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桜さん、顔を上げて。  作者: 虹色
第二章 抜刀!
14/46

7 ---- 桜


◇◇◇ 桜 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



不思議だ……。


自分にこんな一面があったなんて。


行ってみたい場所。やってみたいこと。今までずっと、それらは思うだけで、自分にはできないし、行けないと思っていた。お母さんのことがなくても、勇気がない自分には憧れていることしかできないと。慣れた職場や家で安心して過ごすことが自分には合っていて好きなのだと信じていた。


けれど最近、違うような気がしている。


“チャレンジ”。


この言葉が心をかき立てる。


実際に見てみたい。やってみたい。自分にもできるかも知れない。


失敗したら、そのときはそのとき。失敗した自分を笑えばいい。そしてもう一度やってみればいい。


そんなふうに考える自分に驚いてしまう。二十八年も生きてきて、今さら。


……と言っても、その考えに思い切って飛び込むことはできていない。予測できないことが起こるのが怖いから。でも、今まで生きてきたわたしの安全で安心なエリアから少しだけはみ出してもどうにかなるのかも? そんな気持ちが今は、いつもある。


まるで人生の車輪が回り始めたみたい。


その初めは……きっと、あの日。


翡翠と出かけた日曜日の帰り道。謎が解けるかもという小さな希望に駆られて、小鳩スポーツセンターにまわり道をした。


謎。それは細長い不等辺三角形の黒い入れ物。その一週間前の夕方に見かけてから、ずっと頭から離れなかった。


前の週、相続関係の手続きのために来ていた妹の(きら)を駅で見送る時、別れ際に輝が言った。「これからはお姉ちゃんのやりたいことを自由にやってほしい」――と。


そんなこと言われたって、わたしにできそうなことなんて何もないよ。そんなふうに思いながら視線を落として歩き出したわたしを追い越して行った後ろ姿。


黒い袴をなびかせて、颯爽と。左肩に紺色のバッグをかけ、右手に細長い入れ物を提げて。……あれは風音さんだと後でわかった。


袴姿で電車に乗ってきたのか、と、まず驚いた。そして、その堂々とした歩きぶりに強く心を打たれた。


明らかに周囲と違う服装。なのにまったく気にしていない。


なんてすごい人なんだろう! いつも周囲の目を気にしているわたしとは大違いだ!


恋心ではない。尊敬と憧れ。自分もあんなふうに生きたい! 心の底からそう思った。


知り合いになりたいとか、同じことをやりたいとか、そういうことではない。そんなこと恐れ多い。


だって、武道をやっているらしいそのひとと同じ世界になんて踏み込めない。部活に入ったこともなく、体育の授業も苦手意識しかなかったわたしには絶対に無理。


ただ、あの黒い入れ物だけは気になって。


学校時代に見た剣道の持ち物とは違う。弓道の弓ならもっと長いはず。長刀でもなさそうだし、合気道は素手のイメージしかない。視点を変えて、尺八の可能性も考えた。でも、あのひとが向かった方向にはスポーツセンターがある……。


一週間考え続けて、その勢いで思わず選んだまわり道。時間は前の週よりもだいぶ遅かったけれど、何か手がかりがあるかも知れない、と。


期待とあきらめ半々でスポーツセンターの前まで行ったものの、中を覗く勇気はなくて、道沿いにあった掲示板で探してみた。でも、当てはまるような種目は見つからない。


見ているうちに、そもそも探してどうするのか、と、あきれて笑ってしまった。


わたしには入会希望の電話をかける勇気はない。だって、この世で一番苦手なのが電話をかけることなのだ。


仕事で電話を取るのは平気だけれど、自分から電話をかけるのは可能な限り避けたい。妹の輝にだって緊急事態以外はメッセージで済ませているほどで。


だいたい、自分には入り込めない世界だと分かっているのに、どうしてこんなにこだわっているのか。


もうこれであきらめようと思ったそのとき、建物から出てきたのが水萌さんと雪香さんだった。そしてその手に握られていた、わたしの謎。ふたりともジーンズ姿だけれど、あれは間違いなく同じものだ。あまりのタイミングの良さに心臓がバクバクした。


これはたぶん、二度とないチャンス。幸い、ふたりはこちらに歩いて来る。上手くタイミングを見計らえば……でも、なんて? まったく知らない人なのに。それに、これではまるで待ち伏せしていたみたいだ。どう思われるか……。


でも、立ち去ってしまう決心もつかない。そんなわたしの視線に気付いた水萌さんが駆け寄ってきて尋ねたのだ。「もしかして、サカタさん?」と。


あれは、今思い出しても可笑しい。


咄嗟に「坂井です」と答えたのは、もしかしたらご近所の誰かかも知れないと思ったからだった。必死で思い出そうとしているわたしの耳に「あら、わたし、聞き違えていたのね。ごめんなさいね」という言葉が聞こえて、あれ? と思った。


それに続いた水萌さんの話で、サカタさんはその日の見学予定者で、連絡なく現れなかったらしいと分かった。そのことを謝りに来たのだと、水萌さんは思い込んだのだ。


水萌さんは見学をすっぽかした理由を問うのではなく、謝りに来たことを気遣い、今後の予定を説明してくれた。いい人だということは分かったけれど、そのマシンガントークにわたしは口をはさめず困ってしまった。そこで事態を納めてくれたのは娘さんの雪香さんだった。


勘違いと知った水萌さんの「うそっ、やだっ」とあわてるおおらかさには微笑まずにいられなかった。


そそっかしくて親切な水萌さんと冷静でしっかり者の雪香さん。お互いを理解しあっている母娘がとても素敵だった。勘違いを詫びながらご自分のそそっかしさを笑う水萌さんに、胸の中の塊がほどけていくような気がした。


だから、尋ねる勇気が出た。「それ、何ですか?」と。


あれが、わたしが勇気を出した最初の言葉だった。


居合刀という言葉を聞いたのは初めてだったけれど、すぐに分かった。細長い三角形は鍔と刀の反りに合わせた形だったのだ。そう納得した次の瞬間。


「興味あります?」


水萌さんの質問に思わず息が止まった。


「はい」って答えたい――。


痛切に湧いてきた思い。


そうだったんだ、と、気付いた。


やってみたい、あのひとみたいになりたい、頑張ったらなれるかも知れない――。あの一週間、胸の奥ではずっと思っていたのだ、と。


けれど、答えられない。答えたら事が動き出しそうな予感がして。だって、愚図で要領の悪いわたしはきっと迷惑をかけてしまう。だけど……。


「もしよかったら、見学とか体験もできますよ」


言葉を継いだ水萌さんを雪香さんが小声でたしなめた。わたしが断れなくて黙っていると思ったのだ。このまま何も言わなければこれで終わってしまう、とあせった。


その瞬間に浮かんできた言葉、『チャンスの前髪をつかめ』。


つかみそこねたらそれでおしまいだ。


だから決心した。「体験、してみたいです」と。清水の舞台から飛び降りるというのは、あんな気持ちを言うのではないだろうか。


そして――わたしの人生が動き出した。水萌さんから連絡用の名刺を受け取るときは微かに手が震えていたっけ。


習い事くらいで「人生が」なんて、普通のひとが聞いたら大袈裟だと思うかも知れない。でも、わたしにとっては就職よりもずっと大きな変化で。だって、自分がやりたいと思ったことに、初めて飛び込むのだ。これは一大事だ!


そして翌週から稽古に参加して……。


みなさんが温かく迎えてくれて、親切にしてくださることに、ずっと感謝している。感謝の気持ちは上達することで伝えようと決めた。それが一番喜んでもらえると思うから。と言っても、上達するのは簡単ではない。


そして風音さん……。


「そろそろ行きましょうか」


隣から聞こえた声。わたしに向けられる笑顔。こうなった展開も不思議の一つだ。


「渋谷だと原宿も近いですけど……行ってみたいですか? 竹下通りとか」

「竹下通りってあの?」


元気な若い女の子でいっぱいの中で途方に暮れる自分が目に浮かび、思わず顔が引きつってしまった。


「いいえ、まだ覚悟が足りない感じです」

「よかった。僕もあの雰囲気はちょっと」


ほっとしたように微笑む風音さん。初めて見た後ろ姿を裏切らない爽やかな笑顔。


「じゃあ、そっちはいつか翡翠と行ってください。今日は渋谷の雑踏を歩きましょう」


そして、声も素敵だ。普段は低めの木管楽器。稽古中の掛け声は太鼓のようによく響く。


「はい」


こんなふうに、あの後ろ姿の本人と親しくなれるなんて思わなかった。ましてや一緒に出かけるなんて。


これは翡翠のお陰。わたしが彼女の友達だから、風音さんのわたしに対する信頼度が高くなっている。


親切で気さくに話しかけてくれるから、わたしもついつい気軽に反応してしまうけれど、やっぱり恐れ多い。剣術の大先輩だし……。それに、後ろ姿の印象のまま、いつも自然体で、何事にも動じない芯を持っているように見えて、ただただ尊敬するばかり。


でも、これからも一緒に出かけてもいいと思ってくれている? 「俺は誘ってくれないんですか?」って……。


いつもは「僕」って言うのに。そんなに驚いたのだろうか。ということは社交辞令ではない?


友達……に、なってもいいのだろうか。翡翠や一柳さんみたいに? わたしが? 風音さんと?


そうだな。友達になら、なれるのかも知れない。でも、あんまり馴れ馴れしくしないように気をつけないと。わたしは他人との距離感がよく分からないから。


今まで何度か、親しいつもりでいたら、相手はそう思っていなかったことがあった。それを言葉や態度で示されて驚いて、悪かったなあ、と反省した。


それも当然だ。


わたしは場を盛り上げることもできないし、流行も知らないし……、一緒にいて楽しい相手じゃない。そう分かっていたのに、自分が相手を困らせていることに気付かなかった。ほんとうに申し訳なかった。そのひとの時間を奪い、つまらない思いをさせていたと思うと。


風音さんも同じ。興味の対象が近いのは確かだけれど、それ以外ではわたしでは物足りないだろう。


今日みたいなことはきっと特別。だから、風音さんが一緒にいてもいいと思う間は楽しく過ごして、でも、同じ状態は続かないと自覚していればいい。そして近付き過ぎず、何も望まない。


そうすれば迷惑をかけることはないし、嫌われる心配もない。風音さんがわたしと距離を置きたいと思ったときには、傷付かなくて済む。


そう。


深く関われば関わるほど、自分が必要ないと思い知ったときはとても悲しい。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇





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