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第1話 優秀すぎる隊員

海はまだ夜の色を残していた。

「三号、潜航開始します」

無線越しの声に、佐伯亮太(さえき りょうた)は片手を上げて応えた。海上保安部から委託を受けたこの海難救助隊は、今日も朝一番の訓練から始まる。もっとも、亮太にとってはもう十年近く続けてきた、日課のようなものだった。

「今日も潜るんすか、佐伯さん。この時期の海、まだ冷たいでしょう」

新人の隊員が、ウェットスーツの襟元を寒そうに引っ張りながら言う。亮太は笑って、首を横に振った。

「冷たいのは最初の三十秒だけだ。そのあとは体が忘れる」

そう言って、亮太は迷いなく海に飛び込んだ。

水しぶきが上がる。だがその一瞬後、亮太の体は誰の目にも留まらないほど滑らかに、水の中へと溶けていった。


正直に言えば、これは"泳ぐ"というより、"還る"に近い感覚だった。

水圧が全身を包む。冷たさは、新人が心配したほどではない。亮太にとって水は、陸よりもずっと馴染み深いものだ。指の間にわずかに残る水かき、頭の上で何かがひやりと湿るのを感じながら、亮太は深度を上げていく。

──三十メートル。

普通の人間なら、とっくに息が続かなくなっている頃合いだ。だが亮太はまだ平然と、海底の岩肌を見下ろしていた。

(このくらいで、驚かれちゃ困るんだけどな)

胸の内で、亮太は小さく笑う。世界記録を優に超える潜水時間。誰よりも速い遊泳速度。だがそれを、亮太は決して人前では出さない。訓練でも、実際の救助でも、常に「優秀な人間の限界」の、ほんの少し上を演じ続けてきた。

──目立ちすぎるな。それが、亮太にとって物心ついた頃からの、たった一つの約束事だった。

「三号、そろそろ浮上を」

無線が耳元で鳴る。亮太は名残惜しさを覚えながら、ゆっくりと浮上を始めた。


「佐伯さんの記録、また更新でしたよ」

甲板に上がってきた亮太に、若い隊員が興奮気味に声をかけてくる。亮太は水を滴らせながら、へらりと笑って見せた。

「まぐれだよ、まぐれ」

「またまた。うちの隊のエースなんですから、もっと堂々としてくださいよ」

亮太は答えず、ただ苦笑いを浮かべた。

エース、か。

その言葉が、いつも少しだけ重い。優秀すぎる人間、という評価の裏に、亮太自身は決して"人間"の枠から出るつもりはなかった。それが、里との約束だった。


その日の午後。亮太は、いつものように事務所の裏で一人、缶コーヒーを開けていた。

「珍しいな。休憩中に一人か」

声をかけてきたのは、同じ隊に所属する人魚の女性隊員、渚紗(なぎさ)だった。彼女もまた、亮太と同じように、自分の力を上手に隠しながら海の仕事を続けている一人だ。

「珍しくもないだろ、いつものことだ」

「いつもは誰かに絡まれてるくせに」

渚紗はそう言って笑うと、隣に腰を下ろした。亮太たちのように因子を持つ者にとって、この隊は、数少ない「素のままでいられる」職場だった。表向きは知られていない。だが互いに、なんとなく察している者同士が集まっている。

「なあ、渚紗」

「なに」

「たまに思わないか。俺たち、こうやって"ちょうどいい"力の見せ方を、ずっと計算し続けてるよな」

渚紗は少し考えるような顔をして、それから小さく笑った。

「そうだね。でも、それが"共存"ってことなんじゃないの?」

亮太はその言葉に、何も言い返せなかった。


その夜、亮太は姿を消した。

翌朝、渚紗が発見したのは、亮太の私物がそのままロッカーに残されていること、そして海に面した崖の上に、彼のものらしき濡れた足跡だけが残されていたことだった。

渚紗は震える手で、スマートフォンを取り出した。

登録された連絡先の中に、めったに使うことのない一件がある。里からの、緊急時のためだけの番号。

「──もしもし。草薙の里に、連絡をお願いします」


その報せは、朝食の途中だった草薙陸のもとにも届いた。

「若、渚紗さんから連絡が」

知らせを持ってきたのは、里の若い術師だった。陸は箸を止め、眉をひそめる。

「渚紗さんって、確か亮太さんと同じ隊の……」

「はい。亮太さんが、姿を消したと」

陸の隣で、湯呑みを抱えていた小さな影が、ぴくりと肩を揺らした。

「めぐも一緒に行く」

「まだ話は最後まで聞いてないだろ、めぐ」

「陸が行くとこ、めぐも行く」

(めぐる)は、まるで決定事項のようにそう言い切ると、湯呑みの中身を一気に飲み干した。陸はため息をつきながらも、その頭を軽く撫でる。

「……分かったよ。準備するか」

窓の外では、朝の光が、まだ何も知らない海の方角を照らしていた。

海難救助隊のエース、佐伯司の失踪。

それが、草薙陸にとって、まだ知らない世界への、最初の一歩になることを──このときの陸は、まだ知らなかった。

(第2話へ続く)

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