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怪物は月に哭く  作者: 氏 抹茶
二章 崩壊 Sudden Change
7/20

崩壊.1

グロテスクな描写がありますので苦手な方はご注意ください。

 見慣れたシラカバのあいだで空腹にさいなまれながら、怪物はじっと、ただ夜が明けるのを待っていた。今の怪物には、理性や人間だった時の記憶はない。本能的な怒りと飢餓感のかたまりだった。だが、衝動に身を任せようとはしなかった。どこか忘却の彼方にある人間としての自我が怪物の心に根ざしており、こだまのように響いては消えてゆく、漠然として思い出すことのできぬ()()が、怪物をその場に押しとどめていた。


 怪物の耳には、自分の吐息と、聞き取れないほど小さく語りかけてくる()()の声しか聞こえなかった。怪物は足もとの土の冷たさがわずらわしくて、ひときわ大きなシラカバに寄りかかった。


 怪物には、じつによく夜の世界が見えていた。いや、実際に見えているのではない。感じていた。木々の合間を抜け、落ち葉を踏みしめるシカ。ちょろちょろと駆けるネズミ。それを大きな目で見つめるモリフクロウ。腐葉土のにおい。そして静寂。暗い森にあるのは、摂理と混沌が支配する原始の世界だ。


 だが、怪物の周りには何もいない。賢明な野生の生き物たちは異常な空気をさとっていた。怪物のそばに寄りそうのは、しおれかけた雑草だけである。


 怪物は自分の世界を忘れるため、目をつぶって夜に身をあずけようとした。


 その時、突如として昼の世界があらわれた。聞こえたのは、規則正しく響く足跡、人間の声。


 まだかなり遠くにいるようだった。怪物の無意識は彼らがここに現れないように祈っていた。だが、本能は、蛾が炎に吸い寄せられるように今の自分とは相容れない世界へ誘われていた。


 現れたのはふたりの男だった。酒のにおい。彼らは手にオイルランプを持ち、陽気な声で誰かの悪口を言いあっている。怪物はのどを鳴らしながら男たちを感じていた。


 ああ、うとましい。ああ、腹が減ってきた。


 殺意、それも憎しみではなく、おのれの欲求を満たすための根源的な渇望に怪物は支配されてゆく。もう抑えられない。


 怪物がこらえきれぬ衝動に身をゆだねた時、すでにその灰色の毛は闇夜にとけていた。


 男たちは差し迫った脅威などつゆ知らず、金はどうするとか、あの女がどうとか、じつにくだらないことにくだを巻いている。怪物はその頭上、木の上でどうやって彼らを殺すか耽々とうかがっていた。


 すぐに機会は訪れた。男たちは持っているオイルランプの火が消えかかっていることを気にかけ、足をとめた。


 咆哮が森に轟く。


 男たちは泡を食ったようだ。ふたりとも情けなく声を上げ、ひとりは尻もちをつき、もうひとりは怯えた表情であとずさった。


 怪物は木から飛び降りて、彼らの前にその姿を現した。闇の中に、炯々(けいけい)とした目だけがうかんでいる。


 悲鳴。立っていた男が転げるようにして逃げだした。怪物はそれを追いかける。


 脚力の差は歴然だった。怪物が追いついた直後、男は何かにつまずいて、もんどりうって倒れた。


 男は怪物の鋭い牙を見て、涙を流しながら命乞いをした。だが、怪物に言葉は響かない。じりじりと距離がつまってゆく。


 男がひときわ大きな声で叫んだ瞬間、怪物は腕を振り下ろした。


 やわらかいものを切り裂く感触。男ののどからごぼごぼと黒い液体があふれだした。男は声にならない断末魔を上げたあと、すぐに動かなくなった。


 怪物は男の足を持ち、もといた場所へ運ぼうとした。その時、がさがさと落ち葉をかきわける音が怪物の耳に届いた。もうひとりが走っているようだ。


 怪物は死体を放り投げ、すぐに追跡をはじめた。パニックを起こした人間というのはじつにわかりやすいものだ。男はなりふり構わず、真っ直ぐに走っていた。怪物は音とにおいをたどり、いとも簡単に男を見つけた。


 闇の中を疾風のように走る。怪物は腕を振り乱し、無我夢中で男の背中を追いかけた。何度か爪が木に引っかかったが、そんなことはもはや気にならない。


 距離がちぢまってゆく。男は何かをわめいていた。


 怪物が追いついた背中に強烈な一撃を喰らわすと、男は猛烈な勢いで吹っ飛んで倒れていた木に叩きつけられた。


 男はうめき、転がった。脇腹からあたたかな腸がこぼれている。あきらかに致命傷だが、男は生の望みを捨てていなかった。半分にちぎれかけている体を引きずり、なおも助けを乞いながら這い進んだ。


 そんな男を、怪物は無情に踏みつける。そして、怪物は食前の祈りのように吼え猛ると、男の首もとに食らいついた。


 肉を食いちぎり、手足をもぎ取る。


 楽しい、嬉しい。怪物は夢中で死体をむさぼり、腸をくちゃくちゃと咀嚼した。


 気がつくと、黎明(れいめい)が訪れていた。原始の世界は消え、空が紺青から紅碧(べにみどり)へと変わってゆく。森にかかるもやの輪郭が見えるようになってきた。怪物がふたたび昼の世界に戻る時が来たのだ。


 しばらく食事にふけっていた怪物だったが、陽がのぼると同時に意識を失い、はたりと落ち葉の上に倒れ伏した。


――


「ちくしょう……何でこんなことに……」


 ベッドで寝息をたてているブランカのとなりで、クリフォードは絶望混じりにつぶやいた。太陽は登り始めてから数時間たち、窓の隙間からは朝夕変わりない日光が()しこんでいる。


 行き場のない怒りから、クリフォードは拳を振り上げ、自らのふとももに振り下そうとした。だが、そばで寝ているブランカを気にかけ、拳を打ち下ろす直前に思い留まった。クリフォードは深いため息をつき、いつにも増してくまが深くなっている目もとを押さえた。


 昨日までは何とかなっていた。昨日のことで、ブランカは病気のことも、母のボニーを突然失ったことからも、何とか立ち直ることができるのでは、と思っていた。例の秘密も、十全に隠し通せていたはずだった。だが、一夜ですべてが変わってしまった。クリフォードは氷山に取り残されたような気分になり、嘆くよりも先に、理不尽な運命に苛立った。


「落ち着いて状況を整理しなければ……」


 クリフォードは深呼吸して、あのふたりの男のことを思いだした。


 ボニー以外の犠牲者は初めてだった。彼らのことは知っている。村の血気盛んな若者たちだ。クリフォードは彼らとさして仲がいいわけではないが、話をしたことくらいはある。いわゆる顔見知りというものだ。


 森の中の凄惨な光景が目に浮かぶ。


 雑巾のようにねじり切られた手足、絶望にゆがんだ顔。シラカバの幹に飛び散った血、枯葉がついている臓器の一部。職業柄、血には慣れているクリフォードだったが、この時ばかりは蒸された生臭さに吐き気をこらえるのが精一杯だった。正直、発狂して叫べたらどんなによかったかと思った。だが、彼は()()()()()()()()()()


 なぜ、この若者たちが怪物が出るという噂の森へ入ったのか、などとこの時のクリフォードには考える余裕はなかった。これからどうするか、ということで頭がいっぱいだった。


 クリフォードは平静を保つように努めていたが、それで正確な判断がくだせるというわけではない。つまり彼は狼狽していた。


 クリフォードが導き出した答えは、()()()と同じように死体を隠匿することだった。彼は躊躇(ちゅうちょ)なく散らばっている肢体かき集めた。


 そして、拾ってきた手ごろな枝で地面を掘った。だが、ただの木では限界がある。掘れた穴はごく浅いものだった。しかし、彼はそれを目に入れず、黙々と作業を続けた。死体を埋め、掘った跡と染みついた血を落ち葉でおおい隠し、木に付着した血は石でけずり取った。


 そこには、傍から見れば明らかに人が手を入れた痕跡があった。静寂と規律に支配された森の中で、そこだけ少し浮いていた。だが、気が動転していたクリフォードにはそれで十分に思えた。だがこれは失敗だったと、あとになってから後悔した。


 そこから先のことをよく覚えていない。気がついた時、クリフォードは家の中で丹念に手を洗っていた。その後、目を覚ましたブランカを寝かしつけ、そのとなりで娘の寝顔を茫然と眺めていた。




 クリフォードは昨日のブランカの笑顔を思い出して唇を噛んだ。こういう時にかぎって、希望が見えた時にかぎって、運命は私ををあざ笑うかのように災厄をもたらす。一年前、ボニーが死んだときもそうだった。ようやく消渇病の治療薬を見つけた矢先、今度は怪物の爪が家族を引き裂いたのだ。


 二十五年間、クリフォードは医師として人を救おうと尽力してきた。魔術もどきの占星医術や、金儲けだけが生きがいのやぶ医者、そんなものを唾棄して研究に励み、戦争で傷ついた人々や農村の貧しい人々を癒してきた。そして、この村に住むボニーに求婚されて、ようやく自分の幸せを見つけたのだった。


 クリフォードは怪物の記憶について考えた。そして、その時の記憶がおぼろげな夢のように希薄になるのは幸運だと思った。ボニーの場合もそうだったが、もし、その時の記憶がそのまま残っていたら、間違いなく発狂していただろう。


 クリフォードは深呼吸して、いつものくせで落ち着こうと本棚へと向かった。客間に入り、窓を開けた。


 そしてふと、玄関の前で足をとめた。そして、昨日そこに立っていたふたりのことを思いだした。

 

 エルディン。彼の冷たい目つきと腰に下がっていた剣のことを考えると、予想よりも悪い状況かもしれないと、クリフォードは思った。


 エルディンのあの目、あれは傭兵の目に似ている。クリフォードは軍医時代に出会った男の事を思い出した。その男は傭兵団の下っ端だったが、腕は恐ろしく立った。男がクリフォードのもとへ担ぎこまれた時、彼は右目と右腕の一部を失っていた。男は簡単な治療を受けたあと、まるで何かに取り憑かれているかのように戦場へ戻っていった。それ以来、彼を見たことはない。――エルディンがその男よりたがが外れているとは思えないが、用心するに越したことはないだろう。


 クリフォードはいつもと変わらぬ客間の中で、静かに本を開いた。薬草の匂い、綺麗に磨かれた板張りの床、雑多な本棚、窓から見える森の木々。それらはまったく変わらない日常で、今朝におきたできごとがより重く心にのしかかった。だが、クリフォードはどうにか平静を保ち、昼前にブランカが目を覚ますのを待った。ブランカに薬と昼食を与えてから往診に出かけ、その時に村のようすを探ろうと考えていた。


 しばらく経ち、寝室からごそごそと布の擦れる音が耳に入った。ブランカが目を覚ましたようだ。クリフォードは本を閉じる前にしおりを探したが、どこにもなかったのでしかたなくそのまま本を棚へと戻し、優しく微笑みながらブランカのもとへと向かった。


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