霧深い山で
次の朝、エルハルトとアルノルトは少し寝坊してしまった。
いつもなら明け方前に起きて、日の出の鐘と共に家を出るのだが、起きた時にはその鐘が鳴っていた。久しぶりでこうも疲れていると、暗いうちから起き出すのは難しい。
おまけに今日はいつになく霧が深く、空も暗い。
急いで羊小屋へ行くと、そこには二十歳位の青年が二人待っていた。
背が少し丸まった、中肉中背の男と、背のまっすぐ高い男だった。
「来た来た」
「遅いぞ」
エルハルトはひと頭下げて言った。
「お待たせしてしまってスイマセン」
アルノルトも挨拶をした。
「おはようございます。こんな大人の人だとは。よろしくお願いします」
背の丸い青年が言った。
「こちらこそよろしく。牛は飼ってたが、羊は素人なんだ。色々教えてくれ」
そう言って二人はそれぞれ握手をした。背の低い方はヘロン、背の高い方はアンドレアスと言った。
一行は羊を小屋から出し、牧羊犬のベルも伴って出発したが、アルノルトは急に道を戻った。
「どこへ行くんだ?」
「先行ってて。馬を連れて行く」
アルノルトは戻って馬のグラウエスを引き出した。馬の鞍がまだ無かったが、その背に乗って馬を発した。
「ハッ! 走れー!」
グラウエスは足捌き細かくトコトコと走って行く。あまり速くは無いが、鞍が無いのでこれくらいの方が振り落とされずちょうどいい。アルノルトはすぐに先行する群れに追い付いた。
「おっ。早速貰った馬に乗ってきたか。一人だけ楽でいいな」
エルハルトがそう言うと、ヘロンも「いいな」と言った。登り道に既に疲れているようだ。
「今日の天気はどうだろう? この霧だけど」
とアルノルトが聞いた。エルハルトは空を見上げたがお手上げだ。
「霧で何も見えない。まあどちらにしてもこれじゃああまり遠くへは行かない方がいいな」
「父さんには遠くへ行くように言われてたんだ」
「それは天候次第だろう。霧が深いと羊が崖に落ちやすいんだ」
「じゃあ崖の少ないエルストフェルト谷あたりにしないかい? 少しは遠いし」
「悪くない。そうしよう」
羊の一団は方向を変え、エルストフェルトに向かった。エルストフェルトはシャトドルフを超えた少し南にあり、そこから少し山へ入れば、なだらかな坂が高地まで続くようなアルプが広がっている。放牧へはよく行く場所だった。
歩いている間にも霧はだんだん濃くなっていった。
道はシャトドルフから向こうは大通りを行くので、羊の群れがかなり道を塞いでしまう。正面から人影が来たので、すれ違う時は羊を避けて、道を空けてあげなければならない。三人がかりでもそれはなかなか難しかったが、アルノルトが鞭を鳴らしながら馬で道を走れば、羊達は道を空けた。
「早い!」
「さすがは牧場の子だな」
と、二人の新参者は感心して言った。
そこへロバを引いて歩いて来たのは、モランだった。
アルノルトが馬に跨がったまま声を掛けた。
「やあモラン。どうしたんだいこんな朝早くから」
「俺の馬車が……」
と、モランは腕で涙を拭く仕草をした。
「馬車が?」
「この霧で道を踏み外して、馬車を崖下の川に落としてしまったよ」
「よく無事だったね」
「このロバが踏ん張ってくれてね。人馬共に無事で何よりさ。馬車と積荷は全部川の中だがな」
「それは災難だったね」
「全くだ。行商が馬車を無くしては、商売上がったりだよ」
エルハルトが言った。
「馬車が必要なら、オレ達の空いてるのがあるよ」
「本当か!」
「ただ、二頭立ての大きい馬車なんだ」
「二頭? 馬がもう一頭いるってことか? ロバ一頭じゃだめか」
「でも、いっぱい運べて商売向きじゃないかな。いつでも貸してあげるよ」
「ありがとう。馬が調達出来れば借りるかも知れない」
アルノルトは馬を撫でて言った。
「このグラウエスも少し馴らしてからなら貸してあげられるよ。昨日から僕の馬なんだ」
「おお! そうか、じゃあこのロバと引いて行けるかもな」
「ロバじゃどうかな……」
「あっ。バカにしたな。ウチのロマーナは凄いんだぞ。引っ張るだけなら馬にも負けないさ。走れはしないがな」
「そうなんだ。この馬も小さめだし、ゆっくりなら行けるかもね」
「まあ、これから仲間と馬車を引き上げてみるさ。でもすぐには直らないだろうし、後で借りに行くかもしれない」
そう言ってモランは手を上げて歩き出した。
「今日はこの霧だし、夕方には戻るつもりだ」
エルハルトがそう言うと、モランは振り向いて、手を上げて答えた。
そして羊の群れはエルストフェルト谷の平らな草原に着いた。そこで羊を放していると、昼前には霧が濃くて五メートル先が見えない程になった。
「霧が濃いね。前が見えないよ」
アルノルトは馬に乗っていたが、前が見えないので馬もゆっくりしか進まない。
「これじゃあ羊も見えない。迷子になりやすいから気を付けなきゃな。ベル!」
エルハルトは牧羊犬のベルに指笛で合図した。ベルは吠えながら羊を追い込み、羊を一カ所に纏めた。
「ヘロンさん、アンドレアスさん、羊を囲んで下さい」
エルハルト達は四人で等間隔に羊を囲んだ。
「いやあ、鮮やかに纏めるね。さすがだよ」とヘロンが言う。
「殆どベルのおかげですから合図さえ覚えれば出来ますよ。見える場所にいて、群れからはぐれるのがいれば戻して下さい。まあそれもベルに言ってもいいんですが、信頼関係が無いとそういう細かい意志が伝わりません。こう霧も深いと犬も羊を見失いそうです」
ベルは群れの周りを走っていたが、霧で見えないのは人と同じで、いつもより走れなかった。
羊達もそれは同じで、ひとまとまりになってあまり動かず、そこで草を食んだ。
そんな中、遠くから犬の遠吠えが聞こえた。
「犬の声?」
アルノルトが耳を澄ませた。
エルハルトが顔色を変えて言った。
「狼かもしれない。群れだったら危険だな」
しばらくすると、もう少し近くから遠吠えの声が聞こえた。
「近くにもいるよ!」
「呼応している! 群れがいる! すぐ牧場に戻ろう」
後ろではベルがうなり声を上げている。
「もう近くにいるな。アルノルト、馬でベルと走り回って来てくれ。狼は馬を嫌うんだ」
「わかった! ベル! おいで!」
アルノルトは霧の中を馬で走った。ベルもその周囲をついて走って来た。
ベルは何故か馬の足を少し囓ったので、グラウエスは驚いてさらに走った。
「どうどう。どうした?」
振り返るとベルが唸って馬の足を噛もうとしている。
「こら! 馬は追わなくていい!」
ベルは怒られてどこかへ退散して行った。
そうしていると、急に馬が止まった。アルノルトはバランスを崩して馬から落ちそうになった。首に必死に捕まったが、結局尻餅を着いて落ちた。
「いてて、どうした?」
アルノルトはグラウエスの見る先を見てみた。
霧は少しずつ晴れてきて、霧の奥に大きな狼の影が動いたのが見えた。
「いた! 狼だ! 逃げて!」
アルノルトは大きく後ろへ叫んだ。
「やっぱりいたか! 急ごう!」
エルハルトは急いで羊を導き、山を下った。ヘロンとアンドレアスも必死に後ろから羊を追い込む。
ベルは勇敢にも狼に吠えながら飛び込んで行った。ベルの吠える声、唸る声、悲鳴の声が霧の向こうから聞こえた。
「ベル!」
アルノルトはベルを追って馬と一緒に前に出ようとするが、馬は怯えて前には進まなかった。アルノルトは鞭を出し、駆け寄って地面を叩いた。すると狼の影が退散していくのが見えた。
「ベル!」
ベルはヨロヨロと歩いて来て鼻を鳴らした。首のあたりに怪我をしているようだ。
「大丈夫か!」
取り敢えず大丈夫だというように、ベルは周囲を走った。
そして再び霧に向かって唸り声を上げた。
「まだいるな」
アルノルトは鞭を思い切り振って音だけを鳴らした。そして少し走ってはもう一度鳴らし、それを三度繰り返した。
効果があったようで、狼は走り去り、ベルはもう唸り声を出さなくなった。
「羊の方へ行ったかも知れない」
と、アルノルトはグラウエスに乗り、羊の群れを追った。
少し霧が晴れて来ている場所を回って、アルノルトは走った。
そこから長く続く羊群れの後ろに数頭の狼が追って歩いているのが見えた。
「アンドレアスさんの後ろ! 狼がついて来てる!」
「え!」
アンドレアスが振り向くと、そこには狼の群れがいた。
しかし武器を持っておらず、アンドレアスは手を上げて威嚇した。
「こらあ!」
それくらいでは狼は逃げない。むしろ武器が無いのを見て、狼は悠然と羊に近付いた。
しかし、その時、石が飛んで来て、狼の背に当たった。
狼は悲鳴を上げて走り去った。
石はヘロンが投石ロープで投げたものだ。
「その手があった!」
アンドレアスも石を拾って狼に投げつけ、狼は逃げ出した。
アルノルトがそこへ追い付いて、さらに鞭を振り下ろし、狼を追い散らした。
「これでしばらく大丈夫だ。怪我は無かった?」
アルノルトが羊の横へついて馬を歩かせた。
アンドレアスは大きな体で肩を震わせて言った。
「大丈夫だ。羊の番で、こんな怖い思いをするとは思わなかった」
「こんな狼の群れが出るなんてそうそう無いよ。ヘロンさんは何か武器みたいのを持ってた?」
「投石ロープだ。威力はバツグンさ」
ヘロンはそう言って短いロープを見せた。真ん中に輪があるだけの簡単な構造だ。
「ロープに石を乗せる輪が付いただけだけど、立派に投石器なんだ。練習すれば百発百中だ」
「これはいい! 持ってて邪魔にならないし、狼退治にいいね。盗賊退治にも使えるかも」
「盗賊も出るのかい……」
「昨日退治して来た所さ。今度これ僕にも教えてよ」
「ああ、いいよ。一つ一緒に作ろう」
そこへベルが歩いて来た。その足取りは歩くのもやっとというようだった。
ヘロンがベルを見て言った。
「犬が怪我してる」
「そうなんだ。狼に噛まれたみたいだ」
「元気が無いな。大丈夫かな」
「家に帰ったら手当してやらないと」
「犬がいないと仕事に響く。羊より大事だったんじゃないか?」
その通りだった。ベルの代わりが出来る犬なんてそうはいない。
アルノルトは前を歩くエルハルトの所へ言いに行った。
「兄さん、大変だ。狼は追い払ったんだけど、ベルが噛まれた」
「ベルが? 大丈夫なのか?」
「歩いてるから大丈夫そうだけど、首に怪我してる。ちょっと心配な傷だ」
「首か……急ごう」
共同牧場に着くと、羊をしばらく小屋前の牧場に出したままにして、エルハルトはベルの毛を分けて傷を確かめた。
そこに皆が集まってるのを見て、マリウスがやって来た。
「ベル、どうしたの?」
「狼がいて、噛まれたんだ」
「大変だ!」
エルハルトが毛を分けつつ傷を辿って言った。
「思ったより酷いな。犬歯のところがかなり深い」
「すぐ医者に診せた方がいい。と言ってもこの辺に犬の医者はいるかな」
ヘロンが言うと、アルノルトが思い出した。
「聖ラザロに医者兼、獣医がいたね。マリウス、ベルを抱いておいで」
「僕も行くの?」
アルノルトはベルをマリウスに抱かせて馬に乗せ、自身もその後ろに跨がって馬を駆った。
アルトドルフに隣接するゼードルフに、聖ラザロ修道院があった。
そこには修道院と、修道騎士団の宿坊が並んで建っている。周辺では飛び抜けて大きな建物だった。
犬を抱えたまま修道院に入ろうとすると、修道女に止められてしまった。
「修道院に犬を入れたらダメですよ」
「入れて!」
「この犬が怪我してるので、獣医の人がいたら見て欲しいんです」
「そうですか。でしたら宿坊の方へ行って聞いてみて下さい」
アルノルトはベルを抱いたマリウスを連れて、宿坊の方へ回った。
その玄関には騎士団員の男達が数人いた。騎士団とは言え寛いだ普段着を着ている。
「医者の方はいませんか?」
「医者? ここにいる奴は大抵医者の心得はあるな」
「じゃあ獣医も出来る方は?」
「ヨハンかな。ヨハン! お客だ!」
「はーい」
奥の方からは以前に牛のゼンメルを診てくれた若い医者が出て来た。
「犬を診て欲しいんです。さっき狼に首を噛まれたんです」
「狼に? それは大変だ! どこに出た?」
「エルストフェルトの山の辺りです」
「すぐに退治に行こう!」
そう聞いて騎士団員の男達は頷き、装備を取りに散って行った。
「先に犬を診て!」
「ああ、そうだったな。そこのベンチで診よう。しっかり押さえててくれよ。たまに噛みつかれるんだ」
マリウスはベルをベンチに下ろし、体を押さえた。口を押さえたという方が正確だ。
ヨハンは犬の怪我を診て言った。
「結構深いが、犬なら問題無い」
「犬なら?」
「人だったら縫うような傷だがな。いい方法がある」
ヨハンはそう言って、怪我の周辺の毛を少し掴み、引き結び始めた。
「傷を縫わなくても、こうして毛を結んでくっつけておくんだ。一週間このままあまり動かさないようにしてくれ。毛が抜けたりすれば、傷口が開くからな」
「判りました」
「感染症さえなければこれで治るだろう。まあ犬は感染症にも強いから、大丈夫だろう」
「良かった」
「あとは意外と解けやすいんだ。緩んだら傷が開くから、やり直さないといけない。きっちり傷を合わせて、しっかり二重結びにしないとな。一見お手軽な処置に見えるが、なかなかにこれが難しいんだぞ……これで処置完了だ」
「よかったね。ベル」とマリウスが手を離してベルを撫でた。
ベルは毛の引っ張りがとても気になるように怪我を舐めようとする。
「舐めるのもまずい。包帯を巻いておこう」
ヨハンはベルの首に包帯を巻いた。
「さあ出来上がりだ」
「ありがとう」
「いざ、狼狩りへ行こうか!」
「おお!」
集まって来た四人の騎士団員が剣を振り上げて呼応の声を発し、出発して行った。
「お代は?」
「基本料だけでいい。一週間後にまた来てくれ。その時でいいぞ」
「やっつけて来てね」
マリウスの声にヨハンが頷き、遅れて団員達を追いかけた。
ヨハンはすぐ戻って来て言った。
「エルストフェルトの右か? 左か?」
アルノルトは答えた。
「右の平らな方です」
「こっちから行って、右な? 判った。行って来る!」
そう言って騎士団の男達はエルストフェルトへ出発した。
「あんな剣じゃ、狼に逃げられるよ」
「ベルでもにげられるね」
マリウスはベルを抱き上げた。
アルノルトとマリウスは再び馬に二人乗りし、マリウスの腕にはベルを抱えつつ、家に帰った。




