崩壊.6
硬いパンってなんであんなにおいしくないのだろう。シーナは眼前の畑を見ながら考えた。
エルディンと別れてから、クリフォードは村に残って死体を調べるといった。かなり落ち着かない様子だったので、心配になって声をかけたのだが、彼は力ない笑顔で生返事をするだけだった。暖簾に腕押し、シーナは諦めて酒場に戻り、遅めの昼食をとった。出てきたのは硬くて不味いパンと麦粥だった。シーナはパンを噛み切るのに苦労して、しかたなく粥にひたした。そうするとかなり食べやすくなった。粥の味はまずまずだった。
「久しぶりにお肉が食べたいなあ」
シーナは犂車を引いている牛を眺めながらつぶやいた。
ああ、むかし食べた牛煮こみの味といったら! ワインとトマトで味つけされたもも肉、ぴりっと香る黒胡椒、仕上げにローズマリーの葉を添えて――
と、シーナは幻想の料理を思い描いていたのだが、突然、上品な皿に乗っている牛肉が濁った眼の生首に変わり、シーナは思わずパンを逆流させそうになった。
お肉のことはもう考えないようにしないと。
そう思い、シーナは無心で歩いた。しばらくすると、見知った大きな家が見えてきた。クリフォードの家だ。シーナは暇を持て余し、ブランカに会おうとここまできたのである。訪れるのは三度目だが、毎回、シーナはかすかにただようオレガノの香りに懐かしさをおぼえた。シーナは駆けだした。
戸口に着くと、シーナは遠慮がちに戸を叩いた。とんとん。だが、返事はなかった。ブランカちゃんは寝ているのかな。
シーナはそっと扉に手をかけた。鍵はかかっていなかった。ゆっくりと扉が開くと、本棚がシーナの目に入った。
「こんにちは!」
シーナは元気よくいった。すると、視界の端で何かがもぞもぞと動いた。目をやると、部屋のすみにある炉の前で、ブランカが手に持ったコップを何度も樽にひたし、一心不乱に水を飲んでいた。
「ちょっとブランカちゃん、大丈夫?」
シーナが声をかけると、ブランカはようやく来訪者の存在に気がついたのか、びくりと震えて、口もとからコップをはなした。勢いあまってこぼれた水が、ブランカの白い服の胸もとを濡らした。
「あ、シーナちゃん、きてくれたんだ。……ごめんね、恥ずかしいところを見せちゃった」
「いいよ、大丈夫。でも、そんなに水を飲むとお腹壊しちゃうよ?」
シーナがそういうと、ブランカは悲しそうにうつむいた。
「うん、わかってる……。でも、どうしても喉が渇くの。飲んでも飲んでも、全然治まらないの……」
「それって、消渇病の?」
「……うん。お父さんがそういってた。ご飯も、お肉やパンを食べちゃいけないの。いつも、野菜のスープだけ……」
その言葉を聞いて、シーナは昼食に不満を抱いていたことを恥じ入った。
飢餓療法――消渇病の治療法のひとつ、というより、クリフォードが見つけた薬以外の対症療法は今までなかった。消渇病は食べれば食べるほど症状が重くなると、シーナは聞いたことがある。ブランカは発症してから今日まで、恐らくまともに食事をしていないのだろう。薬だけでは足りないのだ。
ふいに、ふらりとブランカがよろめいた。手から落ちたコップが音を立てて転がる。
シーナは慌ててブランカの肩を支え、そしてその軽さに驚いた。見た目以上にブランカの体は痩せている。歳はさして変わらないのに、その存在は希薄で弱々しく、シーナは何ともやるせない気持ちになった。
「ねえ、すこし横になった方がいいよ。顔色もすごく悪いし。ほら、一緒にベッドまでいこう?」
「うん、ありがとう……」
ブランカはシーナに体をあずけた。シーナはその細い腕をしっかりと抱き、ゆっくりと寝室に向かった。
寝室のベッドの横にある机には、空の水瓶が転がっている。シーナは机に当たらないように気をつけながらブランカをベッドに寝かし、薄手の毛布を彼女にかけた。ブランカはベッドの感触を受け入れるようにきゅっと目を閉じて、それから申し訳なさそうな笑みをシーナに向けた。
「ごめんね、せっかくきてくれたのに……」
「いいよ、大丈夫」
シーナは屈託のない笑みをうかべた。それを見て、ブランカは毛布を胸もとまでめくり、体をシーナに向けた。
「シーナちゃん、あの」
「シーナでいいよ。わたしもブランカって呼ぶから」
「じゃあ……シーナ、あの、少しこのままお話してもいい?
「もちろん」
シーナは笑顔のまま、そばにあった椅子に腰かけた。「じゃあ、何か訊きたいこととかある?」
「えーと……」
ブランカはしばらく考えこんでいたが、やがて何かを思いついて視線を上げた。
「……シーナは、エルディンさんのことが好きなの?」
それを聞いて、シーナは目をしばたたかせ、咳をしながらふきだした。
「ゲホッ! もう、びっくりした。いきなりそんなこと聞いてくるなんて」
「ごめんね、どうしても気になっちゃて……。実際、どう思ってるの?」
「別に、好き、ってわけじゃないよ。エルディンは乱暴ですぐ怒るし、偉そうだし、それにお酒ばっか飲んでるし……。根は悪い人じゃないと思うんだけどね。なんだかんだいって、わたしのこと守ってくれるし、感謝してる」
「きらいじゃないんだね」
「うん。でも、わたしたち、ちょっと複雑なんだ。昨日もいったとおり、エルディンは助っ人といいうか、保護者というか……、うーん、い葉にしづらいな」
「相棒、ってこと?」
「それも違うかな。わたしたち全然対等じゃないし。しいていうなら、居候、いや旅候かな? あはは、やっぱりよくわかんないや」
ブランカはふきだしてしまい、慌てて口もとに手を当て、上品に微笑みなから、
「ねえ、ふたりはどこで出会ったの?」
と、取り繕うようにいった。
「うーん」
シーナは逡巡したが、すぐにブランカの目を真っ直ぐ見ながらいった。
「これから話すこと、誰にもいわないって約束してくれる?」
「うん、約束する」ブランカはうなずいた。
それを見て、シーナは椅子を引っ張ってブランカに身を寄せた。
「わたしね、魔女なんだ。ううん、正確にはわたしを狙ってる人たちがそういってる。わたし、色んな人に追われてるんだ。すこし前までホーンウォールに住んでたけど、ある日、家に何人も剣を持った人があらわれて、おじいちゃんを……」
「あっ、ごめんなさい」
「いいの、気にしないで。でね、その時に助けてくれたのがエルディンだったの。それから、わたしはお母さんを探してエルディンと旅をしてる。お母さんはわたしが小さいときに旅に出てて、それで何か知ってるんじゃないかと思って」
「そう……なんだ。わたしたち――」
ブランカは何かをいおうとして言葉を切った。そして、自嘲するようにいった。
「シーナって、強いよね。そんなふうに嫌なこととか、つらいことを人にいえるなんて、わたしにはできないよ」
「そんなことないよ、わたしは……我慢してるだけ。この前だって、おじいちゃんのこと考えたらね、悲しくて、一晩中ないてたし。そうそう、そしたら次の日ね、エルディンがすごくやさしくいってきたの。“まあ、気にするなよ”って。嬉しかったんだけど、なんだかすごく腹が立ってきてね。なに聞いてんだこのやろー! って。でね――」
「いいな」
ブランカが顔を上げた。
「わたしね、自分がきらいなの。病気になって、こんなふうになって、みんなに迷惑かけて。わたしは生きてちゃいけないんだって、そう思ってるの」
はっきりとした諦観を感じ、シーナは後ろめたい気になった。ブランカの表情はまるで晩年の無名作家のようだった。彼女がどれほど思いつめたのだろうと考えると、この部屋が牢獄のように思えてきた。息がつまる。シーナは救いを求めるように、あるいは母親のような気持ちでブランカを抱きしめた。
「大丈夫、わたしはブランカに生きていてほしいって思ってる。クリフォードさんだってきっとそう。わたしは友達だし、クリフォードさんはお父さんなんだよ? そんなこと思っちゃだめ。いい?」
胸の中で、ブランカがこくこくとうなずいた。ラベンダーの香り。しばらく経ってから、シーナはそっと彼女から離れた。ブランカの目は赤かったが、雰囲気はやわらかい。何とか気を取り直したようだ。
「どう? 落ち着いた?」
「うん、ありがと」
ブランカは目をこすりながらいった。
「じゃあ、暗い話はここまで! どうする? ほかに訊きたいことある?」
それからしばらくふたりは談笑した。ブランカが父の影響で薬草などにくわしいとシーナは知った。シーナも祖父が錬金術師だったのでそういったことに明るく、話が合うことが嬉しく思えた。
話はそこから魔術、まじないの類へと変わった。その時、ブランカが思い出したようにいった。
「ねえ、シーナって、さっき自分のこと魔女だっていってたよね?」
「うん」
「魔法って使えるの?」
「うん、使えるよ」
シーナはあっさりとうなずいた。
「軽いものを動かしたりとか、薪を燃やしたりとか、簡単なのしかできないけど。よかったら見てみる?」
「……うん、見たい」
「よし、ちょっと待ってて」
そういうと、シーナは机に置かれている水瓶に手をかざし、じっとそれをにらみつける。その真剣な雰囲気に、ブランカは思わず唾を飲みこんだ。
徐々に場の空気が乾き始めた。今にも床がひび割れそうだ。ブランカはシーナの横顔を見つめた。何秒経っただろうか、一瞬、シーナの周りがほのかに光った。それと同時に水瓶がふわりを宙に浮いたと思うと、机の上に直立した。
「すごい、すごい!」
「でしょ?」
ブランカは驚いて、ベッドから身を起こして満面の得意顔をしているシーナを見つめた。ブランカは歓喜と興奮で飛び跳ねんばかりだった。先ほどの悲嘆とはまるで違う明るい顔だった。
「あのね、シーナ、わたし――」
「なあに?」
「ううん、何でもない」ブランカはほほえんだ。「魔法を初めて見たから驚いちゃった。すごいね」
そういわれてシーナはまんざらでもなかった。ふたりは見つめあって笑った。いつもはため息と鬱屈した感情が立ちこめる寝室に、少女たちの和やかな声が響いていた。




