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あたしは待った。あやかなちゃんの口から美しい花びらとなってあふれだす言葉を。かぐわしい言葉でもってアオを褒めそやし、そしてアオのオーナーであるあたしの腕にしずかに手を添え、やさしく慰め、賞賛を奏でる言葉のかずかずを。
しかし、でも。
あやかなちゃんは、隠しようもなく驚いていた。この時点であたしのなかに風が吹き込んできた。いやな感じのする、時に砂礫さえも混じっている風がざらざら吹き込んできたのだ。ざらざら、ざらざら。でも、これがこれからどんな事態を招こうとしているのか、あたしにはまるでわかっていなかった。
あやかなちゃんはすでに見抜いていたんだろうと思う。アオがほんものの美しい蛇であることに。そして魂のきれいなあやかなちゃんをさしおいて、よりにもよって汚れ切った魂のあたしが蛇を持ってきたことに。
あやかなちゃんは黙っていた。ひとことも言葉を発しようともせず。
あたしだって声がでない。緊迫した空気がみなぎり、まるで教室の大気圏上層に雷雲が発生でもしたのか、皮膚がちりちりして痛い。あたしたちを取りかこんでいるギャラリーも固唾を呑んで見守るしかない。ここからは動けないし、逃げだすことだってできない。
アオがあたしの腕に巻きついた状態で闘争本能をみなぎらせているのがわかった。だって、アオの小さな心臓がドキドキとはやい脈を刻んでいることが、彼女のひんやりとした鱗ごしに伝わってくるんだもの。でも、なぜ闘おうとしているのかわからなかった。
いや、ほんとうはわかっていたのだ。でも、いまから起こる惨劇を認めたくない気持ちは遥かにおおきかった。だって、あたしは依然としてあやかなちゃんに褒められたかったのだし、彼女をお母さんみたいにして甘えてみたかったのだ。
だけど、あやかなちゃんからはすでにしてこれまであったような、――かりそめだったのかもしれなかったけど、友情も、クラスメイトである慕わしさも感じられなかった。
彼女は命じた、草色のクサに。クサははじめ命じられた内容を理解できないふりをしていた。あたしだってそうだ。そんなこと、あやかなちゃんがするはずないじゃない。クラスメイトのみんなもそうだった。あのあやかなちゃんが、そんなことをするはずないんだって、絶対に。だから、これから起こる事態をただしく、冷静にみつめていたのは、あたしの青い蛇、アオただひとりだけだった。
あやかなちゃんがひそやかにクサに目配せをし、命じていた。あたしはすでに、あやかなちゃんが彼女の美しい草色の蛇に何を命じているのか悟っていた。これから眼前に展開する光景が酸鼻のきわみであったとしても、あたしはアオに逃げろ、と合図してやることさえできなかった。指すら動かせない。ただ見ていることしかできない。
事態はじつにスローモーに進んで行った。クサはあきらかに戸惑っているようすだった。しかし、クサはあやかなちゃんによって刷り込み完了した蛇なのだ。あやかなちゃんに逆らえるわけがない。そしてこの一連の流れを、ただしい青い蛇であるアオは驚くほど冷静に見つめていた。
行け。
と声にこそ出さなかったけれど、あやかなちゃんの唇がかすかに動いた。それは花びらを生みだす、みすみずしさを湛えた可憐な唇ではなかった。まがまがしさを孕んだ気息が、あろうことかあやかなちゃんの口から腐臭混じりの言葉となり、何の躊躇いもなく漏らされたのだ。
クサはアオに噛みついた。ちょうどアオの喉にあたるところだ、と思う。
牙は深く抉るように喰い込んでいた。鮮血があたしの腕につたわり、床へとしたたり落ちる。血は生温い、というより、火傷しそうなくらい熱い。アオからは、しゅうしゅう、空気が漏れるような、おかしな音がする。あたしはどうしたら良いのか、わからない。クサは噛み付いたままだったが、その濡れたつぶらな黒い瞳は、哀しげにあたしを見つめ、侘びているふうでもあった。とんでもない過失を犯した、とクサ自身が思っている、とあたしは咄嗟に思ったけど、だからといってどうすることもできない。
アオはといえば、もうあとは死が待っているだけだというのに、とても落ち着いていた。このようになることをきっと、彼女は予見していたのだと思う。そして、ただしさを満々とたたえた瞳でアオは、あやかなちゃんを見据えていた。憎しみも、怒りもなかった。ただ静かなただしさだけが、アオにはあった。
叫んだのは、あやかなちゃんだった。彼女はクサとアオとをあたしの腕から毟り取り、モスグリーンの色をしたリノリュウムの床に力任せに叩きつけた。床には絡み合った、ふたつの蛇が血だまりの中に浮かぶように横たわっていた。あやかなちゃんが激しく叩きつけたものだから、アオもクサもぴくりとも動かなかった。
ギャラリーから悲鳴が上がったのは、この直後だった。金縛りから解放され、彼女らはパニックになった。人垣が崩れ、みんなこの場から逃げだした。蒼白になり、膝から崩れ落ちた子や、失神した女の子もいた。
あたしはみた。あやかなちゃんの怒りを滾らせ、真っ赤に充血した眼を。
あやかなちゃんは黙って唇を噛んでいたけれど、悔し涙は血のように赤く染まった眼からどくどくと流れて止まらなかった。
蛇からはおびただしい血が流れつづけ、あたりはまるで血の水たまりがどんどんひろがるかのようだった。
あたしもそこから離れようとした。だって、あやかなちゃんの怒りに狂った真っ赤な眼があたしを追いかけてきたからだ。
だけど、その瞬間だった。足を血だまりの中で滑らせた。あやかなちゃんが伸ばす指から逃れようと、身を翻した。
ふ、……と天井の蛍光灯が視界をよぎった。
――と思ったとたん、後頭部をしたたかに床に打ちつけ、眼からは火花が散った。あたしは気を失ったのだ。
この日はながいこと、眠っていた。
目覚めたのは夜になってからで、気がつくと家のベッドにいた。
あやかなちゃんは、学校からいなくなっていた。あたかも最初っからそんな女の子なんていなかったかのように。
それからはもう、あやかなちゃんと二度と会うことはなかったし、学校でも誰もあやかなちゃんについての噂をすることもなかった。
そして神さまから魂のきれいな子どもだけにもたらされるという蛇についても、それはあたしたちの現実とはいっさい関わりをもたないお伽話めいたこととしてみなされ、あんなに美しかったクサのことも、アオのことも忘れ去られてしまった。