09
渾身の愛の歌だった。
あんなに、彼のことを思って歌ったことはない。
ここに来てからずっと、彼のために上手く歌おうとしていた。どれだけリラックスしろと言われても、彼に披露する歌に手を抜くことは出来なかった。
シャンテは、心の底から彼の事だけを思って歌った。他の事は何も頭になかった。
ただ、彼への愛を詰めて歌った。
廊下を走って、自分の部屋へと飛び込んだ。
幾ばくもしない内に、ドタバタと廊下から足音が聞こえ始め、慌ただしいノックの音が鳴る。
「シャンテ!」
「シャンテはただ今! 実家に帰る用意をしております! 御用の方は! また後日! お尋ねください!」
情けなかった。不甲斐なかった。恥ずかしかった。悔しかった。
シャンテの精一杯だった。シャンテの彼への想いだった。シャンテの、全てだった。
それがただの一つも、ドルミールには通用しなかった。
そのことがただただ、悲しかった。
「シャンテ」
「聞こえておりません!」
「聞こえていなくてもいい。話させてくれ。君の誤解だけは解きたい」
「ええどうぞ。聞こえませんけど!」
シャンテはクッションを抱きしめて座り込んだ。クッションが涙を吸い、色を染めていく。
「……君の歌は僕の希望だった。その思いが強くて、君に歌しか求めていないのだと思われたのなら謝る――すまなかった。そして、もうひとつ、すまなかった」
深い深い懺悔に満ちた声が、低い位置から聞こえてくる。
シャンテは驚いて、そろりとドアに寄った。間違いなく、ドルミールの声は低い場所からしている。
若くして侯爵という地位を守り、女神に嫉妬される笑顔を持つ、この国をしょって立つ御方が、頭を下げているのだ。
ただの、16歳の、歌もろくに歌えない小娘に。
「さっき君が歌ってくれたことで気づいた。僕が君の歌で眠らなかったのは、きっと――君のせいじゃない」
なんですと。
涙も忘れ、シャンテは顔を上げた。
「君はどんな子だろうと思っていた。僕は君の歌を聞くとすぐに眠ってしまうから――君に求婚するまで、君の姿を知らなかった。君は、僕の希望だった。君だけが僕に安らぎをくれた。君が、歌うその姿を、ようやく僕は手に入れた――」
きっと、だからだ。
ドルミールは続けた。
「僕は、歌う君から視線が離せなかった。ずっとだ。君が来てから――ずっと」
ドアの向こうから、掠れた声が届く。
シャンテは口元を指先で押さえた。
シャンテが歌い終わって彼を確認すると、必ず目が合った。
いつも、どんな時でも、それは変わらなかった。
それはドルミールも、シャンテをずっと……見つめていたということ。
――ガチャリ
ドアを開く。
シャンテの予想通り、ドルミールは深く頭を下げていた。そのままの姿勢で、ずっといたのだ。
シャンテは桃色に染まった頬でドルミールを見つめる勇気が持てずに、視線を下げた。扉から体をすり抜けて、彼の前に所在なさげに立つ。
「眠れなかったんじゃない、眠らなかったんだ……君を、見ていたかったから」
心苦しい思いをさせたのに、本当にすまない。
ドルミールは顔をあげてシャンテを抱きしめた。久しぶりの抱擁だった。
シャンテは初めて、広い背を抱きしめ返した。
「あなたの役に立ちたいと思っているのに……あなたに見捨てられるのが、怖い……などと。浅ましい気持ちを抱えておりました」
「僕にとっては、嬉しい限りだ」
「私の、精一杯の歌で、眠ってくださいませんでした」
「すまない。けれど君の気持ちは、きっと受け取れたと思う」
シャンテは顔を今度こそ真っ赤にして俯いた。シャンテが先ほどの歌に込めた気持ちを、ドルミールはしっかりと感じていたのだ。
ドルミールが遠慮を無くした手で、シャンテを撫でる。
つむじに、髪に、額に、キスの嵐を降らせたドルミールは、最後にシャンテの瞳を覗き込んだ。
「もう一度歌ってくれないか。自信はあるんだけど、確信がほしい」
頬を包み込むドルミールの手に、そっと頬をすり寄せると、シャンテは小さく頷いた。
そして、目を閉じて、息を吸う。
「――夢を見ているの、幸せな……」
え。
――ずしんと、シャンテに重さが加わった。
驚いたシャンテは歌を止め、慌てて目を開く。今までシャンテを抱きしめていたドルミールが、彼女に寄りかかっていたのだ。
「ド、ドルミール様!?」
慌てたシャンテの声に、廊下の端で待機していたレヴェイユが駆けつける。
「レヴェイユ! ドルミール様がっ!」
レヴェイユの力を借りてドルミールを廊下に横たわらせる。何かあったのかと大慌てで彼の様子を見たシャンテは、息を呑む。
……まさか、このパターンって……。
「シャンテ様……」
レヴェイユが口を開く。
いやでも、ずっと望んでたんだし……。
「ドルミール様は……」
ええ、でも、この場面で……?!
「眠って、おられます……」
ですよね。
-眠れない侯爵と、歌う小鳥 <完>-