15_興行劇の闇、最強、キレる
午後の陽光が少しずつ傾き始めた頃。
商店街を抜けた先に、色鮮やかな布でできた大きなテントが見えました。
『興行劇』の看板。
入り口の垂れ幕には「愛の悲喜劇——運命の巡り合わせ」と書かれています。
太鼓の音、呼び込みの役者、焼き栗の焼ける出店の匂い。
わたしの胸が高鳴ります。
「わあ……興行劇ですわ! あの、レインハルト様、入ってみてもいいですか?」
「劇?」
「はい! 旅芸人の方たちの……恋物語らしいです!」
「……君が行きたいなら」
わたしの好奇心に、彼は少しだけ躊躇するような素振りを見せました。
今の彼は、わたしを人混みに晒すことを極端に嫌っているようだったから。
けれど結局はわたしの願いに抗えない。
彼は小さくため息をつきながらも、わたしの腰を抱き抱えるようにしてテントの中へと導きました。
テントの中は、外の光を遮った薄暗闇。
埃っぽい空気と、観客たちの体温、そしてどこか退廃的な熱気が混ざり合っていました。
わたしたちは客席へ通され、木の椅子に並んで座る。
隣の席の若い男女が、やけに距離が近い。
……なるほど、恋物語とはそういう、集客装置。
レインハルト様がわたしの手を握り直す。
わたしの心は、どこか誇らしくて、くすぐったい。
劇が始まり、やがて物語は佳境に入る。
舞台の上では、男女の役者が引き裂かれた恋人の再会を演じている。
恋人同士のすれ違い。
嫉妬、誓い、涙。
そして――定番の、濃厚なラブシーン。
舞台上で、役者が甘い台詞を囁く。
観客が「ひゅー!」と囃し立てる。
その瞬間。
わたしの脳裏に、昨夜の記憶が――熱を持ったまま蘇った。
腕の温度、呼吸の音。
名前を呼ばれるたびに胸の奥がほどけていく感覚。
恥ずかしいのに、幸せで。
幸せなのに、もっと欲しくなる、あの――。
(……だめ。今ここで思い出したら……)
わたしは必死に視線を舞台へ戻した。
戻した、はずだった。
隣から、短い息を呑む音がした。
「……シャル」
「はい?」
「……君、自分が今、どんな香りをさせているか分かっているのか……?」
レインハルト様の声が、低く震えている。
振り向いた瞬間、彼の黄金の瞳が、獣のように濡れているのに気づいて背筋がぞくりとした。
「香り? わたし、クッキーの匂いしかしませんわ」
「違う。君の―――。…あぁ、……くそ、だめだ…、やめろ、僕。ここは…外だ…―――」
言い終える前に、彼の腕がわたしの腰を引き寄せる。
そして、唇ではなく――首筋へ。
「ひゃっ……!」
熱が触れる。
食むようなキスが落とされ、背中の筋が勝手に伸びた。
耳の奥がじん、と熱くなる。
たったそれだけなのに、身体の奥が甘く震えました。
「お、お待ちくださいませ! ここ、劇場……っ」
「……君の香りを、他の男に嗅がせたくない」
吐息混じりの囁きが、ぞわりと背骨を撫でていく。
わたしは反射的に彼の外套を握ってしまいました。
だって、抱き寄せられると安心するのです、悔しいけれど。
「おおおー! お熱いねぇ!」
「劇より盛り上がってるぞ!」
「ひゅー! 旦那、やるじゃねぇか!」
観客の囃し立てが一斉に飛んできて、びくりと体が跳ねる。
「はわわぁぁっ!?」
わたしの悲鳴は、羞恥のものです。
役者たちは舞台上で固まっているし、隣のカップルは「羨ましい!」みたいな顔をしているし、何よりレインハルト様が――。
眉間に皺を寄せ、目を伏せ、真っ赤になっていました。
平常時ならば絶対にしないであろう失態に恥ずかしさと、苛立ちと、独占欲が全部混ざり合った顔。
最強魔導師が、今にも『感情』で魔法を放ちそうな顔。
「……っ」
彼が小さく息を吸った瞬間、わたしは悟りました。
(ま、まずいですわ――!)
「レインハルト様、落ち着――」
言い切る前に、彼の魔力が、息をした。
――ゴォォォッ!!
風が、テントの中を爆走する。
彼の内側から、制御不能なほどの膨大な魔力が溢れ出し、空気が軋み、テントが激しく振動し始めた。
舞台の幕がちぎれ、椅子が倒れ、帽子が飛ぶ。
役者の衣装が派手に翻り、観客の悲鳴が一斉に上がった。
「ぎゃあああっ!」
「テントがぁぁぁ!」
「風だ! 突風が吹いてるぞ!」
「魔法使いだ! 魔法使い様がキレたぞ!!」
レインハルト様はわたしを抱きしめたまま、空いた左手を虚空へとかざす。
彼の黄金の瞳が、もはや人間のものではない、絶対的な支配者の輝きを帯びる。
「……邪魔だ」
ドォォォォォンッ!!
爆音とともに、超高密度の風魔法がテントの内側から炸裂した。
紫色の布地は一瞬にしてズタズタに引き裂かれ、木製の支柱は小枝のように折れ飛ぶ。
観客たちは風圧に押されて四方八方へと転がり、舞台のセットは文字通り粉砕された。
一瞬にして、賑やかだったテントは消滅し、そこには廃墟のような空間だけが残されました。
涼やかな風が吹き抜ける空の下、レインハルト様は乱れた前髪を掻き上げ、肩で激しく息をしながらわたしを見下ろす。
「レインハルト、様……テントが、劇が……」
「……構わない。君の香りを、あんな男たちに嗅がせたくないんだ」
彼はわたしの首筋に顔を埋め、深く、深く、その芳香を自分だけのものにするように吸い込んだ。
その執着に満ちた仕草に、逃げ場のない嬉しさと困惑を感じていた。
――これが彼の本当の力なら、国一つ簡単に壊れてしまうのではないでしょうか…。
「君がこんな……、男を狂わせる毒を撒き散らすからだ。……帰るよ、シャルロット。今夜は、一滴も残さず僕が飲み干してあげる」
…困るのに、嬉しい。
わたしはため息をついて、崩壊した舞台を見回しました。
役者たちが呆然と空を見上げている。
観客は悲鳴から怒号へ移行しつつある。
ひとりが指を突きつけた。
「おい、あんたら!これどうしてくれるんだ!」
レインハルト様は、ぴたりと表情を戻した。
今度は『公爵家の嫡男』の顔に。
「……修繕費は支払う。謝罪料も。その責は、我がヴァルテンベルク公爵家が負おう」
「こ、公爵様!?……しかし、金の問題じゃ――」
「金の問題だ」
圧がすごい。
相手の男の人が「そ、そうですか……」と引き下がってしまった。
これが権力というものでしょうか。
わたしは慌てて彼の袖を引っ張りました。
「レインハルト様、怖がらせてはいけませんわ。わたしたちが悪いのですもの」
「……そうだね。…ふう……。…すまなかった」
口では謝っているのに、わたしを抱き寄せる腕は緩まない。
「さ、帰ろう、シャル」
彼はわたしを軽々と抱き上げると、トン、っと朱に染まり始めた空へと舞い上がりました。
背後で興行主の悲鳴が聞こえた気がしましたが、彼の胸板に顔を埋めたわたしには、もう何も聞こえなかったのです。
後日。
城下町の興行主の元には、ヴァルテンベルク公爵家から使いが訪れました。
差し出されたのは壊れたテントの修繕費、役者たちへの見舞金、そして口止め料を含んだ、小さな村が買えるほどの莫大な謝罪金だったという。
「……まったく、我が公爵のお坊ちゃんは…」
使いの騎士がため息をつきながら、主の息子の「愛という名の暴挙」を清算して回る。
立派な封筒の中身は簡潔すぎる詫び状。
『公演の妨害をいたし、悪かった。――レインハルト・イル・ヴァルテンベルク』
興行主はその紙を握りしめ、震える手で団員たちに言ったらしい。
「……次から、『客席でのキス禁止』って張り紙しよう……」
「団長、それ以前の問題です!」
わたしはその話を聞いて、笑うしかありませんでした。
笑ってしまったけれど――。
その夜、レインハルト様が「劇より良い恋物語」を本当に実演しようとしたので、わたしは枕で必死に抵抗した。
……ええ、抵抗は、しましたとも。
たぶん。
きっと。
やらかしてしまったレインハルト。
次回、「愛の検体」、学術的に…恋の誘惑を解析しようとしますが…?




