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ラフネの造花  作者: 面映唯
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7

 秋好は、数分前のコンビニでの出来事を思い出していた。注目すべき点は、彼女の言った「フィルムと銀紙を灰皿に捨てる人」という点だ。フィルムと銀紙を灰皿に捨てるのがいいか悪いか論争はさておき、あのとき、秋好は普段はフィルムを剥がしたら律儀にコンビニ店内に戻ってゴミ箱に捨てていたはずだが、灰皿に捨てた。


 確かに秋好は見た。ボーダーのように並んだ隙間に、煙草のケースが挟まっていたこと。灰皿の中に自分で捨てたもの以外の銀紙やフィルムが見えたこと。


 そうだ。そういうことだ。秋好は納得し始めた。今日一日の間に、秋好の頭に「そもそも」

の文字が何回浮かんだかはわからない。何回唱えたのかもわからない。こんなにも疑問が浮かぶことが以前の秋好にはなかった。なかったから、疑問に思うことを疑問に思ったのだ。そして、灰皿の中に捨てられたゴミだ。秋好が偶然律儀な性格だったために気づかなかったのだ。


「灰皿にゴミを捨てていく人がいる」という事実に。


 学生が机の上で居眠りするみたいに、アップライトピアノの鍵盤の上で両肘を広げる。沈んだ鍵盤たちが鳴らした幾重にも重なった音は不協和。その一音二音が外れ、どす黒い雲が一トーン、二トーン程の若干の明るさが覗いた感覚を抱いた。


 その考えに辿り着いたとき、秋好はその場に居た堪れなくなる感覚を持った。じっとしていられない。秋好は急かされるようにその場に立ち上がった。子どもが博物館に来て取り敢えず展示物に触ってしまうという好奇心のような、何かが、差し込んでいる。真っ暗な自分の頭の中に一本の針が穴を開け、光を入れる。光を浴びた、広さに比べればごくごく一部の脳内が色を持った。これは……部屋か? グレーのような白に近いくすんだ色が見える。


 頭痛がする。慢性的な頭痛に加えて、いつもより大工が数人多いようだ。痛みが強い。大工が秋好の頭に釘を打ち込んでいるような感覚を覚える。穴が二つになる。三つになる。穴が空いた場所にだけ光が差し込む。これは……ベッドの脚? アパートの自室かと思ったが違うみたいだ。ここはどこだ。誰の部屋だ。俺の記憶? 誰の記憶だろう――。


 はっ、としたとき、秋好の頭の中に残っていたのは、「悩む、というのはありふれたもの」ということだけだった。以前の自分の中には、悩む、という思考そのものが失われていたのだ。そりゃ、世の中には一度も悩んだことがない人間が一人くらいはいるのかもしれないが、秋好はきっと違うと思った。この感覚は、以前に一度体験している。


 どこだ。何処を探せばいい。いつだ、いつ――。


 秋好は呆然とした。


「ない」


 ない。


 どこにもなかった。


 どこを探してもない。見当たらない。自分は人間だ。なら母親の腹から産まれてきたはずだ。


 母親はどこだ?


 父親は?


 俺はどうしてここに居る。国民の三大義務。納税、労働……教育。小学校はどこに通った? 中学は? 先生、友達は? 慌ててスマートフォンを引っ手繰る。ロックを解除し、焦るように連絡先のアプリを開く。バイト先の名前と、知らない番号が二つ。人らしい名前は見当たらない。いくらスクロールしても、画面の半分以上が真っ白だ。


「え?」


 まるで想像がつかなかった。自分がどうしてここに居るのか。ここに至るまでの経緯が何一つつかめない。どうしてバイト先はあそこを選んだのか。なぜこの地域に越して来たのか。越してくる前はどこにいた? 実家か? 実家はどこにあるんだ。言ってみろ。今すぐ。何県、何市だ。アパート? 持ち家? 何号室だ? あれ、番地か?


「へっ、へっ」


 失笑が漏れた。


 何も知らない。それ以上に怖かったのは、今までなぜこんな身近なことに疑問に抱かず、のうのうと生きていられたということだった。わからない――この感情は恐怖に似ている。急に世界の動きが止まって、生き物という生き物のすべてが消え失せ、電気が止まり、自分だけを置いて何もかもが止まってしまったような感触が胸の中に広がる。これは絶望ではない。無だ。自分の中に何もない、空っぽ。自分のことを説明する話が思いつかない。糸口すら見つからない。今ここで「自己紹介をしてください」と言われたら名前しか言えないことに気が付く。「まだ名前だけでも言えたならいいんじゃない?」と慰めが聞こえる。「そうだよ。名前が言えたら上等だ」


「他には何かあるの?」

「趣味は?」

「高校時代の部活とか」

「何か打ち込んだものとか」

「休みの日は何してるの?」

「何もしてないってことはないでしょう。何もしてないって……え、本当に息してるだけとか?」


「はっ、はっ」


 息が乱れている。まるで面接だ。質問されて答えを探すが見苦しい。答えなど(はな)からないのだから探そうとしたところで取り越し苦労。無駄。無だ。何もない。何もないと自覚した途端の落胆は無に掻き消された。自我が消失しそうな……。


 気づいたら走り出していた。玄関をこじ開け、アパートの階段を下り、道端に出た。走った。とにかく走った。走ることで意味を見出そうとしていた。怖かった。無になってしまったらもう何もない。自己紹介で話すことがないなら作ればいい。嫌いだったって楽しくなくたっていいじゃん。自己紹介で言えればそれでいいんだから。無理やり走ることを好きにしたらいいんだ。


 考えたくなかった。何かに急かされて走る秋好を、何かを押さえようと走る秋好を、背中に赤ん坊を背負っているような、アレルギーで掻きむしりたい喉が掻けないような、はっはっと息を切らす彼を、口を歪めて下を向く彼を、街の住人たちは好奇の眼差しで見てはやめた。走れ、走れ、息が切れたら止まるだけだ。その場に立ち尽くせばいい、心臓が止まるならとまっちまえばえばいい。とにかく、何か、何か、俺がここに居られる理由を――。


 

 ――人が何かするのに大した理由なんかないよ。考えてから動く奴にろくな奴はいないね――



 足の回転が次第に緩んでいく。肩で息をしながら立ち止まった。口をつぐみ、間隔が無くなるほどの過呼吸の間に、口に溜まった唾を苦しそうに飲み込んだ。膝に手を付き、額や頭部に汗が噴き出ているような熱を感じた。耐えきれず跪くようにして、そのまま地面に手を付いた。なんでこんなときにあのばあさんの言葉が……。中年女性の言葉が真理かどうかなどわからないが、彼女の言葉のせいで秋好は止まってしまった。止まってしまえば秋好にはもう何もない。まだ疑問が浮かび、悩んでいるならいい。その悩みの根源が「自分には何もない、自我と呼べるようなものがない」だと答えが出てしまっている。堂々巡りだ。答え終わったら出題者が問題を出すのを待つ。出題者がいなくて朽ちるのであれば、自分で問題を作る他ない。


「問題、問題……」


 荒い呼吸の中で秋好は問題を探した。


「ねーだろ、何も、ないんじゃ、何も、生まれない……」


 秋好は、疲れた、と呟き、地面に背を向けて寝転んだ。何処だ此処……どんくらい走ったんだっけ。そんな遠くには来てないだろうけど……ちょっと疲れたから――。


 生ぬるいそよ風に揺れる木々の麓で、秋好は眠りについた。



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