来訪者.5
あたたかな風が吹いている。クリフォードは道具箱を抱え、黄昏に染まった村の小道を早足で歩いていた。夕陽が畑の向こうで燃え上がっており、藁ぶきの屋根や縦に垂れる雲、パンを抱えて歩く女たちを真っ赤に染め上げていた。
写実主義の画家なら間違いなく絵にするような景色だった。とはいえ、彼はその景勝に目もくれなかった。
シーナたちが出ていったあと、クリフォードはいくつかの家を問診して回った。ジョアンの家で彼の腕を診ていた時、訪問者たちが罠を持っていったと聞いて安堵した。彼らはしっかり仕事をしてくれているようだ。
だが、今のクリフォードは慌てていた。夜が訪れるまでに森へ向かわなければならない。村の中に怪物が現れれば、のちにどんな悲惨な結末が待っているかは容易に想像がつく。
クリフォードはやっとの思いで自宅に到着した。見慣れた光景だ。ゆるやかな角度の屋根、くすんだきつね色の扉、開いた窓から見える本棚。クリフォードは息をととのえて空を見上げた。急いだかいあってか、空は赤く、まだ青の時間は訪れていなかった。
クリフフォードが玄関の戸へ手をかけようとした時、ふと声が聞こえて足を止めた。家の裏には小さな薬草畑がある。そこから、少女たちの話し声が漏れていた。
「――ブランカちゃんって、何だかすごくいいにおいがするよね? これって香油? なんていうか、ラベンダーと柑橘のすごくいいかおり。ねね、これってどこで買ったの?」
「ちょっ、近いよシーナちゃん……。これはね、お父さんが作ってくれたの。今は病気だけどせめて女の子らしくって、櫛とかお洋服とかも……」
薬草畑を覗くと、桃色の花を咲かせているオレガノの横で柵に腰かけながら、ブランカとシーナが談笑していた。さらにその後ろでは、腕を組んだエルディンが退屈そうにふたりを眺めている。
「ブランカ!」
クリフォードは楽しそうなブランカの姿に見とれていたが、すぐに彼女を叱ろうと大声を上げた。少女たちは驚いて目を丸くしていたが、すぐにシーナが立ち上がって頭を下げた。
「あの、ごめんなさいクリフォードさん。わたしがおしゃべりしようって引き留めたんです」
「シーナちゃん、違うよ、私が……」
ブランカはシーナの後ろでおどおどしていた。それを見てクリフォードは顔をしかめた。
恐らく、ことの経緯はこうだ。
夕方になると薬草畑の様子を見るのがブランカの日課だった。それは、病気になって父親が余計な外出を控えるようにいいつけても変わらなかった。“チコリーが弱るから、日よけを作らないとね”と、ブランカはこの時期によくいっていた。――鑑みるに、軒先にいたブランカにシーナが声をかけ、ずっとふたりで喋っていたのだろう。
ブランカがシーナを庇うように立ち上がり、何かをいいたげにクリフォードを見上げた。髪が夕陽に照らされて透き通るような輝きを放ち、白くたおやかな肌と、沈みゆく空のような瞳がクリフォードをつらぬいた。クリフォードはその姿に流星のような儚さを感じた。自分はまるで御者だ。そう思うと、何かが払い落されたような気がした。
「クリフォードさん」
シーナがおずおずといった。
「怒るのはわかります。でももう少しだけ、もう少しだけブランカちゃんとお話してもいいですか?」
シーナの表情は真剣に、かつ角を立てないように仰望していた。旅をしているシーナにとって、気さくに話せる同年代の少女というのは滅多に出会えないものなのだろう。
「いいや、もうしわけないけどそれは駄目だ」
クリフォードは心苦しかった。
シーナはしょげかえり、同じく残念そうなブランカに声をかけた。そして、おもむろに踵を返してエルディンに会釈した。もう帰るつもりなのだろう。
ブランカが悲しそうにうつむいた。その姿を見て、クリフォードはある思いが湧きあがった。
「ちょっと待って、君に渡したいものがある」
シーナが振り返った。クリフォードは家の中から一冊の本を持ってきて、彼女に手渡した。
「よかったらあげるよ。興味があるようだったからね」
それは、古びた医学書だった。
「私が大学時代に写した医学書だ。薬学や解剖学についてくわしく書かれている。もちろん、応急処置のやりかたも載っているよ」
「でも、いいんですか?」
「もう使ってないから大丈夫。ただ、ひとつお願いがあるんだ。明日もブランカと話をしにきてほしい。ただし、話すときは家の中で、だけどね」
当惑していたシーナの顔が笑顔に変わった。
「今日、君と話をしているブランカを見て、ブランカがまだ元気だったころを思い出したんだ。あんなに楽しそうに笑っているのを見たのは久しぶりだった。だから――」
「いわれなくてもそのつもりです! だってわたしたちはもう友達だから、ね?」
そういって、シーナは微笑んだ。ブランカは顔を朱に染めながら、何度もうなずいた。
――ブランカが病気でなければこんな子になっただろう。無邪気に笑うシーナを見ながらクリフォードは思った。そして弱々しい笑みをうかべるブランカと天真爛漫なシーナを見比べてたが、羨望は一切おこらなかった。そこにあるのは娘への変わらぬ愛情と、家族を滅茶苦茶にした運命へのやるかたない憤懣だけだった。
とんとんと肩を叩かれた。クリフォードが振り返ると、エルディンの疲れた顔があった。
「俺たちは宿に戻る。森に罠を仕掛けておいた。明日、様子を見に行く。うまくいくかはわからんがな。取りあえずモーリュは手に入ったから、お前の娘に渡しておいた」
エルディンの声で、クリフォードの中にこみ上げていたものがすっと消えた。そして、エルディンの素っ気ない態度はいまだに慣れないとクリフォードは思った。
「ええ、ありがとうございます」
クリフォードがいうと、エルディンはうなずいてから歩きはじめた。
「クリフォードさん、本、ありがとうございます」
シーナが満面の笑みを浮かべながらクリフォードにいった。そして、彼女は振り向くとブランカに手を振った。
「ブランカちゃん、また明日ね!」
ブランカはそれに応え、細い体で精一杯に手を振った。
「うん、また明日……またお話しようね」
シーナは笑顔のまま、エルディンを追いかけて走ってゆく。
夕陽に染まる村に、ふたりの姿が消えてゆく。そのうしろ姿に、クリフォードはかつての自分たちを重ねていた。ブランカがまだ元気だったころは、妻とブランカとともに、ああしてみなで村の市場から帰ってきたものだ。ブランカがパンを抱えてスキップしている姿をよくおぼえている。妻は大輪の笑みをうかべていた。
ふたりの姿が見えなくなると、ブランカは父の疲れた横顔を見上げて楽しそうに笑った。
「シーナちゃんね、旅をしながらお母さんを探してて、エルディンさんを顎で使ってるだって……なんだか変だよね」
「ああ」
「ねえ、ほかの街ってどんな感じなのかな……? ジージェンとかフェリシアとか、むかし、お父さんが話してくれたみたいに、おっきな教会があって、色んなお店があって……」
「ああ」
「あっ、そうだ。シーナちゃんがこのお花をお父さんに渡してって」
ブランカはモーリュの花を差し出した。
「ねえお父さん、知ってる……? シーナちゃんが教えてくれたんだけど、この花には伝説があってね、むかし、人を獣に変えてしまう悪い魔女がいたんだけど、この花を食べた勇者は魔女の魔法が効かなくなって、それで勇者は魔女をやっつけたんだって。ねえ、もしかしてこれで――」
「ブランカ」
クリフォードは膝をつき、おもむろにブランカを抱きしめた。ブランカはほんの一瞬だけ戸惑ったが、すぐに父の抱擁に身をゆだねた。
モーリュが手に入ったことはもちろん嬉しかったが、それ以上にいきいきと喋っているブランカがたまらなく愛おしかった。病気になって以来、友というものがいなかったブランカにできた初めての友達だった。シーナに影響されて、ブランカにも本来の明るさが戻っているように感じられた。
恐らく、シーナたちはここに長くは留まらないだろう。しかし、ブランカにとっていい思い出になるはずだ。クリフォードはブランカの頭を何度もなでた。ブランカも細い体で力いっぱいに父を抱き返した。
だが、時間はかなり差し迫っていた。太陽はすでに地平線の中に半分沈んでいる。青の時間が訪れ、二人を包んでいたあたたかな光もすぐに夜の闇に変わってゆく。そうなれば、また内なる怪物が目を覚ますだろう。
もう時間がない。早く森へ行かなければ。
星が瞬きはじめ、青く、暗くなりつつある空を見つめながら、クリフォードは立ち上がった。