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ラフネの造花  作者: 面映唯
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9

 窪田は大学の同期だった。窪田はすでに大学を中退しているが、今でも拓朗との付き合いは続いていた。前触れもなく電話が鳴り、その電話に出ると、「酒でも飲まないか」と毎回同じフレーズが聞こえる。今回も、「今から行くよ」と毎度毎度の同じフレーズを拓朗は口にし、いつも通り窪田の家へと向かう。


 最寄りのスーパーで二階堂の一升瓶を買い、窪田の部屋の呼び鈴を鳴らす。「あいてるよ」とスマホにメッセージが届き、拓朗はドアノブを捻る。玄関で靴を脱ぎ、キッチンを抜けてワンルームに入る。部屋の真ん中に置かれたテーブルの上には茶色い一升瓶が置かれていた。「あれまだ残ってたんだ。てっきりもう底突いてるだろうと」拓朗は二階堂の一升瓶を掲げる。


「いくらあってもいいだろ、酒なんて」いいから座れ、と窪田は手招いた。


 すでに飲み始めていたようだった。つまみはなかった。テーブルの上には一升瓶と百均で買っただろう透明なグラスが置かれているだけだった。以前、彼に拓朗がそのことを問うと、「つまみに使う金はねえ。そもそもお前にとっての酒の用途は何だ? 旨いからか? 俺は違う。酒の味なんかわかるほど贅沢な舌でも肥えてもいない。酔いたいからだ」


 窪田にとって酒とは何かを忘れる手段のようだった。何か嫌なことがあったとき、まだ窪田が大学に通っていた頃は、「真面目に発表したつもりだったのに笑われた」という理由で呼び出されたこともあった。口調と酒の銘柄に似合わず、中身は女々しい男だった。


「今日はなんかあったの?」拓朗はキッチンに自分のグラスを取りに行く。持ってくると、窪田が開けていた方の一升瓶を開けて、グラスに注いだ。


「お前も見てただろう。昼間の客だ」


「なんだそんなことか」拓朗は二リットルのペットボトルの蓋を開け、グラスに注いだ。


「なんだってなんだよ。お前にとってはそんなことかもしれないけど、俺にとっては重大なことなんだよ。あいつのせいで昼間からの俺の気分は最悪だ。おかげでバイトに行くのを忘れちまうくらい不快になって、さっきちょうど電話でクビ宣告されたところだ」

「不快になったのには同情するけど、バイトは行くのを忘れたんじゃなくて行けなかったんだろ? 酒飲んでたから」

「おっ、せいかーい。よくわかったな」

「ニワトリでも覚えるよ。窪田がバイトクビになるのなんていつも理由それじゃんか」


 そーだっけか、と窪田は顎を掻いていた。「タバコ吸うぞ」とベランダを指差され、その手にはすでに煙草が握られていた。ソフトケースがくしゃくしゃになっている。「はいはい」とまだ一口しか飲んでいない水割りをテーブルに置く。ベランダには蓋つきの空き缶が転がっていた。窪田の煙草にはすでに火が付いていた。煙草を取り出して火をつける動作が異様に早いのだ。昔からだった。


 拓朗は煙草を取り出す。


 ライターに火をつけて待っている窪田の手元に、煙草の先を持っていく。吐き出された煙は夜空の藍に溶けていった。


「窪田が煙草を吸う理由ってなんだったっけ」拓朗はベランダのヘリに肘をつきながら聞いた。


「酔いが回るのが速い気がするからだ」窪田はベランダの壁に寄りかかって煙草を咥えていた。


「そっか」


 手元の青い煙草のケースに目を落とす。拓朗は自分が煙草を吸い始めた理由は何だっただろうと思い返す。手元のケースはいくら見ても窪田と同じ銘柄だったが、いくら思い出そうとしても、想像はできても詳細は思い出せなかった。それは、窪田と初めて出会った日のように――どうして他人の家に上がり込むほど仲が良くなったのかがわからないといった、友達になった理由が思い出せないのと同じように思えた。


 思えば、どうして生きているのかと問われれば、拓朗に明確な答えはない。でもきっと、窪田に同じことを問いかかれば返ってくるだろう。それぐらい、窪田にはすべての行動に明確な理由があった。


 拓朗にはないことだった。単に語彙が足りなくて言語化できないだけかもしれない。


 いや、違う。自分の行動に対して、大して理由などないのだ。煙草もそうだし、窪田の家に来るのもそうだし、酒だってそう。別に二階堂じゃなくたっていいはずなのに、拓朗は二階堂を買った。この間も。その前も。


 そのとき、貧弱な拓朗の語彙でも言い表せるような理由に辿り着く。


 拓朗は背に持たれて煙草を吸う窪田を見やる。


 こいつだ。

 この男だ。


 拓朗の行動の根源にはいつも窪田がいた。それはすなわち、窪田に何かしらの強い感情を抱いていることになる。


 若しくは――。


「何も、ないからだ」


 独り言は、煙草の煙と一緒に上り、夜の暗さに溶けていく。


 窪田は何も言わなかった。


 周りに順応するたびに、何かを失っていた。昔はもっと無邪気だったはずだ。これが飲みたい。あれが食べたい。あれが欲しい。これが欲しい。


 年を取るごとに、昔は知らなかっただろう社会の構造に気づいていく。生きるには金が要る。金が欲しいなら働かなければならない。働く場所は? あそこは自分に合わないかもしれない。ここは職場環境が悪い。上司が嫌だ。


 いつしかそれではきりがないと気づき、どこにでもある程度の我慢は必要だと知る。そして、何かを許容することで環境を少しずつ整えていく。あの人は怒らせたら大変だから。気を遣って行動しよう。「あ、やっときますよ」「ありがとうございます」「すみません」


「すみません」


 そんな言葉を繰り返していくうちに、いつの間にか今の職場に定着していた。


 気づけば、自分の欲求どころではなくなっていた。


 そういう人間になっていた。


 昼間のことだってそうだ。昔の拓朗ならきっと言い返していたはずだ。でも、なんて思った? きっと俺には言い返せないだろうと思った。


 変わってしまった。妥協、許容、繰り返していくうちに、自分の意志のようなものが無くなってしまっていた。


「なあ、拓朗」


 窪田の方を見ると、さっきと同じ態勢のまま煙草を吸っていた。


「俺に死相は出ているか?」

「はい?」

「俺の死に場所ってどこだと思う?」


 拓朗は息を飲んだ。窪田が何かを相談することが今までに一度でもあっただろうか。彼はいつも自信たっぷりで、それでいて意志の通った言葉しか述べない。何か質問すればいつも明確な答えが返ってきて、彼にわからないことなんてないはずじゃ――。


「俺に聞かれてもわかるわけがないじゃんか」絞り出した言葉は驚くほど安易なものだった。そして、返事も安易なものだった。


「そうだよな」


 窪田は立ち上がり、拓朗の隣でベランダのヘリに肘をつく。


「なんかさ、偶に何で生まれてきたんだろうって思ったりするんだよ。そんなものに大した理由はないし、親がセックスしたからって話なんだけど、でもさ、どうしてもさ、産まれた人間には一人に一つずつ宿命みたいな、何かこうするためにとか、誰かに出逢うためとか、この景色を見るためにとか、たったこれだけのことって思われるようなことでも、そんな為に生まれてきたとしか思えないときがあるんだよ。労働は国民の義務だし、いろんな法律があるけど、それが見せかけでさ、その義務や法律を掻い潜ってでもやらなきゃいけないことがある気がするんだよ」


「なんだよ突然。らしくないじゃんか」

「俺らしいってどんな感じだ? 俺ならどうするのが正しい? そんなもの俺には一生かけても死んだってわからない。いつも迷ってんだよ。これで本当にいいのか、どうするべきなのか。わからない。わからないのに、酒飲んで起きたら明日が来ちまう。選択は日々迫られる。自分で覚悟を持って選んだ道が正しい。本当にそう言い切れると思うか?」


 火種がフィルター付近にまで迫っている。窪田の弱音は初めて聞いた。そもそもこれは弱音なのか。一口しか飲んでいないはずのアルコールが脳を揺らす。


 結局、拓朗は何も言えないまま、窪田がベランダのドアを開けて室内に戻っていくのを見ていた。空き缶の口からはみ出たフィルムを押し込むように吸い殻を突っ込む。窪田が座っていた場所に銀紙が見え、拾って缶の中に突っ込む。中の容量がいっぱいなのだろう、何度か指を出し入れし、なかなか上手く入らなかったが、やけくそになる二歩ぐらい手前で感情を殺し、そのまま缶の蓋を閉めた。部屋に戻った窪田は、横に敷かれた布団に潜った。拓朗は部屋に戻ると電気を消す。グラスに入れた水割りを一気に飲み干し、なんとなしに布団の方を見やる。彼の顔は布団に隠れている。



 彼と会話したのはそれが最後になる。



 彼を最後に見たのは、次の日になる。




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