多分、愛
「それにしても怖くはなかったのか?」
吸っていたタバコを持つ右手を窓の外に出し、左手でハンドルを動かしながら質問を投げかけてきた。
「そういえばそんなこと考えませんでした。なんせ今日は色々と忙しい日でしたし」
「そうか、それならいいんだ。自分が何者か分からないという恐怖に侵されていないのなら安心だ」
本当にいい先生だと思う。僕には記憶がないから先生という職種の人と接するのは初めてだけど。
「そろそろだ。ここを曲がれば君の家に着く。着いたら親御さんに事情を説明しないとな」
ついに家に着くのか……僕はこれからやってくる現実が不安だった。
どんな家なのだろう。家族はどんな人で、何人いるんだろう。
それに、僕が記憶喪失だって知ったらどう思うだろう。
見知らぬ人ばかりの空間でこれから生活していけるのかな。
そんな不安だった。僕は家で休息することすらままならない生活になるかもしれない。
近くの駐車場に車を停め
「さぁ、ここが君の……」
言葉を続けようとしていた咲夜先生が絶句する。
だが、それも至極当然な反応だと言ってしまうしかない光景がそこには広がっていた。
「せ、先生間違えましたか?」
「いや、私はこれでも社会の教師でね。地図を読み間違えるなんてそれこそ私が結婚するぐらいありえないことだよ」
「まぁ、彼氏は探すとして。じゃあこれはいったいどういう……」
そう、僕の家がある場所。いや、僕の家があるはずの場所に家はなかった。
代わりに、そこにはポツリと小さな神社が佇んでいた。
その佇まいはこの場所一帯に神聖で、少し不気味な空気を与えていた。
何か文句でも? と咲夜先生はその綺麗な茶色の瞳でジロリと一睨みする。
「いやいや、先生を疑ってなんかないですよ! でも、これは……」
「分からない。でも確かなことが一つだけある」
「確かなこと……」
咲夜先生は、スーツの右ポケットから取り出したライターで新しいタバコに火をつけ、一吸い。
そして、何か覚悟を決めたかのような顔で続けた。
「君の…君の家は存在しない。名簿には君が神社の生まれだと書かれてはいなかった」
「それって……」
咲夜先生は言葉を失う僕に元気づける言葉も、労う言葉もかけず、続けた。
「おそらく君の家族というものも存在しないと考えていい」
「そんな…僕には記憶も、家族も、家もないってことですか……」
ダメだ。今まで押し殺してきた不安や恐怖がこの現実によりついに我慢できなくなり、涙を媒介にして溢れ出してくる。
「うぅ……」
僕はこれからどうしたらいい? 誰を頼りにしていけばいい?
というか、今の僕に生きている意味なんてあるのか。
そんなことすらも分からなくなるほどに僕は追い込まれていた。
「おい!」
そんな僕の絶望しきった背中がバンっと叩かれた。
後ろを見るとそこには咲夜先生がとても優しく微笑んでいた。
「真田、人生に絶望するな。君に家も家族もないというのなら、本物のそれが見つかるまで私が代わりになってやる!」
そう言い終えると突然、僕の腕を引っ張り抱き締めてきた。
「なっ、先生。や、やめてください」
恥ずかしい。
年上の女性から抱き締められるというしたことのない体験に、僕の耳が真っ赤になるまでそう時間は掛からなかった。
その恥ずかしさで溢れ出ていた涙も止まった。
「嫌だよ。君は甘えていいんだ」
さらに僕を抱き寄せる力は強くなる。
「先生……」
先生の胸の中はとても心地が良かった。
とても優しくて、どこか温かくて。
母親からの愛をもらったことがない僕は、これが愛なのかと思ったほどだった。
そしてまた、目から涙が溢れ出してどうしようもなかった。
ーーどれほどそうしていただろう。
気が付くと辺りはすっかりと闇に包まれていた。
溢れ出していた涙も、いつしか枯れていた。
「もう大丈夫です。ありがとうございました」
「そうか、それならいいんだ」
咲夜先生は僕の頭を2回撫で、車へと向かう。
振り向きざまにその黒く長い髪から、真っ赤に染まった耳が露わになった。
慣れないことを僕のために…
僕の胸の中で名前の分からない正体不明の感情が芽生えたことを感じられた。
「先生! 待ってください!」
***
「さぁ、ここが私の家だよ」
「ここが……」
僕はそこに広がっている光景に絶句した。
汚い。
玄関はどうしてこんなにあるのかと問いかけたくなるくらい靴で埋め尽くされ、廊下にはゴミが散乱、机の上も荒れ放題。
おまけに台所にはビール缶とカップラーメンの残骸というハッピーセット。
「いや、汚すぎでしょ! ここに住まわせてもらう立場なんで言いにくいんですけど汚い!」
「う、うるさい! たまたまだ! たまたま忙しくて片付ける暇がなかったんだよ」
「まぁ、そういうことにしましょう。安心してください、これからは僕が家事をやらせてもらいますから」
「なにっ、それはとても助かる」
これからお世話になるんだし、家事ぐらいやって当然だよ。
ただ……まずはこれを片付けなきゃいけないのか…
「じゃあ私はシャワーを浴びてくるよ。君はそこの布団でもどこでもいいけど休むといい」
そういって咲夜先生はお風呂場に向かった。
そうか、急なことだったし、部屋が汚すぎて気にしてなかったけど今日から女性と2人で暮らすんだ。
ちゃんとやっていけるかな。
あの人家事能力低そうだし……
そんなこと考えていると、脱衣所のドアが急に開いた。
ドアの隙間から咲夜先生がヒョコっと顔を出し
「そうそう。私のことは咲夜さんって呼んでくれると嬉しいな。あと、お風呂から出たらこれからについて話そう」
突然のことに驚いた僕は
「はっ、はい! 分かりました咲夜さん!」
「よろしい」
咲夜さんは満足げな顔をし、またお風呂場へと戻っていった。
い、今絶対服着てなかったよな。
僕の心臓はバクバクだった。
女性と暮らすって大変そうだ。
特に僕の心がだけど。
こうして、僕と咲夜先生の奇妙な同居生活が始まった。
ここまで読んでくださりありがとうございます!
面白いと感じましたらブクマや感想などよろしくお願いします!




