番外編:愛する夫への甘やかな看病
公爵邸本館の奥深く、普段は使用しない豪奢な主寝室には、今日ばかりは重苦しい空気が漂っていました。
分厚い遮光カーテンが引かれた薄暗い室内には、ひんやりとした氷魔法の冷気と、少し苦い薬草の香りが満ちています。
あんなにも強靭で、魔法省内では鬼神のごとく恐れられ、過酷な執務も顔色一つ変えずにこなす屈強なわたしの夫。
その彼が今、大きな天蓋付きのベッドに沈み込み、荒い息を吐きながら高熱にうなされているのです。
発端は、数日前から続いていた視察と、国境における雨天での強行な結界展開でした。
鉄人である彼が、まさかこんなにもあっさりと病に倒れてしまうなんて、邸の誰もが耳を疑った出来事です。
わたしは冷水で洗ったタオルを固く絞り、彼の額や手に滲む汗を丁寧に拭き取っていきました。
いつもなら圧倒的な力でわたしを抱きすくめるこの厚い胸板が、今は熱に浮かされて微かに上下していることに、言い知れぬ不安を覚えてしまいます。
熱に浮かされたお顔はどこか幼く、ほんのりと赤みを帯びていました。
その無防備な寝顔は、長男のリオンにそっくりで、わたしは心配で胸を痛めながらも、不謹慎なことにほんの少しだけ愛おしさを感じてしまっていたのです。
新しい冷たいタオルを額にのせようと、わたしがベッドの端に腰を下ろした、その時でした。
ふいに、熱い大きな手がわたしの手首をがしっと掴みました。
「……レインハルト様? お目覚めになられましたか?」
「僕が死ぬ時は君に全てを捧げきった瞬間だと思っていたのに……」
掠れた、けれどひどく悲痛な声が寝室に響きました。
うっすらと開かれた金色の瞳は、熱のせいで潤んでおり、ひどく心細げにわたしを見上げています。
その弱々しい眼差しは、当代公爵として毅然と振る舞う普段の彼からは想像もつかないほど、庇護欲をそそられるものでした。
「怖いことを言わないでくださいませ! 死にませんよ、ただのお熱です!!」
わたしは慌てて彼の言葉を遮り、ぎゅっとその手を握り返しました。
熱い手のひらから、彼の苦しみが伝わってくるようで胸が締め付けられます。
「そんな馬鹿な……。こんなに苦しいのは十才の時に肺炎になって以来だぞ。絶対に死にかけに近い……」
荒い息を吐きながら、本気でご自身の死期を悟っているかのような大袈裟な絶望を口になさるお姿は、まるで駄々をこねる大きな子供のようでした。
王国軍を率いる時でも顔色一つ変えない方が、たかが高熱でここまで弱気になってしまうなんて。
心配な反面、わたしにだけ見せてくれるその無防備さに、思わず呆れ混じりのため息をついてしまいます。
「ですから、その肺炎でございます! 子どもたちにうつるといけませんので、しばらくはこのお部屋で静養してくださいませ!」
看病のためにレインハルト様のみ本館で生活し、今はわたしがつきっきりで世話をしている状態なのです。
そう諭すように言い聞かせると、レインハルト様は不満げに眉をひそめました。
「シャル……ああ、シャル、君の肌が恋しいよ。ひとりで寝るのはつらい……」
熱を持った甘い声で名前を呼ばれ、レインハルト様がわたしの腕をぐいと引き寄せました。
油断していたわたしは、あっさりと彼の胸の中へと引き倒されてしまいます。
「あ、ちょ、ちょっと……っ!」
抵抗する間もありませんでした。
病人で高熱を出しているはずなのに、彼の手には信じられないほどの力がこもっていたのです。
しかも次の瞬間、淡い魔力の光がぱっと瞬いたかと思うと、わたしのドレスの留め具やリボンがするすると緩み、あっという間に薄着同然の頼りない姿に変えられてしまいました。
「レインハルト様!」
「ああ、やっぱり……君の温もりがないと駄目だ……」
わたしはそのまま布団の中へ引きずり込まれ、ひんやりとしたシーツと、燃えるように熱いレインハルト様の体温に挟まれることになってしまいました。
彼は甘えるようにわたしへ頬を寄せ、首筋や肩口へ何度も熱い口付けを落としてきます。
高熱でうなされていたはずなのに、わたしの体温に触れた途端、彼の瞳の奥に仄暗い執着の色が戻ったのを、わたしは見逃しませんでした。
「だ、駄目ですわ! こんなところ、誰かに見られたら……!」
「我が家で誰に見られたって構うものか……」
熱に浮かされた声音のまま、レインハルト様はわたしを強く抱きしめ、離すまいとする子どものように腕へ力を込めました。
その手つきは慣れていて、背中から腰へとするりと撫でられるたびに、わたしの体はびくりと強張ってしまいます。
「んっ……も、もう、本当に病人なのですか……」
「君がそばにいると、少し元気になるんだ……」
そんな都合の良すぎることを、熱に浮かされた顔で真面目に言うのです。
反論したいのに、額を寄せられ、熱い吐息を感じるたびに、わたしのほうまで頭がぼうっとしてきてしまいます。
普段の余裕に満ちた愛撫とは違う、どこか切羽詰まったような、ひたすらに温もりを求める執拗な甘え方。
それに絆され、わたしが「少しだけですよ」とでも言いそうになった、まさにその時でした。
――コンコン、と。
遠慮がちではありますが、はっきりとしたノックの音が主寝室の扉から響きました。
「失礼いたします。閣下、お薬の時間です」
返事も待たずにガチャリと扉が開き、公爵家の主治医であるシュルツ先生が足を踏み入れてきたのです。
その瞬間、部屋の空気が物理的にも心理的にも氷点下まで一気に冷え込んだような気がしました。
ベッドの上には、乱れた衣服のわたしと、そんなわたしをしっかり抱え込んだまま離そうとしない高熱の公爵閣下。
長年公爵家に仕え、レインハルト様の理知的な性格を誰よりも知っているシュルツ先生です。
まさか死にかけているはずの主君が、病床でここまで元気に妻へしがみついているなどとは夢にも思わなかったのでしょう。
すべてを目撃した先生は、持っていたお盆を危うく落としそうになりながら、ぴたりと固まりました。
「閣下……あれだけ安静にと申し上げたのに、何をしていらっしゃるのですか……!」
震える声で絞り出された主治医の言葉に、わたしは一気に現実へと引き戻されました。
「きゃあぁっ! シュルツ先生! こ、これは、その……!!」
わたしは悲鳴を上げて、慌てて乱れた襟元を押さえました。
顔から火が出るどころか、全身から湯気が出そうなほどの羞恥心に、涙目になりながら布団の中へ潜り込みます。
しかし、当のレインハルト様は悪びれる様子もなく、荒い息を吐きながらシュルツ先生を鋭く睨みつけました。
「シュルツ……君は間違っている。僕が回復する一番の手段は、妻の温もりに包まれることだ……」
まったく理にかなっていない、欲望丸出しのめちゃくちゃな暴論です。
「レインハルト様ぁっ! やめてくださいまし!」
わたしはたまらず、布団の中から夫の背中をぽかぽかと叩いて制止しました。
死にかけの重病人を装っていたくせに、こんな時だけは底知れぬ体力を発揮する夫が信じられません。
呆れ果てたシュルツ先生は、言葉を失ったまま深く、深いため息を一つ吐きました。
そして、静かに薬の乗った盆をサイドテーブルにやや乱暴に置くと、冷え切った眼差しを向けて出口へと向かいます。
「お大事に……絶倫閣下……」
バタン、と静かに扉が閉まる音が、やけに虚しく部屋に響き渡りました。
残されたわたしは、羞恥で真っ赤になった顔を両手で覆い隠すしかありません。
そんなわたしを、高熱の夫は再び甘く熱い腕の中に閉じ込め、何事もなかったかのように頬を寄せてきたのでした。




