第9話 想定外
「おい日下部、それは本当か?」
「はい。間違いありません」
「そうか。悪いが、少しの間一人にしてくれ」
日下部は黙ったまま頷くと静かにその場から立ち去った。
一体何がどうなってやがる。
あの本田さんが自宅で首を吊って自殺!?
昨日のあの言葉はそういう事だってのか。
『これでゆっくりできる』
本田さんは昨日、俺と会ったあの時から自殺するって決めていたっていうのか。
何で最後まで何も言ってくれないんだよ。
俺はそんなに頼りないのかよ。
本田さんが何かを隠しているのには気付いていた。
何か話せない訳があると思って昨日は敢えて何も聞かなかった。
昨日の今日でこんな事になるなんて思わねえだろ、普通。
清水は尊敬する先輩刑事である本田が自殺した事が受け入れられないでいた。
普段、何があっても決して涙を流す事のない男が恥ずかしげもなく、涙を流している。
それほどまでに本田道信という男の死は大きい。
何より本田は自殺したのにも関わらず、遺書を残さなかった。
これでは本田が何を隠していたのか知るすべはない。
本田が自殺した原因を清水は一生掛けても知ることができない。
愛知県警を一人の男が訪ねてやって来た。
その男は偶然、見掛けた刑事に声を掛ける。
「そこの昨日の女刑事さん、ちょっといいかな?」
「?あ、重松教授じゃないですか!どうされました?もしかしてウイルスについて何かわかった事があるとかでわざわざ来て下さったのですか?」
葵は誰かなと思いながら振り返ると昨日、名古屋総合医科大学で話を伺った重松猪埜介教授がいた。
ウイルスについてあれから何かわかった事があり、わざわざそれを伝えに来てくれたのかなと期待するが、重松教授からは予想外の言葉が飛び出てくる。
「いや、それとはちょっと違うかな。実は…」
「清水さん、清水さん、たたた大変です!」
清水の元に葵が息を切らしながら走ってやって来る。
「何だ朝から騒々しいな。俺は今、それどころじゃねえんだよ!」
虫の居所が悪かった清水は葵に八つ当たり気味に怒鳴ったが、葵の鬼気迫ったその雰囲気を悟り、清水は冷静になる。
「こっちも大変なんですって!じじじしゅ…」
「あ!何言ってるかさっぱりわかんねえよ。急ぎの報告なら簡潔にわかりやすく伝えろ」
「自首したんです。重松教授が」
「はあ?」
ますます意味がわからなくなった清水。
それも無理はない。
昨日、話を伺った相手が急に自首してきた。
突如として二つのとんでも報告が届き、清水の頭はこんがらがった。
「重松教授がトイフェルのメンバーだったんです。コードネームはドライ、さっき私にそう自白しました」
「重松教授がトイフェルのメンバー?仮にそうだったとしても何でこのタイミングで自首する必要がある?ああクソ、今日は意味がわからん事が多すぎる!重松教授は今、どこでどうしてる?」
「今は取調室で日下部さんが話を聞いています」
「日下部が?何であいつが」
「清水さんに報告しに行かなきゃと思っていたら日下部さんと遭遇してそのまま重松教授の事をお願いしました。私じゃどう対応したらいいかわからなかったので」
「わかった。すぐに俺たちも取調室に向かうぞ」
清水は葵から一連の騒動について説明を受けるとすぐに取調室へ向かう。
取調室に着くと日下部が重松教授と何やら話している様だった。
「だから何か言ってくれないとこっちには何も伝わってこないって。曲がりなりにも自首してるんだから何か答えてくださいよ」
「…」
何を聞いても一切答えてくれない状況に日下部は完全お手上げ状態だった。
清水と葵の二人はそこにタイミング良くやって来た。
「日下部、ご苦労さん。代わる」
「清水さん。よかった、やっと来てくれた。この人何を聞いてもうんともすんとも答えてくれないんですよ。もう自分じゃ完全にお手上げ状態です」
「まあ何となく状況は察したよ」
ここからは日下部に代わり、清水が重松教授の事情聴取を行う。
昨日とは打って変わり、清水の重松教授を見る目はかなり鋭い。
「昨日ぶりだな、重松教授」
「そのようだね、清水刑事。昨日はこんな形で再開するとは思わなかったよ」
「何だ、ちゃんと会話してくれるのか。日下部に何聞かれても答えなかったぽいから黙秘を貫くのかと思ったよ」
「いやはやそれは失敬。私は清水刑事が来るのを待っていただけだよ。決して悪気があった訳ではない。不快な思いをさせたのなら謝罪しよう」
「そうか。なら俺の質問には素直に答えてもらえるという事でいいのか?」
重松教授は不敵な笑みを浮かべたまま顔を縦に振る。
「じゃあ早速、何でこのタイミングで自首した?」
「昨日、清水刑事たちが私の元を訪ねてきてこれは逃げられないと判断したからだよ」
「そんな体面見繕った言い訳は聞いてない。本当の事を言え!」
「ふむ、さすがにこの嘘はバレるか。そう言えたらどれだけ楽か…。今日、私が自首するのも私たちの計画の内さ」
「自首する事が計画の内だと?ふざけているのか」
「ふざけてなどいない。信じられないのなら信じなくてもいい。ただこれはヌン、私たちのボスが考えた決死の計画で、私はそれに従っただけだよ」
取調室内で事の成り行きを見守っている日下部と葵の二人も口にこそ出さないが、清水と同じような事を思っているに違いない。
それだけ重松教授の発言は常軌を逸している。
「なら、おまえたちは何が原因で急遽計画を変更した?」
「何のことかね?私にはあなたの言いたい事がイマイチ理解できない」
「おまえさっき言ったよな。”昨日はこんな形で再開するとは思わなかった”って。つまり、昨日俺たちと会った時にはこの計画はまだ決まっていなかった事になる。となると俺たちが帰った後、夜になって急遽計画を変更した。違うか?」
「おっとこれは失言だった。まさかそんなちょっとした会話からそこまで気付くとは恐れ入るよ。確かに私たちは昨日の夜、急遽計画を変更している。ちょっと想定外のトラブルがあってね」
「その想定外のトラブルって何だ?」
「…」
「答える気なしか。まあいい。ならどうしてこんな事をした?」
「世間では犯罪は悪だと言う人は大勢いる。私もそう思うよ。それでもね、己の信じる正義の為に私は今回の計画に加担した」
「おまえはこの一連の騒動が正義だと言いたいのか」
「それは解釈の問題だよ。現時点では正義とは言えないだろうね。でも、タイムリミットが来る頃にはきっと清水刑事、あなたの認識も変わる事だろう」
何やら含みのある言い方をしている。
今の段階では犯罪とは言えない。
つまり、犯罪と言っているようなもの。
あと4日経つ頃には清水の認識が変わると断言している。
「そこまでして何を企んでる。トイフェルの目的は何だ?」
「13年前の事件の謎を紐解けば自ずと明らかになる」
「おまえたちの言う13年前の事件は無差別連続殺人事件の事か?」
「さすがは清水刑事。しかし、惜しいな。それは少し違う。世間ではあの事件を無差別連続殺人事件と言うが、実際は無差別などではない。あれはある特定の人物のみが立て続けに狙われた計画殺人だよ」
今までずっと無差別連続殺人事件だと思われていた事件が実は無差別ではない。
その話を聞いた清水たち三人は驚きを隠せないでいた。
「どういう事だ?あの事件の何を知っている?」
「それを調べるのはあなた方警察の仕事ですよ」
これ以上、事件の詳細を語る意思はない。
重松教授の発言をそう捉えた清水は苛立ちから舌打ちをするが、すぐに切り替えて本命の質問をする。
「ウイルスを作ったのはおまえか?」
「そうです」
「ワクチンは作れるのか?そもそも存在するのか?」
「ワクチンは既に用意してあります。テロに巻き込まれた人たち全員分ちゃんとありますよ」
「どこにある?あとウイルスの研究データの在処も教えろ」
「申し訳ないが、それに関しては答えられない。それを知っているのはヌンだけだからです」
その後も根気よく質問を続けるが、これ以上の情報は何一つ得られなかった。
重松教授の取り調べを終えて情報の整理を行っている。
「結局のところトイフェルは13年前の事件を調べさせて何がしたいんだ?」
「重松教授は13年前の事件の謎を紐解けば自ずと明らかになるって言ってたので、やっぱり謎を解くしかないのでは?」
「清水さんその件何ですけど、ちょっと個人的に気になる点があるので、調べてみてもいいですか?」
「気になる点?何だ?」
「えっと、記憶も曖昧でただの勘違いの可能性もあるので、わざわざ言うほどのものではないです」
「まあ、いいか。好きにやれ日下部。ただし、何かわかったらすぐに俺に報告しろ」
「はい、了解いたしました!」
日下部は清水の了承を得るとすぐに走り去って行った。
日下部の言う気になる点が何かは清水にもわからないけど、自由に調べさせるのは日下部に対する信頼の証。
しかし、清水はこの後この決断を一生後悔する事になるとは露にも思っていない。
翌日、清水は葵からとある報告を受ける。
その内容はあまりにも信じられないものだった。
日下部が何者かに殺された。
「清水さん、落ち着いてください」
「これが落ち着いていられる状況か!」
清水は日下部が何者かに殺されたという報告を受けて完全に我を忘れて取り乱していた。
無理もない。
日下部を自分の後釜に据えようと考えて、じっくり時間を掛けて育てていた後輩を殺されたのだ。
その少し前に尊敬する先輩が自殺したと聞き、精神的ダメージがあったのも相まって今の清水は完全におかしくなっている。
無理をして冷静振って重松教授の取り調べを行ったりもしていたが、日下部の死は清水が必死になって抑えていた感情を爆発させた。
「何で、日下部なんだよ…なんで…」
清水の目から涙が溢れている。
葵はそんな清水を見てどうしていいのかわからないでいた。
だからだろうか、葵は無意識で本来言ってはいけない事を話してしまった。
「私が悪いんです。私が日下部さんを殺したも同然なんです」
「こんな時に何言ってやがる!ふざけてるのか!」
清水は怒りのあまり思わず葵の胸ぐらを掴んだ。
この状況下でも葵は一切、動じることなく淡々と話を進める。
「私が自分の仕事を果たせなかったから。日下部さんがあの男に狙われると考えなかったから。全部、私が悪いんです!私が日下部さんを守れなかった」
葵の涙を見た清水は自分の行いを振り返り、恥じていた。
こんな所を日下部が見たらどう思うだろうか。
後輩の女子の胸ぐらを掴んで泣きながら怒鳴り散らすとか最高にかっこ悪い。
それに加えて相手の女子は泣き喚いている。
「それはおまえがトイフェルの内通者、いやメンバーってのと関係あるのか?」
「え?何でそれを?…どうして」
「最初から気づいていたさ。俺が話したから日下部も最初からずっと知っていた。最初は内通者だと思ってたけどな。だから俺はおまえを俺たちの捜査に加えた。俺の監視下に置くために」
「最初から…。なら名古屋駅の捜査に向かった時には気づいていた」
「そうだ。葵、おまえさっき日下部があの男に狙われるとは思わなかったって言ったよな。日下部を殺した犯人をしってるのか?」
「知ってます…。でも、これはまだ言えません」
未だに涙を堪えきらない葵の頬には雫がこぼれ落ちている。
それでも必死に言葉を紡いでいる。
「言え、誰が殺った!」
「…うぅっ、すみませんヌン。私もう無理です…」
葵は計画通りに行動できなかった事を小さな声でヌンに謝罪する。
清水は黙って葵の言葉を待っている。
「万丈という名の男です」
「万丈…。聞いた事ない名だな。どこのどいつだ?」
「13年前の事件の真犯人としか私は知りません。日下部さんは恐らく、真実を突き止めてしまったのだと思います。そのせいで万丈に…」
「そうか。おまえの処分は追って下す。しばらく大人しくしてろ!」
「はい」
「天道、大岩先生は何て言ってた?」
「13年前に自殺した生徒は無差別連続殺人事件の犯人として逮捕された人の息子だって言ってた」
「それって13年前の事件は無差別連続殺人事件ではない可能性もありませんか?無差別ではなく、狙った人たちのみを殺害し続けた」
「可能性は十分あると思う…」
「明さんどうかしましたか?」
「えっ、あ、大丈夫だよ。ちょっと他の事を考えてただけ」
明らかに明の様子がおかしいと思う可憐だったが、これ以上の詮索はあまりよくないと思い、踏みとどまる。
この後、三人は時間も遅くなってきたので、解散することにした。
明は家に帰ってからもずっと大岩先生から感じた違和感の正体を考えていた。