風呂
ハクが部屋の外をぐるりと回って、玄関までやって来た気配と、野太い叫び声。
俺は震える手で、ドアのチェーンをかけたまま、数センチだけ隙間を作った。
そこにいたのは、身長は低いが横幅が俺の倍はある、もじゃもじゃの髭を蓄えた小山のような男だった。
ハクに襲われて――いや、じゃれつかれている……おじさん?
「おい! やめろ! 痛ててててててっ……。爪を立てるな!!」
俺はチェーンを外し、外に出た。
「ハク。やめなさい」
「おお。お主がこやつの契約主か。まったく……野生のフェンリルに喰われるかと思ったわい」
フェンリル――ん? 神話に出てくる巨大な狼とか、幻獣の?
ハクが?
「大丈夫ですか?」
「大丈夫かどうかで言ったら大丈夫ではない。わしはこやつの涎でべたべたじゃわい」
見ると確かに、おじさんは、大変なことになっていた。
「……すみません。うちのハクが……」
「まあ、よい。……それより。おい、お主。この『黄金の香気』は、お主の仕業か?」
黄金の――香気?
「これじゃ。この……」
おじさんは目を閉じ、周囲の匂いをくんくんと嗅ぎ始めた。
「何とも言えん、胃の底をきゅうっとされるような。掴まれるような匂いじゃ」
ぐぅぅぅ、と。
それは、おじさんの腹の音だった。
ああ! カレーか!?
「たぶん……はい」
「おお!! すまんが、その。一口だけでも、食わせてはもらえんだろうか?」
「ああ……はい。もちろんです」
ハクがこんなにしてしまって、断れない。
だが。
「それよりあの。その恰好のままでは申し訳ないので。よかったら、風呂をお貸ししますが」
見知らぬおじさんではあるが、ハクもいるし、危険はないだろう。
そもそも、おじさんをこんなにしたのは、ハクだしな……。
するとおじさんは、目をまん丸に見開いた。
「風呂!? 風呂じゃと――!?」
おじさんの絶叫が、玄関前に響き渡った。
「そんなもの、貴族の邸にしかないぞ――!!」
どうやら俺は、家賃6万8千円のアパートを、この世界の宮殿レベルに変えてしまったらしい。
いいだろう。走馬灯なら、豪華な方がいい。




