Session.30 斬刃姉妹
轟音の胸から腹を構成するパイプオルガンが、調律のために金属や羽毛のぶつかる音をあげている。それは滝の瀑布に似て、とめどなく流れて行く。
着陸した旋律は弓刃の前にひざまずきながら、
「今しかない。奴を倒すのは」
「あいつを倒したら、次はあなただから」
弓刃は冷ややかに言う。
旋律は力のない笑顔を浮かべた。もはや彼らに気炎を吐く気にはなれなかった。調のように褒めてくれる人間など、他に誰もいはしない。
(もはや俺はどちらにいても歓迎されないわけだ。一体この状態をどう表現すればいい?)
弓刃はもはや旋律に興味はなく、親しい姉に向かってにっと笑う。
「さあ、あの時のお返しをしてあげましょう!」
二人は轟音に向かって駆け出した。
轟音のパイプオルガンの音が嵐のように吹き荒れているにも関わらず、姉妹は少しも動揺することなく、弓をヴァイオリンに滑らせながら流麗に奏で続けた。
そしてそこに、マリンバの音やギターの音が彩を添えた。
「来たか。あの時と同じように、吸い上げてくれる!」
弦奈は、敵の姿を正面から見据えていた。もはや恐怖はなかった。
あの時の彼は無力だった。だが今は違う。
多くの仲間がいる。
弓刃は、姉の自信に満ちた顔を見て、何よりも頼もしく覚えた。
――これは、遠い、どこかの国の物語。少女は遠い戦場にいる思い人に思いを馳せる。
轟音のパイプオルガンの音色で、左右に広がる建物の窓が割れた。
紐奈の音色がその破片を人間に当たらないように、遠くへと散らす。
――祈るだけでは何もできない。彼は、悩みぬいたあげくに禁断の秘術を使い、ある強大な魔神を呼び出すことに決める。誰も知らない薄暗い部屋、魔法陣の呪文を唱え、ひたすらに目当ての魔神が来訪するのを待つ。
「貴様が何度来ようと、結果は同じだ!!」
轟音の音色はツタを伸ばし、無慈悲にほとばしって姉妹を襲うが、ヴァイオリンの鋭い音色がことごとく切断する。
――もうどれだけ祈りを重ねたかも分からなくなった頃、魔神は果たして少女の前に降臨する。その体は炎でできており、塔のようにそびえ立って主を見下ろしていた。
彼は、ごく低く、冷えた声でささやいた。『お前の望みを叶えてやろう』
少女はただ答える。『あの方の、無事を』
ヴァイオリンの音色がどんどん轟音に近づき、その斬撃がいよいよ目前に迫る。しかし、轟音の装甲はなお驚異だった。
どれだけ打ちすえても、かすり傷程度でしかない。音色がわずかに漏れ出る程度でしかない。
轟音は、先ほどの損傷を回復してしまったように見える。だが、それでも二人は諦めなかった。
「そう? 私は思わない」 弓刃は啖呵を切った。そして次第に彼らの弦が哀調を伴っていった。
――最初、それは単なる召喚儀式のはずだった。魔神は、少年を死の危険から救うためにあらゆることをした。ただし、その力を自在に振るうことなど許されていない。魔神は、風の動きを揺らし、剣や馬の向きをわずかにずらすことで少年が少しでも生き延びる確率を上げた。だが、それは魔神にとってはごくつまらない行動でしかない。そして、自分の顔を刻み付けられた水晶のような目を通して、彼の様子を少女に見せたのだ。
「こんな簡単なことを我に任せるのか?」
魔神は、かつては恐れられていた。しかし、人間という種族が台頭するにしたがって、この世ではない異界へと追いやられ、長らくその威光を失っていた。
彼には、人間という物が分からなかった。
――魔神は、少女のひたむきな思いに、感じる物があった。それは、今まで感じたことのない感情であり、そのためなら、他のあらゆる感情が些細に思えるほどの威力を持った、何かだった。魔神は、少女にそれをどう表現したらいいか分からなかった。
少年が故郷へと帰る日は未だに遠かった。
「なぜその者の命に固執する?」「理屈なんかじゃない。誰かの理解なんか必要じゃない」
パイプオルガンの音色は悲痛だ。奏者の紡ぐ物語など、ただ虚無に帰るだけでしかないと否定するかのように。
―「お前たちにとって、この感情はありふれたものか?」
ただ、生き死にだけが真理だと思っていた魔神にとって、
そしてついに、もはや人間と同じ程度にまで落ちぶれた、やさしい声でこうささやいたのだ。
「貴様たちは、常にそうやって、強き者をたぶらかしてきたのか?」
――少女は、信じられなかったのだ。魔神は自分に恋をしているのだということを。彼はそれを知り、絶望した。人間は、魔物に対して何ら抗うことができないというのに。
しかしその絶望は魔神にとっても同じだった。人間より遥かに長い時間を生きる魔物にとっては、少女といられる時間などごく短いものでしかない。そして、人と人ではない物が境目を越えて接することなど、魔界の掟で禁じられていることだ。
故に、もう契約を逸脱した関係は終わらせねばならない。
―「あやつは、死んだ」 魔神は重々しい声でささやいた。
魔神は突如として、少年の姿を映し出すことを拒絶した。
「違う! あの人は、まだ死んでない。私は信じる。あの人が生きているって」
魔神の心は揺れ動いた。偉大な力を持つ自分が、このかよわい命に翻弄されているような気がしたからだ。魔神は、腕力で解決できない事態があることに驚き、そして愧じた。
二人が描く音の物語は、いつしか周囲の光景を異なる世界に染め上げていた。
紐奈も旋律も、空がいつの間にか、物語を書き記す舞台として用意された壮大な天幕となっていることに気づいた。
(何てすごい音色なの……こんなに綺麗な夢を見せてくれるなんて)
(こいつらは一体何なんだ? 俺にどんな幻覚を見せようとしている)
パイプオルガンの音色。このヴァイオリンが奏でる音色に、静かに同調させる。
――少女は迷う。この魔神に心をゆだねるべきかどうかを。あるいは、少年への祈りを通すべきかを。
ヴァイオリンの音色が複雑にうねっていった。それは、音楽が紡ぐ物語の哀調に連動していた。
轟音はただ、人間の音を真似することしか知らない。人間の音がなぜそのように構築されているかを理解することはない。彼らは根源に至ることなどできやしないのだ。
音の背後にある深淵な世界を無視して、うわべだけを似せた単なるまがい物を作ることしかできない。
(何故だ! 何故、俺の攻撃が通じん!)
轟音は、すっかり自分の音色が敵に乗っ取られていることに驚いていた。
――少女は目にした。思い人が傷つき、今にも果てようとしているのを。
彼は絶望した。
(私は彼のように弱かった。いや、ずっと弱い。けれど今は――)
――魔神は冷たく言い放った。「私はただ、守ることだけを命じられた。干渉することは許されておらん。そのつもりもないからな」
「嫌! 黙って見ていることしかできないなんて」
轟音が再び音量を上げようとして胸を張ったその時、弦奈が雷鳴のようにピッツィカートを響かせ、轟音の肩に深い裂傷を刻み込む。
そして弓刃が続いて、もう片方の肩に斬撃を入れた。轟音は、腕を揚げることができなくなり、ほとんど棒立ちに近い状態になった。
轟音のまびさしの向こうに灯る目は、さらに怒りを激しくして輝いているように。
弦奈は、敵を目の前にしてさほど怒りは感じなかった。ただ、これ以外の向き合い方はなかったのだろうか、という虚しさがあった。
(ああ……何て哀れな人なの。この方は、ただけたたましく奏でることしか知らない)
ビルの壁が崩れ去り、破損した部分がパイプオルガンに変化していった。そして、棘の形をした音色が鍵盤の奥からしのび始める。
「そんなこと、させないんだから!」
マリンバが顕現させる鉄球を紐奈の音色が巨大化させ、
「旋律、あんたの傀儡で転がして見せてよ!」
「ったく、しょうがねえな! ミューノイズの作ったのは音代の力に弱いんだぞ!?」
旋律はしかし、紐奈と姉妹の必死な演奏を見ると逆らうわけにはいかなかった。
短いリフを奏でると、その音色が着地するや膨らんで傀儡となり、木枝のマリンバが出現させた木の球を突如できたパイプオルガンに押しやって、とげとげしい音色を塞ごうとする。
――魔神は、ついに、重い口を開いた。
「一つだけ、方法がある」
「それは何!? 今すぐ教えて!」
それを明かすことは、魔神にとってはある意味屈辱でもあったが、少女の願いに応えたいという、自分でも理解しがたい衝動がそうさせた。
「私とお前が一体となるのだ。だが、代償として貴様はもう二度と元の人間には戻れん。それ以上人として存在することは許されず、あやつと老いと死を共にすることは決してかなわない。だが、それでいいのか?」
「構いません。あの人と同じ時間を過ごせるなら」
姉妹の音色が、限界を越えてシンクロし始めた。二人とも、互いの身体を自分自身のように知覚し、自分のヴァイオリンを演奏しているのか、相手のを演奏しているのか分からない程その自我領域は溶け合った。
――少女と魔神は、こうして禁断の契約を交わした。魔神は、少女という器を通して、この世界に自在に干渉することができた。凄まじい力を手にした少女は敵を蹴散らし、少年を救出した。しかし、もはやその命は風前の灯火だった。
少女は、人として彼を愛することはできないことを知っていた。そして、彼が人として年老いていく姿も見たくはなかった。ゆえに、少女は魔神に頼み、魔物の長い寿命を彼に分け与え、もう二度と目覚めることのない、安らかな眠りにつかせた。二人は永遠に時間を共にすることとなった。
轟音は、うめき続ける。調は、何とかして姉妹の攻撃を支援したかったが、彼らの気迫がそうさせなかった。この音の流れに少しでも下手にアレンジを加えれば、二人の力はたちまち減衰してしまうだろう。
――少女は、それ以来、少年と共に姿を隠し、人間界を去ってしまった。だが、人の理を外れた少女の伝説は未だに語り草となり、未だに物好きな魔術師がこの半神半人を降臨せしめるべく呪文を唱え続けている。
終幕。
轟音は、爆散した。弦奈と弓刃は、ヴァイオリンの弓を鳴らす手を止め、ただその光景を眺めていた。ただ、命がけの演奏を終えられたことへの充足だけがあった。
「轟音がやられたか」
静寂の声に、不思議と失望はなかった。
「次は私めが参りましょう」
フィナーレの背後に、四人のトランペット奏者がいた。
「彼らがやってくれるでしょう。」
「人間たちに黙示録の光景を焼き付けてご覧に入れましょう」
あの女は、いない。静寂は、彼の行方を追おうとはしなかった――というより、ほとんど興味を喪失していた。
以前、鶴舞姉妹に手痛い敗北を喫してから、もはや彼は人々の音色を奪うという使命に対する献身をあきらめてしまったかに見える。
ならばそれでいい。この女にもはや利用価値などない。
静寂にとって、自分以外のミューノイズはただの道具でしかなかった。ただ、音楽を奏でなければ、あのお方の命令に違反することになる。
あのお方に呼ばれなければ良かったのだ。しかしもはやあの頃には戻れない。
フィナーレは、ある巨体のミューノイズの上に立っていた。白く、羽を生やした異形、黄金の像の上に。人の顔ではなくラッパが生えている像だ。腕と脚にもラッパが生えている。それは、まるで異形の天使のような風貌だった。そしてフィナーレが載っている他にも左に銅、右に銀で覆われた同じ姿のミューノイズが浮かんでいた。誰一人として、その姿を事前に察知することはできなかった。
「そろそろ、始めるといたしましょうか」
人々があっけにとられる中、フィナーレは片手に問った指揮棒を静かに揺らし始めた。
黄金の天使からラッパの音色がなりひびき、人々の姿が、大理石のように漂白された。
寂乃の姿が、像のように固まった。
音代の誰もが、驚いていた。
時間が止まったように、人々が動かない。
調は、何が起きたのか理解するのに時間がかかった。
「音代だけを狙って始末するつもりなの?」
律真は低い声で言った。
「ああ……他に動いている奴がいないということはきっとそうだ!」
旋律はまだ冷静さを保っていたが、動揺を隠せなかった。
だが、ラジカセやCDプレイヤーの音などはまだ流れ続けていた。ただし、耳が曲がるような禍々しさを秘めた別の音に変わっていた。
今や街に満ちる音色が雑音に代わっていった。
至る所に設置されたスピーカーがラッパのような音に変わっていた。
「スピーカーに近づくな!」
チャート一位の歌を鳴らしていたスピーカーが、今では茨のように曲がりくねる音色を発して調を襲おうとしている。
だが、いつの間にかその場に律真が駆けつけていた。
「調!」
律真が高音を鳴らすと、茨はちぎれた。
「ありがとうございます!」
「感謝はいらねえ。早く表に出るぞ」
「はいっ!」
それから、通りを出て、空に浮かぶ敵に視線を引き寄せられる。
(今度はフィナーレか……!)
「何なの、あれ……」
調は、自分の見ている光景が本当に現実の物なのか、疑わずにいられなかった。
ラッパを生やしたミューノイズが、あと三体は宙に浮かんでいた。
「あれが周到なフィナーレの使うミューノイズだ。街を一つ制圧するだけの威力がある」
鍵二はそれを見て、心当たりがあった。
<ラッパだ。まるで黙示録みたいな……>
「鍵二さん?」
<さっき合流した。どうやらとんでもないことが起きているみたいだな……>
「ああ、とんでもないことだ。何せフィナーレが終わりの演奏を奏でているわけだからな」
律真は言った。
「なるほど、道理で宗教画みたいな絵面なわけだ」
しかし、決して彼は怖気づきはしない。
皮肉を言う鍵二。
<人間の音楽ならもうちょっと粋な演出をするもんだが、露骨すぎるな>
「だが、どれだけ豪華に飾り立てようが所詮は人間の音色のまがい物だ。行くぞ!」
そこに、ホーンの角、ハープの羽が降りてきた。
「さまよえる旋律!」
「来てやったぞ。お前らじゃあの『周到なフィナーレ』に太刀打ちできないからな」
「な、何を!」 悔しがる調。
「俺がやる。傀儡どもにもお前らを守らせてやるよ」
銀の天使がラッパを奏でる。
すると、音代たちの楽器から音色が消え始める。
「音が、絶える!」
「あいつの音色の射程から離れるぞ!」
律真が叫ぶ。
<僕は――>
鍵二の声が突然やんだ。
チェンバロの音が絶えた。
「鍵二さん!?」
調には、もはや他の音代がどうしているかの情報が流れ込まなくなってしまった。
(あの天使たち――音代たちを分断して各個撃破するつもりなのか!)
旋律の言う通りだ。
フルートをくわえた女性がいた。
その音色により、天使の動きがわずかに揺らいだ。どこか、迷路のような所に迷い込んだかのように、動きが横にそれた。混乱させる力があるらしい。
「私の名前は和。私の音色は幻影を見せる力があるの」
「調っていいます。炎で何だって焼き切れます」
二人は、一目で互いが信頼するに足る人間だと確信した。
「一緒に戦いましょう!」「はい!!」
調と和は背中合わせに演奏を始めた。
どちらも全く違う音色でありながら、調は一瞬で音色を調和させていた。
森だ。
天使たちのトランペットをうまい具合に逸らしていた。
――軍勢たちから銅鑼が鳴る。一気呵成に攻め立てようとする意志が兵士一人一人に伝わる。
天使の動きがわずかにゆらめき、そこに調の音色がつきささる。
紐奈は、ゲーム用語でこれに相当する物を知っていた。
(調のあのやり方……パリィってやつだ)
少しずつ調は、この巨体の敵に対処する方法を得つつあった。
調のギターからほとばしる熱気は、これまでよりはるかに高らかで、研ぎ澄まされていた。
だがミューノイズの演奏も洗練されていた。
銅の天使が重低音のラッパを轟かせ始めた。
頭の中に、直接眠りを注ぎ込まれるような感覚があった。調は壁に手をつきながらなんとか覚めたままでいようとしたが、この眠気は気迫で抑え込めるものではなかった。
音代たちは、次々と戦意を喪失し始めた。
旋律は、彼らを見て焦った。ミューノイズである彼だけが、その力から自由だった。
(くそっ! 俺しかいないのか!)
音代たちから、旋律は目を背けようとした。しかし、できなかった。
(あの時までは、ざわめく静寂を倒して、俺がミューノイズの首領になればいいと考えていた。こいつらはただの手駒だったはずだ。なのに、このままじゃいけないと俺の本能が言い聞かせている)
旋律は、この葛藤に驚いていた。こんな感情に、つい少し前はちっともなったことがない。
人間に、自分の音色を汚されたようなものではないか。にも関わらず、旋律はさほど気分が悪くなかった。




