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桜さん、顔を上げて。  作者: 虹色
第二章 抜刀!
15/46


土曜の夕方ともなれば、渋谷駅周辺は待ち合わせの人々でいっぱいだ。もちろんハチ公前も。


まだ明るさの残る空の下、スマホをいじったり、キョロキョロしたり、ぼんやりしたり、誰もがそれぞれのファッションでそれぞれの待ち方をしている。その隙間を抜けて桜さんを案内する。


「あれがハチ公ですよ」


台座に乗った犬の像。周囲に少しだけ空間があって、像の前ではしゃいで写真を撮っているグループがある。


「思っていたより大きいです。秋田犬でしたっけ? 実物大?」

「近くに行ってみますか?」

「え? いいえ、ここからでいいです」


恥ずかしそうに首を横に振ったのは目立ちたくないからに違いない。


「秋田犬って耳が立ってるイメージでしたけど、ハチは片耳が折れているんですね」

「あれ? そうでしたっけ? ……ほんとだ。よく気がつきましたね」


感心した俺に桜さんが困ったように微笑む。


「どうでもいいことですよね。学校の友達には変なところに気が付くって笑われていました。でも、細かいことがどうしても目に付いちゃって……」

「それ、ドラマでは探偵役の条件ですよ。桜さん、いい探偵になれますね!」

「え? そうですか……?」

「それに、武道の稽古はしっかり見ることが大事です。だから、桜さんは剣術に向いてるってことです」

「あ、そうなんですね!」


桜さんの表情がぱっと輝いた。


「向いてるなんて嬉しい。役に立たないし、けっこうストレスになることもあるので、やっかいな性質だなあと思っていたんです。でも、剣術に役に立つならすごく嬉しいです」


俺の言葉が彼女を笑顔にした。そう思うとドキドキしてしまう。


「じゃあ……、行ってみますか、スクランブル交差点」

「はい」


期待に満ちた笑顔。思わず彼女に手を伸ばす。


――いや、ダメだ。


「あっちです」


行き先を失った手が前方を指し示す。


「あれ? なんだか人が……」


たった数分の間に人混みが増している。桜さんはぐるりと見回すと、「分かりました。ついて行きます」となにやら覚悟を決めた様子でうなずいた。それを見た途端、やる気が湧いてきた自分に苦笑してしまう。ただ人混みを抜けるだけのことなのに。だけど。


――こんなに楽しいなんて。


桜さんの言葉や表情一つひとつが俺の気持ちを心地よく刺激する。すぐそばに彼女がいるだけで、何かいいことが起こりそうな気がする。


桜さんと一緒にいると……。




「とっても楽しいです」


皿に乗った焼き鳥を前に、桜さんが俺に笑いかける。それを見ている俺の口許も緩む。


食事に入った小さな焼き鳥屋。彼女には面白いのではないかと思って決めた。


カウンター席に案内されたとき、桜さんは驚きと不安の入り混じった顔をした。「カウンター席って、常連さんが座る席かと思っていました」とささやいて。注文の相談中に料理人のおじさんに話しかけられたときは背すじを正して畏まっていた。


そんな緊張は一串目を口にしたところで解けたようだ。美味しさに声をあげ、「焼き立てをいただくって贅沢ですね!」と感動する桜さんに、おじさんが嬉しそうに目を細めた。


喜んでもらえて大満足。それに、メニューを見るのに肩を寄せ合うカウンター席は俺たちの距離を縮めるのに都合が良い。


「そういえば、選挙の仕事はどうでした?」


彼女がいなかった先週の稽古は、俺にはどこか物足りない感じだった。声も態度も控えめな桜さんだけど、黒川流の中には彼女の場所ができているのだ。


「選挙ですか? 疲れました」


彼女が苦笑して答える。


「時間が長いですし、投票所っていろんな決まりがあるんです。とにかく不正がないように、それと“一人一票”を守るっていうのが絶対的に大事なんです。誤った投票で無効になることがないように案内も工夫して」

「へえ。知りませんでした」


投票所の中を気にしてみたことはなかった。でも、思い出してみると、投票所にはスタッフがたくさんいたっけ……。


「投票のあと、片づけをして家に帰ったら選挙の番組をやっていて……」


小さなため息。


「まだ開票が始まったばかりなのに当選確実の速報がどんどん出ていたんです。いつものことですけど、開票作業にあたっている人たちを思うと複雑な気分になります」

「たしかにそうですね」


桜さんはグラスについた水滴をつつき、そっと笑った。


「就職したときは市役所が選挙の仕事をしているって知らなくて、『あそこの投票所行ける?』って訊かれたときときはびっくりしたんです。ほんとうに勉強不足で」

「俺も考えたことありませんでしたよ」

「でも、風音さんは市役所で働こうと思ったわけじゃないですよね? ――そう言えば」


桜さんが少しあらたまった様子でこちらを見た。


「風音さんは、今のお仕事に就こうっていつ決めたんですか? 大学に入るとき?」


突然のインタビュー。思いがけず真面目な話題に戸惑いを感じるけれど、相手が桜さんならこういう話も有りだな、と思う。昔のことを思い出そうとしている間に、彼女は続けた。


「わたしは勤務地が葉空市内に限られると思って市役所を選んだんです。言ってみれば消去法で。もちろん面接では前向きに話しましたけど」


それはお母さんと妹さんのことを思って? その表情に陰りはないけれど。


「でも、翡翠と一柳さんはもっと真面目に考えてきていて、ちゃんとした理由があるんです」

「なるほど」


翡翠の選択理由は聞いている。その覚悟も分かっているつもりだ。


「妹も高校生のうちからやりたい分野を決めていて、そのために進学して頑張っていました。自分はよく考えないで選んでしまったので、世の中の人はどうやって職業を選ぶのか気になって、機会があるとお聞きしているんです」

「俺は……」


大学を決めるときは甘いことを考えていた。


「高校のときはぼんやりと建築系かなあ、くらいで。その分野なら、もしも就職できなくても祖父の植木屋で働けるんじゃないか、なんて考えていました。はは、甘いですよね。でも、自分がどうしたいのか、まだ決められなかったんです」


将来への覚悟ができていなかったことも、言葉を選べば格好良く聞こえる。けれど、空しい。そして恥ずかしい。


「それが大学で見つかったんですね?」


向けられた笑顔。その瞳に宿る信頼と憧れは俺にふさわしいだろうか。


「ええ。見つかりました。実現できるか分からないですけど」


そう。勉強を進める中で見えてきた。だからたくさん勉強したし、就活にも真剣に取り組んだ。そして今も、仕事に気持ちを向けることができている。


「やりたいことを見つけて、それに向かって仕事をしているって素晴らしいです。わたしはあきらめちゃったから」

「それは……家の事情で?」

「まあ、それもありますけど、逃げたんです。楽な方に」


小さく肩をすくめる桜さん。気楽そうな態度は俺に気を遣ってのことか。


「大学に行こうと思えば行けたんです。ただ、勉強とバイトと家のことで忙しくなるのは目に見えていて、周りのみんなと同じような学生生活は無理だなあって思ったら、頑張れない気持ちになっちゃって。就職すれば、とりあえずお金のことは解決しますから」

「お金って……」


言い淀んだ質問を彼女は察したらしい。


「亡くなった父の保険金とか公的な給付金とかでどうにか暮らせていました。母が生活保護は嫌だって言うので倹約して。でも妹の進学もあるし……。だから、頑張らないで済む就職を選んだんです。お金の心配がなくなって、ほんとうにほっとしました」


お父さんが先に亡くなっていたのか……。


明るい表情は後悔していない証拠? でも、その選択は心の傷になっていないのだろうか。だからほかの人の職業選択が気になるのではないのか。


「就職してからは、良い職員だと言われるように努力しています。それにわたし、今は一応、大卒なんです」

「――え?」

「大学の通信教育部で。図書館司書の資格も取れました」

「ええ?! すごいじゃないですか!」


頑張れないとか逃げたとか言っていたけれど、全然そんなんことない。ちゃんと両立していたのだ。なのに本人は「そんなことないんですよー」なんて笑っている。


「みなさん褒めてくださるんですけど、そんなにすごいことじゃないんです。どうせ家にいなくちゃならないなら勉強でもするか、と思っただけで。通信教育は入学の選考が厳しくないし、学費が格段に安いんですよ」

「いや、それでも単位数とかは……」

「ああ、それは昼間と同じです。卒業研究もあって。そこはやっぱり簡単ではなくて、四年では卒業できませんでした」


そう言って、えへへ、と笑い、焼き鳥をぱくりと食べた。


どうやら謙遜ではなく、本気でたいしたことじゃないと思っているらしい。けれど、出かけられないから勉強しようと思ったこと自体がすでに尊敬に値する。


長い間、家のことを優先にして、自分の楽しみを我慢して、それでも前を向いて進んできた。不安も孤独も感じただろうに、彼女からは怒りや卑屈さを感じない。そこに彼女の強さを感じる。


「桜さん……、根性ありますね」


思わず口にしていた。女性に対する褒め言葉としては微妙な気がするが、これはまさしく真実。そして心からの称賛。


「ん? そうですか?」


焼き鳥の串を持ったまま、桜さんが目をぱちくりさせて見返してくる。


「ええ。絶対に、桜さんには根性があります」


考えるように「根性か……」とつぶやく桜さん。次の瞬間、にやっと笑った。いたずらっ子みたいに。それが――何かが胸にぶつかってきたみたいで息を止めた。


「いいですね。根性があるって」


もういつもの笑顔。


「いいですか?」

「はい」


屈託のない、穏やかな笑顔。


「根性があるのは嬉しいです。いろいろ思い出すと、たしかにそんな気がしてきます。わたしには一番大事かも」


それから「ありがとうございます」と満面の笑みで言った。


桜さんが自分でも納得できる長所を見つけてあげられたのは嬉しい。でも、それよりも。


「根性で乗り越えるのはいいですけど、無理はしないでくださいね。何かあったら手伝いますから言ってください」


さっきの笑顔をもう一度見たい。あれは……彼女が俺との間にある衝立をはずしてくれた笑顔。


「……家の周りの草むしりとか?」


そう! その顔だ!


ちょっとからかうように。仲間同士のように。


「草むしり? いいですよ。簡単な大工仕事もできますよ」

「ほんとですか?! それはすごい! じゃあ、台風で屋根が壊れたら――」

「いや、それは厳しいです」


すごく楽しい。やっぱり今日、誘ってよかった。






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