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怪物は月に哭く  作者: 氏 抹茶
二章 崩壊 Sudden Change
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崩壊.2

 シーナはごわごわとした肌触りとすえた臭気の中で目を覚ました。そこは酒場の奥にあるベッドの中だった。昨日ブランカたちと別れたあと、シーナは公衆浴場で久しぶりのまともな入浴を楽しみ、酒場でキャベツのシチューを食べてすぐに眠りについたのだった。


 シーナは立ち上がって伸びをしながら周りを見た。窓が高いおかげで部屋の中は明るかった。細長い部屋の中にはぎゅうぎゅうにベッドが詰めこまれ、となりのベッドではエルディンが膝を抱えながら眠っている。ふたり以外には誰もいなかった。


 エルディンはいつも丸まって眠る。寝息も立てず死んだように。シーナは彼を起こすべきか迷ったが、結局、そのまま目覚めるのを待つことにした。そしてそれまで時間をつぶそうと思い、クリフォードに貰った本を荷袋から取り出して、寝ぼけ眼のままベッドに腰かけてページを開こうとしたが、その時、外がやたらと騒々しいことに気がついた。


 何だろう。シーナは外の様子に耳をかたむけた。外では中年の女だろうか、しゃがれた声で猿のように誰かがわめいている。しきりに誰かの名を叫んでいるようだ。それに混じって、大勢の人間が集まっている時に起こる特有のざわめきもあった。少なくとも、閑静な農村としては尋常ではない騒がしさだ。


 シーナは外で何がおこっているのか気になった。彼女は靴紐を結び直し、ビールの染み付いた床を避けながら酒場の出口へと向かい、くすんだ茶色の戸を開いた。


 酒場は村の中央広場の片隅にある。戸を開いて最初に見えたのは、広場に集う40人ほどの村人たちだった。ちょうど酒場の向かいにあるサイロの前で、ところどころ茶色い染みがついているクリーム色のチュニックを着た中年女が半狂乱に叫んでいた。騒ぎを聞きつけた村人たちは、女をなだめたり、傍観しながらひそひそと話している。畑にむかう途中のためか、村人たちは手に鍬や手鎌を携えていた。みなどよめき立っていて、騒ぎを治めるための鶴の一声もなく、困惑して立ちつくしているだけだった。


「大騒ぎだな」


 エルディンの声。シーナは飛び上がった。


「エルディン? もう、びっくりさせないでよ」

「悪い。で、何かあったのか?」


 シーナは振り返った。エルディンはぼさぼさの髪をかき上げながら、充血した目で広場を見つめていた。アルコールのつんとしたにおいが鼻をつく。昨日は深酒をしたようだ。


「さあ、わかんない。わたしもさっきおきたばっかりだし」

「おかげで目が覚めちまった。ああ、クソ、頭が痛え」

「昨日、飲みすぎたからでしょ。わたしが寝てる間にどれだけ飲んだの? まさか、朝まで飲んだわけじゃないよね?」

「いいや、一杯だけだ。いっぱい、な」

「つまり、たくさんってことね」


 シーナは呆れ返った。


「いつか体を壊すよ、そんなに飲んでると」

「俺の体なんだ、別にいいだろ」

「せっかく人が心配してるのに……」


 シーナはじっとりとした目でエルディンを見上げた。


「ほんと、人の好意はちゃんと受け止めた方がいいよ。このまま死んだらクルラホーン(酒の妖精)に生まれ変わるんじゃない?」

「いいワインをたくさん飲めるなら、それはそれでいいかもな」エルディンは鼻で笑った。「まあいい。とりあえずうるさい連中を黙らせないとな。二度寝しようかと思ったんだが、この騒ぎじゃ寝れやしない」


 そういって、エルディンは肩を揉みながら扉の框をまたいだ。


 エルディンが広間に出てゆくと、村人たちの視線が彼に集まった。騒いでいた女さえもエルディンを注視して、あたりは水を打ったように静かになった。シーナはそのようにして注目を浴びるのが嫌だったので、扉の影から成り行きを見守ることにした。


 エルディンが広場の中央までゆくと、徐々にどよめきが戻ってきた。村人たちはついてひそひそと何かを話していたが、火事の時の野次馬のように、決して火種に近づこうとはしなかった。エルディンは近くにいる麦わら帽子をかぶっている男に話しかけた。


「一体何があったんだ?」


 だが、男は顔をそらした。エルディンが視線を向けると、村人たちは一様に下を向いたり仲間と顔を見合わせたりした。エルディンはその様子をしばらく静観していたが、けんもほろろな村人たちに痺れを切らし、彼らに背を向けて戻ろうとした。その時、


「ちょっと待て、放浪者。お前、マートとニックスをどこへやった?」


 と、袖をまくった体格のいい男に声をかけられた。男は一団の中から躍り出て、日焼けした肌に青筋を立てながら凄んでいる。今にも殴りかからんとする勢いだった。


「さあな、ていうか誰だそれは?」

「とぼけるな! 昨日ふたりと揉めてただろう。それでお前が何かしたんじゃないのか?」


 と、男は一歩にじり寄った。エルディンは一切動じずに男を睨み返した。


「あー、あのふたりか。いや、知らないな。ほかを当たってくれ」


 エルディンの超然とした態度が癇に障ったようで、男の怒気がいっそう強くなった。ふたりはしばらく睨みあいを続けていたが、ついに、男の方が我慢できなくなり、口汚い罵りを吐きながらエルディンに掴みかかった。


 一瞬の静寂。


 その瞬間、エルディンが男の腕を掴んで肩固めに組み伏せた。地面に衝撃が轟く。誰もがその素早さに目を疑った。男は肩を刺す激痛で叫喚を上げた。


「止めろ! そいつを放せ!」


 誰かが叫んだ。そして、それを合図に村人たちが(せき)を切ったように怒声を上げる。男たちは農具を構え、エルディンを取り囲んだ。ある者は鎌を構え、ある者は鋤を突き出す。エルディンは面倒くさそうに舌打ちした。


「そこまで! そこまでだ! 全員離れろ!」


 その時、群衆の向こうから男の声が響いた。熱のこもった集団が足ぞろえして動きを止める。すると、村人たちをかき分けて真新しいダブレットを着た男が姿を現わした。粗野な村人たちとは違い、その男の髪はしっかりと整えられていて、顔つきも知的だった。


「その男を放せ、放浪者」


 男はエルディンの前までくると厳かにいった。エルディンはじっと男を見据えて考えていたが、男の背後に剣を持った護衛がいることに気がつき、両手を上げて降参した。男はそれを見てうなずいた。


「よし、ついてこい」


 そういうと、男は背を向けて歩きはじめた。一瞬いやそうな顔をしてから、エルディンは男の後を追った。その後ろに剣を持った男がついてゆく。村人たちは侮蔑と困惑が混じった視線でエルディンの背中を見つめていた。


 まずいことになっちゃった! 


 と、シーナは焦った。どうやら、エルディンたちはマナーハウスへ向かっているようだ。もしかしたら、エルディンが牢屋に送られるかもしれない。急いで追いかけなきゃ。シーナは酒場の中から忍び出て、去りゆく者に釘づけになっている村人たちの背後をこっそりと通り過ぎ、建物に身を隠しながらあとを追った。




 石造りの白いマナーハウスは、ほかの家と比べるまでもなく大きく、目立っていた。右端にある四角い煙突から白煙が上がり、焼けたパンのいい香りがただよっている。エルディンたちはそのマナーハウスの正面にある大きな扉に入っていった。


 シーナは中の様子を見たいと思ったが、窓が背の届かない所にあったのであきらめた。なので、聞き耳を立てようと壁に顔を近づけた時、ほうきを持った使用人の女が建物の角から現れ、訝しげな目つきで自分を見つめながら通りすぎていったので、シーナは心臓が飛びでそうになった。何とかやりすごしたものの、シーナは肝をつぶしてしまい、場所を変えて探らなければいけないと考えた。裏の方へ行ってみよう。どこか忍びこめる場所はないかな。


 だがその時、勢いよく扉が開くと、中から剣を持った男が現れた。先ほどの護衛だ。シーナは急いでそばに生えているブナの後ろに隠れたのだが、男の目ざとさは並ではなかったし、こそこそと頭だけ隠している彼女の怪しさは憚りようがなかった。哀れシーナは襟首を掴まれ、親猫にくわえられた子猫のように建物の中へ連行された。


 扉の先は大広間だった。黄色い絨毯が引かれており、十人がけのテーブルが真ん中に置かれている、いわゆるダイニングルームである。エルディンはその右奥に座っており、先ほど彼を連れていった男がその向かいに座っていた。意外だったのは、エルディンとなりに狩人のジョアンが座っていることだった。彼は連れられてきたシーナを一瞥したが、すぐに暗い顔で顔を伏せてしまった。


 どうやら、エルディンたちはそこまで剣呑な雰囲気ではないようだ。とはいえ、どうにも無機質な空気が燭台や暖炉を吹き抜けている。


「その子は?」


 と、目の前に連れてこられたシーナを見て男が訊いた。剣を持った男がいきさつを説明しようとしたが、


「俺の連れだ」


 と、それよりも早くエルディンが答えた。男は納得したようにうなずいて、剣を持った男にあごを向けた。


「その子を放してやりなさい」


 シーナは首にかかる桎梏(しっこく)から解放され、おずおずと周りを見渡してから、すぐにエルディンのとなりに座った。ひとこと毒を吐いてやりたい気分だったが、場の重々しい雰囲気に気圧(けお)されてしまい、亀のようにちぢこまってしまった。


「さて――」と、奥にいた男が口を開いた。「私は領主の執事でこの村の監督官をしているバスチアンだ。君たちは昨日ここに訪れた旅人だな?」


 エルディンとシーナはうなずいた。


「エルディン・シェルトだ」

「わたしはシーナ・ルーフェイです。あの――」


 シーナは質問しようとしたが、バスチアンに遮られた。


「まずは私が話をする。さっきそこで騒ぎがあったように、村で行方不明者が出た。マートとニックスという若い男だ。昨日の晩に酒場を出てから行方がわからない。ふたりとも若者だから、普段ならもう少し様子を見るのだが、そこにいるジョアンが場所に心当たりがあるといってきてな。そこで、話を裏付けるために君たちの話を訊こうと思っている。かまわんな?」


 そういってバスチアンは懐から紙を取り出した。


「いいか、昨日の夜にあったことをすべて話してくれ」


 エルディンは自分を凝視しているジョアンを見て、憂鬱そうにため息を吐いた。


「わかった。俺もさっきのようにいらぬ疑いを持たれるのはごめんだしな」

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