊下を進む。白衣、病衣、パジャマ、私服の人までいる。

 野次馬根性と揶揄すれば、僕自身も含まれる。僕を含め大多数が、屋上に行っても意味がないだろう。せいぜい話のタネになるだけだ。

 松葉杖を突く僕が必然的に最後尾になる。各々が東の階段に駆け付け、階段の上へ消えていった。

 これでも僕は以前よりだいぶ早く歩けるようになった。コルセットが無いだけで非常に動きやすい。右足も軽くなり、松葉杖を持つ手にかかる負荷も大幅に減った気がした。

 階段を上り切り、両開きの扉を開けると、すでに大勢の人だかりができていた。パジャマや病衣姿の人が大半だ。所々に白衣の人も混ざり、事務服の男性も見えた。外来患者か見舞いの人なのか、私服姿もちらほら混ざっていた。強い風を受け、服を手で持って寄せたり、なびく髪を押さえたりしている。

 僕は比較的人の少ない北側のフェンス脇に出て、回り込むように中央へ向かった。中央の仕切用フェンスに到着すると、フェンスに顔を付けるようにして南側のフェンスを確認した。

 嫌な予感は的中するものだ。

 左右のフェンスはまっすぐに立ち、強風何のそのだ。落下した一枚分の空間のみ、開けている。遠巻きに見ても、左右のフェンスが落下したフェンスに引きずられて変形した様子は皆無だった。

 今日は風が強いためか、シーツなどの洗濯物が全く干されていない。だだっ広い空間が広がっている。視線を遮るものはないのだ。見間違いではない。

 僕は何を根拠に、フェンスの一部だけが落ちたと思ったのだろう。そしてそれを確信的に感じたのだろう。

 フェンスの無くなったスペースを見ると、髪の長い女の人が一人、立っていた。強風に煽られているはずなのに、長い髪も、ワンピースのような服も、びくりともしていなかった。

 事務服の男性が仕切りのフェンスに取り付き、南京錠を外して向う側へ入った。そしてフェンス伝いに南へ進み、更にフェンス伝いに西へ向かいながら、他のフェンスの状態を、目と、揺らしてみて確認していた。順番に進み、落下した部分へ向かっていく。

 事務服の男性が近づいて行っても、フェンスの切れ目に立つ女の人は意に介さず、その空いたスペースを見つめ続けているようだった。

 病院に長くいたからだろうか。その女の人の服はワンピースではなく、病衣の一種に見えた。

(あの人がフェンスを落とした?何をしたくて?)

 僕自身の思考で、時々脈略の無い事柄がある。リハビリセンターにいた時に感じた「人がフェンスを落とした」というものもそうだ。

 なぜそういう考えが浮かんだのかも分からない。そしてなぜ、確信的に感じるのかも、理解できなかった。

「人は見たいものを見、聞きたいことを聞く」

 ふと、皆川の言葉を思い出した。

(僕は、何か見落としているのかも)

 だが、それが何なのかが分からない。

 事務服の男性と、立ち尽くす女の人の体が重なった。男性はそのまま何もない様子で通り過ぎた。

 なぜか、周りの人たちはそんな異常な光景に気づいていないようだった。いや、気付いている風な女の子がいた。白いブラウスに紺のスカート姿だ。たぶん学校の制服だろう。僕のすぐ後ろ、北側に立って、フェンスにしがみついていた。濃い眉毛に赤い頬、比較的整った鼻筋。可香谷姫子だ。

「あの女の人は、何?」

 僕は挨拶も省き、聞いた。

 姫子は僕の顔を怪訝そうに見つめた。そして僕の右隣を見つめ、眉をしかめた。

 僕もつられて右肩越しに見たものの、そこには何もなかった。

「ヒロキ。あなたって人は…」

 姫子が非難がましく呟いた。

『このとうへんぼく!』

 誰かの声が聞こえたような気がして、もう一度右側を見たが、やはり何もいなかった。

 姫子を見ると、苦笑いだ。僕の物問いた気な視線を無視して、フェンスの切れ目に視線を戻した。

 女の人の姿は消えていた。どこかへ移動したのだろう。

「中途半端ね」

 姫子が呟くのが聞こえ、振り向いた。

「なにが?」

「分からないならいいの」

 姫子のこの物言いは、もう大人顔負けだ。何のことか理解できないものの、追求しても何も答えないだろう。

「でも、さっきの女の人、何だったんだろうね」

 僕は話題を戻すように言った。

 姫子は僕の顔をじっと見つめ、何やら考え込んだようだ。しばらくして、

「ああいうのには、あまり関わらないことね」

 とだけ答えた。

 事務服の男性が仕切りのフェンスまで戻り、南京錠をかけて閉じた。

「どうでした?」

 近くにいた白衣の男性が尋ねた。

「偶然なのか、左右の留め具があそこだけ、全部外れていましたよ」

 そう言って手に握っていたものを見せている。僕からは見えなかった。

「念のために、全ての金具の増し締めをしましょう」

「じゃあ、この強風で、たまたま留め具が無くなったフェンスが吹き飛ばされたと?」

「そうとしか考えられませんね」

 事務服の男性はそう答えると、階段へ向かって去って行った。白衣の男性も後を追う。

 それが合図であったかのように、見物の患者たちも少しずつ階下へ引き上げていった。寒くはないものの、強風にさらされ続けるのも堪える。

 姫子も戻るようなので、僕も一緒に階段へ向かった。

「今日は検査?」

「うん。お腹の痕、すごいわよ」

 子供というのはなぜか、大きな傷跡を珍しがる傾向がある。男の子だと、見せびらかすほどだ。

「友達にも見せたの?」

「みんなが見たがるもの」

「じゃあ、人気者だね」

「やめて、こんなので人気とっても面白くもないわ」

 言いながらも、表情はまんざらでもなさそうだった。

「ギプス無くなったのね」

「ん?ああ。今日取ったばかり。やっと自由の身さ!」

「じゃあ、そろそろ退院ね」

「あ、そう言えば、何時退院なんだろう」

「自分の事なのに聞いてないの?呆れた~」

 姫子がくすくすと笑う。こういう仕草が可愛いと思う。そして僕の気持ちを和ませてくれる。

 姫子が退院して寂しく思った原因は、この辺りかもしれない。

 名残惜しいものの、すぐに僕の病室にたどり着き、姫子とは別れた。

 僕が退院したら、もう姫子と会う機会はないだろう。そう思うと、寂しい別れだった。



  15


 屋上は、その後すぐに立ち入り禁止になった。業者と事務員で手分けして、留め具の増し締めと点検が行われているようだ。

 フェンスが落ちたのは仕切りの向こう側なので、明日か明後日には上がれるようになるだろう。お昼のお膳を下げに来た女性はそう答えてくれた。

 フェンスの根元が切れて、落下したとのこと。留め具が外れていたので、風で揺れて折れたのだろう。

 不思議なことに、他の留め具は付いたままで、落下した部分のみが外れていたのだと、女性は深刻そうに言った。

「屋上よりも、下の駐車場の方が問題よ。車の持ち主と揉めていたわよ」

 女性は五十台だろうか。この手の噂話が好きなようで、よく知っていた。

「揉めるも何も、病院が弁償しなきゃダメでしょうけどね」

 そう言い置いて、去た。

(あの女の人がやったんだろうか?)

 普通に考えれば、何も工具を持っていない女性には難しい。なのに僕の頭の中では、あの女の人の仕業との思いが強く残った。

(どこへ行ったんだろう?)

 いつの間にかあの女の人はいなくなっていた。どこかへ移動するのを見た覚えはない。

(どこかで見なかったっけ?)

 何よりの違和感は、ここだった。どこかで見た女の人のような気がしてならない。そう思い始めると、ますます見たような気がしてきた。

「人は見たいものを見、聞きたいことを聞く」

 皆川の言葉を思い出した。大した言葉ではないと思うのに、なぜか心に引っかかる。

(僕は、もしかして、何かを見ないようにしていた?それで何かを見落としてる?)

 思い当たる節もないではない。かなり昔のことだ。

 子供のころ、僕は人に見えないものが見えた、らしい。正直、僕自身は覚えていないのだが、これが原因で親戚に気味悪がられていたと、賢吾から聞かされた覚えはある。

 思い返してみると、何かがきっかけで、何かを見ないように気を付けた、という漠然とした記憶があった。そのきっかけや何かについての記憶はない。

 子供の頃のことを思い出してみる。

 ふと思い出したのは、両親の葬式の日だ。僕は葬式よりも、無性に、事故の時の異音が気になっており、朝早くに家を抜け出して事故現場に向かった。

 自転車で一時間だか二時間だかかかったように思う。それは峠道の真ん中に見つかった。どこか異様な雰囲気に包まれた、大きな石だ。

 この石に、車の底部がぶつかり、偶然にもブレーキの油圧ホースか何かを切断したのだろう。

 本当にそうなのだろうか。車が底をこすったくらいで、ブレーキが壊れるような致命的なダメージを追うのは、構造上おかしい気がする。

 いまいち思い出せないが、子供ながらに、その石が原因だと思う何かがあったはずだ。

 僕はその石がそのままあると、また別の誰かが事故を起こすと思い、両手で抱えるようにして石を持った。

 今思えば、子供の腕力であの大きさの石が持ち上がったこと自体、おかしい。誇張抜きで、両手を回して持ち上げたのだ。

 そして僕は何を思ったか、その石を自宅へ持ち帰った。正確には、僕を探しに来た賢吾の車に持ち込んで、持ち帰った。

 葬式に集まった親戚たちは、僕のおかしな行動を非難し、また気味悪がった。そして両親の死は僕のせいだと言う、ひそひそ言い合う声が、絶えず聞こえた。

「ねえ、何かついてるよ」

「何にもないじゃん」

「でも。帰り道とか、気を付けた方がいいよ」

「うっさいな。何インネンつけてんだ」

 子供の頃の記憶だ。あれは確か、僕が、同級生の背中に何かが付いているのを見かけ、そう言ったのだと思う。

 ところが次の日に登校してみると、その子は欠席で、交通事故に遭ったと担任が報告した。その数日後に包帯だらけで登校し、僕を見つけるなり、掴みかかってきた。

「お前、あのとき何しやがった!」

 僕は訳が分からず戸惑っていると畳みかけるように、

「お前のせいでこうなったんだ!」

 とか、

「責任とれ!」

 などと理不尽に言われた。

 他にも同じようなことが続くと、皆が僕から離れ、近づかないようになった。僕は空気のように扱われたり、「死神」とか「不幸の配達人」とか「不幸の使者」などと陰口を言われたりするようになった。

 記憶が曖昧で、こういう出来事が両親の死の前か後か、覚えがない。が、近い時期だと思う。

 親戚にも同級生にも相手にされず、陰口を言われ、居なくなればいいと冷たくされれば、心的ダメージは計り知れない。

 今も思い出して、胸の奥がズキズキと痛む。胸の奥のハリネズミが盛大に背を丸めて針を突き出しているのだ。手で擦りたい衝動に駆られても、触れることすらできない。

 僕はどうやって立ち直ったのだろう。たぶん、人とは違うものが見えることを隠し、また見えないように、または見ないように努力をしたのではないか。それが功を奏したからこそ、今は忘れ去っていたのではないか。

 最近はその辛い記憶を徐々に取り戻しつつある。もしかすると再び、人には見えないものが見えるようになるのだろうか。いや、もう見えているのかもしれない。そう思うと体の奥から震え、胸がズキズキと疼いた。

(やっぱり思い出しちゃいけない気がする)

 子供の頃の孤立感、疎外感は、胸の奥にこびりついて離れない。

 この気持ちから逃げるように、僕は忘れる努力をしたのだろう。見えない努力をしたのだろう。事実、今は忘れているのだから。

 周りと同じように、形だけでも過ごせば、疎外されることは無い。中学や高校に進学するときは特に、周りの人々も入れ替わるので、紛れ込むにはうってつけだ。

 小学校、中学、高校と続く集団生活は、異端児は叩かれ、排除される歪な社会だ。そこで生き抜くすべを身に着けたのだと、思いたい。そもそも、僕自身にとっても思い出さずにいれば、胸の奥の痛みを感じずに済むのだから、忘れたままでいい。胸の奥のハリネズミごと、意識外に持ち出してしまえばいいのだ。

 ふと、誰かが背中を優しく撫でてくれたような感覚があった。

 振り向いても誰もいない。

 この感覚も当時の記憶だろうか。だとしたら、誰か僕の傍についていてくれた人がいるということだ。

(誰だろう?)

 母親の手だろうか。それにしては小さい気がする。優しい、やけに小さな手のような感覚は、思い出してもいいように思う。嫌な思い出と一緒でなければ。

 思い出したい気持ちと、思い出したくない気持ちがせめぎ合った。

 優しく擦る手の持ち主は思い出したい。でも、不幸の使者と呼ばれていた時代やその心境は思い出したくない。親戚に気味悪がられたころのことなど、思い出したくない。

 しかし、この頃のことをもっと思い出さなければ、フェンスを落とした女の人のことについての説明がつかないと感じる。まるで接点のない事柄のような気もするが、大事な共通点がある気もした。

 やはり、思い出したくない気持ちの方が強すぎて、僕の思考回路が鈍化していくのが分かった。

(じゃあ、似たようなものが、他になかったか、思い出してみよう)

 僕は整理をするように、頭の中で呟いた。

 まずは、先ほどの女の人。

(その前は…)

 じっと天井を見て考える。見つめていると、模様がぐるぐる回ってかき回されるような気がした。

(麻奈美のお腹だ)

 麻奈美のお腹に、何かが渦巻いているように見えた。あるいは、何かがいるように。ただの気のせい、見間違いだったのかもしれない。

 姫子と初めて会った時、本館の三階辺りでも、何かが動いていたように思う。これも気のせいかもしれないが、姫子はその動く物を見つめていたのではないか。

 その前は、と考えると、僕と麻奈美が遭った事故の事に思い当たった。

(助手席の窓の外にいた女の人!)

 先ほどの女の人をどこかで見たような気がしていた。その通りだ。あの事故の時、助手席の窓の外にいた人だ。

(間違いない)

 しかし、あの女の人は麻奈美を呼んでいたのではないだろうか。ならば、フェンスを落とす理由が分からない。下の駐車場に麻奈美が居たのなら、分からないでもない。

 両親が亡くなった時、執拗に僕を道連れにしようとした女の人が居た。あの人と同じだ。こういうタイプは直接的に行動するはずだ。なのに、フェンスを落としている。

 今思い出すと、助手席の窓に見えた女の人の服は病衣で合っていると思う。この病院の病衣は胸の前で合わせて紐で固定するものだが、女の人の着ていたのはボタンで止めていた。形はやや違うものの、病衣だと思う。

 胸のところに文字が見えた。しばらく考えてみたが文字を思い出せない。そして、フェンスを落とす理由も分からなかった。

 いくら考えても分からないので、そのことは後回しにした。

(こういう感じで、僕は肝心なことを忘れていったのかな?)

 ふと思った。しかし、確認のしようもないので、

(まあいいか)

 となった。

 看護婦がお風呂を使っていいと呼びに来たこともあり、僕の思考は停止し、全てに対しても、

(ま、いいか)

 で終わってしまった。

 ここでしっかりと考えて思い出していたら、もっと違った結果になったのかもしれない。




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