エピローグ_産声、罪の結晶
休学届けを提出してから数か月。
王立ラピスラズリ学園の喧騒は遠のき、シャルロットはエリュシオン侯爵邸の、もっとも日当たりの良い部屋にいた。
夏の光がカーテンの端を透かし、緑の葉が窓の外を流れていく。
かつて学園を揺らした淫魔の末裔の少女は、いまはただ一人の母として、腹の内に宿る重みを抱え、息を整えていた。
臨月の身体は、思うように動かない。
豊かになった胸も、張り詰めた腹も、命の重さそのものだった。
「……いい子ね。もう少しよ」
大きなお腹に手を添え、優しく語りかけるシャルロット。
不思議なことに、あれほど彼女を苦しめ、レインハルトを狂わせていた「蜜の香り」は、今や完全に消え去っていた。
代わりに彼女を包み込んでいるのは、陽だまりのような温かさと、どこか神聖なまでの透明な空気。
けれど、平穏な時間は唐突に終わりを告げる。
昼下がり、お茶を口にしようとした瞬間。
お腹の底を、巨大な槌で叩き割られたような衝撃が走った。
「……っ!? あ……、あぁ……っ!」
息が詰まり、手が滑る。
カップが床に落ち、陶器が砕け散った音が、やけに遠い。
***
一方、王立学園の学長室。
次期魔法省副長官としての公務をこなしながら、レインハルトは落ち着かない時間を過ごしていた。
彼は、計算と理論の男。
予定日まではあと五日あり、侯爵邸には最高位の治癒魔法師と産婆を待機させている。
万が一の際の転移門の座標も固定済み。
……完璧なはずだった。
しかし、一通の伝書鳥が窓から飛び込んできた瞬間、彼の完璧な理論は瓦解した。
『シャルロット、産気づく。至急戻れ』
「ーーーーッ!!」
学長が何かを言いかける暇もなかった。
レインハルトは、普段の彼なら決して行わないような強引な魔力解放を行った。
儀式も詠唱も、座標の再確認すら省略した、命を削るような超長距離転移。
学園の石床が魔力の余波で爆ぜ、金色の閃光が視界を白く染め上げた。
侯爵邸の寝室は、戦場と化していた。
「シャルロット様! 息を吐いて! 長く、細くですわ!!」
産婆の声。
治癒魔法師の気配。
陣痛が波のように押し寄せる。
そのたびに、思考が削れ、世界が狭くなる。
(もし、この子が……わたしの血のせいで苦しむなら? もし、この子が、わたしみたいにーー望まぬ香りで誰かを狂わせるなら?)
準備は万全だったはずなのに、シャルロットの心は底のない闇へ沈みかけた。
その時。
「ーーーーシャルロット!!!」
扉が、吹き飛ぶように開く。
いつも完璧に整えられた黒髪は乱れ、正装の襟元はほどけている。
けれど黄金の瞳だけは、燃えるほどの決意で揺れていなかった。
「レ、レイン……ハルト……さま……」
その名を呼んだ途端、張り詰めていた何かが崩れ、涙が滲む。
「すまない、遅くなった……! 怖がらなくていい、僕が来た。……僕が、君と、僕たちの子を、必ず守る……!」
彼は産婆たちに促され、シャルロットの枕元に膝をつく。
そして、その震える手を、自分の大きな手で力強く握り締めた。
「っ……あ、あああああ――――っ!!」
シャルロットの絶叫が部屋中に響き渡る。
レインハルトは、自身の魔力を極限まで繊細にコントロールし、彼女の全身を包み込むように放射しました。
それは、痛みを麻痺させるための「盾」であり、疲弊した身体を活性化させる「糧」でした。
王国最強の攻撃魔法を操るその指先が、今はただ一人の女性と、そのお腹の子供を救うためだけに、この世で最も優しい波形を描いていく。
「大丈夫、シャルロット……。僕を見て。……僕の魔力を吸い取っていい。……君の苦しみも、痛みも、全部僕が肩代わりするから……!」
この人は、いつだって選ぶ。
世界の正しさではなく、わたしを。
罪悪感が胸を刺す。
それでも、握られた手が離れない。
「出ますわ! シャルロット様、もう一踏ん張りです!!」
視界が白く点滅する。
シャルロットはレインハルトの黄金の瞳だけを見ていた。
その瞳の中に、昨夜誓い合った「地獄の底まで共にある」という約束の色を見たとき。
彼女の中の淫魔の血が、初めて聖なる母の愛へと昇華された。
「あああああああああ―――――ッ!!!」
世界が一瞬、無音になった。
直後。
「――ふぎゃあ! ふぎゃあ!!」
静寂を、力強い産声が切り裂いた。
産婆の腕に抱かれた、真っ赤な肌の小さな命。
それは、レインハルトの漆黒の髪を受け継ぎ、シャルロットの長い睫毛を持った、この世で最も美しい罪の結果であり、愛の結晶だった。
「おめでとうございます、元気な男の子ですわ!」
その瞬間、レインハルトは力尽きたようにシャルロットの胸元へ顔を埋めた。
最強の魔導師の肩が、震えている。
「……よかった……。本当によかった……っ」
「レインハルト様……。……見てください、わたしたちの、子ですわ……」
汗と涙でぐちゃぐちゃになったシャルロットが、愛おしげに赤ん坊を見つめる。
レインハルトは、おそるおそる、自分の小指ほどしかない赤ん坊の小さな手を握った。
「……ああ。……なんて、力強いんだ。……この子の未来に、不幸な呪いなど一つも寄せ付けない。……僕が、この世界のすべてを敵に回してでも、守り抜いてみせる」
彼は、赤ん坊を抱くシャルロットの額に、深い沈黙のキスを贈る。
窓の外では、夏の嵐が去り、澄み渡るような青空が広がっている。
「淫魔」と「魔導師」。
宿敵であるはずの血筋が混ざり合い、生まれ落ちた新しい命。
シャルロットは、レインハルトの腕の中で、疲れ果てた身体を預けながら微笑みました。
その緋色の瞳には、もはや過去の絶望の影はなく、ただ、目の前の愛しい男と、その分身への無償の愛だけが、宝石のように輝いていた。
甘美な地獄は終わらない。
ただ形を変えて――もっと逃れられないものになる。
それは――家族という名の、完成した檻。
鍵をかけたのは彼で、閉じ込められたのは彼自身でもあった。
次回、番外編「名を呼ぶ夜」にて、第一部配信分終結となります。




