9話 示されるリミット
伊織が熱を出してから、数日が経過したある日の夜。ナホはいつものように、狭い押し入れの下段で膝を抱えて眠りについていた。
意識が深く落ちていく中、ふと気がつくと、彼女は見覚えのある場所にいた。そこは色も音もない、ただ果てしない静寂だけが満ちる空間。
神様から人間の身体を与えられた、あの場所である。
『ナホよ、恩返しは順調か?』
低く重厚な声が響き渡る。ナホは直感的に、声の主が自分に人間の身体を与えてくれた神――塵塚主命であると悟った。
「はい、神様」
ナホは嬉しそうに微笑んだ。
「ご主人はとっても優しくて、いい人です。だからナホ、ご主人が幸せになれるよう、これからも全力で頑張ります」
『うむ、良い心がけだ』
神様は満足そうに声を震わせ、しかし、どこか静かなトーンで言葉を続けた。
『お前の使命が果たされた時、お前に与えた肉体は塵に還り、魂は天へ昇る。その定めに揺らぎはない』
「心得ています。それでも私は構いません」
ナホの瞳には、一点の迷いもなかった。
「ご主人の幸せが、私の幸せですから。人間の身体でご主人の隣にいられるだけで、私は十分に報われているのです」
『よろしい。最期の刻までの間、お前の使命を精一杯に務めよ』
◇
パチリと目が覚めると、使い慣れた押し入れの天井が目に入った。
ナホは引き戸をガラガラと開けて、部屋へと這い出る。六畳間のアパートにはすでに朝の光が差し込んでおり、良悟の姿はなかった。
ふとテーブルを見ると、一枚のメモ用紙が置かれている。
『今日は大学が早いから先に出る。大人しくするように。起きたら冷蔵庫の卵サンドを食べてね』
やや丸っこい良悟の文字を、ナホは愛おしそうに見つめた。
「ご主人、ありがとうございます」
嬉しそうに冷蔵庫から卵サンドを取り出した、その時だった。
トントン、とベランダの窓を叩く軽い音が聞こえた。振り返ると、なんと隣の部屋のベランダを伝って、伊織と住む少年――ディルが窓の外に立っていた。
ナホが慌てて窓を開けると、ディルはズカズカと室内に侵入してきた。
「よお。美味そうな匂いだな、俺にも食わせろ」
「ダメですよディル、勝手に入ってきたら……ってあぁっ、私の卵サンド!」
ディルはナホの手から素早くサンドイッチを半分奪い取ると、そのまま口へ放り込んだ。
「これ、お前の主人が作ったのか? やるじゃん」
「もう……。まぁ、半分残してくれたから許します。それより伊織さんは元気になりましたか?」
ナホはベッド脇に座り、残りの半分を大事そうに齧りながら尋ねた。
「ああ。今日は朝から仕事に出かけたぞ」
「それは良かったです」
ナホはほっと胸をなでおろす。
やがて、ディルは手についたマヨネーズをペロリと舐めると、少しだけ真面目なトーンで口を開いた。
「なぁお前さ、ご主人への恩返しってやつ、真面目にやってんの?」
「当然です。それが私の生まれた意味ですから」
「ふーん。俺も神様から恩返しを言いつけられたんだけどさ。あんまり興味ないんだよな、そういうの」
ディルは退屈そうに天井を見上げる。
「せっかく自由な人間の身体を手に入れたんだから、美味いモノを食いまくる方が、俺にとっちゃよっぽど大事」
「でもこの前の夜、私のご主人を呼びに来たのは伊織さんが心配だったからじゃないですか?」
「違うって。あいつが動かなくなって、美味いモノ作ってくれなくなったら困るだろ」
「本当に、それだけですか?」
「それだけ」
言い切るディルだったが、どこか自分でも掴みきれていない違和感が胸の中で燻っているようだった。
彼は少し考えるように沈黙した後、再びナホに視線を戻した。
「……なぁ、何でお前はそこまでご主人のためになれるんだ?」
「だって……私のことをずっと大切に、優しく扱ってくれたご主人が、大好きだからです」
ナホの真っ直ぐな笑顔に、ディルはまたつまらなそうに「ふーん」と鼻を鳴らした。
「ディルはお姉さんのことが好きじゃないんですか?」
「前はただの持ち主。今は美味いモノ食わせてくれる人。それだけ」
口ではそう吐き捨てながらも、ディルの脳裏には、あの夜の光景が不意に蘇っていた。
熱を出して、今にも壊れてしまいそうに苦しんでいた伊織の姿。あの時、胸の奥が嫌な感じでざわついた。
いつもみたいに笑って、元気になってほしいと、確かにそう思った。
「……なんか、よく分かんね。帰るわ」
吐き捨てるように言うと、ディルは再びベランダの窓から隣の部屋へと去っていった。
◇
夕方。鍵の開く音とともに、良悟が「ただいま……」と疲れ切った声をあげて帰宅した。
「おかえりなさい、ご主人!」
ナホは玄関まで走っていき、満面の笑みで出迎える。
「うおっ、元気だなお前は……。ちょっと大学のレポートでてこずってさ、めちゃくちゃ疲れた……」
愚痴をこぼしつつも、良悟の表情はどこか柔らかかった。
◇
一方その頃。
良悟の帰宅から少し遅れて、隣の部屋では伊織が帰宅したところだった。
「おせーぞ伊織。なんか美味いモノ食わせろ」
ソファの上で踏んぞり返ったディルが、さも当然のように命令を下す。
伊織は持っていたバッグを置き、呆れたように、けれどどこか嬉しそうに肩をすくめた。
「はいはい待っててね、すぐ作るから」
それぞれの部屋に流れる、騒がしくも賑やかな時間。二つの奇妙な関係は、少しずつ形を変え始めていく。




