4_一番近くて遠い人
学園の演武場は、いつ来ても空気が違う。
石畳に刻まれた無数の魔法陣――踏み入れた瞬間、肌の表面が微かに震えるような、見えない力の気配がした。
今日は見学だけ。
そう分かっているのに胸の奥がそわそわと落ち着かない。
普通科のわたしたちは演武場の端に設けられた見学席へ案内され、魔法専科の実習を遠巻きに見る立場だった。
――普通の人のほうが、圧倒的に多い。
学園だって、魔法専科は毎年ようやく二十人の枠が埋まる程度で、普通科は二十人が三クラス。
王立という性質上、入学できるのは貴族と、それに準ずる魔導士の家系だけなのに、それでも「魔法を使える者」は少数派でした。
わたしは膝の上で手を重ね、なるべく目立たないように観覧席の端へ腰掛けた。
隣に座ったのはリオネル・ヴァレンティーヌ。
わたしと同じ普通科で、最近なにかと気にかけてくれる人だ。
「うわ、やっぱ人多いな……」
「魔法専科って、1学年二十人しかいないんでしょう? それでも、今日は見学も混ざるから……」
「まあそうだろ。あっちは『選ばれた側』だし。……って、そろそろか」
演武場の中央では、年配の教授が杖で地面を軽く叩き、乾いた音を響かせました。
「諸君、静粛に。これより魔法専科三年生の実習、ペア戦を行う。見学の者は規律を守り、実技に干渉しないこと」
教授の声はよく通った。
その横、少し離れた位置に、ひときわ目を引く人物がいました。
黒髪に端正な横顔。
見え隠れする黄金の瞳。
椅子に優雅に腰掛け、腕を組み、ただそこに居るだけで場の空気が締まる。
レインハルト様。
公爵家嫡男にして王国最強の魔導師。
――そして、わたしの婚約者。
レインハルト様の周囲だけ、まるで別世界みたいに澄んでいて。
そしてその澄んだ場所へ、女生徒たちの視線が洪水のように流れ込んでいく。
「ねえ、見た? レインハルト様よ」
「お顔が反則……」
黄色い声が扇子で半分隠した口元から漏れていく。
胸の奥が、じわりと痛む。
「今回の課題はレインハルト・イル・ヴァルテンベルク研究士官生が錬成した巨大ゴーレムの破壊。二人一組で挑め。評価は技術精度とタイム、そして連携だ」
教授の一言でざわめきが大きくなった。
「棄権は認める。怪我をしてまで続ける必要はない。――いいな。ここは演武場であって、戦場ではない」
その言葉に、何人かが硬い笑いを浮かべた。
けれど、わたしは知っている。
魔法専科の実習が、時に戦場みたいになることを。
「さて、目標となるゴーレムは――」
そこで一瞬、教授の言葉が途切れた。
演武場の中央――本来なら巨大な標的が置かれているはずの場所に、何もない。
ざわ、と場が揺れる。
「……あれ? ゴーレムいないじゃん」
リオネルが小声で言った。
わたしも思わず頷きかけた、その瞬間。
教授が咳払いをして、レインハルト様の方へ軽く視線を向けた。
「ヴァルテンベルク研究生。今日の目標――頼めるかね」
「承知しました」
レインハルト様は立ち上がり、ゆっくりと演武場の中心へ歩み出る。
その足取りは淡々としていて、緊張とは無縁に見えた。
彼は地面の土を掌で撫でるように静かに押すと、葉脈のように魔法陣が浮かび上がる。
次の瞬間。
ぱき、ぱき、と乾いた音。
土が盛り上がり、石が骨格になり、砂が張り付いて人型になる。
形が、膨らみ続ける。
気づけば、見上げるほどの巨体がそこに立っていた。
赤い光を宿した目、大きく裂けた口。
無言のまま獲物を探す獣みたいな圧が、演武場の中心を支配した。
「なん……っ」
リオネルが言葉を失う。
腰が抜けそう、という顔をして、わたしの袖を掴んだ。
「え、え……今のなんだよ、無詠唱で!?」
わたしは声が出なかった。
(……これが、最強)
教授でさえ、一瞬だけ驚いた顔をして――それから、普段の厳格さを取り繕うように姿勢を正す。
けれど、指先が小さく震えているのが見えた。
「――では、第一ペア。前へ」
名前が呼ばれ、生徒二人が中央へ進む。
ゴーレムは動かない、けれどそれが逆に恐ろしい。
まるで動く許可だけを待っている。
レインハルト様が指先をほんの少し持ち上げた。
それだけで、巨人が動いた。
重い足音が地面を叩き、石畳が微かに鳴った。
ゴーレムの腕が持ち上がり、影が落ちる。
それは、襲いかかるデモンストレーションだった。
「ひっ……!」
見学席のどこかから悲鳴に近い声が漏れた。
前に立つ生徒たちも息をのむ。
が、魔法専科はここで怯まない。
火花が散り、風が渦を巻く。
それでも――ゴーレムは、簡単には崩れない。
頑丈さだけじゃない。
攻撃のタイミング、距離、踏み込み。
まるで生きているみたいに相手の癖を読んでくる。
(……操っているのに、まるで意志があるみたい)
数分後、二人の息が乱れた。
教授が表情を変えずに言う。
「棄権するか?」
悔しそうに唇を噛み、二人は頷いた。
その瞬間、レインハルト様の指先が、ふっと下りる。
巨人が止まった。
完全にぴたり、と。
音まで消えたみたいに静まり返る。
「……次」
教授が続ける。
棄権が出たペアが退くと、別のペアが前へ。
レインハルト様は相変わらず淡々と、同じように指先だけで巨人を動かし、襲いかかる動作を見せる。
棄権が出れば停止。
破壊されれば――、レインハルト様が、土くれを指先で弾く。
崩れたゴーレムの残骸が、まるで逆再生みたいに集まり直し、再び巨人の形を取る。
錬成。
また錬成。
同じものを都度、その場で。
寸分違わぬ精緻さで。
(……信じられない。でも異次元にすごいことをしているのは分かるわ…)
魔法専科の生徒が放つ火球や氷槍が、演武場の空気を切り裂くたび、観客席がざわめく。
でも、目が奪われるのはいつも最後に残る――ゴーレムを操るレインハルト様の静けさだった。
教授が思わず拍手してしまいそうな顔をして、慌てて咳払いをするのが少しだけ可笑しい。
「……次、クラリス・ヴァレンティーヌ、イザベラ・ランドウィン。前へ」
その名前が呼ばれた瞬間、魔法専科の生徒たちが息を飲む。
クラリス・ヴァレンティーヌ。
伯爵家の令嬢で、魔法専科の中でも頭ひとつ抜けている、と噂される人。
整った顔立ち、迷いのない歩幅。
立ち姿だけで格が見える。
イザベラ様は影の気配を纏うように静かな少女だった。
二人が並ぶと、まるで完成された一枚絵のよう。
「始め」
教授の声を合図にレインハルト様が指先を上げる。
ゴーレムが踏み込み大地が鳴る。
――その次の瞬間。
クラリス様の水魔法が空気中の水分を掬い上げ、霧の刃のように広がった。
湿度が、目に見えるほど変わる。
「……乾け」
小さな声が、風に紛れて聞こえた気がした。
ゴーレムの表面が、みるみる変質する。
水分が奪われ、乾き、ひび割れ――土と岩が“脆く”なる。
そこへイザベラ様の影が走った。
影が切り裂く。
刃ではない、影そのものが、ゴーレムの関節へ滑り込み、裂け目へ潜り込み――内部から、崩した。
ぱきん、と乾いた破裂音。
巨体が膝から崩れ落ちる。
早く、正確で、鮮やかだった。
一拍遅れて見学席から感嘆のため息が漏れた。
わたしも言葉が勝手に口から滑り落ちる。
「すごいわ……!」
わたしは息を呑んだまま、周りに合わせるように拍手をする。
隣でリオネルは複雑な表情をしていた。
嬉しいような、痛いような――胸の奥に何か刺さったみたいな顔。
わたしは彼を見て、つい、言葉を続けてしまった。
「クラリス様のおうちの血は、魔導の力が強いのね。わたしは両親は魔法が使えるけれど、とても弱いせいか、わたし自身は使えなくて……」
「……あ、ぁあ。うちは父が魔導が強くて。母が使えないんだ。オレは、母方の血が強かったみたいだ」
「えっ……?」
頭が追いつかなかった。
リオネルの家名が『ヴァレンティーヌ』。
クラリス様も『ヴァレンティーヌ』。
「…まさか、あの……」
「うん。姉だよ」
軽く言うけれど、その目は一瞬だけ鋭くなる。
反発と、尊敬と、諦めが絡まった色。
「だからさ。――姉貴がすげぇのは知ってる。でも、オレはオレで、別のとこで勝ちたいんだよ」
言いながら、彼は自分の腰の辺りを指で叩いた。
そこに剣はない。
学園内で携帯はできないから。
けれど、彼の「剣」はきっと、彼の中にある。
「放課後、騎士見習いの特訓またあるし。魔法がなくてもやれることはある」
その言葉が妙に眩しかった。
わたしが「ないもの」に目を向けている間に、彼は別の道を握っている。
「……リオネル」
名前を呼ぶと、彼は少し照れたように鼻を鳴らした。
「なに。変な顔すんな」
リオネルは、ほんの少しだけ笑ってみせた。
でもその笑みが、痛みを隠すためのものだとわたしにも分かった。
わたしたちが小声で話している、その時だった。
演武場の片隅――優雅に座っているレインハルト様の視線が、刺さったような気がした。
(……見られてる?)
背中がぞくりとする。
わたしは反射的に姿勢を正し、手のひらを膝の上で握りしめた。
けれど次の瞬間、視線の理由が変わる。
演武を終えたクラリス様が、そのまま迷いなくレインハルト様のいる場所へ歩いていったのだ。
足取りが自信に満ちている。
周囲の空気が、ぱっと華やぐ。
クラリス様が話しかけた瞬間、見学席の一部が小さな悲鳴を上げた。
「レインハルト様に話しかけてるわ!」
「まあ、羨ましいですわ……」
「クラリス様は魔導の力も強くて、美しくて……お似合いですわね」
「あれ、でもレインハルト様はご婚約者さまがいらっしゃいませんでした?」
声が針みたいに刺さり身体が固まる。
そして――クラリス様は、優雅に微笑んだまま、レインハルト様に告げた。
「いかがでしたでしょうか。わたくし、もっと上を目指したく、最強と名高いレインハルト様に直々に師事出来たら……と思っておりまして」
レインハルト様は一瞬、目を瞬いた。
けれどすぐに、いつもの落ち着いた声に戻る。
「……えっと、僕に? しかし弟子を取るようなことはしていないが……」
「まあ、そうなのですね。では分からないことや、魔術理論を発展させたい時のご相談役をお願いすることは構いませんか?」
「そのくらいなら……いつでも」
(いつでも、って……)
その言葉が、わたしの胸の奥に、硬い石みたいに落ちた。
悪気のない、あまりにも自然な返答。
でも、『いつでも』の中に、わたしは含まれているのだろうか――そんな馬鹿みたいな不安が、勝手に芽を出す。
「ふふっ、嬉しいですわ。それでは…」
クラリス様は優雅に会釈した。
その所作は礼儀そのものなのに、なぜだろう、心がざわざわする。
そして彼女は――わたしとリオネルの方へ顔を向けた。
視線が合う。
それだけで、背筋がひやりとした。
(……あなたたちとは世界が違うのよ)
言葉にしない言葉が、薄く笑う唇の奥に透けて見えた気がした。
胸が、ぎゅっと痛くなる。
それは嫉妬だけじゃない。自分の足元が、砂のように崩れていく感覚。
演武場の喧噪が遠のいて、わたしはただ、指先を握りしめていた。




