05:初めての「街」
「……おおきい」
深く広い、そして長く続く堀の向こう側にある、天高くそびえて見えるその壁を見上げ、シェラの口から呆けた声が漏れる。
実際は十数m、森の樹々の方がよほど大きく高いのだが、人が作る物でここまで大きい物は初めて見たため、シェラにはその壁はまるで天まで届いているように見えた。
「これが…くに?」
「んにゃ、この壁はただの囲い。外から来た連中が勝手に悪さできないように、入り口で秤にかけるための物だよ。…正直、厳重すぎて鬱陶しくなることもあるけどね」
「じゃあ、このなかにくにがあるの?」
「ん~……まぁ、そういうことだね」
唖然とした様子で壁を見上げるシェラに、アザミは思わず苦笑する。
自分の説明が足りていないせいか、国という物を、この少女は形あるものと認識しているようで、壁の向こう側をどうにか覗き込もうとしている。
「あれがくに……あそこでおくすりをうるの?」
「そ! …って言っても、正規の薬売りの資格がないから、おおっぴらに売れないんだけどね〜」
「せいき?」
「あー…うん、後で説明するよ」
シェラは感嘆の声を漏らし、ごそごそと背負ったカバンを揺らして示すアザミを見上げる。
が、ふと首を傾げると、シェラはアザミに疑問の視線を向けた。
「…おししょうは、なんであそこにすんでないの?」
「えっ? あ、あ〜…」
苦労を重ね、遠く深い森の奥からここへ辿り着いた今、尤もらしい疑問がシェラに生じる。
不思議そうに問いかけてくる少女の純粋な視線に、アザミはしばし気まずげに目をそらすと、乾いた笑みをこぼして頬を痙攣させる。
「…馬鹿高い税を払うのが面倒くさいからって、引っ込んだまま出てこないんだよね」
「ぜいきん…?」
「お国のお偉いさん方が決めた、自分の国に住まわせる代わりのお金のこと。住むとこやるからお金よこせって事」
「…あそこにすむのに、おかねがいるの?」
「普通は税金の分、安全に生きる為に色々工面してくれるはずなんだけどねぇ……」
苦虫を噛み潰したような表情で目を逸らすアザミに、シェラが首を傾げる。変なの、と言葉に出ずとも、もやもやとしたものが胸中に芽生えている様子だ。
アザミは頬を掻き、訝しむ少女の肩を叩き、それまで向いていた方とは別の方向に歩き出した。
「ほら、そろそろ行くよ……そっちじゃなくてこっちね」
「? みんな、あっちにいってるよ?」
「あたし達の入り口はこっちなの」
シェラが指さす方には、堀の上に渡された広い橋と壁の途中に開いた大きな扉があり、そこに列をなして進んでいく人の姿が見える。
荷車に多くの荷物を積み、あるいは背に大きな鞄を背負い、大量の荷物を運びこんでいる方に、アザミは背を向けて進む。
しばらく歩き続けること数十分。
堀の途中に、ボロボロの板を渡して作られた簡易的な橋を見つけた。
「あたし達が入れる入り口はこっち……何度も言ったけど、そのフード絶対外しちゃダメだからね」
「うん…?」
踏む度にぎしぎしと軋みを上げる板を渡り、二人で順番にゆっくり堀を越える。
向こう側に渡り終えると、アザミは壁の途中に生えた茂みを掻き分け、シェラとともに通れるよう道を作る。
そこに露わになった大きな亀裂に、シェラは思わず「あっ」と声をあげた。
「秘密の抜け穴。あたしが薬を売りに来る時はいつも、ここを使ってんの。さ、こっからは静かにね」
シェラを促し、茂みの中に入らせると、アザミは周囲を警戒しながら自分も入り込む。
アザミは先に亀裂の間に体を潜り込ませ、光が差し込んでくる方に四つん這いで進む。その後をシェラが追いかけ、言われた通り声を発さないように気を付け、奥を目指す。
やがて長い侵入が終わり、壁を抜けきると、シェラは目の前の光景に息を呑んだ。
「……なに、これ」
亀裂を抜けて最初に受けた刺激は、異臭だった。
肉が腐ったような臭い、泥の臭い、そして血の臭い。あらゆる悪臭が混じり合った凄まじい匂いが嗅覚に突き刺さり、シェラはすぐさま鼻をつまむ。
そして、視界に入ったその景色にも、吐き気を催しかけた。
白亜の美しい街並みとは比べ物にならない、街とも言えないほどに汚れた家々。
柱や壁、屋根に使われている木材は腐り、穴らだけになっており、所々焦げたような跡がある。道端には腐った食べ物の皮が散らばり、生物の死骸や糞も放置されている。中には、人と思わしき襤褸布に包まれた何かが転がっているのも目に映る。
生きている人も皆、およそ生気というものが感じられない。骨と皮だけになった彼らは、虚ろな目で侵入者であるアザミ達を見やり、ぼそぼそと何かを呟いていた。
「…こわい」
「離れないでね。ここらの奴らは、あたしには手を出してこない……前に結構痛い目に遭わせたから、近付いたら怪我するって学んでんの」
怯え、アザミの纏う襤褸布の端を掴んで身を隠そうとするシェラに、アザミはその手を掴んで語り掛ける。
二人が前に進み始めると、彷徨う人々はじっと視線を向けながら、一定の距離を保つように後退る。しかしすぐそばを通り過ぎると、また近づいて後姿を見つめ続ける。
まるで、アザミの一挙一動を監視し、彼女が気を抜く瞬間を待っているかのようだった。
「絶対離れちゃダメだよ……もう少し歩けば、あいつらが入れないところに行けるから」
ガタガタと震え、より一層襤褸布を掴む力を強めるシェラに、アザミはやや強張った表情で告げ、黙々と歩き続ける。
二人の後には、今も虚ろな目の人々がぞろぞろと付いてくる。穴の底のように昏い目の奥には、二人に対する明確な害意があり、ほとんど骨のような手に握られた棒きれも、その悪意を表していた。
その時、突如一人の男が飛び出し、アザミとシェラに棒切れを振り上げて飛び掛かった。
「っ! チッ…」
足音と気配から、男の襲撃を察知したアザミは、咄嗟にシェラを背に庇い、男の方に自ら走り出す。
ギラギラと飢えた獣のような目で凝視してくる男に、アザミは鋭く踏み込み、鳩尾に思いきり膝を叩き込む。急所に強烈な一撃を貰った男は呻き、白目を剥いて仰向けに倒れ込んでいく。
カランッ、と男が持っていた棒切れが落ちる音が響くと、今度は距離を保っていた人々が、次々にアザミ達に襲い掛かってきた。
「食い物……食い物がある…?」
「売れる…売れる物……!」
「ヒィッ…!」
「走って! ああもう…勝てない癖に寄ってくんじゃないよまったく!」
恐怖に駆られ、悲鳴をこぼすシェラの手を引き、舌打ちしたアザミが奥に向かって走り出す。
人々は呻き声をあげながら、少女たちを追いかける。節くれだった、手垢だらけの腕を伸ばし、目の前でひらひらとはためく襤褸布を掴もうと走り続ける。
骨格を露わにした彼らの姿は、まるで生きた屍が襲ってくるかのような、そんな恐ろしさがあった。
「なんで…なんでこっちにくるの…!?」
「金目の物でももってそうとか思ってんだろうさ! もしくはあたし達自身がそう見えてんのか!」
一個体のように蠢き、迫ってくる彼らを振り返り、シェラが震える声を漏らす。
よたよたと上手く走れない彼女の腕を引き、アザミは必死の形相で走り、屍擬きの人々から逃げ続ける。時折彼らの手が衣服に引っかかりそうになるが、只管に前を見据えて足を動かす。
その時、突如真横から伸びてきた手があり、シェラの被る襤褸布が掴まれた。
「あっ…!」
「やばっ!」
シェラが襤褸布ごと引っ張られ、転倒しそうになった時、顔色を変えたアザミがその手を蹴り飛ばす。
骨のような手なのに、異様な強さを持っていたその手は何とか外れたものの、一瞬立ち止まったせいで追ってくる者達との距離が一気に狭まってしまう。
「よこせ……食い物よこせ…!」
「腹減った……肉ぅ!」
「餓鬼……餓鬼は売れるぞ……!」
汚れた無数の手が、アザミとシェラの全身に近づき、衣服に伸ばされる。
迫り来る魔の手。見た目は同じ人ながら、その眼や呻き声から全く別の化け物に見えるその様に、シェラはたまらずその場にへたり込んでしまった。
「ひ…や……やだ…!」
「だから…しつこいっての!」
顔を隠す襤褸布を無我夢中で掴み、引き下げて身を丸めるシェラの前に、アザミが怒りの形相で立ちはだかる。
虚ろな目で縋りつき、手を伸ばしてくる彼らの前でアザミは、懐から小さな袋を取り出し、中に入っていた黄緑色の粉を手のひらの上に広げる。
「〝柑花〟!」
手のひらの粉の山に向けて、アザミがふーっと強く息を吹きかける。粉は瞬く間に風に乗って広がり、意思を持つかのように勝手に人々の顔にまとわりつく。
黄緑色にきらきらと輝く粉塵を吸った彼らは、虚ろだった目が一層焦点を狂わせ、どさどさとその場に崩れ落ちていく。吸い込まずに済んだ者達も、おののきの声をあげながら後ずさっていく。
「今だよ! ほら走って!」
近くまで来ていた手が遠のくと、すぐさまアザミがシェラの手を掴んで走り出す。腰を抜かしかけていた少女は、よたよたと頼りない足取りで引きずられ、しかし必死に足を動かす。
ちらりと振り向くと、少女たちを追おうとする人々の姿が見えたが、漂う黄色い煙を恐れ、それ以上向かって来ない。
「あれは……どく?」
「それを使った、あたしのとっておき。さぁ、もうちょっとだから頑張って!」
恐ろしくてたまらなかった連中が、それ以上追って来ないことに安堵し、ほっと息をつくシェラに、不敵な笑みを浮かべたアザミが告げる。
薄暗く狭い通路を駆け続けた少女たちは、やがて明るい光が差し込む細い入口の元へと辿り着いた。
「ふひぃ……やれやれ、ここまで来たら、あいつらもう追って来れないから。来たら痛い目に遭うのは向こうの連中だからね」
「…こわ、かった」
「いやいや、ほんとにごめんね。あの道以外に、あたしらが通れる道ってないからさ。そのうち対処にも慣れるよ」
びくびくと身体を震わせ、涙目で元来た道を振り返るシェラに、アザミはポリポリと頭をかいて苦笑する。
未だシェラの小さな心臓はバクバクと脈動し、身体の暑さと胸の奥の冷たさがぶつかり合っている。確実に新たに悪夢で見そうなほど、衝撃的な体験だった。
「……あのひとたち、なに?」
「あそこは貧民街で……向こう側に住める資格がない人達。馬鹿高い税金を納める事ができなくて、塵溜め同然に扱われてるここらに仕方なく住んでる奴らだよ」
うんざりした様子で肩をすくめるアザミから視線を外し、自分の腕をきつく掴む。先ほどまで辺りにあった臭気が、自分の体に染みついている気がしたのだ。
「なんで…あのひとたち、こっちにきたの?」
「金目の物を奪えると思ったんだろうね。外からくる奴はみんな金を持ってる、っていつか誰かが思ったんでしょ。でも、正門から入ってくる奴らからは奪えないから、あたしらみたいな訳ありから奪おうとする……傍迷惑な話さ」
アザミの説明を受け、シェラはまた震えがぶり返してくるのを感じる。何も持っていない自分が捕まっていたら、一体何をされていたのだろうか、と今さら一層の恐怖が芽生える。
しがみついてくるシェラの頭をぽんぽんと撫でた彼女は、おもむろに自身が纏っていたローブを脱ぎ、丸めて背中の鞄の中にしまう。そして、別の布を取り出し、シェラに差し出した。
「ほい、それ脱いで、こっちに着替えて。そのまま言ったらあたし達が追い出されるから」
「…? うん」
言われるがまま、シェラは周囲の目を確認してから、きつく握りしめていた襤褸布を外す。
アザミに襤褸布を渡し、彼女が取り出した布を受け取って広げて見ると、シェラの目はすぐにそれに釘付けになった。
「…きれい」
露わになったのは、細かく美しい金糸の刺繍が施された、黒い外套。生地自体も触り心地がよい、とてつもなく高価な物であることがわかる、シェラの全身をすっぽりと隠せそうな装いだった。
アザミも全く同じものを取り出すと、自身の身体に纏い、フードを被って再び顔を隠す。自分の用意が終わると、今度は彼女はシェラに外套を被せ、胸の部分のリボンを締めた。
「こっから先は、これを必ずつけたままでいる事。そして、絶対にあたしの傍を離れたりしないこと…いいね?」
「うん」
「絶対だよ? 絶対だからね? 君が攫われてバッドエンドとかほんとに勘弁だからね? 約束だよ?」
「う…うん」
「よし!」
しつこく何度も確認し終えると、きゅっとリボンを締め終え、アザミは姿勢を正す。
明るい光が差し込む、アーチ状の入り口を前に二人は並び、手を繋ぐ。眩しくて、シェラにはその先に何があるのかもわからないが、アザミが隣にいるおかげで、少しだけ不安が小さくなっていた。
「…じゃあ、行くよ。今日はなるべく早く帰るつもりだから、さっきより危ない事はないと思う……たぶん、おそらく」
アザミの再度の確認に、シェラは小さく頷き、アーチの向こう側をじっと見つめる。
アザミはそれに笑みを返してから、まず先に一歩を踏み出し、アーチを潜り光の中へと踏み出していく。彼女の手に引かれ、シェラも光の中へと入り込んでいく。
そしてその先にあったものに、シェラは再び圧倒され、言葉を失くして立ち尽くす。
二人の目の前に広がっていたのは、別世界だった。
「ここがあたしの稼ぎ所……ガルム王国中心街ライアット―――通称『ガルムの台所』だよ」
通って来た道とは正反対の、鮮やかさと清潔さに溢れたその場所。
広く長く続く道の左右に、数えきれない店と無数の人が行き交う姿がある、にぎやかさを体現したかのような景色。
父親以外の人間を知らずにいた少女には、余りに衝撃的過ぎる光景だった。